北海道遺産を訪ねて 4

北海道遺産を訪ねて 4
 
 1999年から2000年にかけて1年間を北海道で過ごし、その記録は30冊のアルバムに残されている。しかし当時はHPなるものも知らずましてや自分のページをもつことなど夢にも思わなかった。その後はからずもHPを作りはじめ、この1年間の思い出は「私の愛する北の大地」として簡単にまとめた。
 この度「北海道遺産を訪ねて 3・4」を書こうと思いたち、アルバムをめくると、忘れ難い懐かしい思い出がよみがえり、涙をながしながら何日もかけて作り上げた。そのお蔭で私の1年間の思い出の多くが記録でき、「北海道遺産構想推進協議会」の皆様には心からお礼を申し上げます。私の心に温かい想いが満ちています。想い出は私の宝物です。
 


野付半島と打瀬舟
 選定について「全長26kmの日本最大の砂嘴で、擦文時代の竪穴式住居も見られる。江戸時代には国後へ渡る要所として通行屋が設けられ、北方警備の武士も駐在した。トドワラ・ナラワラの特異な景観や、春と秋に野付湾に浮かぶ打瀬舟の風景が多くの人々をひきつけている。北海シマエビ漁に用いられる打瀬舟は野付湾の風物詩として知られ、霧にかすむ舟影は幻想的。」と説明されている。
 これまであしかけ7ケ月、弟子屈町の屈斜路に滞在した。ここから私の大好きな野付は比較的近かったので何度も何度も行ったことがある。
 始めて訪れたときは、トドワラネイチャーセンターの観光花馬車に乗ってトドワラまでを往復した。野付半島は江戸時代の中頃まで、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの樹種から成る原生林があった。しかし地盤沈下によって海水が浸入し、木々が立ち枯れを起こした。トドワラとはトドマツの枯れ木群のことで、荒涼とした景観を作り出している。ちなみに半島の中ほどにはナラワラがある。ここはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの樹木の立ち枯れで、ミズナラが優占することからこう呼ばれる。圧巻だったのは、冬季トドワラへ歩くスキーを履いて入ったときであった。サラサラの雪質に感動したものであった。(画像)
 夏は、上記の道と野付埼灯台周辺の原生花園にハマナス・センダイハギ・エゾカンゾウ・ノハナショウブなど色鮮やかな花々が咲き、一面を埋め尽くす。長靴を履いて浜辺と灯台附近を歩いた。(画像)この時期もまたいい。
 秋も深まった頃、半島の先端まで行った。別海の加賀家文書館で調べたことと松浦武四郎の「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」を携えて歴史の現場に立つべく出かけたのである。途中には、あまりの寒さに適応できず多数の死者を出したという北方警備の武士、會津藩士の墓がある。
 「我蝦夷全州の墾闢の祖とならん」と言った加賀伝蔵は、根室場所請負人の下で働いた人であるが、この地で活躍し膨大な記録を残している。その記録にある場所を訪ねたいと思ったのである。最後の駐車場から半島の先端まではかなりの距離である。懸命に歩いた。とうとう先端に辿り着き、今度は途中から分れるもう一方の先端にある通行屋遺跡に行きたいと思った。ところが秋の日が暮れかかり諦めかけた。そこへ幸運にも車で巡回してみえた自然保護監視員の永野さんという方が見かねて案内してくださった。永野さんには感謝してもしきれない。江戸時代、国後へ渡る中継地として栄えたここは、寛政11年(1799)に設けられた通行屋があったところで、通行屋遺跡と呼ばれている。敷石、井戸、貝塚、陶磁器類の破片、建物跡、墓址群が確認されている。さらに先に「幻の町キラク(喜楽)」があったと言われている。
 さて、打瀬舟は、伝統的漁法「打瀬網漁業」に用いられる船のことで、この漁は風の力を利用して底引き網を引く方法である。水深0〜5mの浅い野付湾で、北海シマエビの住み処であるアマモを傷つけずに漁を行うために使われている。2005年11月9日野付を訪れた私たちは、思いがけず打瀬舟を見ることができた。こんなに寒くなったのでと諦めていたが今年の漁は11月15日までとのこと、ラッキーであった。しかも半島のすぐ近くまで来ておりその姿を大きく捉えることができた。風の強い日で、3枚の帆のうち2枚が張られていた。
また尾岱沼の白帆さんへはよく北海シマエビを食べに出かけている。この日も白帆さんで北海シマエビ丼をいただいた。
函館西部地区の街並み
 「函館は安政6年、横浜、長崎とともに最初に開港し、近代日本の幕開けを告げた町であり、西欧文化に開かれた玄関口として栄えてきた。函館西部地区には、埠頭倉庫群、函館どつくのような歴史的港湾施設、旧函館区公会堂やハリストス正教会復活聖堂に代表されるハイカラな洋風建築とともに、和洋をたくみに交えてデザインされた商家や住宅が建ち並ぶ」とある。
 倶知安町に長くいたので、函館には何度も行った。夜景を見るために泊りがけで行ったことも数度。
 じっくりと町を観光しようとはじめて出かけたときは、観光バスで回った。観光スポットを周るには効率的で楽しい。訪れた主なところは、旧イギリス領事館、旧函館区公会堂、函館山、五稜郭、トラピスチヌ修道院、函館牛乳などであった。
 旧函館区公会堂(画像)は、明治43年に建てられた洋風の建物で、本館と附属棟からなっている。本館は木造2階建の左右対称形で2階にはベランダを配しているほか、屋根窓を置き、玄関・左右入口・2階ベランダの柱頭部には頭飾りがあるなど特徴的な様式を表している。国の重要文化財に指定されている。
 別のときは、埠頭倉庫群や市場を訪れて食事をしたり、倉庫群の前に作られた巨大なクリスマスツリーを見に行ったり、夜景を見に函館山に登ったりした。
 高田屋嘉兵衛に興味をもち、その資料館へ行ったり、五島軒でカレーを食べたこともある。函館も思い出多い町である。
開拓使時代の洋風建築(時計台、豊平館、清華亭など)
 「札幌市時計台や豊平館は、北海道開拓の初政をになった開拓使の事績を伝え、文明開化の先端をいった北海道の気風をよく表している。時計台は札幌のシンボルであり、近年は2階ホールが音楽会などの場として親しまれている。明治初期の洋風建築は和洋折衷型も含め、工業局庁舎、清華亭、永山邸などが遺されている。
 札幌にも定山渓のコンドミニアムに4ケ月滞在した。ライラックまつり、よさこいソーランまつり、雪まつりなど見物に中心街にしばしば足を運んだ。買い物や食事、美術館、博物館、映画を観に等々で行くことも多かった。しかしキャンピングカーが移動の手段の私たちは市街地では駐車場に困り、バスで出かけることが多かった。そうなるとここにあげられたような明治初期の建物は見る機会が少なく、開拓記念村でしかない。しかしさすがに時計台にだけは行った。
 時計台は、旧札幌農学校演武場で、時計台の中にある時計は、百年以上も前の人が作ったのに正確に時を刻んでいるとか。豊平館は歩くスキーを楽しんだ中島公園の中にあるなんて知らなかったなあ。清華亭は北海道大学の前、北海道大学には何度かいったのに。旧永山武四郎邸はサッポロファクトリーの横、サッポロファクトリーにも行ったなあ。札幌にはこれからも何度か訪れることがあるだろうから、その時はこれらをしっかり意識して見てこようと思う。
アイヌの口承文芸
 アイヌ民族は元来文字をもたなかったので物語や伝説、体験談や人生の教訓などの全てを口承によって語り継いできた。
 ユーカラは、英雄の物語である。地域によってヤイェラプ、サコロベ、ハウともいわれる。主人公はポイヤウンベ、ポンシヌタプカウンクル、ポンオタサムウンクル、ヤイレスポなど地域によっていろいろな名前で呼ばれる孤児の少年で、この少年の冒険の物語を、炉のそばに座りレプニと呼ばれる棒で炉縁を叩きながら夜を徹して謡われたのであった。
 こうした人間を主人公にした物語に対して、人間の姿をした神を主人公とした物語がある。アエオイナカムイ、アイヌラックル、オキクルミなどという名前をもつ神が天界から人間の世界へ降りてきて人間達と様々なドラマを繰り広げる物語として構成されている。胆振・日高地方ではこの種の物語をオイナというが、他の地方ではカムイユーカラに含まれるジャンルと考えられている。
 動物などの自然神を主人公として謡われるものがカムイユーカラである。動物神の体験談を教訓にまじえつつサケヘという繰り返しの文句をワンフレーズごとに入れながら謡っていく。
 「謡われるもの」に対して語りの口承文芸がある。一般的に昔話と訳されているウエペケレは、地域によってトゥイタクと呼ばれることもある。これは昔話といっても昔の人の体験談として語られているものなので作り話ではない。むしろイコペプカ、ウパシクマと呼ばれるもののほうが昔話的といえる。
 ヤイサマは女性が一人で自分の気持ちをメロディーにのせて即興で歌っていくというものであるが、言葉の表現などは伝承されていくことが多く、口承文芸のひとつということができる。
 ウポポは、祭りのときに女性が輪になって座り、シントコという容器の蓋を叩きながら歌われる歌である。歌詞は長いものではなく輪唱や合唱で繰り返し歌われていく。
(「アイヌの歴史と文化」より)
 画像は阿寒コタンのまりも祭りで
森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」
 「雨宮21号」は東京・雨宮製作所で製造された初の国産11トン機関車。昭和3年、丸瀬布一武利意森林鉄道に配置され、国有林から伐り出した丸太や生活物資の搬送に携わってきたが昭和36年に廃止。地元の強い要望で昭和51年、北見営林局から町に譲渡され、町は”森林公園いこいの森”を建設、機関車を走らせた。動態保存は道内では唯一のものとのこと。前回訪れたときは停まってはいたもののその姿を見ることができた。今回はぜひ乗りたいものと11月11日にでかけた。しかし残念ながら今年の営業は10月23日に終わり、機関車は車庫の中で、その姿さえ見ることができなかった。
江別のれんが
 「開拓使は内陸開発建築資材にれんがを奨励し、道内8地区17の工場で造られたれんがによって、北海道庁赤れんが庁舎をはじめ多くの名建築が生まれた。大正以降、全道一の陶土地帯である江別の野幌周辺へとれんが製造の中心が移り、現在も3つの工場が稼動しており、市内には400棟以上のれんが建造物が美しい姿で現存している。」とのこと。
 タクシーで市内を案内してもらった。第三小学校、サイロ、古い民家、市営住宅などである。画像はそのうちのサイロの一つとかつては民家であったガラス工芸館である。工場も2ケ所訪れた。なかでも運転手さんが交渉してくださり米澤煉瓦工場は中まで見学させていただいた。冬は稼動しておらず3月末に火入れするとのこと。ほんとうにラッキーなことで、70mもある窯の中まで入れてくださり感激であった。
開拓使時代の洋風建築
 今回は3つの建築物を周った。豊平館は懐かしい中島公園の雪のなかに水色で縁取られた美しい姿で佇んでいた。(画像は北海道・屈斜路へのページに) 洋式のホテルとして明治13年に建てられたもの。豪華なシャンデリアが下がっている天井には部屋によって飾りの模様が違うメダリオンと呼ばれる天井飾り、漆喰の暖炉、赤い絨毯の敷かれた階段、豪華なカーテンと見飽きることがない。
 清華亭は日本庭園に囲まれ、人気もなく静かであった。ここは開拓使が明治13年に建てた「貴賓接待所」で、中には洋室と和室があり、当時としては珍しい造りだったらしい。
 旧永山武四郎邸にも行った。永山武四郎は北海道の開拓に尽くした人でこの邸は私邸である。あいにく修復工事中で、邸内の見学はできなかった。
札幌苗穂地区の工場・記念館群
 バスの便が悪くこの日午後の半日は実によく歩き回った。おかげで、「札幌市の創成川以東は、豊平川の伏流水や貨物輸送の利便性などによって明治期から産業の町として栄え、さまざまな工場や倉庫がひしめき、下町的な雰囲気を残している」といわれる苗穂地区をよく見、感じることができた。まず訪れたのはサッポロビール博物館。博物館はガイドの方の案内で、ビールに関する原料、製造工程、ビール産業史などを詳しく知ることができた。(画像あり)
 続いて雪印乳業史料館へ行った。あいにく休館日でその外観しか見ることができなかった。しかもここの見学は予約が必要とのこと。福山醸造も聞いて聞いてしてようやく探しあてた。地元の人には福山醸造より「トモエ」の方が分かりやすいようだ。しかし土曜日のせいかここも扉はぴったりと閉ざされていた。残念。
 また歩きに歩いて「北海道鉄道技術館」に辿り着いた。ここも尋ねても分りづらかった。それは、JR苗穂工場の中にあった。幸い開館していて親切に案内してくださった。
旭橋
 「いくつもの時代と思い出を刻みながら、人々の暮らしをみつめてきた橋があります」「旭橋」という名の豆本の書き出しである。旭橋は道北の中心都市旭川を流れる石狩川に架かる橋で、明治25年、現在の位置に土橋が架けられたのに始まり、昭和7年、鋼鉄製のアーチ曲線を描く橋が、当時の最新技術をもって竣工した。川のまち・旭川の象徴。・・・と紹介されている。
 たぶんこれまでにも何度か通っただろうが、それと意識して見てこなかった旭橋。3月12日に訪れたときは雪に覆われた川と川岸の上に、落着いた緑の美しい姿で堂々と架かっていた。
宗谷丘陵の周氷河地形
 宗谷丘陵に見られるなだらかな地形は、約2万年前の最終氷期の間に形成された氷河由来の特徴的なもので、氷河周辺部での凍結融解の繰り返しによって出来たものだという。何度か通ったことがあるがその成り立ちについては知らなかった。今回は、東浦からダートの道をかなり走り上猿払清浜線を北上するルートを取った。それは正しく行けども行けども丘陵の続く宗谷丘陵地帯のど真ん中を行く道であった。日本最北端のこの丘陵には広大な肉牛牧場が広がり、厳しくも豊かな自然に育まれた健康な黒牛が約3000頭放牧されているという。そんな牧場の一つも見ることができた。
屯田兵村と兵屋
 屯田兵は明治8年の札幌郡琴似村に始まり、開拓と軍備のため、明治32年の士別、剣淵まで道内各地に37の兵村が置かれた。私はかつて札幌、野幌などで兵屋を見たことがあった。今回は上湧別のチューリップ公園の一角に建てられたふるさと館へ行った。屯田兵の歴史を追った貴重な資料が展示されているとのことで楽しみにしていた。ところがあの見事なチューリップはすでに咲き終わり、ふるさと館は休館、明日も開かないというので諦めた。
 そこでこれも前に行ったことのある士別を訪れた。兵屋は市文化財の士別公会堂の前にひっそりと建っていた。屯田兵の川津万次郎宅である。そして士別市立博物館の一角に屯田兵に関する展示が詳しくなされていた。それによると「明治維新で職を失った士族や地租改正によって土地を失ったり生活にゆきづまった農民が屯田兵として北海道各地に入植した。士別には1899年(明治32)に屯田兵とその家族100戸、総勢で622名が入植した。屯田兵には兵屋と約5ha(1戸分)の土地、日常の生活用具や農具が支給された。笹を掻き分けてようやくみつけた兵屋は柾葺きの屋根で壁は板で隙間だらけ、天井がなくたいへん粗末なものであった。生活は、兵器の扱い方から開墾の心得、兵村の風紀などについて細かに定められていた。軍事訓練ばかりでなく毎日幹部の命令で協同作業に従い、道路の開削、鉄道の敷設や停車場建設、排水溝の掘削などをした。家族は兵屋のまわりの熊笹や大木を切り倒したり焼き払ったりして少しずつ土地を開いていった。殊に冬の寒さが厳しく、その生活は理想とは程遠い過酷なものだった」とある。
 続いて陸上自衛隊の旭川駐屯地にある「北鎮記念館」へ行きたいと思った。ここは屯田兵に関する資料が最も充実していると聞いていたからである。作家の井上宏生氏は次のように述べている。「北鎮記念館は北海道の開拓の歴史と密接に結びついている。明治以降、北海道には屯田兵がおかれた。彼らは内地の各地からあつまり、農民として未墾の地を開拓する一方、北の防人として銃を手にしていた。「北鎮」とは「北の守り」といった意味である。屯田兵はやがて正規の軍隊となり・・・旭川は「軍都」として繁栄し・・・」 しかし残念なことに旭川に着いたのはすでに午後3時、時間がなくてここも諦めた。
土の博物館「土の館」
 北海道遺産に選定の趣旨には次のように述べられている。「スガノ農機株式会社が開設している「土の博物館」は、北海道開拓が過酷な気象条件の中で進められた経緯や、土と人間の関わりの大切さを今に伝える。とくに高さ4mの巨大な土の標本展示は世界に類を見ず、大正15年に起こった十勝岳噴火による泥流災害の凄さと、どん底から見事に立ち直っていった人々のたくましさを汲み取ることができる。」
 また土の館では開設の趣旨を「地球ができてから46億年。古代人類の出現から進化して250万年。私たちは、大自然から多くの恵を受けて生存しています。・・・今から9000年前、エジプトの近くで農耕が始まり、穀物がつくられて人類のくらしが支えられてきました。それは、原始未開の地を切り開いた歴史であり、現在の豊かな農耕地へと引き継がれているのです。・・・土の館は、土を耕す「農機具と、作物をつくるための基盤である土を各地から採取して「土壌標本」を展示し、そこから農業を知り、先人の労苦に思いをよせ、「自然の恵み」に感謝し、「食べ物の大切さ」を視覚でとらえ、これからのことを多くの方々と共に考えてゆきたいと願っています」と述べている。
 館へは夕刻に着いた。「土  今年も母なる大地は生命の糧を与えてくれた 著し土がなくその土が貧しくて土を活かす術を知らなければ私達は存在し得たであろうか 土とは生き甲斐であり人生の全てである。土に対して熱意と真心で感謝するとき土は人智を越えて私達の心を受け入れてくれるだろう。土は過去に生き現代に受け継がれ更に未来の可能性を秘めるものである。」「白い道  耕すことをもって 農業参画極めるにあり 良い土作物勝手に育つ このシンプル原点回帰の挑戦 同士自我を捨て内なる精神向上総合自主の道 これ自尊自栄に非ず 権力強制に非ず まして会社主義に非ず 白一連の働きは和して同ぜずを求め同して和とすの否定なり これ白の道日本プラウ極める元の道なり」「農業は大地に鍬で彫る版画なり」 壁の随所に掲げた額の文言が印象的だった。
 また北海道農業の黎明期に足跡を残した世界のトラクタが実物でたくさん展示してあった。画像は高台に建つ館前に展示されていたトラクターの上で。
空知の炭鉱関連施設と生活文化
        旧住友石炭赤平炭砿立坑
 空知の炭鉱関連施設については「北海道遺産を訪ねて2」のところで夕張を見学した記録について書いた。
 今回、偶然通りかかった赤平で旧住友石炭赤平炭砿立坑の巨大な櫓が目に入り立ち寄ってみた。
 米国地質学者スミス・ライマンは明治5年から3年間にわたって北海道の地質調査にあたったが、同行した助手の一人である坂市太郎は明治19年から20年にかけて空知炭田を調査した。この調査により上赤平・上歌志内地区の優良な炭層を知り、明治31年に試掘鉱区を取得し、のちに炭鉱開発をすすめた。大正13年には、住友坂炭鉱となった。昭和13年には大規模な石炭採掘を開始し、戦時下の重要物資、戦後は日本経済復興の原動力として石炭は大増産され、赤平一の大型炭鉱へと成長した。昭和30年代にマイナス(地下)350mから上の炭層は枯渇し深部の開発が必要となった。生産規模の拡大を計り出炭と従業員の搬送のスピード化が望まれビルド鉱として完成。以降平成6年閉山まで続いた。立坑は31年間炭鉱都市赤平のシンボルとして稼動してきた。
 坑内から石炭採掘時に出る不要な岩石や選炭時に出る廃石をズリと呼ぶが、坑内や選炭機から排出されるズリをズリ山の頂上にある100〜150馬力の巻上機でワイヤーをドラムに巻き、ズリを満載したスキップ(トロッコ)を山の頂上まで引き上げズリを堆積した。そのズリ山に登る777段、日本一のズリ山階段のある公園でたくさんの人が赤いサルビアを植えていた。ズリ山階段のところにおられた方を呼び止めてお話を聞くと、その方はたしか北海道開発局滝川事務所副所長のネームプレートをつけた如何にもお役人さんらしい温厚な方で、現場責任者の方を紹介してくださり、お話を聞くよう勧めてくださった。そして私たちも記念にサルビアを植えさせてもらった。語り部の方のお話も聞くことができた。この方は長く炭鉱に勤められ今も籍があるそうで、炭鉱の中も見せてあげようと誘ってくださったが時間がなくて今回は残念ながら遠慮し、次回訪れたとき是非とお願いした。
 
 
 
 
北海幹線用水路
 赤平市から南幌町まで延長約80kmにおよぶ北海幹線用水路は、農業専用では日本でもっとも長いという。空知平野の農地に水を供給するために設けられたもので、北海道の穀倉を支える役割を果している。空知川から水を取るために大正13年に着工された北海頭首工を訪ねた。
 まず目についたのは、滔々と水を湛えて流れるまっすぐに延びた大きな用水路であった。ところどころに橋が架けられている。頭首工への入口には北海道遺産のマークのついた「北海幹線用水路」の看板が掲げられていた。頭首工は堂々たる空知川の一部を堰き止めその朱色の取り入れ口が周囲の緑に映えていた。管理棟の前に、国営総合かんがい排水事業竣功記念の「空知川の恵み」の大きな石碑が建っていた。
モール温泉
 モール温泉は、泥炭を通して湧出するもので独特の黒っぽい湯が特徴。呼び名のモールはMoorのドイツ読みに因むもので泥炭のことを意味する。主成分は植物性腐食質で、鉱物成分より植物成分が多いのが他の温泉との違い。また熱源は地熱に加えて地下での植物の堆積物による発酵熱と考えられているそうだ。
 まず豊富温泉の豊富観光ホテルに宿泊しモール温泉を堪能した。穏やかな温泉の肌触りを楽しんだ。
 次いで、モール温泉は日本では十勝に代表されるということで、十勝川温泉の笹井ホテルに宿をとった。さすが温泉が売り物のホテルだけに、その大浴場の広さに圧倒された。北海道遺産のモール温泉に来た趣旨を告げ、男女浴室交替の30分の客の入浴がない時間帯での写真撮影を依頼したところ許可をいただいた。ところが湯気がもうもうと立ち込め何枚も挑戦したが全部だめ、やむなく画像は露天の小さな湯。それでも入浴は十二分に堪能した。
 かつて晩成・ホロカヤントーのオートキャンプ場近くの温泉に入ったとき、珍しい温泉だと思ったのを覚えている。今思えばあの色といいにおいといいあれもモール温泉だったに違いない。
静内二十間道路の桜並木
 二十間道路は、和種馬の大型改良のため明治5年に黒田清隆が進言し、静内町から新冠町にまたがる地域に開設した御料牧場のための行啓道路。龍雲閣まで直線で7km、幅20間(約36m)にわたって両側に約3000本にのぼる樹齢90年のエゾヤマザクラなどの並木が続く。1916(大正5)年から3年をかけて近隣の山々の桜が移植されたそうである。雄大な日高山脈を背景とした景観は我が国で類を見ないスケールとして知られている。
 訪れたのは6月だから当然桜の花はない。葉桜の大木が連なる並木を見ながら花の盛りを思い描いた。桜の頃に是非もう一度訪ねたいものだと思った。
 「日本の道百選」「北海道二十景北の彩時記」「北海道まちづくり100選」「さくら名所百選」「新・日本街路樹100景」などに選ばれている。

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