北海道遺産を訪ねて 3

北海道遺産を訪ねて 3
 私は夫と二人で退職後、長年の夢であった北海道長期滞在を実現すべく北の大地に旅立った。1999年5月10日のことである。その滞在は2000年5月15日まで1年間に及んだ。見るもの聞くものすべて珍しく新鮮で夢のような1ケ年でありあっという間に過ぎていった。様々なものに触れ、体験し北の大地の人間らしさ豊かさを満喫した。夫は北海道に移住したいと強く望んだ。しかし私は、移住といって故郷をすてることはできない、息子と娘が帰ってくる故郷をなくすことはできないと躊躇した。それでも北海道は私たちにとって永遠に憧れの地である。
 その後毎年訪れるつもりをしていたのだが、私の実母の介護にあけくれ、再び行くことができたのは2年後の2002年2月10日で、この時は4月10日までの2ケ月間の滞在であった。冬と早春の北海道を楽しみ、2年前に深い親交を得たアイヌ民族の友人たちに助けられ、学習会にも参加させていただいた忘れ難い2ケ月であった。
 2001年、第1回の北海道遺産が選定発表された。私たちはこのすべてを訪ねることを一つの目標として北海道に渡った。2003年6月1日から7月31日の2ケ月である。それまで1年2ケ月に亘る滞在でかなりの北海道通を自負していた私ではあったが、北海道遺産25のすべてを周りその奥深さに驚愕し圧倒された。そしてますます北海道に魅かれていった。その年はアイヌの友人たちのイチャルパに参加させていただく予定もあって再び11月3日から12月1日まで北海道に渡った。その時は魅せられた旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群がもう一度見たくてここを訪れた。木の葉の落ちた木々の間から橋は静かな佇まいを見せてくれた。感激であった。
 2004年、第2回の北海道遺産が発表された。私はすぐにも飛んで行きたかった。しかし、退職後7年間悠々自適の生活を送っていた夫が2005年4月から請われて職に就いた。仕事は夫が長年研究を重ねていたもので、それなりに生き甲斐となり充実はしている。それでも北海道長期旅行などとても無理。諦めていた。
 ところが今年11月、1週間の予定で屈斜路に行くことになった。それでは北海道遺産の1つ2つでも周ってこようかと、遺産の一覧表を開いてみた。するとそこには第1回の時のように1度訪ねて書いた以上の思い出がいっぱいの場所がたくさん並んでいるではないか。矢も楯もたまらずそこを訪れた、あるいは滞在した時の胸のうちに溢れる想いを綴って見たくなった。
 夫はいまでも北海道に家がほしい。せめて自分の土地といえる林がほしいと言い続けている。夢をかなえてあげたいような・・・
 


天塩川
 天塩川はその源を北見山地の最高峰天塩岳に発する延長256km、北海道第2位で唯一北に向って流れる長大河川である。松浦武四郎は天塩川内陸調査の途上で「北海道」の命名をしたといわれ、中流域河岸に「北海道命名之地」碑が立っている。この碑を立てられたお一人の中川町の川口さんという方とお知り合いになり長時間話し込んだことがあり、今でも便りを交換している。なかなか魅力的な方である。川の名前の由来となったテッシはアイヌ語でテシ・オ・ペッで梁川の意である。テシの多くは岩が梁のような形に川を横断している。流域は美しい渓谷美を見せる山間部、山間を流れる中流部、蛇行の著しい下流部と変化に富みほんとうに素晴らしい川である。手もとに「朔北の大河 天塩川」という本があるがページを繰るごとに現れる四季折々の美しい光景にため息が出るほどである。
 私は7月初旬に天塩川を夫と二人でカヌーで下ったことがある。水鳥に水先案内され、空にはオジロワシ、河岸にはショウドウツバメの無数の巣があり大自然の中をゆったりと下る心地よさに浸った。いくつかの川をカヌーで下ったが天塩川に勝る川を知らない。私はすっかり天塩川に魅せられてしまった。できることなら、風連町から河口までを下る「ダウン・ザ・テッシ・オ・ペッ」に参加したいものだと願っている。天塩川の雄大な流れが日本海に注ぐ河口にある鏡沼海浜公園には松浦武四郎の像と歌碑が立っている。
 私は3月はじめ、スーパー宗谷で稚内から旭川に向ったことがある。その車窓から見た雪の天塩川の美しさも忘れ難い。
雨竜沼湿原
 7月中旬大雨の翌日ですべりやすい山道をあえぎつつ登った。辿り着いた雨竜沼湿原はエゾカンゾウの黄色が一面に広がっていた。ここは増毛山地の標高850mにあり、北海道の山地湿原の中ではもっとも大きな高層湿原だそうである。大小の真円形の池塘が百数十あり、独特の景観を見せている。広大な湿原に敷かれた木道を歩いて周り、立ち止まって観察するといろいろな種類の花が咲いている。春の雪融けから秋までに200種以上の花が咲くという。木道の長さは3.5km 時間をかけてゆっくりと楽しんだ。高層湿原は、寒冷貧栄養の生息環境下でミズゴケ、スゲ類が腐食しないまま数千年かけて堆積し、厚みを増して元の水面より盛り上がったことによりできたとのこと。
 見渡す限りの湿原だが、東西4km、南北2kmの広さがある。このまま暑寒別岳まで登っていきたい衝動に駆られた。
積丹半島と神威岬
 シャコタンはアイヌ語でサクコタン 夏の村 夏場所の意。アイヌの人たちは冬と夏で居場所を変えることも少なくなかった。夏の好漁場だったためこの名がついた。
 北海道遺産への選定理由は次のように述べられている。「積丹半島開発の歴史は古く、ニシン漁の旧大漁場として発達した。切り立った断崖とシャコタンブルーと形容される神威岬の海岸美は絶景。貴重な自然と産業の古い歴史に加え、明治から昭和初期に栄えた旧ニシン場の遺構としての番屋、揚場跡、袋澗、トンネル、旧街道などが保存されている。」
 小樽から江差を結ぶ「追分ソーランライン」と呼ばれる積丹半島の海岸線に沿って走る国道229号線を通って積丹半島を一周した。ハマナスの花が美しく咲き始めた6月のことであった。セタカムイ(犬の神様)の伝説が残る奇岩を見て、美国に入った。海中公園で遊覧船に乗り、半島の奇岩や海中の様子を楽しみ、このあたりにたくさん残る伝説や逸話を聞く。黄金岬へは遊歩道が整備され、展望台からは青く澄んだ日本海と断崖絶壁が見渡せた。
 透明度が高く「日本の渚百選」にも選ばれた島武意海岸は神秘的な美しさをたたえ、斜面にはエゾカンゾウが、浜にはハマナスがたくさん咲いていた。
 シャコタンブルーの大海原へとダイナミックにせり出した神威岬の先端までは、駐車場から「チャレンカの小道」と呼ばれる遊歩道をたどって770m、かなりの距離であった。しかし両側に日本海の雄大な景色が広がり、歩道の側にはエゾカンゾウ、センダイハギ、エゾニュウ、エゾスカシユリなどが咲きほこり楽しい道であった。岬の先端からは、周囲300度の丸みを帯びた水平線を見ることができ、眼下に見る神威岩は澄み切った海中に立ち尽くす乙女の化身とも言われているそうだ。かつてここは女人禁制の岬だったとか。それもこの乙女の伝説によるものだそうだ。
 別の日、余市で旧余市福原漁場や旧下ヨイチ運上家を見学したが、それは見事なものであった。
 
スキーとニセコ連峰
 厳しい寒さや雪に閉ざされる北海道の人々にとって、冬期間の最大の娯楽はスキー遊びだった。昭和40年代頃からは「冬のレジャー」と言われるようになり、スキー場の代表格が昭和初期から知名度の高かったニセコ連峰。娯楽が多様化した今日、ウィンタースポーツだけではなく、四季を通しての新しいアウトドアスポーツの拠点となっている。と紹介されるニセコだが・・・
 北海道に1年間滞在することを決めていた私たち夫婦が滞在場所を求めて4月下見に出かけた。真っ白に雪を被った後方羊蹄山を眼前に見る倶知安町のニセコアンヌプリの麓に展がるひらふ高原のレンタルコテージ。雪に包まれたその美しさに迷うことなくここにしようと決めた。
 5月、キャンピングカーで北海道に渡った。道端のいたるところに水芭蕉、エゾリュウキンカ(ヤチブキ)が咲き、念願の北海道に来たという思いに胸がいっぱいになった。コテージでの暮らしは夢のようであった。朝日が差し始めると人気のないコテージの周りを歩いた。アルバムをめくるとパジャマ姿で歩いているのさえあり笑いがこみ上げる。ある時は野外にロープを張り洗濯物を干していたら、この地を管理しているお兄さんが笑いながら通り過ぎたと思ったらあわてて室内用の物干しを持ってきてくれた。ああそういえば、北海道で野外に干してある洗濯物など見たことなかったなあ。
 雪が解けると、山の斜面はカタクリ、エゾエンゴサクの花で埋め尽くされる。知り合いになった喫茶店の方や別荘の方に山菜取りに連れてもらったり、札幌にでかけたり、秋にはリース作りを一緒に楽しんだり。たくさんある温泉を日替わりで楽しんだり。5,6,7月、10、11、12月に亘るおよそ5ケ月あまりのここでの暮らしは涙が出るほど懐かしい。そして美しい。コテージのまわりを埋め尽くすタンデライオン、近くの高木山荘さんの広大な花畑は次々に様々の花が咲く。ことに一面にルピナスに埋まる春の終わりは言い表し難く素晴らしい。
 ニセコアンヌプリに登ったのはパノラマラインの雪が除雪されてようやく開通した5月21日であった。まだ雪の深い五色温泉から登った。画像はニセコアンヌプリ山頂から見るニセコ連山。その後イワオヌプリ、チセヌプリ、ニトヌプリ等々に登った。6月になってからニセコアンヌプリのスキー場側から登っていくと、シラネアオイの群生が一斉に花をつけ美しい。またあきれるほどに大きいウドがたくさんあり、少しいただいてきて酢のものにしたりして味わった。ニセコ連山ではないが後方羊蹄山にももちろん登った。6月末であった。春から秋にかけて神秘的な神仙沼に何度も通ったし、大谷地、大沼、長沼などニセコの山々を楽しんだ。大谷地では珍しいフサスギナを見ることもできた。山だけでなく、若者たちに混じってラフティングにまで挑戦した。
 そうそうスキーだった。歩くスキーを専ら楽しんでいた私たちはニセコスキー場はどうも・・・でも夫はあの細いクロスカントリー用のスキーで無謀にも若者の間に割り込んで滑っていた。(画像) 照明に浮かび上がる夜間のスキー場は美しい。
 忘れられないニセコである。
北限のブナ林
 ブナは温帯を代表する樹種で、北海道では渡島半島だけに分布するそうだ。黒松内はその北限で、太平洋側の長万部と日本海側の寿都を結ぶ黒松内低地帯が境界線。
 黒松内に北限のブナ林を訪ねた。歌才ブナ林に入っていくと、抱えきれないほどの巨木もたくさんある原生林で実に心地よい散策である。森の匂いがした。ギンリョウソウも見つけた。6月のことである。
 説明書にはこう書いてある。「歌才ブナ林 いまだかつて人の手が入らない 自然のままのブナの森 地衣類の独特の模様がついた白っぽい幹に 緑の葉をたっぷり茂らせたブナは 一度見たら忘れがたい印象の木です 芽吹き、新緑、黄葉、落葉・・・四季の変化が美しい 樹齢200年以上のブナの大木や 直径が2メートルにもなる ミズナラの巨木に出会うこともできます」
 松浦武四郎が「東蝦夷日誌」(1857年)の中で「ブナノキタイ、これぶな多きがゆえ名づく。後ろウタサイという山有り」と記しているように、歌才ブナ林を含む一帯は昔からブナが多いところであった。ところが明治以降、開拓が進むにつれブナは薪材として伐採されどんどん少なくなっていった。
 1923年(大正12年)、天然記念物調査に訪れた林学博士・新島善直は「周囲は開墾し尽くされている中で、この様なブナの原生林が残っているのは奇蹟のようだ」と述べている。
 その後、1928年(昭和3年)北限のブナ自生地を代表するブナ林として国の天然記念物にに指定され、地元住民の熱心な運動により守られてきた。現在残っているブナの本数は約1万本、平均樹齢150年、最も太いブナの直径は136cmだそうである。
 帰りに手づくり加工センター「トワ・ヴェール」を訪ねた。そこで、この前の畑にいた工藤さんという幼い姉妹と知り合った。彼女たちは、摘みたてのイチゴを2粒手のひらの上にのせてくれた。そのおいしかったこと! また別の日ここを訪ねたら、畑一面にコルチカムの濃いピンクの花がひろがっていた。ここは彼女たちのおじいさんの畑だという。いまでも二人との文通が続いている。
 黒松内は、ブナ林とイチゴの甘酸っぱい味で忘れられない。
登別温泉地獄谷
 登別はアイヌ語でヌプルペッ「水の色の濃い川」からきている。今では登別川の下流で見ると殆ど目立たないが、幕末の諸紀行ではここを通って「川水白く流れ」「川水黄色にして甚だ濁る」と書かれている。当時は温泉水がひどく流れていて目立ったのであろう。地獄谷からの湧出した源泉がその下流の登別川まで白濁した水を流していたのだ。
 地獄谷は北海道を代表する温泉地・登別温泉最大の源泉。直径450mの谷底には大地獄を中心に15の地獄があり、毎分3000リットルが湧き出している。登別温泉は「温泉のデパート」と形容され、11の泉質が湧出しており、これは世界的にも珍しい。かつてここで宿をとり温泉を堪能したことがあったが確かにすばらしい温泉である。
 地獄谷の周辺には表面温度が40〜50度になる大湯沼、頂から白煙が立ち上がり、高山植物の名所としても知られる日和山、登別原始林などが広がる。大湯沼の側で韓国から来たという若い夫婦に会った。彼らは噴出の豪快さに驚いていた。互いに片言の英語で話すと、「日本人は、大自然の恵みを巧みに利用している」と感心していた。
五稜郭と箱館戦争の遺構
 函館は青函連絡船の着くところであり、滞在していた倶知安町からも比較的近くよく行った街だ。五稜郭へは6月に行った。
 五稜郭は日本には珍しいヨーロッパスタイルの城郭である。美しい星の形をしたこの城郭には、函館の幕末からの歴史が詰め込まれており、特別史跡に指定されている。訪れたこの日も観光客でたいへんな賑わいであった。五稜郭タワーに入り、上から眺めたり、展示物を見て周ったりした。
「箱館戦争は明治元年秋の旧幕府脱走軍の侵攻に始まり、翌年春の新政府軍の反撃により、五稜郭開城で終わった。戦いは道南一帯に及び遺跡や遺構が随所に見られる。榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が上陸した鷲ノ木、蝦夷島臨時政権の根城となった五稜郭や急ぎ造成された四稜郭、猛攻を受けた福山城、開陽丸が沈没した鴎島沖、新政府軍が上陸した乙部海岸、激闘の二股口、土方歳三が戦死した一本木関門跡など、戦いのすさまじさを偲ばせる。」と説明されている。
 そういえば、福山城へも、悲運の徳川幕府軍艦「開陽丸」と鴎島へも行ったことがあるのを思い出した。
オホーツク沿岸の古代遺跡群
 「オホーツク沿岸地域では縄文、続縄文、オホーツク文化、アイヌ文化まで各時代の遺跡が分布し、白滝村など内陸部では旧石器時代の遺跡が多く見られる。オホーツク沿岸の遺跡は樺太・シベリアなど大陸諸文化との関係が強く認められ、竪穴住居が連綿と残る常呂遺跡、オホーツク文化遺跡として著名なモヨロ貝塚、縄文後期の朱円周堤墓などが代表格。」との説明があるが、私はこのうち常呂遺跡とモヨロ貝塚に行った。(画像はモヨロ貝塚)
 常呂遺跡では、常呂町埋蔵文化財センター・「ところ遺跡の館」を見学し、「ところ遺跡の森」を歩いた。カシワ、ナラを主体とした広大な落葉広葉樹の森林で、擦文文化(約1000年前)、続縄文文化(約1800年前)、縄文文化(約4000年前)の竪穴住居跡が138軒ある。住居跡は地表面が大きく窪んでいる。擦文文化の住居は台地の西側の沢の周辺に、続縄文文化の住居は台地の北側周辺、縄文文化の住居は台地の北側から東側にかけてそれぞれ広く分布している。一遺跡の中で各文化の立地が異なっているのはたいへん珍しいそうだ。各時代跡地に復原住居、屋根のない状態の遺構露出展示住居も建っている。
 モヨロ貝塚を地表から見ると樹林と深草に覆われた単なる平地にすぎないが、この地下30cmから3mに及ぶ地中には、三重、四重に土砂が層をなし、その各時代に生活を営んだ人々の遺物が包含されている。これらのものを発掘当時そのままの状態に復原して、数千年前からオホーツク海沿岸に住んでいた時代人の文化や、民族の移り変わる生活様式を展観できるようにしたのがモヨロ貝塚館である。なおここは北海道で唯一の国の指定史跡になっている。天然の海の幸、山の幸に恵まれたこの地は過去6000年〜7000年の昔から今日に至るまで断続的に生活が営まれてきた。その間にはモヨロ貝塚人のように土着の原始時代人の中に突如として侵入し異質な優秀文化を背景に共存して生活する時代もあった。和人が永住するようになった明治時代初期の頃までは、ここもまたアイヌの人々が独自の文化のもとで日々の生活を営んでいたことに思いを巡らすと感慨深いものがある。
 北海道には、縄文文化、擦文文化とは異なる一種独特のオホーツク文化が存在した。もちろん弥生文化は存在しない。私はかつて北海道の中学校の先生に問うたことがある。歴史をどう教えるのかと。答えは「教科書どおり日本の歴史を教える」と。北海道独特の歴史にふれることはほとんどないそうだ。すべての教師がそうだとは決して思わないが。
流氷とガリンコ号
 「流氷を見たい」 それは雪さえめったに降ることのない三重県に住む私の切なる願であった。ところが、「冬のオホーツク沿岸に押し寄せる海の邪魔者を逆手に取った流氷観光」には笑ってしまった。紋別市ではアラスカの油田開発用に試験的に作られた砕氷船を「ガリンコ号」と名付け、流氷の海へ乗り出した。沖合約1kmのオホーツクタワーでは、海底7.5mから流氷下のさまざまな生態の観測ができるとある。
 流氷が流れる海、それは私にとって大いなるロマンである。早速「ガリンコ号」に乗りにいった。流氷は日によって大量に押し寄せたり、一斉に去って行ったりするそうで、この日はあいにく比較的少なかった。それでもガリガリと大きな氷を砕いて進む砕氷船は迫力満点であった。もちろんオホーツクタワーにも行った。アザラシが飼育されていた。
 その後、網走で流氷クルージング「おーろら号」にも乗船した。網走駅からタクシーで行ったのだが「観光客は多くてもそのほとんどがバスツアーで、地元は潤いが少ない」とのこと、なるほどなるほど。
 流氷といえば、斜里からウトロへの海岸線を埋め尽くす流氷はすごい。サロマ湖畔では流氷の上に乗って遊び、根室海峡を流れる流氷も見た。羅臼から観光船で流氷の上のオオワシ・オジロワシを見に行ったこともある。流氷は、地元の人には悪いが私にとっては何度見てもロマンである。
 紋別も懐かしい地だ。夏、初めてここを訪れ宿をとった。12時過ぎまで飽かずに海を眺め、ようやく寝ついたと思ったら、3時にはもう夜明け、あわててカーテンを閉じ寝なおした思い出がある。またキャンピングカーで何度も紋別道の駅を利用した。朝早くから川でサケ釣りをしている人があり、「ここのサケ釣りはスリルがある」と笑っていた。監視員の目を盗んで釣るからだそうだ。そんなこともあるのかなあ。 
北海道の馬文化(ばん馬、日高のサラブレッドなど)
 北海道の馬の歴史は古く、明治期には農耕など開拓の労働者として人々と苦労をともにしてきた。農耕馬の力を試したお祭りばん馬は「ばんえい競馬」に発展し、速さを求めてはサラブレッドの改良が進み、浦河町の「JRA日高育成牧場」では世界に通用する強い馬づくりに取り組んでいる。また馬産地・日高の牧場風景は観光資源にもなっている。
 ばん馬を始めて見たのは、9月26日、別海の産業まつりの時であった。砂まじりの山を駆け上る馬の逞しさに驚いた。ちょうどムツゴロウさんがお孫さんと出場してみえたのも楽しかった。隣に座ってみえた人に話しかけたらその方は別海の牧場主でおうちにもお邪魔し、今でも道東に行くと時々寄らせていただいている。
 日高の牧場を訪れたのは夏であった。広々と牧場が広がりあちこちに馬が放されている光景はいかにも北海道を感じさせた。ハイセイコーのお墓参りに訪れたという若者にあった。私たちは、オグリキャップ号とマヤノトップガン号を見てきた。 
ニッカウヰスキー余市蒸留所
 理想のウイスキーづくりをもとめた竹鶴政孝は、澄んだ空気と夏でもあまり気温の上がらない気候に加え、近くに良質なピートに恵まれた余市をその適地として選んだ。ニッカウヰスキー余市蒸留所は昭和11年、ポットスチルに火が点じられてモルトウイスキーの製造が開始されて以来、当時と変わらない製法でウイスキーの蒸留、貯蔵を行っている。
 滞在していた倶知安町から札幌に出るのに中山峠を越えることもあったが、余市から小樽を通り出ることも多かった。果物の町余市、毛利さんの生まれた余市、運上家のある余市、市場の二階食堂で食べる新鮮な魚のおいしかったこと、こんな様々の顔を持つ余市が私は好きだった。
 夏のある日、ニッカウヰスキー工場を訪ねた。入った途端ウイスキーの甘い香りがした。ウイスキー博物館に入り、工場を見学した。「ウイスキー」という言葉は、古代ゲール語の「生命の水」を意味する「ウシュク・ベーハ」を語源とするケルト語の「ウスケボー」が由来だそうである。
サケの文化
 サケは北海道を代表する食材。その歴史は古く、擦文時代の遺跡からサケを捕獲したと推定される装置が発見され、アイヌ民族もまたサケ漁を生業のもとにしてきた。ところがアイヌの人々にとっては、サケは一面受難の歴史でもあった。松前藩による場所請負制度が確立するに従って武士や商人による搾取は熾烈をきわめた。アイヌの人々の主食であったサケの捕獲が著しく制限され、国後、択捉などの島に送られて苛酷な労働に従事させられたのである。
 産卵のため母川に回帰する習性を利用した漁法が発達し、親魚の保護や人工孵化事業も早くから行われてきた。母川回帰は生命のドラマを生み、自然環境保護の眼に見える指標でもある。
 秋になるとあちこちの川にサケやマスが戻ってくる。知床の川でたくさんのサケが遡上するのを見た。羅臼の川で岩場を何度も飛び上がって上っていくサケを飽きず眺めていたものだ。知床自然センターの知床サケ・マス産卵ウォッチングに参加したこともある。産卵を終え力尽きて白い腹を見せるサケは逞しくも哀れであった。ことにそれが熊に食い荒らされていると、それが自然界の摂理、食物連鎖の姿であるとはいえ殊更に。
 移動の途中長節湖に寄ったことがある。秋の初めでこのときが北海道に来てサケを見た初めであった。持たせてもらったサケの大きさと重さにびっくりした。(画像)ふと見ると海辺にたくさんの竿の列。(画像)サケ釣りである。ははーん、するとここにサケが売っているということは?
 9月はあちこちの祭りでサケが売られていた。標津秋味まつりも盛大であった。近くの別海を流れる西別川は出口のない摩周湖の地下水が流れており、ここで獲れるサケは格別においしいという。標津サーモン科学館も見学した。
 さらに知床に向うと羅臼港は早朝からサケの水揚げで活気づいていた。(画像)
 雪が降り始めたころ、豊浦町のインディアン水車を見に行ったら、凍えそうな水の中にまだたくさんのサケが泳いでいた。
ジンギスカン
 ジンギスカン料理の発祥については諸説があるが、北海道でもっとも広く、かつ特徴的に発達した。大陸にも原型はみられるが、味付けなど羊肉を美味しく食べる工夫が凝らされ、新しい料理として北海道で確立したといえる。
 焼尻島へ行ったとき、たくさんの羊が放牧されていたのを見た。(画像)ここの羊は塩分を含んだ牧草を食べるため、ミネラル豊富な羊肉となり、特上のジンギスカンの食材になるという。
 士別のサフォークランドへ行った。小高い牧草地の上に、メルヘンチックな建物が建っていた。(画像)ここで食べたジンギスカンはたいへんおいしかった。
 キャンピングカーのときは、コンビニで使い捨てだろう100円のジンギスカンナべを買ってきて、ジンギスカンを楽しんだのも懐かしい。

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