北海道遺産を訪ねて 2

北海道遺産を訪ねて 2
 25の北海道遺産を全部まわり終えた。各地で親切に教えていただいたり、案内してくださったり、資料を頂戴したりといろいろな方にずいぶんお世話になった。お陰で充実した旅になったと感謝にたえない。どこでも遺産に対する誇りとそれを守りぬきたいという熱い想いをひしひしと感じた。もっとゆっくり訪ねたいと思ったところも幾箇所かあった。さらに2004年には第2期分として25の北海道遺産が選定されるという。またいつか訪ねてみたいものだと思っている。


太古からの足跡
上ノ国の中世の館(たて)
 15世紀後半〜16世紀、上之国地方の拠点として築かれた山城。花沢館の客将であった武田信広は、長禄元(1457)年コシャマイン軍を打ち破り、上之国守護蛎崎季繁の跡を継ぎ勝山館を築いた。文明5(1473)年、館の守り神として八幡宮が祀られているので、この頃には勝山館が築かれていたと考えられる。明応3(1494)年武田信広がここで没し、2代光広が永正11(1514)年松前大館に移り、後に5代慶広が姓を松前と改めて松前藩が成立する。勝山館は大館の副城的性格をもち、慶長年間まで城代が置かれ、蛎崎氏の北方日本海側の軍事・交易の中心として栄えた。昭和52年国指定史跡に指定され、発掘調査が行われている。その結果、約3万点の陶磁器をはじめ、金属製品や木製品など数万点の遺物が発見され、掘立柱建物跡等の遺構も多数検出されており、今まで謎の部分が多かった北海道中世史を解明する遺跡として注目されている。私たちは、埋蔵物整理センターへ寄り,説明をしてもらってから、館跡へ登っていった。客殿跡、伝侍屋敷跡、館神八幡宮、空壕、用水施設などがあった。夷王山では、600基余りあるという墳墓群の発掘が行われていた。
福山城(松前城)と寺町
 天守閣が聳え、古寺が佇む最北の城下町。武田信広が基礎を築いた松前藩は、サケやコンブの交易で、米を中心としていた封建制とは一線を画していた。「松前・江差の春は江戸にもない」と讃えられ、北前船によって運ばれた上方文化はこの地に北の京都を描き出したのである。江戸期を通じて華やいだ松前は、近世の北海道の主舞台だ。松前は何度か来たことがあるが今回のように時間をかけてゆっくりと歩いてみると一層そのよさがわかる。殊に寺町のあたりは静かで落ち着いたよい町であった。重要文化財法源寺山門(画像)は北海道で最も古い建物の一つでありどっしりとした構えは長い歴史を感じさせる。寺内に蠣崎波響の墓もあった。松前家菩提寺の法幢寺と墓所にも行った。私はこんなに立派な一族の墓所を始めてみた。また国の重要文化財龍雲院はまことに立派なお寺であった。樹齢およそ300年という伝説の名木血脈桜の残る光善寺も美しいお寺だ。真言密教の阿吽寺は他と趣を異にする。建ち並ぶ寺の参道はどこも並木になっており、それぞれに美しい。最後に、福山城を訪れた。本丸表御殿玄関は昔のままの姿で残され、昭和57年まで松城小学校の正面玄関として利用されていた。北海道指定有形文化財になっている。
内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群(南茅部町、伊達市など)
 北海道に人が暮らし始めたのは、遺跡で確認される限り、およそ2万年前と考えられている。石器による狩猟生活の旧石器時代を経て、1万年前ころとなると、石器に加えて土器を使う縄文時代に入る。およそ1万年間続くこの時代の遺跡は、全道で1万カ所以上も発見されている。南茅部町から八雲町、伊達市にかけての内浦湾(噴火湾)沿岸に点在する遺跡群、中でも89カ所に及ぶ南茅部町の遺跡(大船C遺跡など)は、その規模や出土品の貴重さから三内丸山遺跡に匹敵するといっても過言ではない。集落遺跡があり、そこから出土した中空土偶は国指定重要文化財になっている。
 私たちは、伊達市の国指定史跡北黄金貝塚遺跡を見学した。縄文時代前期(約6000〜5000年前)の台地上の貝塚と低地の水場遺構を中心とした集落遺跡である。貝塚、住居跡、墓、鹿用落とし穴、盛土遺構、水場の祭祀場などが見つかっている。貝塚から人の墓が出てきた。このことから、貝塚はゴミ捨て場ではなく、縄文人は、「貝塚はすべての生き物の墓地」と考えていたことがわかる。アイヌの人たちの考え方と同じだ。情報センターでボランティアの方から説明していただいて、貝塚の丘に登った。
生活の知恵
昭和新山国際雪合戦大会
 北海道遺産として選定された25を全部回りたい。そう考えて旅に出た。
 北海道がいちばん北海道らしさを見せるのは冬。そんな中で、子どもの遊びを大人が真剣に競い合うスポーツとして確立させ、30カ国から参加があるという国際的なイベントに成功させたのが「昭和新山国際雪合戦大会」だ。
 今は夏でありタイミングは悪いが、せめて冬に行われる会場なりと見たい。そして資料でも集められたらと思って春の季節の美しさが大好きな壮瞥町に出かけた。観光案内所に行ったら「何もない」と冷たい返事。役場に行っても資料はない。駐車場の係の人に場所を聞くと「えっ!行くの?何もないよ。草っ原があるだけ。」とあきれられる始末。唯一土産物店の人が、今年のでよかったらとメンバー表の冊子をくださった。がっかりである。「雪合戦大会練習会場」の看板は1枚見つけたが、せめて「昭和新山国際雪合戦大会会場」との看板でも立っていたらと思った。折角北海道遺産に選定されたのだから。仕方がないので、ロープウェイに乗り途中で大会場のあたりをカメラに収めた。
 壮瞥町の友好都市、北緯66度32分35秒にある北極圏フィンランドのケミヤルビでも国際雪合戦大会が開かれているそうである。
螺湾(らわん)ブキ
 かつてラワンブキを販売しているのを札幌で見たことがあったが、生えているのを見るのは初めてだ。足寄町の螺湾川のそばにラワンブキの群落を見に行った。昔は高さが4mにも及んだという。今はどれももう少し小ぶりのようだ。でも確かに大きい。6月10日に行ったのだが、まだ少し早いのか、知人に送りたいと思って探したが、販売しているところが見つけられなかった。
京極のふきだし湧水
 倶知安町にいるとき、よくここに水を汲みにいった。ここの水で入れるコーヒーは格別に美味しいと評判である。いつ行ってもたくさんの人が水を汲みに来ている。滝のようなスケールで、ふきだし口から湧き出て豊かに流れ下る清冽な水はまさしく命の源の豊かさ。その水は、はるか数十年前に後方羊蹄山に降り積もった雨や雪が、地下水脈をたどって地上に姿を現したドラマチックな大地の恵みでもある。その湧水量は一日約7万トンという。6月7日に行ったが、この日もたくさんの人で賑わっていた。
路面電車
 路面電車がゆっくりと街なかを走っているのを見ると、なぜか懐かしい気持ちになる。
 札幌の路面電車の歴史は、軟石を運んだ馬車鉄道にさかのぼる。明治も終盤の頃であった。その後、馬糞処理の問題、他県での電車導入開始などを背景に、大正7年に開催される博覧会に合わせて電車を走らせようとの気運が高まり、同年8月、札幌のまちを始めて電車が走った。この時延長5.3km。以来、路面ディーゼルカーや連接電車の導入など業界最先端の技術を誇り、全盛期(昭和39年)には、主な駅、学校、病院をくまなくつないで(総延長25km余)文字通り市民の足だった路面電車は、自動車の普及と地下鉄に押されて昭和46年以降徐々に縮小され、現在は中央区内に8.5kmの路線を残すのみとなった。雪の冬はたいへんである。6時始発の路面電車の路線を確保するためにササラをつけた雪かきのササラ電車は午前2時から動き出すという。
 画像上は、函館山を背景に函館市内を走る路面電車。中は、札幌市内のすすきのを走る路面電車。それぞれの色やデザインがおもしろい。
北海道ラーメン
 北海道といえばラーメン。人はよく「北海道に行ったらラーメンを食べたい。」という。北海道のラーメンは暮らしに根ざした食文化。北海道のラーメンは、それぞれの地域が、それぞれの個性ある店が、さまざまに素材や味に工夫をこらし、競い合って新しい味を産み出し、それを地域の人とともに育ててきた味。貴重な地域のストーリーが詰まっている。「札幌・みそ、旭川・しょうゆ、函館・塩」ともいわれる。
 画像左下は、おなじみ札幌のすすきのにある「元祖ラーメン横丁」 右下は旭川の「ラーメン村」
産業遺跡
空知地域に残る炭鉱関係施設群
 アメリカ人鉱山技師のベンジャミン・スミス・ライマンが日本初の本格的な地質図を作ったことから北海道の炭鉱の歴史が始まる。
 「空知地域には、かつて大小100もの炭鉱があり、炭鉱町の人口は合わせて83万人を数えた。朽ちて失われていく炭鉱の証を残し、時間を超えて記憶を封じ込め、そこに暮らした人々の苦楽や息づかいを伝えたい。ヤマに残った人々の活動は今も続いている。」北海道遺産に選定された理由をそう述べている。各地で遺構の保存活動や写真展が展開されているという。旧北炭幾春別炭鉱・にしき竪坑、旧三井芦別鉄道、旧住友赤平炭鉱・竪坑櫓、幌内炭鉱・立坑、美唄炭鉱・原炭ポケット、奔別炭鉱・立坑等々だ。
 私は今回、多くの取り組みをしている夕張を訪ねた。ここには天龍坑が残っている。夕張石炭の歴史村へ行った。ここで夕張市石炭博物館と炭鉱生活館を見学した。その後、竪坑ケージに乗り坑道見学に行った。地下1000mにあるという。かなりの時間ケージは下り続けた。着くとそこはひんやりとした地下の世界。思わず「ここは地下何mですか」と聞くと、2階から1階に降りただけだという。あまりのリアルさに笑ってしまった。明治・大正の開坑当初から現在に至るまでの労働模様をリアルに再現、実際に使われていた機械・設備が当時を物語る(画像)。続いて史跡・夕張鉱をキャップランプひとつで見学する。採炭現場や石炭層を歩く。ここは実際の坑道を使用した全国でも数少ない貴重な施設。外に出て夕張石炭の大露頭も見た。私はかつて旧炭鉱住宅街に行ったことがある。「幸福の黄色いハンカチ」の舞台を見に行ったのだ。風にはためくたくさんの黄色いハンカチが印象的だった。
 夕張の他の地域の炭鉱施設や、炭鉱だけでなく立派だという鴻舞金山などの産業遺跡も是非訪ねてみたいものだと思った。
 山の記憶の再生はそこに半生を捧げた人々への讃歌である。
旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群
 ここに来る前、自宅にNPOひがし大雪アーチ橋友の会から、アーチ橋に関するたくさんの資料を送ってもらった。・・・旧国鉄士幌線の廃止により、その使命を終え解体の運命にあったコンクリートアーチ橋たちが、保存を願う多くの声に支えられ歴史文化遺産として甦った。新たな価値が与えられたコンクリートアーチ橋たちが、私たちの暮らし、産業、鉄道歴史の生き証人として、また自然景観と調和した地域の遺産として、後々の時代まで多くの人から愛されることを願って設立された会だ。
 国道273号に平行して、まるで古代ローマ時代の水道橋を思わせるような大きな高架橋が見える。これは北十勝、ひがし大雪の開拓の歴史を伝える近代産業遺産・文化財であるアーチ橋だ。士幌線は本格的な山岳路線だった。特に音更川の渓谷に沿って敷かれたため、たくさんの橋を造る必要があった。そこで工事費を抑えるため、現地で調達可能な砂利や砂を利用でき、かつ音更川の渓谷美に調和したデザインにしたいということからアーチ橋となった。現在残されているのは33橋である。ただし夏の今は木が茂りよく見えないものが多い。木の葉の落ちた冬にはよく見えるという。地図だけではとても辿りつけない。そこで「めがね橋を見るツアー」をお願いし案内してもらった。これが大正解。見るべきポイントを順序よくしかもていねいに案内してくださったのだ。おかげで充分に見学し楽しませていただいた。三の沢橋。有名なタウシュベツ川橋梁(画像)これは息を呑む美しさであった。しかもこのままでは崩壊も数年のうちという。はかなさ故にその美が一層胸を打った。旧幌加駅では線路の一部とプラットホームが残っていた。あたりは一面のルピナスの花。この花はかつてこのあたりに人が住んでいた証だという。第五音更川橋梁、これは登録有形文化財になっている。そして再び国道上から三の沢橋。3時間の見学であったが深い感銘を受けた。
 冬の季節にもう一度訪ねてみたいと思った。また違った景観で楽しませてくれるだろう。
小樽みなとと防波堤
 大正から昭和にかけて小樽は繁栄を謳歌した。その繁栄を築いたのは北の荒波から船を守る小樽みなとの完成だった。小樽港に、日本初のコンクリート製外洋防波堤として名高い「北防波堤」を建設し、「近代港湾の父」といわれるのは広井勇博士である。セメントに火山灰を混入して強度を増したブロックを71度34分に傾斜させそのまま並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用した。こうして11年の長い歳月をかけ明治41年(1908年)に、幅7.3m、水深14.4m、全長1289mの北防波堤が完成した。100年の荒波に耐えて今も当時のままに機能しており「日本土木史の驚異」と称賛されている。
 国の威信がかかる失敗の許されないこの防波堤建設の期間中、広井は懐に自決用の拳銃を忍ばせていた。時代を超えて日本海の荒波をしっかりと受け止め微動だにしない防波堤。そこに全身全霊でこれに挑んだ明治の男の生き様を見る。広井勇は、札幌農学校でアメリカ人教師たちを通して直にフロンティアスピリットに触れることができた。しかし彼から学ぶべきことは、広井がそれを自ら体現したことである。小樽の港を守るのは、北海道で芽を出し、世界に花開いた真のパイオニアの魂である。
 小樽市港湾部を訪ねると、たいへん丁寧に応対してしてくださり、資料をいただいた。その上、写真に収めるとよいポイントまで教えてくださった。
根釧台地の格子状防風林(中標津町など)
 根釧台地はよく通る。防風林の存在も知ってはいた。しかしそれが、北海道遺産の「格子状防風林」だとは知らなかった。飛行機から見ると、広大な牧草地を区切るカラマツ林が見えてくる。これが北海道開拓の歴史を今に残す根釧台地の格子状防風林である。カラマツは、寒冷な気候に強く、成長の早い木で、春先の種まき時期の風害や成長時の低温災害から農作物を守ってきた。かつて北海道に暮らす人たちは森の木を切りその恩恵で産業を発展させてきた。しかしこの町の人々は防風林というもう1つの森を育て続けてきた。100間、180m幅の格子状防風林である。
 中標津の役場を訪ねると,若い方が丁寧に教えてくださった。その上、格子になっているのがよく分かる航空写真までくださった。「なかなか全貌を見るのは難しいが、開陽台に行かれてはどうですか」とのことであった。なるほどと開陽台に登った。画像がそれである。残念ながら格子はなかなかカメラに収まらない。雪の日ならもう少しはっきり捉えられそうである。西別岳からも見えるには見えたが小さくぼやけてうまく収まらない。尾岱沼から屈斜路まで防風林の中に馬の道をとの計画があるそうだ。夢のある話ではある。
 
 青年よ 大志を抱け!
 それは金銭や自己の利益
 名声というむなしいものに対してではない
 人が人として成し遂げるべき事にこそ
 大志を抱け!
            ウィリアム・S・クラーク
 

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