北海道遺産を訪ねて 1
 
 自然が北の大地に描き出す荘厳にして神秘なる叙事詩。そこに潜む宝の秘密を解き明かしていく中で私たちは北海道に夢をかけた先人たちのスピリットに出会う。
 北海道に残された素晴らしい遺産の数々。その中に輝く大いなる志を私たちが再発見するとき、沈黙を守ってきた明日が北の未来を再び語り始めるだろう。 
                         札幌テレビハウス製作「北海道遺産物語」より

北海道遺産を訪ねて 1
 「次世代に伝えよう北の暮らしと自然」として選定された北海道遺産とは・・・次の世代へ引き継ぎたい有形・無形の財産の中から、北海道民全体の宝物として選ばれた。第1回選定分25件は2001年10月22日に決定・公表された。北海道の豊かな自然、北海道に生きてきた人々の歴史や文化、生活、産業など各分野から選ばれた。そして、北海道遺産構想推進協議会は北海道遺産構想を以下のように述べる。
 「掘り起こされた宝物を地域で守り、育て、活用していく中から新しい魅力を持った北海道を創造していく道民運動。多くの北海道遺産には、北海道遺産に深く関わりながら活動する「担い手」が存在し、官主導ではない北海道遺産構想の象徴となっている。手を触れずに眺めるだけのものではなく、地域の中で活用しながら人づくりや地域づくり、観光促進をはじめとする経済の活性化につなげていくことこそがこの構想の最大の狙い。」
 北海道をこよなく愛する私は、この構想に強い共感と興味を抱いた。そこで2ケ月を北海道で過ごそうと計画していたこの機会に「北海道遺産」を回ってみようと考えた。この記録は私の見た「北海道遺産」(25)である。


大自然
霧多布湿原
 ここはその名の通り春から夏にかけてしばしば深い霧に閉ざされる。湿原も海岸段丘の草原もその霧に潤って花が咲く。霧多布湿原は、海岸線から広がる約3100haの国内3番目に大きな湿原で、国内最大級の花の湿原としその美しい雄大な景観が親しまれている。中央部には天然記念物の泥炭形成植物群落地を抱え早くから学術的な価値が評価されてきた。また生物や渡り鳥などにとってもこの自然環境が貴重なものとして1993年にはラムサール条約にも登録された。
 今年私がはじめてここを訪れたのは6月22日。ワタスゲが風に揺れていた。霧多布湿原センターのフラワーツアーで案内していただいた。センターのあたりと国道沿い、そして岬のあたりでは季節の到来、花の咲き方がそれぞれ10日ほどずれるそうだ。岬では春一番に咲くオオバナノエンレイソウが白い大きな花を咲かせていた。湿原ナショナルトラストに入会を申し込んだ。
 2度めは7月9日、エゾカンゾウ祭りをしていたが、湿原をまっ黄に染めるというエゾカンゾウは寒さのためまだ咲き始めたばかりだった。
石狩川
 「北の大地の母なる川」と呼ばれるこの川は、大雪山系石狩岳にその源を発し、層雲峡、銀河の滝、流星の滝を流れ旭川に至る。一大平野を形成し、さらに雨竜沼湿原、多くの三日月湖を残し、石狩で日本海に注ぐ。開拓のなかで人々に命の水をもたらし、重要な交通・輸送の道でもあった大河の歴史は、また度重なる洪水との戦いの歴史でもあった。
 石狩川の名前の由来は、「曲がりくねった川」を意味するアイヌ語の「イ・シカラ・ベッ」からきている。画像は、蛇行しながら旭川の人々の生活にとけこんで流れる石狩川を嵐山公園展望台から撮ったものである。流域面積は、北海道総面積の5分の1、流域内人口は北海道総人口の半分以上を占めるまさに「母なる川」である。どこを走っても石狩川と出くわすといった感じである。旅の終わり頃、石狩浜のはまなすの丘公園で「石狩川河口」の標柱の前に立った。
ワッカ原生花園
 サロマ湖とオホーツク海の間に伸びる砂州は、国内最大規模の海岸草原である。
 6月19日ここを訪れ、自転車でワッカまでの道を往復した。大町桂月が「龍宮街道」と名づけた道の両側に広がる草原にはスカシユリ、キスゲ、ハマナス、センダイハギなどが今を盛りと咲き、風を感じながら自転車を走らせるのは爽快であった。ワッカというのは、アイヌ語で「真水のあるところ」という意味で、砂州の真ん中あたりに真水の湧き出るところがあり、「ワッカ花の聖水」と名づけられ、原生花園のシンボルとなっている。サロマ湖は海とつながりまわりは全部海水。そこになぜ真水が湧き出すのか不思議だ。もちろん一般車乗り入れ禁止の原生花園には、観光用の馬車、自転車、散策する人、そして夏はバス、それぞれに花を楽しむ。冬ここを訪れたことが数度あったが、冬もまたよい。歩くスキーで砂州を走り,海岸に出て流氷と遊ぶのである。
摩周湖
 神秘、透明、霧のベール、摩周ブルー、人々の憧れを誘う「摩周湖」である。摩周湖はカルデラ湖で、吸い込まれるような世界有数の透明度で知られ、入る川も出る川もないのに水位が変わらない。めったに全容を見せない神秘性はさらに人々を魅了し、自然を司る神々の意志を感じさせる。摩周ブルーの深い青は、透明度と生き物がほとんど生息できないような水温の低さによって作りだされるという。
 近くの屈斜路湖のほとりで延5ケ月あまりを過ごしたので、四季を通して何度も摩周湖にいった。ある時摩周湖を訪れた。その日は快晴で湖は真っ青でたいへんきれいだった。すると観光客の一人が「霧がはってない!!」と嘆くのである。あきれた。第1展望台も第2展望台もそれぞれの趣があっていい。画像は私の最も好きな裏摩周で摩周岳は霧のベールで覆われていた。別の日、西別岳から見た摩周岳と摩周湖も忘れられない。裏摩周にある「神の子池」、摩周湖の水が地下水となって湧き出ている池である。その水は吸い込まれるようなエメラルドグリーンであった。
 記念切手が発行されている。 
伝承・文化
姥神大神宮渡御祭
 姥神大神宮は1447年に造営されたという。
 京都祇園祭の流れをくみ、古の歴史を語り継ぐ「北海道を代表する祭」とも「江差人の心」ともいわれる姥神大神宮渡御祭が8月9日から3日間盛大に行われ、町は祭り一色に染められるという。神輿4基に華麗な山車(やま)が13台も供牽する形式で、近世から続く伝統の夏祭り。雅やかで豪壮なこの祭りは、町の人たちの心意気で守り続けられてきた。北海道で最も古い祭りで、1750年代京都から日本海経由で山車が、祭りの中心の人形も北前船で送られてきた。山車の起源はインドでここが一番北に達した山車。ニシンやヒノキ材をはじめとした日本海交易で得た莫大な財力を背景に豪商たちが贅をつくした山車を個人で町内にもたらした。北海道指定文化財になっているものもある。神功山神功皇后の人形は道有形民俗文化財になっている。江差はその最盛期には3000隻のニシン船で賑わったという。この祭りはまさにニシンが育てた祭りといえよう。
 ここを訪れたのは6月4日、若い神官さんが姥神大神宮の由来を詳しく話してくださった。
 ある日、どこからともなく一人の姥が江差へやってきて津花の地に草庵を結んだ。当時蝦夷地は冷涼で作物もあまりとれず、餓死する者も出る状況だった。そんな中で姥は天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになった。とある夜、神島から虹のような光に草庵が照らされた。不思議に思い尋ねてみると、白髪の翁が岩の上に座り「汝の来たれるを待てり、機正に熟せり」と言って小瓶を与え「この瓶中に水あり、之を海中に点ずれば鯡という小魚群来するに至るべし、之を以て島人の衣食住の資とすべし。吾汝と共に島人を永く護らん」と告げて焚き火と共に消えた。折居様が教えられたように瓶子の水を海中に注ぐと、海水が白色に変わりニシンが群来して人々を飢えと寒さから救った。やがてこの折居様も草庵に五柱の御神像(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)を残したまま姿を消すが、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀った。正保元年(1644年)には津花の地から現在地に遷宮し、渡御祭はこの頃から行われたと考えられる。
 「江差姥神大神宮渡御祭 祭図録」を購入した。カラー写真が豊富で華麗な祭りの様子がよく分かる。画像は姥神大神宮にある山車の模型。
アイヌ文様
 自然のすべてに神を見出していた民族は祈りの言葉を文様に託した。アイヌの着物の多くに襟や裾、袖口などに文様が刺繍されている。それは邪悪なものの侵入を防ぐためだという。神が宿る自然を敬い神と対話することで自然と共存してきたアイヌ民族。この魔除けの意味があるとも言われるアイヌ文様を最近その伝統を大切に守りながら新たな作品の創造に取り組む現代の作り手たちに注目が集まっている。独特のパターンと色合いに魅せられるファンも数多い。アイヌ文様を構成する基本的なモチーフは、「モレウ」(渦巻文・モは静か、レウは曲がる)と「アイウシ」(括弧文)であり、その組み合わせと変化によって無限のバリエーションを生み出す。私もアイヌの友人に教えてもらって、ハンテン、マタンプシ、手甲、手提げ袋、テーブルクロス、コースターなどたくさん作った。
 画像は、二風谷の萱野茂博物館である。
 マンローコレクション(スコットランド博物館)で有名なマンローはその婦人とともにこの二風谷の地で眠る。
 摩周湖とセットで記念切手も発売された。
アイヌ語地名
 北海道の地名はほとんどがアイヌ語に由来する。今はカタカナや漢字で表記され、原音と異なる場合もあるが、本来はアイヌ民族の自然と調和した伝統的な生活の中から歴史的に形成されたすばらしい財産だ。アイヌの人たちは、動物や植物、自然そのものも自分と等しく尊い「魂」の宿る相手として見る。自然を総体でとらえ、人間とは別の存在と離れて見るのではなく、その一つひとつを自分との関係として知覚できる心の豊かさ。一つひとつが神であり、家族であり、友人であり、自分自身でもあって、だからそれぞれと、それぞれの関係にふさわしく互いを尊重する付き合い方が、やろうと意識しなくても当たり前のようにできる。21世紀は環境の世紀といわれる。「自然との共生」「自然と調和して生きる」というフレーズをよく目にする。北海道は「アイヌモシリ」(アイヌの静かな大地)。新しい時代にふさわしく「自然の利息の範囲内で食べていく」というアイヌの人たちの生き方に触れることが、きっと大きな手がかりになるだろう。
 松浦武四郎著 丸山道子訳 天塩日誌のあとがきに次のように述べられている。
「・・当時武四郎が記した片かなのアイヌ地名と、現在の漢字とを照らし合せて、この点と点を眼でつなぎながら、彼の足跡を追って行くと、ふとある地点から地名が和名に変っていて、そこからは彼の足跡がぷっつりと絶えてしまう、といった感じになることがよくあって、そんなときには云いようのない腹立たしさを感じるのであった。そして朝日、豊,富、円山、平和、大正、共和、そうした字の地名がやたらと多いことにも気付かされた。昔、開拓に入った和人は、自分の生涯の地になるであろう土地、骨を埋めるだろう土地に、そうした名を付けたのも無理はないとも思う。また遠い本土の故郷をふり捨てて、もはや本土には戻るまいと決意してのことであったろう、その心情は悲壮とも、哀れともいえようが、一方では幕末の堀奉行をはじめ、武四郎などが、「北海道の地名は、出来るだけアイヌが従来呼び馴わしたままを、ひら仮名でも、かた仮名で書いてもいい、そのままでおくべきである」と云っているのとはうらはらに、住民であったアイヌの気持など無視した、和人のエゴイズムが、むき出しになっているように思えてならなかった。」
 画像は、アイヌ文化博物館で見た遺産指定の書と北海道環境生活部発行の「アイヌ語地名リスト」の表紙。
 
歴史的建造物
留萌のニシン街道(佐賀番屋、旧花田家番屋、岡田家)
 ニシン漁の象徴、番屋。留萌沿岸には見果てぬ夢を追いかける人々の記憶が残されている。ひときわ豪壮で壮大な番屋建築。春の限られた一時期に大量の労働力を必要としたニシン漁が生み出した北海道独特の民家形式だ。典型的な間取りは、中央のニワ(土間)を挟んで、贅をつくした親方の居住部と雇い漁夫のためのダイドコロと呼ばれる広い板の間、ネダイ(寝台)に分かれる。むき出しの梁と大空間はそのスケールで人々を圧倒し、ニシン漁のダイナミズムを伝えてくる。
 先ず訪ねたのは苫前の岡田家(旧海淵家)。(画像左上) 明治19年建築。中規模の番屋であるが、軒高が高く入母屋屋根の堂々とした建物。中央に二間幅のニワを挟んで台所、座敷があり、台所にはコの字型の寝台がある。ここは現在岡田水産を営んでおられ、松阪へも甘エビを送っているとのこと。またこのあたりへは伊勢の長島町から入植した人があり、今も長島の学校と交流があるということであった。
 次は小平の旧花田家番屋。(画像右上)隣が道の駅になっていていつも賑わっている。明治38年頃の建築とされ、昭和46年に重要文化財に指定され復元された。寄棟造りである。花田家は明治21年からニシン漁をしていたという。全盛期の花田家は18カ統を経営し、漁夫も500人を越したといわれる。その迫力ある番屋建築は道内に現存するものでは最大規模の魅力あふれる民家。しんとした広い板の間に立つと、ニシンの群来る浜辺に喧騒をきわめる漁夫たちの声が聞こえてくるようだ。
 続いて留萌の佐賀番屋。江戸末期で、残っている番屋の中で最も古い。番屋はやや小さいが、船を入れる大きな倉庫があったり、小高い山の上に稲荷社があったり、海から続くこのあたり一帯が番屋を形成していただろうことが偲ばれる。
増毛の歴史的建物群(駅前の歴史的建物群と増毛小学校)
 鉄道終着駅の近くに明治初期から営業を続けてきた豪商旧商家丸一本間家をはじめ、昭和初期の駅前旅館、商店が並び、ニシン漁全盛時代の繁栄を偲ばせる、道北部ではほとんど唯一といってよい歴史的街並みを残している。
 最初に訪れたのは、市街背後の高台にある増毛小学校。昭和11年に建築されたもので、戦前期の都市型木造校舎の中で現在に至るまで大切に使われている道内最古のもの。木造、下見板張りの校舎は、「特に三角形を基本とした綺麗な木造トラスで組まれた体育館の屋根、それを支える連続した三角の控え壁が特徴的である。」 校舎の後ろに増毛の山々を従えて建つ校舎はまさに増毛の顔、原風景として、地域住民の心のよりどころとなっている。
 駅舎も歴史を感じさせるが、その前の富田屋旅館(昭和8年築)、風待食堂(画像下)、その他数軒の旅館が賑わった往時のようすを髣髴とさせる。
 北海道指定有形文化財の商家丸一本間家はさすが堂々たる構えである(画像中)。明治初期、ニシン漁で沸く増毛の地に佐渡出身の青年が居を構えた。明治15年のことで、初代本間泰蔵である。泰蔵は荷車での行商にはじまった呉服商人であったが、その優れた才覚と行動力でやがて現在の総合商社に匹敵するほどの多角経営で天塩國随一の豪商と呼ばれる本間王国を築いた。。その拠点は町屋様式の豪壮な建築物で約20年の歳月を要し、明治30年代に完成した。本間家旧呉服店舗、本間家旧住宅がある。また日本最北の酒蔵、國稀醸造元、元陣屋などを見て歩いた。 
 
ピアソン記念館
 開拓者たちが荒れた土地を切り開き、炭坑夫たちが地底から黒いダイヤを発掘したように、疲れた心に道を拓き、そこに希望の光りがあることを説いた夫婦がある。ピアソン夫妻である。
 ピアソン記念館をかつて活動の拠点としたピアソン宣教師は、明治から昭和始めにかけて宣教師として40年間にわたって日本に住みその大半を北海道での伝道に捧げた人である。特に帰国前の15年間は野付牛(現北見市)に住み、開拓間もない最果ての地にあって開拓民とともに暮らし、地域の精神史に多大な影響を及ぼした。伝道活動の中心となった三柏の森を訪ねた。記念館は小高い丘の上に静かな佇まいを見せていた。室内もいかにも伝道の拠点らしく質素で落ち着いた雰囲気であった。静かな時が流れた。
 なお館の設計者は、ヴォーリズであるという。ヴォーリズは終生日本に住んで日本の建築史に大きな足跡を残した建築家である。
函館山と砲台跡
 函館の美しい夜景を見ることで有名な函館山は、花の名山でもあり、津軽海峡を臨む全山に鎧を纏った要塞の山でもあった。自分の足で歩いて、目で確かめることの大切さを思い知った。私たちは歩くために「ふれあいセンター」に寄り地図をいただいた。この地図はたいへん役にたった。つつじ山駐車場に車を止めて、旧砲台跡に登った。その看板には「この場所は函館山が1899年(明治32年)から1945年(昭和20年)にかけて津軽要塞だった頃、約77箇所あった要塞施設の一つで、函館山第2砲台として口径28センチ榴弾砲(総重量24トンともいわれています)4門が据え付けられていた跡です。」と書いてあった。地下施設もありすごい要塞であった。その後入江山要塞や千畳敷にあるたくさんの要塞を見た。大きな蔵のような弾薬庫や、戦闘司令所、まるで万里の長城を思わせるものがあった。御殿山要塞は、STVの建物の裏、展望台から自家用車駐車場への道路の下にあった。すごいものを見たと思った。また要塞があって全山立ち入り禁止になっていたから函館山には手付かずの自然が残った。今、この自然をそのまま残そうとする活動が始まっている。
 2005年3月30日、朝日新聞の「声」欄に四日市市の岡本そのみさん(81歳)の投稿が掲載された。それを以下に引用したい。・・・戦況が悪くなっていたころ、津軽海峡にアメリカの艦載機が侵入し、室蘭などを攻撃し始めました。当時の室蘭は、軍需工業の町だったのです。室蘭の方角から真っ黒な煙が立ち上っているのを、胸が締め付けられる思いで見ていました。なのに、函館要塞からは一発の砲声も聞かれなかったのです。終戦のラジオ放送が流れて、戦争が終わったとき、要塞のバラ線を踏み越えて要塞の中に入って行きました。そこにはたった一つ、木の大砲が置かれていただけでした。それが函館要塞の姿だったのです。ああ・・・
稚内港北防波堤ドーム
 稚内港のシンボル的存在の建造物で、昭和6年(1931)から同11年(1936)まで5年の歳月をかけ建設されたものである。稚内は、日本海とオホーツク海がぶつかり四季を通じて強風が吹く波高いところ。高波は当時かろうじて完成された5.5mの防波堤をも易々と越えて岸壁にいる乗船客を襲い、時には海に転落する事故もあったことから波よけが必要となり造られた。胸壁をかねる円蓋を持つ蒲鉾を縦に半分にしたような半アーチ形のデザインはこの強風と高波を克服するためのもので、高さ13.2m、総延長427m、柱の数は70本である。昭和13年(1938)には線路がドームの内部にまで延長され、ドーム内部に2階建ての稚内桟橋駅が設けられたため、列車を降りた乗客が雨等に濡れずそのままタラップで乗船できるようになった。北防波堤ドームは、樺太へと渡る人々で賑わった頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築を想わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は世界でも類のない建築物として内外の注目を浴びている。半世紀を経て老朽化が著しかったため、昭和53年(1978)から全面的に改修工事が行われた。また昭和63年(1987)には、ドーム手前の護岸部分に道内でも数少ない散策歩道を設置したモダンな遊歩道「しおさいプロムナード」が誕生した。稚内市の花・ハマナスをイメージしたモザイクタイル張りになっており、潮風を浴びながら散策する観光客の姿が見られる。私たちも427mのドームを歩いて往復した。この日、柱に取り付けられた96球の電球の清掃と取替え工事がなされていた。
北海道大学 札幌農学校第2農場
 重要文化財「札幌農学校第2農場」のパンフレットには、北海道畜産発祥の地・洋式農業普及の原点・最古の洋風農業建築・明治初期の洋式建築・北大発展の生き証人の文字が並ぶ。ここは非公開であるが、この日は運良く北海道大学の学園祭であったため建物の内部を含めて公開されていた。私たちはゆっくりと丁寧に見学することができた。ほんとうに幸運なことであった。パンフレットはさらに詳しく述べる。
 ここは、明治9(1876)年9月13日、W.Sクラーク先生の大農経営構想によって、一戸の酪農家をイメージした北海道開拓の模範農場として発足した。模範家畜房(モデルバーン)と穀物庫(コーンバーン)は、明治10(1877)年秋に落成して日本最古の洋式農業建築、ツーバイフォー構造など希有な構造物として建築学的にも貴重なものである。ここで飼育されてきたホルスタイン種は、今日まで100余年も血統が維持されて雌雄毎に1050産を超えたが、その中の優良種は北海道の基礎牛となって酪農の発展に貢献した。また、収蔵する農機具類は、北海道開拓当初からの標本を揃え、洋式農法の受容経過を知る上で貴重な資料である。これら歴史的・学問的価値によって昭和44(1969)年に国の重要文化財に指定された。
 クラーク博士はマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれた。北海道の景観がマサチューセッツに重なるのはクラークが自らの愛する心の原風景をこの地に焼き付けたからに違いない。フロンティアスピリットが拓いた北の大地、ここに北海道の原点がある。

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