奈良から伊勢までを歩く 2
 伊勢本街道のなかで一番最初に歩いたのは伊勢奥津から飯南町深野までのいくつもの峠越えの道であった。古よりたくさんの人々が辿った道にさまざまの想いをはせ、またその土地土地で出会う人に話を聞きながら歩く楽しさにすっかり魅せられてしまった。
 すでに山の辺の道を奈良から桜井まで歩いてあったので、桜井から初瀬街道を長谷まで辿り、そこから伊勢本街道を伊勢奥津まで歩くことにした。伊勢本街道は大和の萩(榛)原からはじまる。ここに、萩原・赤埴・田口・山粕・桃俣・土屋原・菅野・神末・杉平・石名原・奥津の村々が続く。
 ただ伊勢本街道は、他の道でもそうなのだが、今はその多くが舗装されていて、ここを歩くのは足にこたえる。

初瀬・伊勢本街道 
     桜井から伊勢奥津まで
 
 
 「家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。よき人ののどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、ひときはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きららかならねど、木立ものふりて、わざとならぬ庭の草も、心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔おぼえて、やすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。」思わず徒然草の一節がうかんだほど奥ゆかしい家が点在するそれは美しい里々を通る街道であった。


桜井から初瀬街道を長谷へ 長谷から榛原へ
榛原から高井へ
 近鉄桜井駅から山の辺の道につなぐため仏教伝来之地碑のある海柘榴市まで戻った。ここからいよいよ初瀬街道をたどる。観光案内所では「あまりお勧めできるような楽しい道ではない。」と言われたが、私には私の目的があることを話す。
 大和川(初瀬川)の流れに沿って歩き、国道を渡り、慈恩寺の追分から旧街道に入った。ここから右に辿ると「談山神社」の標識が見える。古式ゆかしい「蹴鞠」を見に行ったことがあるが紅葉のすばらしい神社である。左に折れると旧街道らしい落ち着いた家並みの道が続く。
 街道をそれ春日神社に上ってみた。はじめて見る華やかで立派な注連縄がはられていた。この春日神社は脇本遺跡の前にある。
 白山神社に立ち寄る。雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったという。雄略天皇の万葉集第一首目の歌碑がある。この歌が万葉集最初の作というので「万葉集発燿讃仰」の碑も建っている。
 本居宣長の「菅笠日記」に「此くろざきに 家ごとにまんぢうといふ物をつくりてうるなれば かのふりにし宮どもの事 たづねがてら あるじの年おいたるがみゆる家見つけて くひに立よる」とある黒崎に入った。探したがあいにくまんじゅうやはなかった。
大和出雲人形
 約二千年前垂仁天皇はその皇后の葬儀に先だち殉死の遺風を改めようと、当麻蹴速との相撲で出雲の国より大和に召し出されていた野見宿禰の「土の人馬や種々の形を造りこれに変えられては」との意見を取り上げられた。野見宿禰は出雲の国より土部百人を呼び寄せ土師連として今の桜井市出雲に住み土偶製作に当たった。こうして造られたものが後の埴輪と言われている。その後出雲には土偶を造り販売する家がたくさんあり長谷詣りの土産物として売られた。農閑期の手作業としていたのである。しかし明治末期交通機関の発達に伴い訪れる人も少なくなり製作も杜絶の状態であった。そこで窯元であった水野家では昔そのままの技術を活かし再興を図ることになったという。水野佳珠さんの工房にお邪魔してお話を聞いた。後継者である佳珠さんは「素朴であり野趣味に富む昔を偲ばせる数々の人形は、その源が遠く大和時代の埴輪に始まり連綿として伝わっていることを思えば誠に誇り高い郷土民芸品」と熱く語られた。画像はその際分けていただいた土人形である。 
 出雲には十二柱神社がある。ここの石段上り口に相撲取りの人形の形をした珍しい狛犬の台石がある。また野見宿禰の五輪塔もある。しばらく行くと長谷寺の賑やかな門前町に入る。宣長にあやかって「元祖くさ餅」の看板のある店でくさ餅を食する。
長谷寺 真言宗豊山派の総本山であり西国三十三ヶ所の第八番札所。右手に錫杖を持つ珍しい十一面観世音菩薩(重文)は室町時代に作られた高さ10mのわが国最大の木造仏である。四季を通じて桜、牡丹、紫陽花、紅葉、寒牡丹が楽しめる「花の寺」でもある。
 長谷寺門前町では元祖くさ餅やでくさ餅を食べた。もっとも土地の人に聞いたら「どこでも元祖だ」そうである。この店の角の「みぎいせみち」の道標に沿って伊勢辻橋を渡りすぐ左の坂道を登った。この坂はたいへん急で私には伊勢本街道の中でも随一の難所であるように思われた。ここが化粧坂(けはい坂)である。峠から少し右に入ったところから長谷寺が美しく見えた。峠から下り与喜の集落を過ぎると驚いたことに小さな「いせ・はせ」の木標があり本街道は田の狭いあぜ道となり桜井浄水場下の国道165号へと続いていた。本居宣長の「菅笠日記」「・・・けはひ坂とて さがしき坂をすこしくだる 此坂路より はつせの寺も里も 目のまへにちかく あざあざと見わたされるけしき えもいはず・・・あらぬ世界に来たらんこゝちす よきの天神と申す御社のまへに くだりつきて・・・」とある。引き返しこの記録の通り与喜天満宮へと辿った。土地の人に聞くとこちらの坂道は「上けはい坂」と言うそうだ。参道の下の鳥居の横にある「ひだり いせみち」の道標は位置が違っていると思われる。この下の赤い橋が「天神橋」である。
 国道へ出るとゆるやかではあるが長い長い登りである。
 交通の要所である榛原にはいると、とたんに道がわかりにくくなったが享保年間に作られたという西峠の道標をようやくにして見つけ、そこから宿場のあったところへ下った。菅笠日記に「こよひも又萩原の里の ありし家にやどる」とある旧旅籠「あぶらや」には「本居宣長公宿泊」の木札がかけられていた。萩原の辻はこの三叉路にあたり近世の高札場でもあったので「札の辻」とも称していた。この辻の東南角に、西面「右いせ本かい道」と刻まれた大きな石の道標が立っている。大きな太神宮の石燈籠もある。
墨坂神社 日本書紀にすでに記されているこの神社は、奈良の春日大社の本殿を移築したもので、朱の色が緑の木々に映えて美しい。
 檜牧には道端に「右いせみち寛文四年」と花崗岩の自然石に刻まれた道標がたっている。今のところ日本最古の道標とのことである。市場垣内の浄土真宗・真木原山と号する真光寺を右手に見てさらに南下する。
 奈良県の天然記念物ツルマンリョウの群落がある御井神社の前を通り自明に入る。古い看板がかかっている「きざみたばこ」やを過ぎ、不動堂の前を通り道標に従ってすぐ坂を登ると民家の庭先に出た。この家の主婦に高井への山道を尋ねたら、「たまに山仕事の人が通るだけでたいへんわかりにくい。年末に団体で歩いて伊勢参りするときは下見の人が草刈りをし道を整える」とのことであった。この山道を国道を左手に見下ろしながら越えた。ところどころ草に埋もれているところもあったが、踏み跡は続いていた。
 とうとう高井の辻に着いた。ここは伊勢本街道と仏隆寺、室生寺の追分である。本居宣長は「この道より 室生は程ちかしときけど 雨ふりまさりて 道もいとあしければ えまうでず」と記している。
 高井から奈良交通バスで近鉄榛原駅に戻った。
高井から山粕へ
 「これよりかへるさは 道かへて まだ見ぬ赤羽根ごえとかいふかたに物せんといひあはせて ともなるをのこに かうかうなんといへば かしらうちふりて あなおそろし かの道と申すは すべてけはしき山をのみ いくへ共なくこえ侍る中にも かひ坂ひつ坂など申して よにいみしき坂どもの侍るに 明日は雨もふりぬべきけしきなるを いとどしく道さへあしう侍らんには おまえたちの いかでかかやすくは越給はんとする さらにさらに ふようなめりといふをきけば 又いかがせましと みな人心よわく思ひたゆたはるるを 戒言大とこひとり いなとよ さばかりおそろしき道ならんには 絶てゆく人もあらじを 人もみなゆくめれば なにばかりのことかあらん 足だにもあらば いとようこえてんと つゆききおぢたるけしきもなく はげましいはるるにぞ さは御心ななりとてをりぬ」と宣長が強いて望んだ道である。私も山越えの寂しい道を覚悟していたのだがなんとものどかで美しい。8回に分けて歩いた伊勢本街道のなかで私の一番気に入ったすばらしいコースであった。「けふは はいばらよりこなた いづこもいづこも ただ同じやうなる山中にて 何の見どころもなかりしを」とも書いているが、家々の佇まいも奥ゆかしく心が和んだ。
 高井は内牧川と矢谷川の合流点に位置する集落でかつては参宮客の往来で賑わう宿場として栄えた。旅籠を営んでいた名残をとどめる民家が今なおいくつも軒を並べている。高井の辻を左折して山道へ向かう。しばらく行くと真楽寺伊豆神社があり、桜で有名な佛隆寺や室生寺への道を分ける。この分岐点から室生寺案内の絵馬を玄関の軒下に掲げてある宮田家を見ながら杉木立の急坂を登る。前方にがっしりとした石垣が見える。石垣の間から屋敷の庭に立っている榧の大木の枝が街道の上まで大きく張り出してきている。樹齢六百年だという。古くは庄屋だったという松本家だ。その後人も馬も泊まれる旅籠であった。二百五十年にわたって昔のままで維持されている庇を支える重厚な梁が軒下に長く渡り風格のある民家だ。
 さらに進むと前庭に色とりどりの花が咲き乱れるこれまた大きな民家があった。「休んでいきなさい」の声に誘われて、家の中を見せていただく。ここにも大きな梁と高い天井があり驚く。
千本杉 「遠望すれば一団の森のよう」と紹介される樹高30mの杉の巨木である。丈が高いというだけでなく、連理になっていること、それも一つの樹根が地上1mほどのところから16本の枝幹になって四方に大きく張り出していることが壮観である。根元に井戸がある。つまりこれは井戸杉なのである。井戸は今は枯れているが弘法大師も飲んだという霊水で、伊勢街道往還の人たちも喉を潤したことだろう。千本杉の樹齢は五〜六百年と推定され、国の天然記念物に指定されている。坂のすぐ上に千本杉を守り神とする大和棟の民家津越家がある。本陣であったらしい。ここは赤埴の宿津越の辻はその中心である。ここに万葉集の歌碑があった。
 山中の道を辿っていくと関所跡に出る。
諸木野関所 伊勢本街道には多くの関所が設けられていた。角柄から諸木野石割峠までの12kmにも、角柄関萩原関(井足関)高井関壱名関下司名関大久保名関がある。諸木野関もその一つである。それぞれの荘園領主が経済政策のひとつとして関税(通行税)をとるために設けたが、当時の旅人にとってはたいへんな負担であった。
 山中を抜け切ったところで私たちは「あっ」と声をあげた。桜をはじめとするたくさんの花木が満開に咲き誇る諸木野の里に出たのである。そこはまさに桃源郷であった。江戸時代旅籠が9軒もあったというが、大きな家が点在する。道を少し外れたところに五輪塔のならぶ諸木野弥三郎の墓所があった。織田信長の大河内城攻めにあたり、弥三郎は強弓をもってこれに抗戦した。信長公もその矢に褒美を添えて送り返したという。
 大乗寺愛宕神社を過ぎ、いよいよ急な登りの細い山道である。登りきったところが石割峠。榛原町と室生村との境界で峠を越えると室生村田口である。峠をしばらく下ったところに立派な石の道標が立っている。下りた上田口も美しい里であった。室生寺への分岐点でここにも数軒の旅籠が建ち並んでいたという。室生寺へ行くなら血原橋のバス停からのバスがある。伊勢本街道はここまでは下りず、塀越に松の巨木が見える元旅籠松やさんの前を通る。ここでこの家の枡井栄おばあさんにお話を聞いた。80歳になるが「もの心ついた頃は旅館はしていなかった」そうである。いまは橋が朽ちてしまい渡れないとのこと。枡井さんの家の蔵の棟木には「安政五年と書いてある」とのこと。安政五年といえば私が伊勢までの街道歩きの出発地とした奈良の道標が立てられた年であり、驚いた。また別の土地の方によれば、街道はどの旅籠の前も通るので「めんめん坂」(面々・各々の意)というそうだ。浄土真宗の専明寺の境内を通り抜け道標に沿って山をくだる。
 県道をしばらく行く。伊勢本街道の大きな標識に惑わされずさらに県道を行くと、弘法大師作の不動尊を納めたお堂に詣で県道に戻り少し進む。黒岩の滝のところから上ると改修された村道に出る。黒岩の集落は黒岩川右岸の南面する斜面に点在する。明円寺がある。黒岩の枝村であった宮城への分岐点に菅野村行悦の道標がある。ここからは杉山の山すそを伝う細い山道で、途中に「南無阿弥陀仏」の六字名号碑がひっそりと佇んでいる。
 1kmほどで分岐し山粕峠へ上るかなり急な細い山道となる。山粕峠は木立のなかに明るく開けていた。
 くもの糸伊勢講の背に吹き流れ 宇佐美魚目
の句を木片に記し立ててきた。山粕峠は林道がつくまでは山粕から黒岩の水田へ耕作に通っていたが、今は旧道も細り山粕側の杉山の中に峠茶屋の屋敷跡が残っているのみである。
 旧佐田神社前から国道になった本街道を山粕川に沿って下ると「元伊勢街道旧問屋屋敷跡」の石碑がある。このあたりが賑わった山粕の宿である。
 山粕東バス停から三重交通バスで近鉄名張駅に戻った。
曽爾村山粕から御杖村敷津へ
 美杉村太郎生から車で敷津バス停まで行き、そこから御杖村ふれあいバスで曽爾村掛西まで乗せていただく。このときは乗客が私たち二人だけで、観光案内までしていただいた。ちなみに料金は一人200円。また乗りたいバスだ。ここから山粕の鞍取峠登山口まで約2kmを歩く。
 鞍取坂への上り口に、手向い地蔵一体「南無阿弥陀仏」「いせみち」が読める石碑が建っている。鞍取坂は伊勢本街道の難所で山粕と桃俣を1.5kmで結ぶが、勾配がきつく伊勢に向かった倭姫命が御神体を載せた馬の鞍をはずされたという峠である。相当の覚悟をして登ったがさしたることもなく鞍取峠に着いた。北畠氏の山塞である八辻城(掛城)へは今はもう廃道になっているらしく探せなかった。峠を下ると御杖村桃俣である。途中に宝永八年(1711)銘の「浄空欣了法師」の石塔がある。さらに下ると「白髭稲荷大明神」の社がある。桃俣は伊勢本街道と吉野道の交叉点で宿場町として栄えた。道端で土地の女性から「おいでませ」と声をかけられ感激する。
 町屋辻で旧道の隠地橋を渡り国道369号線へ入り和合橋を渡ると曽爾川沿いに長く伸びた土屋原である。
 土屋原の春日大社の前に出る。この境内には普通の葉に混じって筒状になった葉が付いている珍しいラッパイチョウの大木があった。
 堂前垣内の三叉路が櫛田川上流域の川俣地方への分岐点で「南かばた 左いせ 右はせ」の道標が残っていた。土屋原も宿場町である。山すそでお弁当を食べていたら、今朝乗ったバスが戻ってきて合図を送ってくれた。そういえば今朝「途中で何度も会うだろうから、疲れたらまた乗ればよい」と言ってくださったのだった。嬉しいことである。
 北京橋の近くに庚申堂がある。少し行くと国道に沿って桜峠へ上る地道の旧道がありそこを上る。桜の木が多く峠茶屋が置かれていた桜峠は数本の桜と小さな祠があった。円形校舎の御杖小学校の裏を通って国道に出る。
 桜峠から蛇行しながら前谷垣内稲荷社前を通り、倭姫命が西川の岸の神代杉に馬を繋いだという駒繋橋に出た。ここに天保三年(1832)銘の太神宮灯篭「左いせみち 右はせみち」の道標がある。このあたりが菅野宿の中心である。
 街道を逸れ少し北に行くと庄谷の山裾に禅宗の山門が見える。平安時代に弘法大師が建てたと伝承する宝涌山安能寺である。農作業中のおじいさんが「桜のきれいな寺や。その頃またおいで」と言ってくださる。
 御杖中学校を過ぎると四社神社で倭姫縁の宮と記されている。天然記念物の菊花石があった。
 東郷垣内を抜けると「伊勢本街道 右旧ちか道 左新」の道標がある。ここから菅野川を渡り、目なし地蔵を左に見て牛峠へ上る。国道を横切って神末の宿へ下っていく。西町辻で上村への南北道と交叉し文政九年(1826)建立の太神宮灯篭の基壇に「右いせみち」と刻んである。この辻を南に向かうと御杖神社である。街道は神末大橋を東町へ渡り東禅寺の前を通り鳥居元橋から右折して佐田峠に向かう。東町の今西医院は近世の代表的な旅籠屋「いまにし」の建物で資料をたくさん保存しておられるとか。佐田峠は敷津の入り口で、首無地蔵が安置され、自然石に里程を刻んだ菅野村行悦の道標がある。佐田峠を少し下ると御杖村第一の水田地帯が広がる敷津である。追分といわれる太郎生への分岐路に「伊勢本街道 右 旧ちか道 左 新」の道標がある。近くに敷津七不思議の一つ「子もうけ石」があり、三本松茶屋と旅籠今出屋があった跡地に太神宮灯篭が建てられた。ここから街道から別れ敷津のバス停に戻った。 
 
御杖村の敷津から美杉村の奥津まで
 太郎生から三交バスに乗った。バス停で切符を買おうと思ったら「名張行きの切符はあるがここからバスで奥津へ行く人はめったにないので切符は置いていない」とのこと。変に感心する。ともかく敷津に着いた。ここから歩き始める。
 中子垣内の南の丘陵にある小さな社は木花咲夜姫を祭る権現社で、境内には石神の祠や石造物が無造作に配置された寺跡である。このあたりには敷津七不思議の「月見石」「夫婦岩」「弘法井戸」「金壺石」「姫石明神」「霊泉」や倭姫の手洗井戸などが点在し、それぞれにしっかりした案内板が付けられている。
 神末区の敷津の東外れの丘に丸山公園がある。この付近は大阪湾と伊勢湾へ水を分ける複雑な分水嶺になっている。丸山公園からの伊勢本街道は伊勢地川の上流の姫石街道という岩坂道を小屋へ下り、井ノ尻谷の県境を越えて美杉村の杉平に入って奥津へ通じている。
 岩坂道を東へまっすぐに下りると奇妙な陰陽石を祭祀する姫石明神の前にでる。
 大日さんと信仰される2m大の大日種子石柱は姫石より少し東に大きな笠石の屋根を付けた四本の石柱で囲んである。笠塔婆のようで石柱正面の月輪内に大日如来の種子を薬研彫にしてある。蓮台に宝珠を載せた石柱は六部経塚である。著名な寺社名や願主を刻んだ玉垣で囲まれている。美しい杉木立の中を下っていく。井ノ尻谷の橋を渡り曲がりくねった狭い地道を下ると杉平に出る。ここで井戸神さんを祀ってある家を見つけ話を聞いた。国道に出るところに自然石に「いせみち」と刻んだ道標がある。
 三多気は山桜で有名である。街道を左にそれると大洞山南山麓斜面に真言宗醍醐派真福院があり、その参道が桜並木になっている。桜の古木2000本が1km余の坂道の両側を埋めて山門に達している。国指定の名勝で境内のケヤキの老樹とともに天然記念物に指定されている。
 伊勢に入ると太神宮灯篭の文字が「太一」に変わったことに気づいた。「太一」とは天照大神つまり伊勢神宮のことである。このあたりに太一灯篭がたいへん多い。杉平払戸中垣内石名原瀬之原等にある。
 石名原の払戸の三叉路に「すぐいせみち」「右なばり 左はせ」の道標、山裾の旧道を行くと石名原宿(間の宿)を代表する旅籠であった中子家がある。中垣内には庚申場もあった。他にも街道のあちこちに石の道標があったり、水神があったりと石造物がたいへん多い。
 瀬之原の東外れから国道を離れ旧道に入り境橋を渡ると奥津宿である。屋号を染めた暖簾を掛ける商家の家並みが奥津宿の繁栄の面影を留めている。
 私たちは奥津から三交バスで太郎生まで帰った。

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