奈良から伊勢までを歩く 3
 

伊勢本街道 
 伊勢奥津から横野まで
 三重県には古来から伊勢神宮があったために多くの旅人が行き来した素晴らしい街道がたくさん残っています。その中でも私がもっとも好きなのは「歴史街道 百選」にも選ばれた「伊勢本街道」の一志郡美杉村奥津宿から飼坂峠を越えて多気(たげ)宿、町屋、立川の坂迎え場(資料によっては「サカムカエ場」「逆迎え場」)を通り仁柿峠を下って飯南町深野までの区間(ゆっくり歩いて七時間)です。今でも正月にこの道を歩いて伊勢参りをされる人々がおられます。
 距離が長すぎるときは JR名松線奥津駅 奥津宿→飼坂峠→北畠氏館跡庭園→霧山城跡→JR名松線比津駅(ゆっくり歩いて四時間)を歩かれてはいかがでしょうか。

 大和から伊勢を結ぶ最短距離でメインルートであった伊勢本街道の旧道は垂仁天皇の御世、倭姫命が神霊をささげて伊勢に向かう際に開かれたと伝えられています。そして奈良時代の大仏建立のときは勢和村丹生に産出した水銀を運ぶ道となりました。南北朝時代は南朝方の吉野と伊勢を結ぶ重要な軍事道路となりその中心は伊勢国司の北畠氏が本拠を置いた多気でもっとも栄えたときは国司館を中心に武家屋敷約二百戸寺院二〇寺人口およそ一万人にも達し夥しい物資が峠を越えて運び込まれました。しかしこの栄華も天正四年(1576年)に織田信長によって攻め込まれて燃え尽きました。時代が変わり江戸時代になり社会が安定するとともに伊勢参りが庶民の楽しみとなり旧街道は一部変えられまた整えられて元禄期から江戸末期さらに明治末期までごったがえす賑わいを呈しました。
 伊勢参りは江戸中期以降庶民の行事として盛んになりました。みんなで講を作り費用を積み立てて代表が参拝し帰って来る日は村境でお酒を用意して出迎えました。この伊勢講が始まったのは古く十四世紀中頃には記録があるようです。
 
 

松阪からのJR名松線奥津駅を下りて通りへ出るとそこは伊勢本街道の奥津宿
 街道を左へ。
 宮城橋を渡って須郷地区に入ると思わず「いい街道だなあ」と。随所にある説明板を読むのも楽しい。一見して旅籠とわかる建物があります。道幅が極端に狭い。それが街道の風情を醸し出しています。
 「どこまで歩くのですか」
 「深野までです」
 「今日は陽気はよろしいが気つけてえな」
 「ありがとうございます」
 素晴らしい雰囲気で須田剋太氏ではないが「今も此処にある民族の根源」のような気分になります。
 谷口地区に入ると常夜灯と山門に「円通寺」の扁額がかかっている正念寺があります。山門の左に見事な桜が。常夜灯には「太一」と刻み込まれています。「太一」とは天照大神」のことらしい。
 災難に遭った旅人を供養した首切地蔵を過ぎ国道へ登るとトンネル入り口の左に「伊勢参りして怖いとこどこか飼坂、櫃坂、鞍取峠・・・」と謡われた「飼坂峠への登り口があります。
 しばらく登ると腰切地蔵。道筋は早春からウグイスが。五月下旬からカッコウ、ホトトギスが鳴きます。
 
 畿内や大和から伊勢への最短距離の伊勢本街道の飼坂峠は「殊の外なんじょうなり」の峠で二軒の茶屋があり「ちから餅とて小豆のもちうる」がありました。
「参宮者はこの峠でお餅を食べたに違いない」と想像。今この峠に美杉村花しゃくなげが植えられています。
 旅人は「峠の下は今夜の宿の多気。もう近い」と大勢で威勢よく声を張り上げて伊勢音頭を歌いながら下って行きました。それを聞いて旅籠の人は途中まで出迎えました。情景が目に浮かびます。
 下り坂は季節になるとシャガの花で真っ白になるほどです。名水不如帰」で喉を潤し旅籠の人が待つ茶屋を過ぎるともう「下女あまた出てとめる」の多気宿
 江戸時代から明治末期まで毎日のように三十人から七十人もの団体が行き来し賑わったといいます。
 左へ行くと北畠氏舘跡庭園から霧山城跡を経てJR名松線比津駅へ。
 真っ直ぐ大橋を渡ると正月に家々の玄関が花餅となんてんの実で晴れやかに飾られる町屋の町並み。
 画像は花餅で飾られた大橋。花餅を磯田良子さんにいただいた。この花餅は鶯の初音を聞いた日に煎って食べる慣わしがあるそうです。
  花餅や柳はみどりはなの春 西鶴
 立川の流れを右にして歩いていたら川向こうの土手に見なれぬ大きな木がありました。たまたま家の前の小川で野菜を洗ってみえた男の人に聞きましたら「桑の木で実は小鳥の大好物」と教えていただきました。「ええ?桑の木がこんなに大きくなるのですか」。何年も何十年もいや何百年も旅人を見続けた桑の木に樹木と歴史の年輪を感じました。
 伊勢神宮を三百回参拝した誓願成就の「六部供養塔」がありました。この供養塔は長谷寺と伊勢神宮の中間。間もなく坂迎え場。多気の伊勢講の人々が二泊三日の伊勢参りを終えて帰るのを講中の一軒に一人ずつがその当日の午後この場所で酒宴を張って待った。一行が到着すると連れ立って伊勢音頭を歌い家路につく風習が戦前まであったそうです。
 歩き続けると国道に交差。離れたり沿ったり重なったりしながら仁柿峠へ。右側にある下り坂入り口の標識を見落とさないように。仁柿谷筋は古くから水車を利用した製材が行われた地。「深野和紙」で有名だった深野はもうすぐ。
  春めくや人さまざまの伊勢参り 荷兮
 伊勢参りの人々はまだまだ歩くが私はバスで国学者 本居宣長の町 松阪へ。
 

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