奈良から伊勢までを歩く 1
山の辺の道を行く 奈良の登大路、安政四年の道標から海柘榴市にある仏教伝来之地まで
 

山の辺の道を行く
 山の辺の道は奈良から三輪に通じる古代の道。山裾を縫うように延びる起伏の多い道。古代の面影をよく残し万葉人の息遣いを伝えている。
 私はこの古代の道を辿り、さらに初瀬街道、伊勢本街道を通って伊勢神宮まで歩こうと思った。

第一日 近鉄奈良駅→登大路の道標→新薬師寺→白亳寺→円照寺→弘仁寺→石上神社→近鉄天理駅(20キロ)
第二日 近鉄天理駅→石上神社→竹之内環濠集落→長岳寺→桧原神社→大神神社→海柘榴市仏教伝来之地→近鉄桜井駅(16キロ)

 「山邊道」の道標は筆をもたないという小林秀雄氏がたっての願いに応えて書いたもの。ひっそりと建つ道標に氏の山の辺の道への想いが感じられる。
 数年前、京街道と登大路の交差点に建つ道標を偶然見つけた。近寄ってみたら「右 大坂 はせ 左 うぢ 京」と標された安政四年(1857)十一月に建てられたものであった。さらに歴史をとどめるものはないかと探したら、雲井坂に立派な一里塚跡の石碑があった。ここを出発点とした。
 奈良公園を通り、飛火野を抜け、春日大社へ向かう。ここから「アセビの森」樹林のトンネルを行くと間もなく若宮神社だ。
 車道を渡りしばらく行くと新薬師寺に着く。国宝本堂の屋根の流れが美しく、堂内の十二神将像には圧倒される。また4月8日には「修二会」のお松明が行われる。東大寺二月堂の修二会お松明も豪華絢爛であるが新薬師寺のそれも風情があっていい。私も何度か参観したことがある。鏡神社はすぐ隣である。
 道も家並みも大和路らしいのどかさが残る。ところどころに「歴史の道」の道標が建っている。西勝寺宅春日神社の前を通り細い道を登っていくと白亳寺の石段が見える。天然記念物・五色椿で有名な古刹。参道の荒壁や境内は心安らぐ。ここからは奈良の街が一望できた。
 白亳寺からは山道に入る。下ってビニルハウスの間を通り岩井川を渡ると八阪神社の前に出る。立派な石灯籠が建っていた。危うく道を間違えそうになり筍掘りのおじいさんに教えていただく。「北・山の辺」の山裾を辿る起伏に富んだ曲がりくねって細い道だ。「山の辺の道・山背古道・歴史街道・東海自然歩道」等の標識に注意しながら歩く。
 白山比盗_社島田神社崇道天皇陵などひっそりとした佇まいの社寺が続く。なかでも円照寺(別名・山村御殿)は格式の高い寺院である。中宮寺・法華寺と並び三門跡寺院の一つで、華道山村流家元。非公開だが、ちょうどこの日は華道のあつまりがあり、山門は開かれており、尼寺らしい落ち着いた雰囲気が漂っていた。竜王池に下り、持ってきたお弁当を食べた。
 秋に訪れて紅葉がたいへん美しかった正暦寺はこの日拝観できないとのことでやむなく訪れることを止めた。
 つぎに訪ねたのは弘仁寺。開基は弘法大師で、近在の人々から「高樋の虚空蔵さん」と呼ばれ「十三詣り」で親しまれる古刹である。重層のどっしりした本堂は外陣に掲げられた寅・富士・牛・仁王などの絵馬がおもしろい。また安政五年に掲げられた重要文化財美術品指定の「算額」があった。この日、安政年間の道標と算額を見つけたことになる。
 ゆるやかな登りをどんどんたどるとやがて古墳公園を通り白川ダムに着く。たくさんの釣り人が糸をたれ、まわりには青垣山こもれる大和の美しい山並みがつづく。ここのベンチでしばらく休憩をする。
 名阪国道の高架下をくぐると天理である。ブドウ畑の巨大なビニルハウスが続く。車道に出ると石上神社は目の前だが、古道を辿り豊日神社の前を通り梅のトンネルをくぐって、「万葉集」に詠まれた「布留の神杉」がうっそうと茂る石上神社に辿り着く。風格のある楼門(重文)、拝殿(国宝)、摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)など荘厳さはひとしおである。第一日はここまでとし、天理駅より帰宅する。
 第二日は天理駅より石上神社を経て桜井までのコースだ。まず平安時代に創建され明治時代に廃絶した内山永久寺跡である。堂塔は40余もあったといわれ、小さな池と多くの石碑が残っていた。なかに「うち山やとざましらずの花ざかり」という芭蕉の句碑があった。
 東海自然歩道を通り茶店を過ぎると華麗な同形の四社殿の並ぶ夜都伎神社が見える。ここから苺栽培のビニルハウスが続き苺が売られていたので分けていただく。甘くておいしい苺であった。
 やがて竹之内環濠集落に入る。周囲に濠をめぐらせて、自己防衛した集落の名残である。このあたりには東乗鞍古墳西乗鞍古墳西山塚古墳波多子塚古墳中山大塚古墳東殿塚古墳下池山古墳燈篭山古墳など奈良盆地でも有数の古墳密集地帯で「萱生の千塚」と呼ばれている。また天満宮五社神社衾田陵念仏寺大和神社お旅所中山廃寺柿本人麻呂歌碑などみどころも多い。
 長岳寺に着く。空海開基で釜口大師の名で親しまれている。楼門や阿弥陀像(いずれも重文)ほか寺宝も多い。簡潔な美を誇る庭園や裏山の石仏も見事である。山門前には根上り松の根っこに石仏がある。つつじが盛りで美しかった。
 
  
 長岳寺のすぐそばに」「トレイル青垣」があった。ここは山の辺の道や東海自然歩道の魅力を紹介している学習施設で黒塚古墳石室を復元した展示もあった。ここで昼食をとった。このあたりは、三角縁神獣鏡33面が出土した黒塚古墳、景行天皇陵と呼ばれている渋谷向山古墳、崇神天皇陵といわれる行燈山古墳天神山古墳、4世紀構築で双方中円の珍しい形をした櫛山古墳など奈良盆地を代表する大型古墳群の柳本古墳群である。道端に額田王の歌碑がひっそりと佇んでいる。
 そこを過ぎると穴師の里。柿本人麻呂ゆかりの地だ。すこし山裾に登ると兵主神社がある。もと弓月が岳(巻向山)にあり大神神社や石上神社に並ぶ大社であったという。現在の下社は穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三神合祀の神社である。神域に出雲の野見宿禰と当麻蹴速が相撲をとった場所と伝えられる相撲発祥地「カタケヤシ」があり相撲神社が祀られていた。花木の匂う山裾の道を行く。
 曲がりくねって入り込んだ道を抜け巻向川を越えると三ツ鳥居が珍しい桧原神社である。大神神社の摂社で元伊勢と称される。神社前の茶屋でしばし休憩。このあたりには、記紀万葉歌碑が数多く点在する。そのいくつかを訪ねて歩いた。それぞれに趣があっておもしろい。古事記にある倭建命の「大和は 国のまほろば たたなづく  青かき 山ごもれる 大和し 美し」を書いた川端康成の碑があった。奈良盆地は幾重にも緑の垣根に囲まれたようになっており、この環境を守るためこのあたりは「大和青垣国定公園」に指定されている。古代のロマンが感じられるところで、いつまでもこの美を守りたい。
 玄賓僧都が隠棲した庵で、謡曲「三輪」の舞台として有名な玄賓庵の前を通り狭井川を越えると狭井神社、そして大神神社(三輪明神)に着く。大和「一の宮」。背後の三輪山を御神体とする式内社で、日本で最も古い神社の一つといわれている。本殿を持たず拝殿、三つ鳥居を通して三輪山を拝む原始信仰の形を保っている。 
 大神神社を出て、稲荷社の前を通りしばらくいくと三輪山平等寺。もとは大神神社の神宮寺で聖徳太子創建と伝える古刹。
 磯城瑞籬宮を抜け、金屋の石仏。釈迦如来像と弥勒菩薩像の二体の石仏(重文)が小堂の中に立っている。日本で指折りの名石仏である。その前の喜多美術館にも寄った。
 八阪神社へ寄り、しばらくいくと海柘榴市である。ここ金屋のあたりは古代の市場海柘榴市のあったところ。そのころは三輪・石上を経て奈良への山の辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への盤余の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いに賑わった。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣は有名。後には伊勢・長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えた。海柘榴市観音堂が残る。初瀬川のほとりには立派な「仏教伝来之地」碑が建っている。欽明天皇の時代に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金剛像一躯と経論若干巻物等を献上し、日本に仏教を最初に伝えたといわれている所である。当時はこのあたりまで舟で上ってきたのかと驚いた。ここから桜井の駅まで戻り帰途につく。
 
松明調進(寄進)行事  平成15年3月12日
 これは、名張の赤目一ノ井で作られたお松明を東大寺二月堂修二会に納める伝統ある行事である。この行事に参加した。行程は
赤目極楽寺(6:00)・・・(徒歩)・・・坂ノ下交差点・・・(山道)・・・上笠間・・・(バス)・・・針テラス・・・(バス)・・・鉢伏峠入り口・・・(急な下り坂・徒歩)・・・護国寺・・・(バス)・・・奈良教育大前・・・(徒歩)・・・東大寺(11:00) 山道を含め徒歩は10kmほどである。
 途中あえぎあえぎ登った上笠間の集落でお茶の接待があったのはほんとうに嬉しかった。伝統をたいせつに思う地域の人々の熱い想いがひしひしと伝わってきた。松明調進の道の標識も心温まる。松明材は板状に割ったヒノキの束を青竹の両端に結んで提げたもので重さ約25キロ。この五つを交代で肩に担う。私も担がせてもらったが、重くてとても歩けたものではない。それでも二月堂に着いたときはとても嬉しかった。いただいた東大寺の名入りの落雁はことのほかおいしかった。このお松明が用いられる来年の「お水取り」には是非来たいと思った。

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