奈良から伊勢までを歩く 4
1 奈良市から桜井まで山の辺の道をあるいた。
2 奈良県桜井から初瀬街道を通り美杉村奥津まで
 山の辺の道を奈良から桜井まで歩いた。それと伊勢本街道をつなぐため桜井から歩き始めた。
 この部分を桜井から高井、高井から山粕、山粕から敷津、敷津から美杉村奥津に分けて四日で歩いた。
3 美杉村奥津から飯南町深野まで
 この部分を一日で歩いた。伊勢本街道のなかで最初に歩き、街道歩きの楽しさにすっかり魅せられてしまったコースである。たくさんの出会いもあった。
4 飯南町深野から伊勢神宮内宮まで
 この部分を、飯南町深野から多気町相可、多気町相可から玉城町田丸、玉城町田丸から伊勢神宮内宮に分けて三日で歩いた。

伊勢本街道 
 横野から伊勢神宮内宮まで

いよいよ奈良から歩いて伊勢神宮への最終の区間となった。伊勢平野を歩く旅人はどんな思いで歩いたのだろう。

横野から相可へ
 松阪に住む私はバスで柿野まで行った。ここは前回伊勢奥津から櫃坂峠を越え辿り着いた横野のバス停。昔も今も伊勢本街道を旅する人たちがよく中継地とする宿場である。また和歌山と松阪を結ぶ紀州藩の藩道である紀州街道(和歌山街道)との追分でもある。伊勢本街道はこれよりしばらく櫛田川の左岸沿いを下ることになる。
 横野の街並みを歩き柿野小学校の前を通るとやがて深野。古くから深野和紙の産地として有名なところだ。また松阪牛の肥育農家もある。石垣が積まれただんだん田が美しい。
 しばらく歩き大石不動院に着いた。真言宗の石勝山金常寺で境内の横谷川に不動滝がかかり本堂は松阪藩主古田勝重の再建によるという。ホーロク岩に自生する天然記念物ムカデランの群落は有名である。境内は県内三十三ケ所観音詣でのバスツアー客で賑わっていた。
 小片野のはずれに道標が建っていた。これより松阪へ向かう紀州街道を分ける。100m程行くと地蔵石仏があり「右山田六里観照」と刻まれていた。ただし実際に歩いてみると六里より長かった。
 上茅原を経て下茅原へ入った。そこで愛宕灯篭・浅間灯篭・庚申塔が並んでいる場所を探したが道がすっかり改修されていて貞享五年の庚申塔のみが残っていた。
 宮川の柳の渡しとともに渡川の難所の一つであった津留の渡しに着いた。渡し場の川の中に岩があり水量を測る目安とされ、この「はかり岩」が水没すると「川とめ」となったという。渡しの左岸に2m大の立派な六字名号碑が建っていた。ぜひ立ち寄りをお勧めしたい。柳のわたしより津留のわたしの方がわたしらしいとわたしは思う。
 白鳳時代の大瓦窯群遺跡のある牧を通り鍬形に入る。明治時代に作られた水力発電所跡で現在は南勢水道の沈砂池となっているところの上を通ると近くに不動院がある。その前に高さ1.5m程の自然石の仏足石がある。この碑は天明5年(1785)櫛田川対岸の広瀬・永正寺の住職で櫛田川の中洲に穴を掘って即身成仏した高僧天阿上人によって建立されたものである。地元の人はこれを「足神さん」と呼び、街道を旅した人たちはここを通るときこの「足神さん」にわらじを奉納して旅の安全を祈願した。今もわらじが供えられていた。すぐ後ろに「鹿子の木」という大木があり木肌の様子からその名がついたが、それは「加護の木・火護の木」と通じ信仰されている。
 街道は井内林・佐伯中・三疋田・四疋田と続くがこのあたりまで来ると今までの山道や川沿いの道とは異なり土地が開け田畑が広がる。井内林には源義経の家臣・伊勢三郎義盛が敵の軍勢を松に登って見張ったという「伊勢三郎物見の松」といぼ地蔵があり、三疋田には歯痛地蔵という道標地蔵があり「左丹生山近長谷寺三十町」と彫ってある。四疋田の大常夜灯は弘化2年(1845)に造られたもので高さ5.5mこの街道では最大級のものである。
 相可高校の前にムクの大樹が繁っていてそれにフジの蔓が巻きつき根元に塞神が祀られている。その横に西行法師が伊勢参宮の途中歌を詠んだと伝えられる「千鳥ケ瀬・西行歌碑」が建っており、反対側には自然石の灯籠もあった。
 これより相可の街並みに入る。相可は松阪から射和を通り熊野に至る熊野道と伊勢本街道が交わり、さらに櫛田川の水運の要所として栄えた宿場町であった。三叉路の道標には「伊勢本街道」「すぐならはせ道」「右くまのミち」と刻まれている。日暮れも近い。三叉路の角の店長新で古く江戸時代から旅人が食したという名物「まつかさ餅」をいただいた。
 国道42号を横切り進むと天台真盛宗浄土寺があり入り口に「おんばさん」と呼ばれる小さな祠がある。乳母神が祀ってある。街道はさらに荒蒔、兄国を通り東進するが、私たちは兄国から街道に別れJR多気駅から松阪へ戻った。
 
相可から田丸へ
 三交バスで相可まで向かう。ここから歩き始めJR相可駅の前を通って前回の兄国で街道に合流しJR紀勢本線を渡って東南に進む。
 西池上に入ると水分神社と山の神が祀られていた。以前はここに清水が湧き出ていて茶屋で休む旅人の喉を潤した。水分神社は小さいながらも神明造り、鳥居も伊勢式である。土地の人たちは「しょうずんさん」と呼んでいると記されていた。街並みのなかに唐破風の天蓋を付けた大きく立派な看板が目についた。今はうすれているが「本家勢州神山薬師前いけへ村御免きんり之外無類太好庵店」と浮き彫りされていたという。薬種商の看板である。300m程先に白壁、荒格子の商家があった。「大好庵」の扁額がある。「金粒丸」本舗「大好庵」の本家であるが改修中の様子であった。他にも格子造りの美しい民家が数軒あった。西池上の常夜灯は高さ1.8m 笠が円形に造られ裏側に石段が設けられている立派なものであった。
 東池上を過ぎてさらに進むと土羽茶屋の集落に出る。ここは伊勢本街道と熊野街道を結ぶ間道が分岐する交通の要所で伊勢参り客相手の茶屋が繁盛したところである。このあたりには柿畑が広がり、林の中の道は気持ちのよい散歩にも最適の道である。
 やがて峠に出る。伏拝坂である。昔伊勢参りの旅人がここまで来てお伊勢さんまでの距離を尋ねたところ「三里山道、五里畷」と聞きこれから先の難儀を思い参宮するのを諦めて東の空を伏し拝んで残念そうに帰ったという伝説の場所である。峠の上に石灯籠の一部が残り「両宮遥拝所献燈ふしお可巳坂 文政十年」の文字がある。
 坂を下ると広大な森をもつ内宮摂社榛原神社が見える。森の北を通り田辺の丘に出る。上田辺に正念塚があった。250年程前正念という六部僧が伊勢本街道を旅しここまで来たが重い病に罹り治らないことを悟って、伊勢本街道を往来する旅人の安全を祈り穴を掘り鉦をたたき経文を唱えながら人柱になったという。
 斎宮からの道も江戸時代初頭に松阪道として整えられここに合していよいよ田丸に入った。田丸は南朝北畠氏の拠点である田丸城を中心とした城下町であった。田丸神社、紀州藩五十人組同心屋敷跡、大手門、赤門久野屋敷跡等々旧蹟も多い。また伊勢本街道、参宮街道の斎宮から田丸に通じる松阪道、和歌山別街道、熊野街道が交わる交通の要所で、田丸は宿場町としてもたいへん賑わったところである。伊勢参りを終えた旅人はここで白装束に身を改め西国三十三ケ所の観音巡礼のため第一番札所の那智山青岸渡寺をめざして熊野街道を辿ったという。私たちはこの日少し早かったがJR田丸駅から松阪へ戻った。
田丸から外宮へ
 この日はJR田丸駅からの出発である。伊勢本街道を東進すると湯田野である。ここはもともとは広大な原野であったというが今は街道沿いに集落が続いている。途中にアドベンチャー・カヌークラブというのがありカヌーがたくさん置いてあった。今年の夏北海道の釧路川をカヌーで下る予定である私たちは興味津々。
 やがて宮川に着いた。〜お伊勢参りしてこわいとこどこか、飼坂、櫃坂、鞍取坂、鶴の渡しか宮川か〜とうたわれる柳の渡しである。川は水量多く滔々と流れ如何にも難所である。しかしこの渡しは無料であったそうだ。ここは度会橋を通った。この渡しを伊勢市側に越えたところに渡しの風景を描いた大きなモザイクがあった。その少し上流に松井孫右衛門人柱堤の石柱が建っていた。
 伊勢市に入り家並みの中を行くと筋向橋に出た。関西方面からの参宮道である相可、川端などを通る伊勢本街道と、関東・中部方面からの参宮道の津、小俣などを通る伊勢街道はともに筋向橋で一つになりここからは整然と市内に入ったという。道筋と橋の板がすじかいになっていたことからこの名があるそうだ。
 街道沿いに一際目立つ建物がある。常に開け放たれた伊勢独特の宮大工による「切妻造り」の堂々たる構えだ。小西萬金丹本舗である。江戸時代前期にはじまりお伊勢参宮とともに「伊勢の霊薬」として全国にその名を知られた小西の萬金丹の製造・販売本舗。ここで萬金丹を求め、伊勢まちかど博物館の一つになっている木戸を潜った玄関横の部屋で、延宝4年(1676)創業当時からの製薬道具(乳鉢、じゃこうふるい器など)を見せていただいた。
 この店の街道を挟んだ向かい側が御師福島みさき大夫邸跡である。御師は「御祈祷師」の略称で参宮客のために祈祷を行ったが、それだけでなく旅するにあたっての細かな手配をし何かにつけて便宜を図る働きをした人のことである。
 さらに進むと外宮がある。久しぶりに外宮に参拝した。今日はまだ時間もあり内宮まで足をのばすことにした。
外宮から内宮へ
 外宮と内宮を結ぶ御成街道。永代常夜燈を見て、勢田川を旧参宮街道の小田橋で渡る。
 旧参宮街道の坂道を登って行くと古市である。古市はかつて伊勢参りの人々が精進落しに立ち寄ることで賑わいを極めた歓楽街であった。隆盛の時代には日本五大遊郭の一つであったという。ここに丘の斜面に這うようにして建つ懸崖造りの麻吉という旅籠があり古き時代の風情が漂っている。古市長峰通りには、両口屋、「古市芝居跡歌舞伎芝居古市三座のうち口の芝居跡」の石柱、伊勢音頭の遊女、古市歌舞伎の役者の祖神としての天鈿女命を祀る長峰神社、油屋跡などがあり、この高台からは伊勢の町並みが見渡せる。古市参宮街道資料館もあるが時間の関係で通り過ぎた。ここからの下りは急坂で途中に巨大な2基の石灯籠を見て猿田彦神社の前に出た。
 ここからおはらい町をぬけ内宮宇治橋に着いたのは5時であった。五十鈴川に降り内宮本殿の前に立ったのはすでに日も落ち薄闇の中であった。
 帰りにおはらい町を通りすし久で満願成就のてこね寿司をいただいた。バスで宇治山田駅まで出、近鉄で帰途についた。
 
 とうとう伊勢本街道を全行程歩き通した。思いたってからあれこれやりたいことがいっぱいあって、1年3ヶ月が経っていた。感無量である。歩いたのは8日間。行程の関係や交通機関の関係で1日に3時間しか歩けなかった日も2回程あった。それにしても昔の人は3泊4日くらいらしくあの山坂でとその健脚ぶりに驚く。私の場合は、途中のお寺などへ寄り道したり、写真もたくさん撮ったり、行き会う人と話し込んだりとゆっくりのんびり旅を楽しんだ。そして、夫と二人健康で自分の足で歩ける幸せをかみしめている。
 このたびは伊勢詣とて又も留守 高浜虚子

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