ロゴ

当寺は山号を神山(こうやま)、寺号を一乗寺といい、俗に神山寺ともいわれています。また、地元では「神山(こやま)さん」という愛称で呼ばれています。
松阪市中万町の一番東に位置し、高さ約百メートルの高さの山上にあります。境内の広さは約1360坪(4490u)で、その中に本堂、庫裏、五智堂、経蔵、手洗い、鐘楼、客寮、山門等が配置されています。
奉安されている仏様は、本尊の薬師如来、脇侍の日光・月光の両菩薩、十二神将、来迎弥陀三尊、釈迦如来、観音、普賢、地蔵菩薩、不動明王、五智如来等があります。
寺の由来は、推古六年(598年) に上宮太子(聖徳太子)が伊勢神宮参拝のとき、山上に瑞雲(めでたい雲)がたなびいているのを見て、これ霊地なりと感じられ、太子自ら楠木の大木をもって、丈六(約4.8メートル)の薬師如来を刻み、お堂を建立し安置されたのにはじまると伝えられています。
当寺の西側に位置する一段高い山の上(海抜約130メートル)に神山城跡があります。南北朝時代の延元二年(1337年)に北畠親房の命により潮田刑部左衛門尉幹影によって山城が構築されたもので、田丸城、一之瀬城と共に北畠氏の根拠地になっていました。
延元三年(1338年)、幹影は南朝軍を率いて北朝軍の攻撃にそなえ神山城に籠城しました。翌四年(1339年)南朝方のこれらの城をつぶそうとする北朝軍の高師秋(コウノモロアキ)の軍勢が城を取り巻き、攻防が繰り広げられました。
南朝方は城主潮田幹影のほか加藤十郎左衛門尉定有、判兼隆らが城を死守しましたが、幾度かの激戦の末、興国四年(1343年)北朝方から伊勢の国司に命じられた二木義長らが加わった攻撃により田丸城などの城とともに落城しました。
その後、二木義長が神山城に入城し、そして延文年中(1356〜1360年)に二木義長が城を再建するにあたり、本尊の薬師如来を東側の山の麓の茅舎に移し、一乗寺を焼き払ったといわれています。
その後、文明年中(1469〜1486年)に遊方僧の長阿、愛阿の二人が山すその茅舎に泊まったとき、夢の中で一乗寺の由来を告げられ、初めて知った一乗寺の歴史に心を動かされた二人は、行をしながら近郷で資金をつのり、山頂の堂舎跡に薬師堂を建て、本尊を迎え祀ったといいます。
更に多気の国司北畠教具は、堂舎を再建し、寺領を寄進。また、大日如来を鋳させるなど、深く帰依したといいます。
このことについて「射和文化史」では、
『北畠国司家、資を寄せて堂舎を再建せしめ、明応五年(1456年)「神山寺山林先規に任せ寄進の旨」又、天分二年(1533年)「軍勢甲乙派濫妨狼藉の事、山林竹木伐採の事、牛馬を放飼の事、右条条堅く停止、万一違乱の輩者可被処厳科」の制札を寄せた。』と記述されています。
北畠家から下知された制札は3枚残っており、1枚目は延徳二年(1490年) 4代教具のもの、2枚目は明応五年(1496年) 5代政具、3枚目は天分二年(1533年) 7代晴具が立てたもので、殺生、放馬、軍勢の狼藉を禁止するという意味なのです。
もとは比叡山3塔の一つ東寺の末寺でしたが、江戸時代に入り、元禄一四年(1701年)に天台宗安楽律の開祖霊空、玄門の二大和尚により安楽律院派に属し、律制を制定、弘律(ぐりつ:戒律を守ることを広める)の道場となり、藩主藤堂公の外護を得て戒律が盛んに行われ、近郷の男女がきそって入信、受戒したといわれています。
文政三年(1820年) 失火により、鐘楼、山門、水屋を残して全焼してしまいました。その際、丈六のご本尊仏も焼失しました。
その後、日光輪王寺のご門主、藩主ご援助のもと、目田の住人、田所平吉氏が棟梁となり約9年の歳月をかけて、天保二年(1831年)に再建されました。
今祀られているご本尊は、昔一乗寺の本尊であった薬師如来像の胎内仏で、一時下蛸路の真福寺に乞われてお貸ししていたのをお迎えして安置されたものです。
尚、当山西側の坂の途中に鏡岩といわれる岩があります。
享保一五年(1730年)に伊藤東涯が弟子の奥田三角と共に神山を訪ねたときに詠んだ詩を、奥田三角が安永六年(1777年)に中万村の近田、堀木、中野の三人の協力を得て天然の岩を円形に擦って刻んだものです。路傍の岩に仏さんを刻んだ磨涯仏は珍しくないが、碑文を刻んだ磨涯碑は珍しいといわれております。
奥田三角(1703〜1783)は、松阪市豊原町出身の江戸時代中期の儒学者。名は士享(しこう)、字は嘉甫(かほ)。享保一六年(1721年)に伊勢津藩に迎えられその後五十余年、4代の藩主に仕えました。



  Copyright (c) 神山 一乗寺All Rights Reserved.