桜前線を追って 東北紀行 3
 

桜前線を追って
         北へ北へ
 夫がやっと「夢職遊民」になったので、かねてより熱望していた東北を巡る旅に出た。
 それは、桜前線を追っての旅であり、「東奥沿海日誌」「鹿角日誌」を携えての東北における松浦武四郎翁の
足跡を訪ねる旅でもあった。また蒲生氏郷との出会いも楽しみな旅でもある。


4月15日
 名古屋市内の通行を考えて夜出発。深夜、中央高速道の駒ケ岳SAで仮眠。
4月16日
 長野道、上信越道、北陸道、磐越道をひた走り新鶴P泊。
4月17日
大内宿へ
 小雨にけぶる大内宿こぶしラインを走り、「歴史の道 下野街道(会津西街道)P」に停まり、案内図を見て驚いた。なんとそこに「イザベラ・バードの通った道」と出ているではないか! 私がイザベラ・バードを知ったのは北海道の「二風谷アイヌ文化博物館」の前庭に建っている彼女のレプリカを見たときであった。イザベラ・バードはイギリスの人、脊椎カリエスを病み病弱であった。23歳のときから医者の勧めで海外旅行を始める。はじめはアメリカ、カナダ。明治11年、47歳のとき来日。明治10年といえば、逆に読んで「年中治まるめい」といわれ、中央はようやく開けてきたが、それ以外の土地は未だ混沌とした時代であった。その後も63歳のとき2回、64歳、65歳と5度来日している。そして、ポータブルのベットと浴槽を携え、騎馬旅行で東北、北海道、関西を旅した。「日本奥地紀行」は有名である。明治23年に出版された「日本事物誌」のなかで著者チェンバレンは「この本が出版されてから10年にもなるが、本書は英語で書かれた最善の日本旅行記であることに変わりはないと思われる。アイヌ人の叙述は特に興味深い。」と述べている。この峠には雪が残り、ガスが濃かった。カケスがたくさん飛んでいる道でもあった。大内沼、二十四戦士の墓、追分の道標を見て大内宿に入った。重要伝統的建造物群保存地区大内宿は、会津若松と日光・今市を結ぶ南山通り(会津西街道)の宿駅の一つである。会津藩が江戸時代初期に会津と江戸を結ぶ幹線道路の一つとして整備したもので、廻米などの物資の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代の際にこの道を利用するなど重要な街道であった。ここで、イザベラ・バードの泊った宿(阿部家)を見つけた。彼女の記述によると「この地方はまことに美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。山頂まで森林におおわれた尖った山々が遠くまで連なって見えた。山王峠の頂上から眺めると、連山は夕日の金色の霞につつまれて光り輝き、この世のものとも思えぬ美しさであった。私は大内村の農家に泊った。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、それから雄大な市川峠を登った。すばらしい騎馬旅行であった。道は、ご丁寧にも本街道と呼ばれるものであったが、私たちはその道をわきにそれて、ひどい山路に入った。・・・」
大内宿町並み展示館を見学した。
会津若松城(鶴ケ城)
 南北朝の頃、葦名氏によって築かれた黒川城は、文禄元年(1592年)蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き、城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し黒川の名を若松と改め、城の名を鶴ケ城と命名した。わが松阪の松坂城を築いた蒲生氏郷の城とあって一度は訪れたいと願っていた城にとうとうやって来た。堀に囲まれた城は広大で、三の丸跡から登ったのだが、堀に枝を差し伸べる桜の巨木がなんとも美しく圧倒された。樹木の多い城に登ると、これまた桜の巨木の多いこと、しかも今を盛りと咲き誇っている。桜のトンネルをくぐり東北にやって来たことを実感した。そういえば福島県は土地、高度、桜の種類によって2ケ月間桜が楽しめるとのこと。戊辰戦争、そして今や「天地人の世界」、上杉景勝・直江兼続の世界であった。
三春 滝桜 
 日本三大桜に数えられる滝桜は、大正11年に桜の木としては初めて天然記念物に指定された名木。開花期には四方に延びた枝から、薄紅色の小さな花を無数に咲かせ、その様はまさに流れ落ちる滝のように見えることから命名されたという。写真ではその迫力が伝わらないが、折りしも満開ですばらしかった。それにしても1本の桜がこんなに大勢の観光客をひきつけるなんて。 
 三春の若松旅館で日帰り入浴をし、磐越道、東北道を北上し安達太良SAで車中泊。この時期観光客で込み合う行楽地は、その近くで車中泊できるキャンピングカーは極めて便利である。
4月18日
花見山
 早朝出発し、河川敷の駐車場へ。シャトルバスで花見山へ。1軒の農家が「きれいな花を楽しんでもらいたい」という善意で昭和34年から私有地を開放している花木畑。山の頂に立ち辺りを見まわすと遠方には残雪の吾妻連峰の美しい景色が見られ、周辺の花木農家が栽培している色とりどりの花々のコントラストによるまさに桃源郷と呼ぶにふさわしい美しい風景が広がっていた。花桃、レンギョウ、日向みずき、ボケ、うこん桜、白木蓮、サンシュウ、八重桜、出猩々など一面の花盛り。なかでも気に入ったのが清楚な利休梅であった。
 東北道に戻ると、一面の桃畑。その上に蔵王山が姿を見せた。
松島へ
 松島道に分岐し、とうとう宮城県に入って松島に着いた。西行、松尾芭蕉の世界である。まずは遊覧船で松島湾を1周。夫は50年ぶりだとかしきりに懐かしがっている。かもめに餌を与えたりして楽しんだ。
 松島を象徴する代表的な建物として知られている国重要文化財の五大堂が朱塗りの橋で結ばれた小さな島の中に見えた。それを横目に見て、瑞巌寺へ。日本三大美景・特別名勝松島とあいまって名高い東北随一の禅寺で、国宝・国重要文化財。起源は古く天長5年(828)円仁(慈覚大師)がこの地に天台宗の一寺を建立。その後、伊達政宗公が心血を注いで荒廃した伽藍を再建し伊達家の菩提寺としたものである。なかでも私が心引かれたのは、修行僧が籠ったと思われる石窟が今にも崩れそうな姿でたくさん残っていたことである。
 西行戻しの松公園にも行ってみた。西行法師が松島を訪れるためにこの地まで来たが、松の下で禅問答に破れ松島行きを諦めて引き返したという。満開の桜と海の青さとのコントラストが絶妙でまことにすばらしかった。
多賀城址
 仙台平野の北端に位置しており、南に太平洋を望むことができる。東には国府の港と推定される塩釜の港をひかえるなど古くから交通の要衝であった。今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創設された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていた。多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っている。多賀城の平面形は不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当する。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁がある。ここに芭蕉の句碑が建っていた。
 東北道に戻り、北上・金ケ崎SAで車中泊。
4月19日
桜 桜 さくら 北上展勝地
 目的地に最も近いSAであり、早朝に出発したので難なく駐車場に車を止めることができた。大成功! しばらくすると次々に車 車・・・道路も渋滞をはじめた。「春、みちのく北上には、花道がある。それは、うららかな花風に誘われ、人々が集い賑わう桜道。北上川の畔、半里にわたる桜並木が幾重にも春の空をさくら色に染める。」のうたい文句通りの光景が展がっていた。時あたかも桜満開の日曜日。さくら祭りがひらかれ餅つき大会が開かれていた。北上川は、水量も豊かで美しくすばらしい川であった。夫は「東北大の後輩たちが、この川をいかだを組んで下った気持ちがよくわかる。」と話してくれた。川の上に奥羽の霊峰がその白い峰を連ね、河原の芽吹きはじめた木々の緑も美しかった。「北上夜曲」の碑が建っていた。作られた50年前を懐かしく思い出し思わず口ずさんだ。2kmに及ぶ桜のトンネルをくぐり桜並木を往復した。樹齢80年以上のソメイヨシノである。途中に、この展勝地開園にあたって資金を提供してもらった第19代内閣総理大臣原敬報恩のため、原敬の俳号に因む「一山園」を作り枝垂桜を植えて顕彰している。その枝垂桜もたいへん美しく咲いていた。なお桜並木はさらにこの下にも2kmにわたって続いていた。観光遊覧船で川下りを楽しんだ。北上川の上にはたくさんの鯉のぼりが風にたなびいていた。
盛岡 石割桜
 巨大な岩の割れ目から芽を出したという有名なこの桜は盛岡市内のど真ん中にある。駐車場には入れない。諦めかけたとき、偶然交差点の向こうに石割桜を見つけた。右折するため交差点の中央で対向車の通過を待っているとき、幸運にも人だかりの上にこの大きな桜をばっちりカメラに収めることができた。
小岩井牧場へ
 前にも2回訪れたことのあるこの広大な牧場で遊んだ後、牧場内にあるお目当ての一本桜を見に行った。岩手山をバックに思い描いた通りの姿で丘の上に一本桜はすっくと立っていた。しかし残念ながら桜はまだ蕾固しの状態であった。
 近くのつなぎ温泉ホテル大観に宿泊。終日快晴でよい旅ができた。
4月20日
 秋田街道を走る。残雪が多い。仙岩トンネルを抜けたあたりで、水芭蕉の群生地を見つけ立ち寄った。満開の水芭蕉が広がっていた。その奥にカタクリの可憐な花がこれまた無数に群生していた。
角館
 何度も訪れた角館であるが、桜の季節ははじめて、期待感が高まる。国指定天然記念物角館のシダレザクラの説明を読むと「閑静な武家屋敷の様々な樹木を背景に優雅に咲くシダレザクラは角館の春を彩る。角館のシダレザクラは、明暦2年(1656)角館の所預かりとなった佐竹義隣や嫡男義明の時代に、京都から持ち込まれ植え継がれて増やされたと伝えられている。樹種はエドヒガンのシダレヒとなったもので花色は白系と淡紅系の二種がある。このサクラは主に表町、東勝楽丁などの武家屋敷に植えられ、樹齢約300年の古木から若木まで約200本を数え、このうち162本が天然記念物に指定されている。市街地内に古くから受け継がれた群としては他に類例をみないものである。
 武家屋敷とそこからのぞくシダレザクラの絶妙の美しさを堪能してから川辺に向った。何百mも続くかと思われる川辺の桜並木もこれまたみごとであった。
 道の駅協和に寄ったとき偶然「菅江真澄の道展」を見た。その後幾たびも菅江真澄の名に出会った。そうここ秋田は「菅江真澄の世界」であった。菅江真澄について調べてみた。
 菅江真澄は江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは三河国という。半生を秋田で過ごし、秋田で生涯を終えた。菅江真澄を高く評価したのは、民俗学の創始者である柳田國男である。旅先の各地で、土地や民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日でいう文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。彩色が施されているものもある。写実的で学術的な価値も高い。・・・著述は約200冊ほどを数え・・・
男鹿半島へ  
 秋田道を走り、男鹿半島を巡った。巨大ななまはげのモニュメントが迎えてくれた。まずは、寒風山へ。標高355mの寒風山は周囲がすべて芝生に覆われた休火山で、山頂に回転展望台があり、そこに上ると360度のパノラマを楽しむことができた。菅江真澄が描いている九層の塔は地震で壊れて今は見られない。さらに進み、「なまはげ館」へ行った。民俗行事として知られる「なまはげ」であるが、なぜこの風習がこの地に生まれ根づいたのか・・・そんな歴史のミステリーとなまはげのすべてに触れられる館であった。たくさんのなまはげを見たり、その衣装を身につけてみたり、行事の映像を見たりして楽しんだ。あんなに子どもを怯えさせて・・・と思ったり、笑いをこらえたり。男鹿真山伝承館にも入りたかったのだが、時間が遅すぎてすでに閉まっていた。そこでその少し上の真山神社・五社殿にいった。平安時代の創建と伝えられ、菅江真澄が訪れたところは別当として光飯寺があったという。この日は道の駅天王まで引き返し、天王温泉くららで日帰り入浴し、車中泊。
4月21日
八郎潟の干拓と大潟村
 干拓地が見たくて一般道を走っていくことにした。広大な干拓地に息をのんだ。北緯40°LINEを少し過ぎたあたりに、八郎潟干拓記念碑が建っていた。道の駅大潟にある博物館へ入った。改めて干拓のいかに大規模であったかを知り驚いた。また民話「八郎太郎ものがたり」を観たりした。
 車ではあったが、五能線の旅を楽しみつつ日本海側を北上。駅舎を眺めたり、お殿水に立ち寄ったり。
十二湖 日本キャニオン
 十二湖は、約300年前の地震による山崩れによってできた山中湖沼群である。実際は大小33の湖沼が分布しているそうだ。十二湖の周辺一帯は、ブナ、ナラ、カツラ等の広葉樹を主体とした天然林である。その林の中の道を歩き、うっそうと茂るブナやミズナラなど広葉樹の深い原生林に囲まれた迫力たっぷりの鶏頭場の池、コバルトブルーの湖面が美しい青池などを訪ねた。帰りに日本キャニオン展望台から真っ白い岩の壁を眺めた。
不老不死温泉
 西浜街道を北上し、テレビでよく見、一度入ってみたいと思っていた不老不死温泉の海に面した露天風呂。着いてみると意外に小さく感じられた。露天風呂の日帰りは4時までだったので、内風呂で入浴。
千畳敷
 薄暗くなりかけた千畳敷。説明文に「寛政4年(1792年)12月28日大地震で海床が隆起し、今見られる景観となった。・・・幕末の頃この地を訪れた松浦武四郎は「その風景実に目ざまし」と大いに称讃している。
 暗くなった。いか焼きを楽しみにしていた鯵ケ沢を素通りし内陸部に向って道の駅森田で車中泊。
4月22日
 朝起きてみて驚いた。この道の駅には大きな茅葺の家屋が建っていて、旧増田家住宅母屋だという。建築年代は明治中期とされている。当時の津軽地方を代表する規模の大きい茅葺農家(地主)住宅であった。
五所川原
 朝も早かったので十三湖まで足を延ばした。「吉田松陰遊賞之碑」が建っていた。道の駅十三湖高原・トーサムグリーンパークに、「トーサム」とはアイヌ語で「湖のほとり」という意味ですと説明されているのがおもしろかった。そうそうみちのくもかつてはアイヌの人たちの世界であったのだ。
 津軽三味線発祥の地である金木町。津軽三味線会館で、素朴な人情が育んだ津軽三味線の生演奏を堪能した。
 次いで、国指定重要文化財・太宰治記念館「斜陽館」を見学した。明治の大地主、津島源右衛門(作家太宰治の父)が建築した入母屋造りの建物で、明治40年6月に落成した。米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、階下11室、278坪、二階8室、116坪、付属建物や泉水を配した庭園などを会わせて宅地約680坪の豪邸であった。ヤチダモ材を用いた廊下も珍しく豪華であった。
 立佞武多の館にも寄ってみた。高さ22mの巨大ねぶたが3基展示してあり、その迫力に圧倒された。またねぶた祭りの映像も楽しむことができた。
弘前城
 桜前線を追って旅を続けること1週間、桜は名所といわれるところばかりでなく道端などいたるところに咲いていた。まさに「みちのくはさくらにうめつくされていた」であった。桜はもういいかとの思いもあるが、せっかくだから弘前城へ。弘前城は、津軽統一を成し遂げた津軽為信によって慶長8年(1603)に計画され、二代藩主信枚が慶長15年(1610)に着手し、翌16年に完成、以後津軽氏の居城として廃藩に至るまでの260年間津軽藩政の中心地であった城である。桜は、樹齢約120年の「日本最古のソメイヨシノ」や棟方志功画伯が「御滝桜」と命名したシダレザクラなど古木・名木がたくさんあった。城には立派な堀が残されており、8つの橋が架けられている。外堀に沿った桜のトンネルをくぐり、画像は内堀に架かる橋の1つを写したものだが、濠の水にうつる桜がなんともみごとであった。たくさん見た東北の桜はいずれも甲乙つけ難いが、あえていうならここ弘前城の桜がその筆頭かな。
ランプの宿 青荷温泉
 かねてより憧れていたランプの宿、「今夜」と問い合わせるとOKとのこと、喜び勇んで延々と車で急坂を登る。青荷温泉は、青荷川に架かる吊り橋を渡ったところに立つ一軒宿で、昭和4年歌人の丹羽洋岳によって開かれた。照明はランプの明かりのみを使用し、夜になると幽玄な雰囲気が漂う。日常を離れ、温泉と懐かしい昔にかえったような雰囲気を楽しんだ。粉雪がちらついていた。
「青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ勇気にみちて 日に新たな活動を続けるかぎり 青春は永遠にその人のものである」との額がかざられていた。
4月23日
野辺地へ
 虹の湖へ戻り、黒石ICから野辺地へ向う。野辺地歴史民俗資料館へ入った。野辺地は津軽領と境界を接する南部氏にとっては重要な地である。ここに来たのは松浦武四郎翁の足跡を訪ねたいからであった。ところがここは、最上徳内一色の世界であった。最上徳内は蝦夷地に向ったのだがなかなか渡れず、この地に長く留まり、この地の女性を妻に迎えたそうだ。野辺地湊には日本海航路の北前船をはじめとして、大坂、松前、そして日本各地から産物が行き来したいへん賑わった湊であった。明治維新の戦場は東北にもおよび、この時、盛岡藩は旧幕府に、弘前藩は新政府支持に。戦が起きる。旧幕府を支持した東北地方の藩の殆どは新政府軍に降伏しており、盛岡藩も降伏した。この戦いは本州における新政府軍と旧幕府軍の最後の戦いとなり、「野辺地戦争」といわれている。
尻屋崎燈台
 途中「幸田露伴の碑」を見て、いよいよ尻屋崎へ。私の目的は寒立馬に会うこと、夫の願いは松浦武四郎も訪れた尻屋崎の先端に立つこと。ゲートがあった。そうここは野生馬の牧場なのである。ここは難破岬とよばれる海の難所で、その先端に東北初の洋式燈台が聳えていた。すごい風である。風に逆らい「本州最涯地尻屋崎」の碑と燈台をバックに記念撮影。夫は「今までたくさんの燈台を見てきたがこの燈台が一番かな」と感慨深げであった。
 私のお目当ての寒立馬にも会えた。雪の中に立つ姿ではもちろんないが、逞しく美しい馬であった。ゲートが閉まるので名残惜しいが尻屋岬をあとにした。
 六ケ所原燃PRセンターを横目に見て南下。
 この日は、道の駅みさわで車中泊。三沢といえば基地の町、そのせいではないだろうがすばらしい道の駅であった。
4月24日
 久しぶりの快晴である。道の駅みさわは、斗南藩記念観光村の中にあった。南部は馬の里、たくさんの馬の像が立っていた。いかにもと感嘆するリアルさであった。先人記念館を見学した。明治維新の折、新政府軍から戦いを挑まれた会津藩は敗れてお家断絶となったが、後に再興を許され、斗南藩として二戸から三戸・下北地方へ移封された。明治4年、廃藩置県で青森県が誕生。これに深く関わったのは斗南藩少参事であった廣澤安任達といわれている。安任はその後、現在の三沢市谷地頭に日本初の民間洋式牧場を開設し、旧斗南藩士たちに生きる希望を与えたという。安任は、福沢諭吉、大久保利通などから高く評価されたが、「野にあって国家に尽くす」との信念で一介の牧夫として北辺の地の開拓に一生を捧げたとのこと。「みちのくの斗南いかにと人問はば神代のままの國と答へよ」 「寺山修司記念館」もあったが素通り。
奥入瀬川の渡しへ
 ここに松浦武四郎の「鹿角日誌」の一部を引用し、十和田市文化財保護協会で説明板を立ててくださったので見せてもらいにいった。引用文は
人家五軒、田作畠作ともに至せり、尤も、麻多くつくれり、此の五軒の人家の下は直に五戸川なり、故に此村の端の家は草履、醪の類を売れり、皆冬木流し材木流下しの休憩場也。村を出て渡し守の小屋有、一人前拾文ヅ取り、余遠方の者とて其拾文の銭をかえし早く渡し呉、十和田山への道筋等ていねいに教え呉けり。是にて此辺の人物を推察して可なるべし。五戸川、川幅凡そ三十間余、然し水の有処二十五、六間、両方に大なる柱を立て、是に縄を張って手ぐすりといたす。急流にして深し水底皆転太石也。此の川の源、十和田湖より来る。即ち、市川村に至りて海に達す。
 そして説明板設置に関わられた下山さんを訪ね、詳しくお話を聞いた。
八戸港へ
 海の幸をいただきたいと八戸港へいった。三陸海岸随一の大きな港であったが、市内は車を停められる場所が探せなくて残念ながら戻った。
九戸城
 九戸城を九戸氏が居城としたのは明応年間(15世紀)とされる。天正19(1591)年、九戸政実は田子信直と奥州南部を二分して争い、信直が天下人秀吉の領地安堵をとりつけたことから、天下の謀反人として秀吉の奥州仕置軍6万余を敵に回しこの城にたてこもって戦った。が仕置軍の策謀により落城。その後、秀吉の命で仕置軍の軍鑑であった蒲生氏郷がこの城を普請し南部信直に渡し、信直は三戸城より移り福岡城と命名。盛岡城の築城が成るまで南部氏の本城とした。
 この城跡に立つと天然の要塞であり、難攻不落の城であったということがよくわかる。私たちがここを訪れたのは、「氏郷記」に記載されている史実を確かめるためであった。 九戸政実の乱のとき、秀吉の命で乱を治める総大将であった若松城主氏郷の軍はたいへん苦労する。城を取り巻き鉄砲で攻める。その時、城内から氏郷軍にむかって「わが軍勢に2人のアイヌ民族がいる。その2人を城から出してやりたいからしばし鉄砲を撃つのを止められよ」と大声で叫ぶ声が聞こえた。それに応えて鉄砲を撃つのを止めたところ、2人のアイヌ人が出てきた。その2人は氏郷の前に召し出されたとき、アイヌ民族の儀式に従って酒盃(トゥキ)と酒箸(イクパスイ)を用いて祈り、正式な儀式を行って氏郷に感謝したという。
 近くの「ふるさとの湯っこ」へ行って日帰り入浴をしたのち「道の駅おりつめ」で車中泊。
4月25日
 東北の旅の目的のほぼ9割を果たした。ところがあまり内陸部へ行かなかったのでせっかく東北に来たのに東北らしい温泉を楽しんでいない。ということで
玉川温泉へ
 アスピーテラインを通っていくと、八幡平山頂が見えた。ブナ林の峠道は、その両脇が深い雪の壁であった。硫黄のにおいがし、やがてもくもくと煙を上げる広大な山容が目の前に広がった。ああとうとうやってきた。日本でも屈指の湯治場である。毎分9000Lの湯が噴出し、1カ所からの湧出量としては日本一を誇る。散策をすると、あちこちでむしろを敷いて寝転び岩盤浴をしている人たちが目立つ。温泉を満喫した。
 田沢湖をちらりと見て、小岩井へ。25日ごろ咲くとのことであったので、もう一度一本桜を見に行った。1週間前よりやや赤みを帯びていたがまだまだ・・・
 古関PAで車中泊。
4月26日
米沢へ
 まずは米沢城内にある上杉博物館へ。「天地人博」を催していた。大河ドラマの世界が一目でわかるという至れり尽くせりの博覧会。直江兼続というより妻夫木聡さんと記念の一枚をパチリ。その後、松ケ岬公園、松岬神社、上杉神社、上杉家廟所、林泉寺と回りここで直江兼続夫婦の比翼塚を参拝。直江兼続夫妻の墓所がこんなに大きく大切にされているのは、兼続は上杉の知将であり、いかにこの米沢の町作りに貢献したかを物語っていよう。しかし米沢にとって忘れてならないのは「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」の江戸時代随一の名君上杉鷹山公であろう。アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは「政治家で最も尊敬する人は上杉鷹山である」と述懐したそうだ。
 ついでに東光の酒蔵を見学した。
 今夜の宿は赤湯温泉の丹泉ホテル。
 
 
4月27日
 東北の山々を見たいと福島へ向った。ここから吾妻高原への磐梯吾妻スカイラインはもちろんまだ開いていない。それならと土湯峠を越えて裏磐梯に出ようとしたが土湯峠は24日に開いたもののその後の積雪のため今日からまた閉鎖とのこと。次の手として沼尻高原に行った。途中降りてくる車の屋根に10cmほどの積雪があったのにはさすがに驚いた。沼尻温泉で日帰り入浴。ここは35年ほど前、家族で訪れた懐かしい場所、その変わりように感慨も一入。粉雪が舞ってきた。
磐梯高原へ
 磐梯高原国民休暇村ガレリアがとれたので磐梯高原に上っていった。五色沼に着いた。毘沙門沼は青く美しかったが、気温3℃ とにかく寒い。雪が降ってきたのでそうそうに引き上げ、ホテルに逃げ込んだ。只見に蒲生岳があるのを発見、感激!
4月28日
 昨日とはうって変わってよく晴れた。早朝高原を散策した。冠雪の磐梯山がその美しい姿を見せてくれた。アカゲラを見つける。
 今日こそ沼めぐりをと再び五色沼へ。毘沙門沼は昨日にもまして美しくコバルトブルーに輝いていた。その上に磐梯山が姿を見せていた。赤沼、みどろ沼までを往復した。五色沼は噴火によってできたものだが、その名の通り成分によって水の色が違う。
喜多方へ
 夫が「喜多方へ行こう」と言ったとき、私は一瞬「ラーメンを食べに?」と思ったものだが、喜多方は蔵の街として有名なのだとか。磐梯山、桧原湖、飯豊連峰と山岳道路を楽しみながら走る。
 喜多方市内の蔵はおよそ4100棟。飯豊連峰からの伏流水と米を活かした酒や味噌などの醸造に蔵が最適だったこと、明治13年の大火の際に蔵の防火効果が見直されたこと、「男40にして蔵の1つも建てられないようでは男でない」という独特の風潮があったことが現在も多くの蔵が残る理由だといわれている。倉庫だけでなく、店舗(店蔵)、住まい(座敷蔵)、漆器職人の作業場(塗り蔵)、酒・味噌・醤油の貯蔵蔵、屋敷の塀(塀蔵)、トイレ(厠蔵)などの使い方がある。また一般的な壁材料である白漆喰の他に、黒漆喰、レンガ、土壁などがある。蔵の里、美術館、うるし美術館を見学し、蔵座敷あづまさで喜多方ラーメンを食べる。その後も町を散策し、若喜レンガ蔵、大和川酒造・北方風土館、山中煎餅本舗、甲斐本家座敷蔵などを見学した。画像は、最後に見学した甲斐本家座敷蔵であるが広大な屋敷で、数ある蔵のなかでもひときわ見応えがあった。厳選された素材と、7年余を費やして建造された第一級の風格をもつ国登録有形文化財である。
 その後、できるだけ南下しようと自動車道をひた走り、妙高SAで車中泊。
4月29日
 目覚めるとすばらしい快晴、眼前に真っ白な妙高の山々が輝いている。ここで降りない手はない。インターを出ると、昨日から300km以上走ったというのに料金は1000円、えっ、そうか今日は祝日だったのだ、ETC車だし。別に全く混んでいたわけでもなし、すごく得した気分。
 妙高高原ではまず、いもり池周辺を散策。こぶしの花の向こうに妙高山が聳えていた。「この豊かな緑 鳥蝶花を 未来の子等へ」と根津和育記念碑が立っていた。
 次に少し戻って赤倉へ行き妙高高原スカイケーブルで中腹まで昇った。下に野尻湖や赤い屋根の赤倉観光ホテルが見えていた。息子や娘がまだ幼児だったころ泊まって雪遊びをしたホテルだ。懐かしい。テラスでお茶を楽しんだ。
 黒姫高原にも足をのばした。童話館で長時間楽しみ、いわさきちひろ黒姫山荘を見学したりした。ここからの景色はまことに雄大で時の経つのも忘れていた。
 十二分に楽しんだので自宅に帰りついたのは深夜になっていた。花と歴史の旅の余韻にひたっている。

戻る