やっちみろかい 27日間 九州一周の旅 2

やっちみろかい
 九州一まわり 2
 ここまでで10日間、旅の予定の3分の1が終わったことになる。この間の印象は、見たいもの、行きたいところが連続していること。これまで旅した北海道や東北と違って道の駅が少なく、キャンピングカーを駐車できるスペースが極めて少ないこと(これは前もって調べてあったのだが)、そういえばキャンピングカーを見ることもたいへん少なく、どうやら九州はキャンピングカーでの旅には不向きなのかなあと思ったりした。といったわけで、はしょったところも多かったのに、超ハードなスケジュールになり疲れてしまった。この後は南部、山間地を走ったり、山へも登ったりして私たちのゆっくりした旅のスタイルを取り戻さなくてはと強く思った。
 ところが、五箇山での思いがけぬ苦い苦いできごとから、岬に立ったり、〇〇峡と呼ばれるような峡谷を訪ねたりといった予定はやむなく変更せざるを得なくなった。車の高さが270cmと高いせいもあり、もう山間の狭い道はごめんだという思いが強かったからだ。もっとも、台風の被害であちこちの道路が予想以上に崩れ、通行不能になっていたり、荒れていたからでもある。それに、国道でさえ狭く、交通量も多くて、私は車の運転に恐怖を覚え、ついつい夫の負担が異常に大きくなってしまった。私が運転していても、助手席の夫はいつも足を踏ん張っているような有様で、反って疲れるとのこと、結局今回の総行程3066kmのうち、私が運転したのはわずか150kmに過ぎない。夫にとっては受難の旅でもあったに違いない。
 


11月2日
本渡市立天草切支丹館
 洗濯物もたまってきた。朝早く出発して本渡のコインランドリーで洗濯をする。天草切支丹館はすぐ近くである。国指定重要文化財の天草四郎陣中旗が展示してあった。生々しい陣中旗の傷が悲しい歴史を語っている。館の前の天草四郎像と記念撮影。向陽山という立派なお寺の前を通り山を下りる。
イルカウォッチング
 鬼池港からかなり沖に出て約1時間のイルカウォッチング。「イルカ保護のため200m以内には近づきません」と書いてあった。にもかかわらず、1艘の船がイルカを発見すると5〜6艘の船がとりかこみ、まるでイルカの鼻先すれすれにまで近づき、どこまでも追いかけ回すのである。確かにイルカはたくさん見たし、迫力もあったが、考えさせられた。あまり後味のよいものではなかった。
 その後、富岡城址を見たり、白岩崎の岬を訪ねたりした。城址にあった今を盛りと咲く真っ赤なデイゴの花が印象的であった。
大江天主堂 ロザリオ館
 大江天主堂は、天草の海を見下ろす白亜の天主堂である。明治25年(1892)にこの地に着任後、生涯を布教に捧げたフランス人のガルニエ神父が、昭和8年に私費を投じて完成させた教会である。
 天主堂を出て、近くにおられた地元の方に尋ねてみた。「このあたりの方はみなさんキリスト教徒なのですか?」「天主堂から上に住んでみえる方はキリスト教徒が多いですが、下の方はそうでもありません。」
 天草ロザリオ館にも入った。里人がオラショ(祈り)を捧げた隠れ部屋が造られていた。
五足の靴
 天主堂の前に「五足の靴」の碑があった。明治40年夏、北原白秋、与謝野鉄幹、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の五人は、長崎の茂木から海路苓北町の富岡に上陸した。彼らの旅の目的は大江天主堂のガルニエ神父に会うことだった。そして道中で見た天草西海岸の自然のすばらしさを紀行文「五足の靴」で紹介している。碑はその時詠んだ吉井勇の短歌
 白秋とともに泊りし天草の
    大江の宿は 伴天連の宿
そして45年後の昭和27年に再訪したときの
 ともにゆきし友みなあらず我一人
        老いてまた踏む 天草の島
である。
牛深から長島へ
 牛深でおいしい海の幸を味わおうと楽しみにしていた。ところが牛深のフェリー乗り場についた途端、すでに上がっていた船のブリッジをもう一度降ろして「早く乗れ」という。なんともご親切なことだ。お蔭で長島の蔵之元港に1時間早く着いた。おまけに料金は着いた時にとのことだったので払おうとすると、なんとおつりは昨日発行されたばかりの新札で渡されうれしい驚きであった。サンセット長島で入浴と新鮮な海の幸を堪能した。道の駅「長島」でP泊。
11月3日
出水ツル飛来地 麓武家屋敷群
 早朝に出発した。ツルを見るためである。長島は畑が続いていた。黒之瀬戸大橋を渡り、出水へ向う台地の土は異様なほどまっ茶(赤)であった。出水に入ると早速ツルが見つかった。すこし遠かったが必死でカメラを向けた。ツル観察センターのところまで行くと、飛んでいるのあり、田に下りているのありで、かなり接近して写真を撮ることができた。日本で渡来羽数と種類の多いことで知られる出水のツルは、「特別天然記念物鹿児島県のツルおよびその渡来地」として指定をうけている。指定区域面積は約245haである。またツルの種類としては、マナヅル、ナベヅル、クロヅル、カナダヅル、アネハヅル、ソデグロヅル、ナベクロヅルであり、平成13年の飛来数は11,845羽であったという。だからもっと見られるはずだと畑の中の道を走っていたら、なんといるはいるはうようよと表現したくなるほどのツルを見つけた。大満足である。
 出水には、出水麓武家屋敷群がある。薩摩藩は領内各地に外城(とじょう)を設けた。そして外城における統治の中心地を麓(ふもと)と呼んだ。麓は、「向江」と重要伝統的建造物群保存地区の「高屋敷」の両武家地、間に挟まれた町人地からなっている。竹添邸と武宮邸を見学させていただいたが、いずれも立派な武家屋敷であった。折から出水麓まつりが開かれており、一緒に祭りを楽しませてもらった。
小京都 人吉
 球磨川を天然の外堀とした中世の山城である人吉城址を訪ねた。立派な石垣のはねだし(武者返し)の建築様式は、全国的にも珍しいものだという。
球磨川下り
 日本三急流のひとつ球磨川を矢のように48瀬、奇岩怪岩の間を縫いながら疾り抜けるという。矢のようには大げさだがなかなか爽快であった。
五木子守唄の里
 五木の子守唄、なぜか郷愁を誘う。少し山に入るが是非訪ねてみたいと出かけた。五木の里には1時間で着いた。正調五木の子守唄を聞かせてもらい、また一緒に歌ったりして楽しい時を過ごした。「どこにお泊りですか」と聞かれた。実はここに来るからには宿をと前日に予約したところがあった。宿の本で調べても五木にはない。そこで五箇山の宿を予約した。観光書には五木・五箇山はまとめて案内されているし、事実カーナビの距離数もあと20km,30分あまりで着くものと確信していた。そこで「五箇山」と応えると、「それは大変、実はこの前の台風で国道が決壊し、五箇山へは山一つ迂回しなければならず1時間半は余計にかかる」とのこと。
五箇山へ
 びっくりして教えてもらった山道を走る。4時になっていた。地元の人にはよく分る迂回路でも、探し探し辿る慣れぬ対向もままならぬような山道は実に心細い。それでも陽のあるうちはまだよかった。いよいよ暗くなった。疲労もピークである。その時、ガガッー、何かに車体を擦ってしまったようだ。急いで下りて調べると大切にしている愛車に傷がついていた。ショックだ。五木か人吉どころかもう松阪に帰りたくなってしまった。しかしここまで来て今更引き返しもならない。先に続くは真っ暗な山ばかり。やっと人家を見つけて道を確かめ先へ進む。カーナビにもこんな道は表示がない。それでも人家はない。さては道を間違えたか、不安は募る。やっとの思いで宿の五箇山山荘に辿り着いたのは、7時であった。42km迂回の60kmあまり。時間にして3時間かかったわけである。
 
 
11月4日
五箇山から
 平家落人伝説の里、五家荘は、樅木(もみき)、椎原(しいばる)、久連子(くれこ)、仁田尾(にたおう)、葉木(はぎ)の5つの地区が一緒になってできた村だそうだ。宿の近くに小学校があって児童18人で、教師は5人だとか。ここへは、秘境宮崎県椎葉村から抜けてくる観光客が多かったそうだが、この道が台風災害で通行止めになっているため、今年は観光客がめっきり少ないそうだ。宿から5分ほどのところにある樅木吊橋に行ってみた。上下に架かる2本の長い吊橋は見事なものであった。五家荘平家の里・天満宮により村を後にした。途中の梅ノ木轟公園の長い長い吊橋は、山々の紅葉に映えてたいへんきれいだった。昨日の道にはこりごりしたので、遠回りになるが砥用町に出ることにしたのだ。二本杉峠が村境であった。しばらく行くと、水を汲んでいる人に出会った。聞けば「くまもと名水百選」の七郎次水源で、1日3杯飲み続けガンが治った人があるという。私たちも車のタンクにたくさん頂戴した。砥用の信号から九州自動車道の松橋ICまでは31km.
えびの高原へ
 九州自動車道から宮崎自動車道に乗り継いで、小林まで。ああやっぱり自動車道はいいなあ。安心と快適さで心が浮き立つ。小林ICで下り、生駒高原へ行った。一面のコスモスは終わりかけていたが、サルビアがきれいだった。えびのスカイラインを走りえびの高原に着いた。高原は沈む夕陽に赤く染まっていた。ああやっと九州へ来た!! からまつ荘で入浴させてもらう。P泊した駐車場を夜、たくさんのシカが歩き、鳴き声も聞こえた。星がすごくきれい。でもとても寒い。夜中に毛布を追加した。朝の気温は0度であった。
11月5日
韓国岳登山
 いよいよ楽しみにしていた韓国岳に登る。駐車場から歩きはじめ登山口を経て登る。道はところどころ大きい石の露出している場所もあるが、よく整えられている一本道であえぎつつ登るといったところはない。駐車場からでも2時間足らずで1700mの山頂に着く。霧島連峰の最高峰である。老年の私たちでさえ標準時間くらいで登れたと自分の体力に自信をもった。韓国岳は火口跡であるため中腹から上は木がなく岩塊の山頂からの眺めは頗るよい。あいにくこの日は薄雲が少しあり、高千穂峰はかすんでいた。近くに火口湖がきれいに見えていた。登山者からこのあたりでは新燃岳が一番美しいという話を聞いた。下山の途中で、幼稚園から小学生の大勢の子どもの集団が登ってくるのに出会った。いくら登りやすい山だといっても岩だらけの山でありちょっと小さすぎるよなあ、それに引率者も少なくて怖いなあとついつい余計なことを思ってしまった。硫黄山、賽の河原を廻って下りてきても、まだ時間は早いし、体力も充分残っているということで、池めぐりをすることにした。不動池の上の道は、車道のあたりにある赤松千本原の続きですばらしい松林だ。「えびの高原のススキは毎年8月下旬頃になると、一斉にえび色に変わり、韓国岳の中腹などから見ると赤い絨毯を敷き詰めたような感じでとても美しい眺めです。これは硫黄山などから噴出する硫気によって変色したもので、ここえびのの地名もススキが一面にえび色の野になるため付けられたものと言われています。」との説明版があった。六観音御池、ここで縄文杉もかくやと思われるような杉の大木に会う。白鳥山北展望台、白紫池、二湖パノラマ展望台と巡り下りてきた。昨日のからくに荘でまた温泉に入れてもらい、明日高千穂峰に登るため、高千穂河原ビジターセンター駐車場に移りP泊。
11月6日
高千穂峰登山
 「伊勢から来た?それじゃ天孫降臨の高千穂に登らぬという法はない」と笑いながら言われた。高千穂の秀麗な山容は魅力的である。どうしても登りたいと思った。山頂は1574mながら昨日の韓国岳ほど容易ではない。高千穂は古より信仰の山として人々から崇められた霊峰であり、高千穂河原は文暦元年(1234)の大噴火まで霧島神宮のあったところである。その神宮跡から登りはじめお鉢まで1時間。お鉢のふちを廻って少し下りたところが古宮址であった。そこから山頂までが50分ほどで、駐車場からだと休憩を含めて2時間半ほどなのだが、急坂で、ことにガレ場は歩きにくい。それでもたくさんの登山者と話し、楽しい登山であった。山頂には有名な天の逆鉾が立っていた。この日は快晴で、周囲の山々がくっきりと見え、山頂からの眺めはなんともいえず美しかった。韓国岳も勿論しっかり見えた。霧島はミヤマキリシマの咲く頃が最も美しく、その頃にもう一度是非来てくださいとお誘いを受けた。下山してからビジターセンターへ寄った。えびの高原のもここ高千穂のビジターセンターもすばらしかった。
 霧島神宮に参拝してから今夜の宿霧島いわさきホテルに着いた。ここの夕食「薩摩御膳」は、とてもとてもおいしかった。
11月7日
小京都 知覧へ
 溝辺鹿児島空港ICから九州自動車道に乗り、鹿児島から指宿スカイラインで知覧へ行った。この日はカークーラーを入れたほどの暑さだった。南国らしく照葉樹林帯の林が美しかった。真っ赤なカンナの花も11月だというのにまだあちこちにたくさん咲いていた。
 先ず知覧武家屋敷へ行った。地区内は石垣で屋敷が区切られ、沖縄によく見られる石敢當(魔よけの石碑)や、屋敷入口には屋敷内が見えないように屏風岩(沖縄のヒンブン)がある。知覧の港が江戸時代に琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷も琉球の影響を多く受けているそうだ。たくさんの庭が公開されていた。また通りには小さな水車がまわり鯉の泳ぐ川が流れており美しい町であった。珍しい竹の樋も見つけた。
 ミュージアム知覧や知覧特攻平和会館を見学した。
 戦死せる教え児よ    竹本 源治
逝きて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ!
君を縊ったその綱の
端を私は持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互にだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慙愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は
汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
 この詩は「教え児を再び戦場に送るな!」という日教組のスローガンに感動した高知の一中学校教師が、高知県教組の機関誌「るねさんす」に発表したものである。発表された当時はあまり注目されなかった。しかし1953年7月、オーストリアの首都ウィーンで開かれた第1回世界教員会議に参加した日本代表団がこの詩を「教え児を再び戦場に送るな!」のスローガンとともに紹介した時、会議場全体を感動の嵐ともいうべき拍手がまきおこったという。ウィーン放送局からドイツ語訳で放送された時、放送室で放送局員はハンケチで顔をおおっていたといわれる。
 私は突然この話が思い出され熱いものがこみあげた。
 指宿へ向う海岸から、開聞岳が見えた。それは海からすっくりと天を突いていた。明日はあれに登ると思うと、武者震いに似た震えが襲った。登山口近くの「ふれあい公園オートキャンプ場」でP泊した。染井吉野が咲いていた。
11月8日
開聞岳登山
 薩摩富士と呼ばれる開聞岳は、日本最南端の富士山であり、その姿の美しさは比類がない。924mとはいえ、それは全くの海面からの登りであり正真正銘の924mである。登山路は山を巻くように螺旋状に登っていくらしい。これといって険しい登りはないのだが、岩は濡れていて滑りやすく登り辛い。結局3時間近くかかってしまった。しかし下から見上げたあの頂上に立っていると思うと気分は爽快だった。大きい池田湖も間近かに見えた。
 下りてきて、枕崎から野間半島を通り吹上温泉にも行ってみたかったのだが止めにした。指宿へ向った。途中でフラワーパークに立ち寄った。これは思いがけずすばらしい公園だった。広大な公園内を乗り合い自動車ともいうべきもので廻った。あちこちに花が咲いており、結婚式の前撮りとかで若いカップルが写真撮影をしていた。館内で珍しいオオゴマダラという蝶と、金色に輝くそのさなぎを見た。ここで長く楽しんだので、行く予定の長崎鼻に着いた時はすでに4時30分。駐車場が5時に閉まるということで灯台のところまでは行けなかった。
 国民休暇村指宿で、砂蒸し風呂を体験した。砂がかなり重かったがおもしろかった。温泉にも入りゆっくりと過ごした。夕食は休暇村のホテルで、薩摩御膳をいただいた。同じ薩摩御膳でも霧島のものとは献立が違っていたがおいしかった。休暇村のオートキャンプ場に入った。キャンプ場で、車の充電もし、電気もたっぷり使い、コインランドリーで洗濯などをして過ごした。
11月9日
指宿
 キャンプ場での日の出は感動的であった。近くの田良岬を散策した。ここから約800mの海上に浮かぶ知林ケ島は、周囲6km、高さ90mの無人島で、指宿カルデラ外輪山の一部で泥熔岩よりなり、指宿カルデラのくびれの部分の北端を形成している。錦江湾に浮かぶこの島はどこから見ても美しく、昔は老松が茂り、航海者は松風の音をたよりにこの島の付近を通ったことから知林ケ島の名で伝えられている。干潮時は、通称「バカ洲」と呼ばれる幅50mの砂のかけ橋となり、陸つづきで渡ることができる。ところが「さきの台風の影響で、砂が洗い流され、知林ケ島への砂の道(砂州)が出現しにくくなっています。いま、非常に危険な状態ですので、たとえ干潮時であっても、知林ケ島に歩いて渡ってはいけません。また、砂州が出現しない状況で無理に渡ったり泳いだりするのは、潮流も速く、砂州の両側も深く、極めて危険ですので、絶対にやめましょう。」との誠に丁寧な看板が立っていた。残念ではあるが諦めるしかない。
 鹿児島への途中、本場大島紬の里を通り過ぎる。紬か、まっいいか!
桜島
 フェリーで桜島へ渡った。ビジターセンターへ行ったり、湯之平展望所へ昇ったりした。途中で見た墓は1基ずつ頑丈な小さな石の家の中に納められていた。桜島は今も小規模な噴火が続く活火山だが、歴史に記録される大噴火は過去3回あった。
安永8年(1779)10月1日
 この爆発で150人余りの死者が出た。
大正3年(1914)1月12日
 噴煙は約8000m以上にも上昇しその火山灰は偏西風にのって遠くカムチャッカ半島にまで達した。この時の溶岩流により桜島と大隈半島は陸続きになった。
昭和21年(1946)
古里温泉
 林芙美子文学碑を見に行った。そして古里観光ホテルで「海辺の龍神露天風呂」に入った。実におもしろい温泉で、海のすぐそばに龍神の祀られている温泉があり、背中に南無阿弥陀仏と書かれた白い装束をつけて温泉に入るのである。
 垂水温泉のあたりには、アコウのすごい並木があった。郵便局に寄ったら「佐多岬に行きましたか?あそこはいいですよ」と言われた。佐多岬は九州本島の最南端、CBCテレビの地名しりとり番組でワッキーが行った場面を見たこともある、一度は立ってみたいと思っていた岬だ。今回も山川町からフェリーで渡るコースなど検討していたのだが、1ヶ月で九州一周となれば、できるだけ多くの土地を訪れるためにはどうしても一筆描きに近いコースを選ばざるを得ない。それには佐多岬はあまりにも遠く諦めざるを得なかった。鹿屋体育大学の前も通った。今夜は道の駅「くにの松原おおさき」P泊。道の駅に作られた温泉「あすぱる大崎」で入浴した。
11月10日
くにの松原
 「くにの松原」に行ってみた。「くに」とは国有ということらしい。シルバー人材センターの人が10人ほどで松原の管理をしてみえた。その中のお1人が、名古屋出身、退職とともに奥さんの実家のあるここに越してこられたとか。懐かしそうに話してみえた。この砂浜にウミガメが産卵すること、今沖合を通っているのがサンフラワー号で志布志港に入港すること、内浦湾のロケット基地の話などいろいろ教えていただいた。
 志布志港に大阪・志布志間を運行する「さんふらわあ さつま」を見に行った。
都井岬
 都井といえば、野生馬と猿ととび魚だそうだ。なかでも野生馬「御崎馬」は、人為が加えられないままに世代交替を繰り返した現存する日本在来馬の貴重な一つで天然記念物に指定されている。都井岬ビジターセンター「うまの館」に入りいろいろ勉強した。
 また都井はソテツの自生地の北限であるということで、御崎神社の方へ下りていった。海難除けと縁結びの神として有名な御崎神社は切り立った崖の中腹に祀られており、付近一帯にソテツ3000余本の自然林があり、それは見事なものであった。赤いソテツの実というのもはじめて見た。
 全国参観灯台の一つである都井岬灯台はその白亜の姿を見せていたものの工事中で入ることはできなかった。
 帰り道で、野生馬の大きな群れを見つけた。センターに、驚かしさえしなければ触れるほどにおとなしいと書いてあったので、丘に上がっていった。海をバックに広い広い丘の上にたくさんの野生馬が草を食む姿はなんともメルヘンチックで、何枚も何枚も写真を撮った。丘を下りてくると、「危険ですから馬に近づかないでください」の看板。えっ!!
 日南フェニックスロードを通りサル生息地の幸島に行きたかったが、台風による道路決壊のため、448号を串間まで戻り、220号線で南郷へ。西武ライオンズが秋季キャンプをしているとのことで見に行ったが今日の練習は休み。その後、近くの町で巨人、広島、ヤクルトなどがキャンプに入っていることを知った。この時期に、なるほど、なるほど。
小京都 日南
 日南市の飫肥へ行った。飫肥は戦国時代、飫肥城の覆権をめぐって伊東家と島津家の間で激しい合戦が繰り広げられ、合戦は80余年にわたって続いたという。豫章館、松尾の丸、飫肥城歴史資料館を見学した。城の中に小学校があった。大手門から武家屋敷通りを歩いて小村寿太郎生家や武家屋敷旧伊東伝左衛門家を見、国際交流センター小村記念館、鯉の泳ぐ川、旧山本猪平家、商家資料館などを見て歩いた。
 少し入るが今夜の宿泊地を求めて道の駅「酒谷」まで行きP泊。
11月11日
坂元の棚田
 地元材を使った立派な看板がある茅葺屋根の道の駅「酒谷」の近くにそれはあった。平成18年の全国棚田(千枚田サミット)開催のため道路拡張中だったが、棚田はたいへん立派なものであった。片側は野菜や花、果樹の植えられた畑になっていた。
鵜戸神宮
 断崖の中腹、大きな洞窟の中に立つ神宮。祭神は神武天皇の父にあたる鵜鵝草葺不合尊。本殿裏には尊の母の豊玉姫命が生まれたばかりの尊を残して海に帰るとき、自らの乳房を残したという神話ゆかりのお乳岩があり、今も清水が流れ落ちている。海に朱塗りが映えて美しい。亀石の桝形に入れれば願いが叶うという運玉を投げてみたが1つも入らなかった。この境内には猪が出てくるそうだ。シュロ科のビロウの木が見事だ。
サンメッセ日南
 イースター島のアフ・アキビという名前のついたモアイ7体があるのでそれを見たいとテーマパーク・サンメッセ日南に行った。ゴーカートに乗って上って行った。確かにモアイ像には出会えたが、客らしき人は誰もいず、寂しいところだった。季節のせいかなあ。
サボテンハーブ園
 開放的な岬の斜面に130万本のサボテンや60種類3000株のハーブ、温室には高さ7mの巨大サボテンなど2000本が植えられていると観光案内書には書いてあったのだが、ここもまた寂しい。
 いるか岬、鬼の洗濯板を幾箇所か見て、堀切峠を越えた。
青島
 奇岩の海岸を従え、橋で結ばれた小島に立つ、日向神話「海幸彦・山幸彦」ゆかりの青島神社。「なんでこんなに暑いの」と言いながら橋を渡った。島の周囲には鬼の洗濯板と呼ばれる波状の奇岩群が大きく広がっていた。
 県立青島亜熱帯植物園にも寄った。特別天然記念物・青島亜熱帯性植物群落の保護対策と学術研究のために作られたもので、さすが県立、園内には、フェニックス、ビロウ、女王ヤシ、大王ヤシ、ワシントニアパーム、トックリヤシ、アコウ、パラボラチョ、ジャカランダ等が植栽されていて、南国特有のランタナや各種のハイビスカスなどが四季を通じて咲くということであり、大満足した。
 日南フェニックスロード、高速の宮崎道、東九州道を通りひむか神話街道を走って西都原に行った。そうここはもう旅の一つの動機になった日向の国であった。
西都原遺跡
 広大な遺跡公園の古墳群の中を走って、宮崎県立西都原考古博物館へ行った。すばらしい博物館で2時間以上もかけてゆっくりと見学した。ここは6時まで開館しているそうだ。この遺跡がたいへん気に入り、古墳のいくつかも見たいものだと今夜はここの駐車場でP泊することにした。西都温泉で夕食と入浴をした。
 
 

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