やっちみろかい 27日間 九州一周の旅 1

やっちみろかい
 九州一まわり 1
 私たち夫婦は、どうも北志向が強い。旅に出ようとすると、北海道へ東北へと向いてしまう。今回は逆転の発想で九州を一周しようということになった。それは一つには、
   大介君へ
   草原のど真中の一本道を
   あてもなく浪人が歩いている
   ほとんどのやつが馬に乗っても
   浪人は歩いて草原をつっきる
   早く着くことなんか目的じゃないんだ
   雲より遅くて充分さ
   この星が浪人にくれるものを
   見落としたくないんだ
   葉っぱに残る朝露 流れる雲
   小鳥の小さなつぶやきを
   聞き逃したくない
   だから浪人は立ち止まる
   そしてまた歩き始める
      日向国 浪人  大庭 登
 これは山田洋二監督の映画 学校4 「十五歳」のなかの言葉であるが、この一節に触発されたからでもある。私も日向の国を、そして九州をゆっくりと旅してみたい。1ヶ月の予定で出発した。
 ところがどうしてそうそう予定通りの旅とはならない。九州、ことにその北部は、見るべきもの、行きたいところが次々と続いていることと、キャンピングカーを止めてゆっくり休めるところとの兼ね合いからついつい一日の行程が長くなり、疲れ切ってしまった。折角来たのだからと欲張り過ぎたのかもしれない。しかし帰ってアルバムを整理していると、よくまあこれだけのところを訪れ、これだけの体験ができたものだと、自分たちと走ってくれた愛車を褒めてやりたくなってしまった。 

旅は、
九州の小京都と呼ばれる町や伝統的建造物保存地域に指定された町を廻ること
 門司 日田 甘木 小城 伊万里 島原 八女 出水 人吉 知覧 日南 日向 竹田
山に登ること
 妙見岳 普賢岳 韓国岳 高千穂峰 開聞岳 阿蘇中岳 久住山 鶴見岳
遺跡や城址を訪れること
 大宰府 吉野ヶ里遺跡 名護屋城址 熊本城 富岡城址 西都原古墳群 岡城址
その他の名所・旧蹟を訪れること 歴史に触れること 神楽や文楽など伝統的芸能を鑑賞すること 温泉を楽しむこと等々 であった。

10月23日
 いよいよ九州に向けての旅立ちである。期待に胸が膨らむ。大阪から夜のフェリーが予約してあったが、余裕をもって午後2時に出発する。大阪南港から午後8時名門大洋フェリーは出航した。
 船の上で今夕新潟で大地震が発生したとのニュースを知る。こんな時に暢気に旅行だなんて気がひけるが今更引き返しもならない。
 フェリーは3つの本州四国連絡橋の下を通る。
 21:05 兵庫県の明石と淡路島を結ぶ明石海峡大橋、
 00:00 岡山県児島と香川県坂出間の瀬戸大橋、
 2:15 広島県尾道と愛媛県今治をつなぐ来島海峡大橋である。
 3本とも起きて見たが明石海峡大橋と瀬戸大橋は電飾が施されすばらしくきれいであった。
10月24日
 フェリーの上で迎えた日の出は旅立ちを祝福してくれているように美しかった。朝8時新門司港着 北九州市門司区へ走る。
 ロマンチックな海峡の街とうたわれるレトロな洋館の街を散策する。
 しかしここまで来たからにはなんとしても関門海峡を船で渡りたいと早速連絡船に乗り下関に向った。ここは潮の流れが速いことで有名な「はやともの瀬」と呼ばれるそうで、源平合戦の壇ノ浦、巌流島の戦い、馬関戦争と歴史の流れを変えた潮流である。海峡には世界初の海底トンネル関門トンネルがあるが、船の上からは長い吊り橋の関門橋が見られた。
 下関の唐戸市場で新鮮な海の幸を堪能する。港には「いざ、行かん!巌流島」等の看板があちこちに立っていた。巌流島を訪れてもいいなと思ったが、この日は島でイベントがあるらしく島が沈みそうなほどの人出だとかで遠慮した。
 山陽道はここで終わり海峡を越えて九州へと続いていた。堂崎の渡し場跡の碑があった。日本で初めてキリスト教と西洋文化を伝えたフランシスコ・ザビエル、吉田松陰、高杉晋作らもこの渡し場の石段を踏みしめたと記されていた。また別にフランシスコ・ザビエルの碑もあった。
 再び門司に戻り、大正時代の面影が残るレトロな門司港周辺を散策した。
帝政ロシアが中国(大連)に建築した東清鉄道オフィスを北九州市と大連市の友好都市締結15周年を記念して複製建築した国際友好記念図書館を見た。
明治42年の門司税関発足を契機に明治45年(1912)に建てられた煉瓦造り瓦葺平屋構造の建築物で昭和初期まで税関庁舎として使用された旧門司税関も見学した。
次いで関門海峡の過去、現在を五感で感じられるミュージアム海峡ドラマシップを訪ねた。海峡にまつわる歴史を再現した「海峡アトリウム」「海峡歴史回廊」、大正時代の街並を再現した「海峡レトロ通り」などがあった。
旧九州鉄道本社(通称:赤レンガ)から生まれ変わった九州鉄道記念館にも行った。懐かしい実物車両や鉄道文化遺産が多数展示されていた。
三井物産の接待、宿泊施設として大正10年(1921)に建築された国指定重要文化財で、翌年にはアインシュタイン夫妻が宿泊したという旧門司三井倶楽部も見学した。この三井倶楽部の前の道路は国道198号線。ところがこれは信号から2つめの信号までのわずか500m、日本で一番短い国道だそうだ。
同じこの198号線沿いに大正3年(1914)旧門司駅として開業した、左右対称の駅舎はネオ・ルネッサンス様式の木造建築で、昭和63年に鉄道駅舎では初の重要文化財に指定された門司港駅がある。かつての国鉄の門司港駅はここから地下道になっていて、乗客はここを歩き、港から国鉄の汽船で下関に渡り、下関から再び国鉄の汽車に乗り換えたという。関門トンネルによってつながれてからはこの地下道は使われていない。しかし当時のまま保存されているそうだ。
港の前に馬の水飲み場というのが残されている。かつて戦争当時この港から日本各地から集められた農耕馬が軍用馬として戦地に送られたという。その数100万頭ともいわれる。その馬がここで日本最後の水を飲み海を渡った。その馬たちはもちろんただの一頭も帰っては来なかったのである。
続いて大正6年(1917)に造られ、昭和初期まで大陸航路の待合所として賑わった木造二階建て施設で、屋根に突き出た塔屋は灯台の役割を果していた旧大阪商船を見た。
日本を代表する建築家・黒川紀章氏が設計した高層マンション「レトロハイマート」の31階にある「門司港レトロ展望室」にも行った。ガラス張りの開放的な空間の中で海峡の大パノラマが楽しめた。
歩き疲れて港に座り、はね橋が上がるのを待った。門司第一船溜まりにかかる全国でただ一つの歩行者専用のはね橋、ブルーウイングもじである。はね橋のブルーバイオレットと旧門司税関の赤煉瓦色とが美しいコントラストを見せてくれた。
 この日は国民宿舎めかり山荘に泊まった。夜、山荘のサービスで連れていただいたナイトツアー。ライトアップされた「門司港レトロナイトファンタジー」でまた夜の門司港レトロ展望室で光の競演を堪能したのも忘れられない。誠に時代を錯覚しそうな不思議な空間であった。ナイトツアーの途中、関門トンネルを歩いて渡る地下道の入口を教えてもらった。700mで、歩いて14分だそうである。時間があれば歩いて渡るのもおもしろそうだ。
10月25日
 朝、宿を立った。道端にピンクのむくげが咲いていた。今頃まで花があるなんてさすが南国である。門司から小倉東まで高速にのり、その後国道10号線を下って耶馬渓に行った。
まず最初に訪れたのは羅漢寺である。リフトで山頂まで行き、お寺へ。この寺は「延文4年(1359)逆流建順という偉僧がこの地を訪れ、昭覚禅師とともにわずか1年で700余体の石像物を建造しました。竣工の際には1000人の僧侶が集まり、開眼供養が行われたといわれています」と説明されていた。羅漢とは釈迦の高弟のことで、夥しい石仏が祀られていた。胎内めぐりをした後、降りてきて大分名物といわれるだんご汁を味わった。
道の駅「耶馬トピア」を経て、青の洞門に向った。享保20年(1735)ころ、断崖の難所で難儀する旅人たちを見かねた禅海和尚が、ノミと槌だけを使い、30年以上かけて掘り抜いたトンネルであり、菊池寛の「恩讐の彼方に」の舞台でもある。トンネルは切れ切れに残り、一部に当時のノミの跡を見ることもできた。
程遠からぬところに、オランダ橋があった。大正12年(1923)に山国川に架けられた日本で唯一の8連アーチを持つ石橋、耶馬溪橋である。長崎の石橋に多い石積み工法で作られていることからオランダ橋とも呼ばれ、それは美しい橋であった。
さらに足を延ばして深耶馬溪の一目八景を見に行った。古くから天下の景勝地と称され耶馬溪最大のみどころの一つといわれ、仙人岩、夫婦岩など8つの岩峰群を一度に眺望できることからその名が付けられ、なかでも展望台向かいにそそりたつ群猿山などの岩峰は思わず息をのむような迫力と宣伝されていたので期待して行ったのだが、折からの小雨のせいもあったのか、紅葉にも今少し早く、少々がっかりした。
 道の駅「やまくに」まで走り、車中泊。道の駅の隣にあった「なかま温泉」はおもしろかった。12軒の人たちがなかまで作ったという。しかしぬるぬる感は本物の温泉。「世間話に花が咲き、お湯も情けも温かい」のうたい文句がまたいい。
10月26日
小京都 日田
 あいにくの雨であったが、小京都と呼ばれる天領であった日田の街を歩いた。雨なので一層しっとりと落ち着いた街の印象が残る街である。月隈公園Pへ車を入れ豆田町を散策した。街並みに入りすぐ目についた味噌醤油醸造元・天領ひな陣屋の看板を掲げた店を覗いた。店の奥にそれは見事な大きな雛壇がいくつもの部屋に展示されており圧倒された。次に天領日田資料館に行った。「祝 豆田町重要伝統的建造物群」の大きな横断幕が掲げられていた。資料館でふれあいガイドがあることを知り、1時間あまり案内していただいた。市山亭懐古館、薫長酒蔵、長福寺、薬の日本丸館、旧豆田検番所資料館、廣瀬資料館などまわったが、案内していただくと街のことがほんとうによく分る。ガイドが終わってから二人で大分県指定の有形文化財・県内最古の商家「草野本家」を訪ねゆっくりと見学した。ここで花ひらいた町人文化を髣髴とさせる建物であった。
小京都 甘木
 表通りは土蔵の白壁、古びた格子の静かな城下町秋月もまた国重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、私たちは秋月城址と黒門そして秋月郷土館を訪ねた。郷土館には素晴らしい絵画が展示されているのに驚いた。苔むした石段をモミジの大木が守る紅葉の名所である。紅葉には早かったが黒門に緑が映えて美しかった。
大宰府
 菅原道真(菅公)の墓所の上に社殿を造営した神社で、学問の神としてあまりにも有名な大宰府天満宮を訪ねた。きらびやかな神社であった。あわててお参りした。というのも5時少し前で、薄暗くなっていたからだ。ここでP泊し翌日政庁府に行きたいと思ってあちこち探したが適当なところが見つからない。やむなく九州自動車道にのり基山PA泊。夜どうし大型車がひきも切らず通行する。さすが九州の大動脈である。大宰府からはさらに北上し、金印が発見されたという志賀島も見てみたいし、南下して久留米絣の久留米も訪ねたい。戻れるなら国道210号線、旧豊後街道筋に見事な町並みが現存し、東の倉敷に対し西の倉敷と呼ばれる吉井町も見たいと夢は膨らむばかりだが、1ヶ月の予定であるのでそうそうあちこち訪ねることもならず残念である。
10月27日
吉野ヶ里遺跡
 長崎自動車道を東脊振で下りる。東脊振は、日本茶樹栽培発祥の地であるそうだ。早朝に着いた吉野ヶ里遺跡の上に虹が架かり幻想的であった。広大な公園の中を定時解説ツアーに参加し案内してもらった。一度は行ってみたいと思っていた遺跡である。吉野ヶ里遺跡では、約600年間も続く長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されていて、しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっておりこの時代にどのように社会が変化していったかが一つの遺跡で分る極めて学術的価値の高い遺跡だという。吉野ヶ里歴史公園では、国内最大級の環壕集落へと発展した「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として、発掘調査成果をもとに復元整備を行っている。発掘されたおもな遺構は、環壕、物見櫓、竪穴住居、甕棺などである。魏志倭人伝の世界、弥生人の声が聞こえるとうたわれていた。邪馬台国はともかくとして、体験教室などもあり、なかなかおもしろい遺跡公園であった。カナダで見たメークパインにそっくりの鳥がいたので名を尋ねたら「佐賀の県鳥のかささぎ」だとのことであった。また公園内にはツルリンドウがたくさん咲いていた。
小京都 小城
 ふたたび長崎自動車道にのり佐賀大和まで行って小城を訪ねた。花と水と蛍の町だそうだ。羊羹が名物だという。小城公園の中を歩いているとまたカササギに出会った。静かな町であった。
唐津
 鏡山展望台に上がった。唐津湾に弧を描く砂浜と緑の帯状の虹の松原が一望できた。約5km続く虹の松原は,三保の松原、天の橋立とともに日本三大松原と呼ばれたいへん美しかった。西のはしにこれまた美しい唐津城がくっきりと見えていた。鏡山展望台に、日本の三大悲恋物語といわれる松浦地方に伝わる伝説の「松浦佐用姫」の像が立っていた。鏡山の麓にある鏡山温泉茶屋・美人の湯を楽しんだ。地下1600mから湧き出る天然ラドン温泉で、檜風呂や大樽の露天風呂がおもしろかった。ここからは虹の松原の中を走ってみた。約100万本あるというクロマツの見事な林であった。
 鎮西町の道の駅「桃山天下一」でP泊。
 
 
 
 
10月28日
杉の原牧場
 少し戻って呼子大橋を渡り、杉の原放牧場に行った。加部島の最北端にあり、草地の向こうに水平線が広がる絶景である。遊歩道は平日で開放されていなかったが牧場のまわりを歩かせてもらった。放牧場の中の玄界灘を見下ろす丘の上に瓢塚古墳があった。弥生人は何を思ってここに古墳を築いたのだろうか。
壱岐フェリー乗り場
 ほんとうは壱岐か対馬に渡りたかったのだが先が急がれ諦めた。港に北海道の網走にあるのとそっくりな大きな岩があった。不思議な思いがしてカメラに収めた。真っ白なイカがたくさん干してあった。買いたかったがまだしっかり乾いていないので売ってはいけないのだそうだ。これはあの有名な呼子の朝市で売るという。しかし車が止められなくて朝市にも寄れなかった。
名護屋城址と博物館
 今からおよそ400年程前、国内を統一した豊富秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その軍事拠点として築かせた城である。近世初頭の特徴をよく残す重要な城跡で、総面積約17万平方mは、当時としては大坂城に次ぐ規模であった。天正19年(1591)秋に始まった工事は、西国大名の分担によりわずか5ヶ月足らずの翌年の春には主要部が完成したといわれている。なんとも広大な城跡である。歩きながら当時を偲んだ。ここで三重の松阪から来たというご夫妻に出会ったのには驚いた。名護屋城博物館にも足を運んだ。佐賀県立ということであったが、すばらしい博物館であった。
小京都 伊万里
 伊万里は小京都の一つであるが、有田、伊万里、唐津といえばいわずと知れた焼き物の町である。焼き物工場や店の並ぶ町の散策を楽しんだ。ここを訪れて、古伊万里の伝統は有田に引き継がれていることを知った。
平戸
 朱塗りの美しい平戸大橋を渡り、平戸に入った。平戸港の交流広場駐車場に車を入れ町を歩くことにした。松浦史料博物館、六角井戸、聖フランシスコザビエル記念聖堂、じゃがたら娘像、幸橋、オランダ塀、平戸観光資料館、オランダ公園、フランシスコザビエル記念碑、オランダ埠頭、オランダ井戸、オランダ商館跡などである。坂の多いところをあちこち廻ったのでたいへん疲れた。車に戻ると満月が昇りはじめた。
 九十九島めぐりの船に乗る予定であった美しい九十九島、そして佐世保は闇の中に沈んでいた。西海橋を渡り、道の駅「さいかい」泊。
10月29日
遠藤周作文学館
 サンセットオーシャン202を走り、夕陽が丘「そとめ」公園に着いた。遠藤周作文学館は海を見下ろす丘の上に建っていた。ここに周作のことばのいくつかが掲げてあった。今の私にとって心を打つことばを書きとめた。
・老年とは醜く辛く悲しいものだと申しましたが、もうひとつの面もあるようです。それはやがて自分がここから去る日が来るだろうが、しかし自分がこうして生まれたことが、また自分をふくめてこの地上で生きてるすべてのものは苦しんだり愛したり結びあったり別れたりしていた一人一人の人間だったことが、言いようのない懐かしさで考えられるのです。
・シュタイナーという思想家がこう言っていた。人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが、老年になると魂で世界をつかまえようとすると。
・物語は終わり、今は黄昏。私は川原に腰をおろし膝をかかえ黙々と流れる水を永遠の生命のように凝視している。
・この年齢になってみると私がかつて犯した愚行もかつて私の身に起った出来事も、たとえそれがそのまま消えてしまうように見えたものでも、決して消えたのではなくひそかに結びあい、からみあい、そして私の人生に実に深い意味を持っていたことに気づくのだ。私の人生のすべてのことは、そう「ひとつだって無駄なものはなかった」と今にして思うことができる。
 私に遠藤周作の作品を読んでみようという気を起こさせた文学館であった。
カトリック黒崎教会
 ほんの小さな地域の少し高いところにひっそりと建っていた。九州のキリスト教のふところの深さをしみじみと感じさせられた。
10月29日(つづき)
長崎観光
 坂が多くて狭い道路、駐車場もなく、それに見所も多い。ここはタクシーでの市内観光(3時間で1万円)に限ると考えた。これが大正解。充実した市内めぐりであった。大浦天主堂、グラバー園、オランダ坂、孔子廟、出島、崇福寺(黄檗宗)、めがね橋、日本二十六聖人記念館、長崎原爆記念館、平和公園、永井博士の住居、浦上天主堂、外人墓地、一本足鳥居、思案橋、おもいきり柳などを見て歩いた。タクシーを降りてから長崎堂本店で長崎チャンポンを食べ、長崎カステラを買った。
 今夜は、You 湯パークである。つまり稲佐山観光ホテルで、夕食を楽しみ、何度でも温泉にはいり、ホテルの駐車場に駐車料を払ってP泊する。ホテルのトイレが一晩中自由に使えるというものである。しかも夕食は長崎の郷土料理のしっぽく料理。くじら、ふかのおさしみやとんぽうろなど珍しいものも多くたいへんおいしかった。9階から夜景を堪能する。長崎の町の夜景、稲佐山頂まではロープウェーがかかり美しい。大満足の宿泊であった。
10月30日
小浜
 海上露天風呂・波の湯 茜にはいる。橘湾に面したユニークな露天風呂で、すぐ目の前が海、海面との差がほとんどなくおもしろい。そこから仁田峠まであがる。
普賢岳登山
 九州に来てはじめての登山である。仁田峠からロープウェーで山頂駅へ。駅から少し登ったところが妙見岳の山頂である。ここから有明海やかの有名な諫早湾の干拓地がすぐ目の下に見えた。山をまわりこんで登っていく。分岐点があり、ここから国見岳への登りを分ける。国見岳は眼前にその美しい高みを見せていた。ここから普賢岳へはかなりの傾斜で下っていく。登り返しが思いやられる。下りの途中で登ってくる男子学生の大集団と会う。聞けば普賢岳から降りてきてこれから国見岳に登るとのこと。私たちも国見岳に登ってくればよかったと悔やまれた。この大集団は、福岡からきた競艇の選手を養成する学校の学生だと聞いた。その中に偶然、三重の飯高町森出身の子がおり、奇遇に驚きしばし話をした。登り返して普賢岳の山頂に着いた。普賢岳は雲仙の最高峰で1990年に200年ぶりに大噴火した。このとき噴出した溶岩の山は普賢岳の標高より高くなり「平成新山」と命名されたという。標高は1360mだがそんな荒々しい山だとの印象をもって登ったが、山頂から溶岩ドームが見えるものの山自体はそんな恐ろしい災害をもたらした山だとの実感は湧かなかった。普賢岳ではこんなによく晴れた日は珍しいとのことで、山頂からの景色はすばらしかった。
 下りてきて、雲仙地獄めぐりをし、近くの湯の里温泉で入浴した。ここは50人の人たちで作っている共同浴場であった。
 島原半島の普賢岳をはさんで小浜と反対側の道の駅「みずなし本陣ふかえ」でP泊。ここからは普賢岳のすさまじい溶岩流の跡が眼前に広がっていた。朝方、すごい風に驚かされた。
10月31日
島原城 武家屋敷
 早朝のことで城内には入れなかったが、大きな城のまわりを散策した。そして、島原の武家屋敷を見に行った。石垣や生垣に囲まれた武家屋敷が両側に続き、道の真ん中に細い流れが続いていた。風情がありなかなかいい屋敷町であった。南国らしいジャスミンの生い茂った家があり、そこの奥さんとしばらく話した。土地の人と話すのもまた楽しい。
肥前浜宿
 諫早湾の水門を見ながら海岸沿いを走り、鹿島市に入る。酒造りで栄えた宿場町の面影を残す白壁、土蔵の通りを持つ肥前浜宿の町並みを見て北上し、柳川に至る。
柳川下り
 和船(どんこ船)に乗ってのんびりと川下りをする。狭い水路、低い橋を切り抜ける船頭さんの竿さばきで掘割を進み、ナマコ壁、赤レンガの倉が連なる並倉、柳川城跡、白秋の句碑などを水上からゆっくり見物した。硬式テニスの有名な選手を輩出した柳川高校、ジョンレノンの奥さんの小野洋子の生家などもあった。祭りの山車が通っていった。船を下りてから、北原白秋記念館へ行き、船宿で名物のうなぎの蒸篭蒸しを食べた。
 夫が久留米に行けなかったことを残念に思っていた私に、すてきな久留米絣の上着を買ってくれた。
八女
 夕刻であったが、物資の集散地、手漉き和紙・提灯・仏壇等の産地として栄えた八女を歩いた。旧住還道路(通称:白壁通り)沿いの伝統的町家は土蔵造りで、商家的な色彩と職人的な色彩を併せ持った江戸〜昭和初期のものが80棟ほど連なっている。旧木下家住宅の堺屋を見学した。小さな町だが美しい家並みであった。
 ゆ〜かむで入浴した。その後道の駅「鹿北」でP泊。夜中、大型トラックが猛スピードでひっきりなしに通った。
11月1日
菊池渓谷
 山鹿を経て、菊池渓谷に行った。紅葉の名所であるが、紅葉には少し早かった。しかし谷川の流れも美しく、両岸の山道も心地よかった。赤いつり橋を渡ったり、川原に下りたり、滝を覗いたり、「名水百選」と刻まれた岩を見たりと楽しい2時間半の散策であった。夫は相変わらず口琴を吹きながら歩いていたので、オカリナを吹いていた土産物店のご主人に呼び止められ、しばらく話をした。
熊本城
 ガイドの人に説明してもらいながら見学して廻った。立派なお城であった。城をとりまく空掘も大きくて広々していた。名将加藤清正が心血を注いで築城した日本三名城の随一を誇ると言われるだけあってさすがである。
 水前寺公園にも行きたかったが、きりがないので省略した。
天草へ
 熊本を離れ天草に向う。最初に訪れた大矢野町の天草四郎メモリアルホールは残念ながら4時30分をもって閉館していた。裏の丘に上ると天草四郎の像が立っていた。宝の島ジパング天草の展望台からは目の下の松島橋をはじめ天草五橋と松島の島々が一望できた。また反対側の海にはヤシの木を前景に海に沈む夕陽が美しかった。
 今夜は道の駅「有明」で車中泊。道の駅に立つアコウの木の立派さに驚いた。隣接のリップルランドで入浴。 
  
 

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