世界遺産・熊野古道(伊勢路) 2
 私は今までに山辺の道、伊勢本街道、参宮街道などを歩き、往時の人々を偲びながら歴史道を辿る楽しさに浸ってきましたが 2002年は世界遺産の熊野古道・伊勢路を歩きました。
 ここでは乗用車、キャンピングカー等を使って効率よくしかも石畳と森林と海浜が織り成す熊野古道の素晴らしさを充分堪能する方法とコースを紹介します。
 コース詳細図についてはリンク集「熊野古道・伊勢路」でご覧ください。

世界遺産
熊野古道・伊勢路を歩く 2
 
熊野信仰の道
 熊野古道は熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に参る道。いく筋かの道があったが代表的なものは紀伊半島を西回りする紀伊路と東回りの伊勢路であった。紀伊路は平安中期から鎌倉期にかけての貴族の御幸道で後白河上皇は三十三度、後鳥羽上皇は二十九度この道を歩き熊野詣を行った。江戸時代に入ってからたくさんの人々が歩いた伊勢路は伊勢参宮を終えた旅人が熊野三山詣や西国三十三カ所巡礼へと辿った庶民の道であった。  

苔むした石畳道を歩こう
 古来より熊野詣は苦行の代名詞であった。岩山が海岸線にまで迫る紀伊半島は峻険で雨が多く、峠越えの難路には土砂の流出や道の崩壊を防ぐために石畳が敷かれている。狭い石畳道を多くの旅人が一列になって歩く姿は「蟻の熊野詣」とも称された。そして、そういった峠道の傍らでは志半ばにして行き倒れた巡礼たちの墓碑が静かに見守っているのである。険阻さゆえに開発から逃れた熊野古道は現代人のいやしの道として甦った。深い緑 清らかなせせらぎ 路傍にたたずむ史跡や悠久の時を見つめて静かに佇む石仏・・・苔むした石畳を踏みしめていにしえ人のロマンに触れてみよう。
 東紀州地域活性化事業推進協議会発行「甦る神々のみち 熊野古道 伊勢路」から
 

峠から一変する ツヅラト峠越え
 駐車場はJR梅ヶ谷駅(P泊可能)
 梅ヶ谷駅→峠越え→紀伊長島駅ーJR→梅ヶ谷駅
 説明版に「中世に開かれた熊野三山への信仰の道は、伊勢の地からここツヅラト峠を境に熊野へと足を踏み入れることとなる。ゆったりとした風土の伊勢と、神仏の国・霊魂の支配する国熊野とでは、峠を境にして自然までもが一変する。滝・豪雨・原始林・波濤といった熊野特有の大自然の様相は、ツヅラト峠を越えたとたんに旅人をして霊魂の地への入り口を感じさせ、峠から遠望する熊野の海は、伊勢からの旅人にとっては初めて見る普陀落の海である。つまり、ツヅラト峠は伊勢と紀州の国境であったと同時に、現実世界と理想・非現実世界との境でもあったといえるだろう。」とあるツヅラト峠を2002年9月に越えた。
 JR紀勢線梅ヶ谷駅駐車場に車を止め、静かで落ち着いた大内山の集落を栃古まで辿る。ツヅラト峠登口の石柱を過ぎるといよいよ道は狭い登りの山道となった。ここは宮川の支流大内山川の最上流部にあたる。峠からは紀伊長島町が望め、熊野灘が遠望できた。峠から志子集落までの下り道は、中世に築かれたままという石垣や石畳道が残り歴史を感じることができた。しかしツヅラトの名前の通り九十九折りの急坂であった。江戸時代に入り本街道は新しく開かれた荷坂峠を越えることになったが、その後も赤羽地区から伊勢路に出る最短の生活道路として生き続けたという。石畳の道を辿ると千年の時を越えて人々が造り守った道への想いがひしひしと感じられた。志子から二郷神社を越え紀伊長島駅に到る道は2kmとあったが思いの外長く、ようやくにして長島駅にたどり着いた。そこからJRに乗り梅ヶ谷駅へと戻った。
 ツヅラト峠へは、11月にも紀伊長島町志子のツヅラト花広場(P泊可)に車を止め、再度峠までを往復した。
 
紀伊の松島を観る 始神峠越え
 駐車場は宮川第二発電所横(P泊可)
 「発電所前」−バス→「馬瀬」→始神峠→駐車場に着く
 広い駐車場に車を置いて「発電所前」まで歩くと ほどなく来たバスに乗った。「馬瀬」バス停から少し国道を戻り川沿いの古道に入った。峠は標高わずか147mであるのでゆるやかな坂道。ゆっくりとハイキング気分で歩くことができた。頂上からは「大小の島々が織りなす秀麗な景色は”紀伊の松島”と呼ばれる」と書かれていたが、登った11月初めのこの日は樹木が茂り残念ながら展望が今一つであった。「紀伊続風土記」には、晴天の日の出時に峠から富士山が見えたことを記す一文があるそうである。峠から急坂を下ってきたら、今はもう手入れがされなくなったみかんの木が残り、それを過ぎると地域のお年寄りが丹精込めて作られた公園があり、鹿の害を防ぐために金網で囲ってあった。道の両側にはツワブキの黄色が鮮やかであった。湾には発電所の水がゴウゴウと流れ込み、潮目に多数の水鳥が浮かんでいた。近くの三浦温泉シーサイドホテル望月のゆ〜ゆ〜館で疲れを癒した。
 
 
 
苔むした石畳が続く 馬越峠越え
 駐車場は三交海山営業所近くの海山町営グランド横(P泊は近くの道の駅「海山」)
「国道相賀」−バス→「鷲毛」→馬越峠→尾鷲駅近くのバス停「尾鷲駅口」−バス→「国道相賀」
 11月中旬、道の駅「海山」へ行くがバス停がないため海山町営グランドまで戻り駐車した。特急バスが三交海山営業所で止まったので乗せてもらい「鷲毛」まで行く。そこはもう馬越峠への登山口。尾鷲ヒノキ林の中に続く広い階段状の石畳道は熊野古道随一の美しさを誇るといわれるだけあって、なんとも素晴らしい。馬越一里塚や夜泣き地蔵の案内板もしっかりしていた。峠で会った土地の人に勧められて古道を離れ天狗倉山に登った。おそらく巨石信仰とみられる祠があり、この巨岩の上からは尾鷲の絶景や大台山系の山々までが見渡せた。峠へ戻り石畳の道を落ち葉を踏みしめながら歩むと、この道を同じように辿ったであろう遠い昔の人々の姿が髣髴と浮かんでくるようであった。馬越公園を過ぎ墓地の中を通るとたくさんの猿の群れに出会った。お供えの花や供物を食べていた。「尾鷲駅口」バス停からバスで「国道相賀」まで戻った。
 
竹林の中の石畳道 大吹峠越
 駐車場はJR熊野市駅横の市の無料駐車場(P泊可)
 JR熊野市駅ーJR→波田須駅→大吹峠→大泊
 9月末 この峠を越えた。熊野市の幸寿司さんに「たかな寿司いさと弁当」を予約し、波田須駅(無人駅)まで届けていただいた。波田須駅を出発し、波田須公園内の大吹峠登り口から登りはじめる。ここは大きな石を用いた石畳が続いていた。大吹峠の茶屋跡をはさんだこのあたりの古道は青々と茂った孟宗竹の林が続く。静寂そのものの竹林の中を歩いた。しばらく下ると道はやがて海岸沿いの堤防となった。大泊駅からJRを利用することもできたが、私たちは続いて松本峠を越えることにした。
 
 
 
七里御浜を一望する 松本峠越え
 大泊→松本峠登り口→松本峠→東屋→鬼の見晴らし台→松本峠→松本峠登り口(笛吹橋)→熊野市駅
 海岸沿いの道から国道を越えると小公園があり、ここが松本峠への登り口。各時代ごとに様相の違う石畳の坂道を上り詰めると竹林の中に鉄砲傷で知られた地蔵・南無阿弥陀仏の六字名号碑が建つ松本峠へたどり着いた。茶屋跡などもあり往時の賑わいが偲ばれる。ここから古道を逸れ東屋へ向かった。東屋からはなだらかな弧を描く七里御浜が見渡せた。更に滝見の丘・鬼ヶ城城跡・鬼の見晴らし台へと足を延ばした。熊野灘の絶景を見て松本峠へ戻った。苔むした風情のある石畳の道を下るとやがてはるか遠くまで延々と続く七里御浜が一望できる梅林があった。大泊までいくつもの険しい峠を越えてきた巡礼者は、眼下に広がる紺碧の熊野灘、なだらかな海岸線を臨み見、何を想ったのだろう。更に石段が続く。この道は次第に人家の中へと入り、商店街を抜けるとゴールの熊野市駅に到った。
 
潮騒を聞きながら 浜街道を
 「道の駅・パーク七里御浜」でP泊
 JR阿田和駅ーJR→熊野市駅→花の窟神社→巡礼供養碑→浜辺の水神塔→「道の駅・パーク七里御浜」
 11月末の小春日和 浜街道を歩いた。P泊した「道の駅・パーク七里御浜」のすぐ前が阿田和駅だ。6時20分の始発に乗って熊野市駅へ。早朝の市街を抜けて海岸線に着く。早速砂浜に出て浜砂利を踏みながら歩く。しかし静かで美しい波打ち際であり、朝焼けの空も素晴らしい美しさであるにもかかわらずその歩きにくいこと。ようやく獅子岩にたどり着き写真におさめると堤防へと上がった。花の窟神社を経て再び七里御浜へ出た。心地よい潮騒を聞きながら歩く浜街道は、荒波の難所として恐れられた昔の面影はなく、日本の渚百選に選ばれた美しい浜辺。有馬の一里塚を過ぎたあたりから堤防がなく、しばらく砂浜と防風林の中を歩く。また堤防へ上がる。このあたり一帯釣り人の姿が多い。龍神塔や志原川尻の巡礼供養碑などを見て道はなお延々と浜沿いに続く。途中砂浜に下り、早めの昼食をとった。ここにも釣り人がたくさん糸をたれ、タイ、カツオ、サメなどを釣っていた。浜辺の水神塔のところから道はしばらく海岸線を離れる。立派な市木の一里塚の碑からは国道42号線を。起請(化粧)の水石碑を見て七里御浜探勝歩道に入る。歩き疲れた身ではあるが遊歩道は歩きやすい。ループ状の歩道橋を渡ると道の駅であった。
 
 
 
熊野本宮大社
 「伊勢に七度熊野に三度どちら欠けても片参り」とうたわれたが私の住んでいる街は伊勢市の隣。だから伊勢参りは何度もした。しかし熊野三山の中心で全国に末社三千を数える熊野神社の総本山の熊野本宮大社は二度目。かって熊野川の中州にあったこの大社へ深山幽谷を越え熊野川を遡って、あるいは下っての詣では苦行の連続であったに違いない。
 
 この夜は本宮町川湯温泉の日本秘湯を守る会の宿、冨士屋へ泊まった。そして雨量の少ない11月から2月の期間に川を堰き止めて作られる大きな混浴露天風呂「仙人風呂」に何回も入って疲れを癒した。
 
熊野速玉大社
 緑の中に朱塗りの社殿が映える速玉大社境内に二十三人の上皇,女院、親王の百四十回の熊野御幸が刻んであった。三百九十六年間の歴史である。白川天皇の天永元年九月の御幸には総人数八百十四人、伝馬百八十五匹とあったのには驚いた。
 
霊を感じながら大門坂から熊野那智大社へ
 駐車場は那智勝浦から那智大社へのバス路線停留所「曼陀羅の郷河川公園」 ここへ車を置いて大門坂の登り口へ。帰りは定期バスで「曼陀羅の郷河川公園」へ戻る。
 P泊 曼陀羅の郷河川公園は20台ほど駐車できトイレもあるが斜面でP泊が難しい。那智勝浦町には円満地公園とグリーンピア南紀にオートキャンプ場がある。
 熊野古道・伊勢路を辿ってきた私たちが最後に選んだ熊野那智大社へは和歌山県指定天然記念物「那智山旧参道の杉並木」のある 国指定歴史の道「大門坂」を登った。大門坂には熊野那智大社が生命と霊魂を与えたような杉の巨木が立ち並んでいた。坂一面に漂う気を全身に感じながら一歩を一段をじっくり味わいながら登った。ただただ感動の連続で「凄い」としか言いようがなかった。私たちはいくつもの峠を越えた。竹林の、杉林の、九十九折れの中の石畳を歩いてきた。素晴らしい「情」と「景」を感じ見てきた。潮騒を聞き、行き倒れた人の墓標を見た。行き会った人々と話をした。なにもかもが感動であったが大門坂は筆舌では表現できない感動で圧倒された。大門坂を登りながら、熊野古道・伊勢路を歩き続けた旅人はこの坂道で何を考え、感じ、思い、振り返ったのだろうかと思いをめぐらせた。 
 
熊野那智大社
 これまで熊野那智大社へは何度か訪れたことがあるが、今度の古道歩きでこの大社の歴史の重さと庶民の信仰の深さを改めて知った。江戸時代の庶民にとって那智は、熊野詣の最終地であり、西国三十三ヵ所めぐりの出発地でもあった。大社と青岸渡寺に参ってから鎌倉時代に作られた石段を下って那智の大瀧の直下に立った。両側の見事に高い杉の間から流れ落ちる滝は水量が少ない季節でありながらも圧巻であった。旅の最後を大門坂を登って那智大社へ、さらに大瀧へと回り、かってたくさんの人々が命をかけてまで熊野詣をし仰ごうとした霊験を少しは感じることができたように思えたのは最高の喜びであり、忘れえぬ思い出となった。
 
 熊野古道・伊勢路のいくつかの峠を越えた。しかしまだ越えていない峠もある。これらを来年越えたいと願っている。

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