世界遺産・熊野古道(伊勢路) 3

世界遺産
熊野古道・伊勢路を歩く 3
 「人間は死ぬまでprocessである。私には峠も山頂もない。ひたすらに登り続けるだけだ。」 
 これは「遠くにありて にっぽん人・砂漠の羊を守れ」という番組の中で、シリアの獣医師 折田魏郎氏が語られた言葉である。心に響く言葉である。
 私の旅もまだ終わらない。ただただ歩くだけである。


横垣峠を越える
 猛烈な寒気が流れ込んでいるとかで、バスでくる途中の道では小雪が舞っていたのだが、熊野市から入った峠の麓・神木に着くと快晴。しかも暖かい。さすが南の地方だ。
 熊野古道は有馬で二手に分かれて、一方は海岸沿いに熊野那智大社、熊野速玉大社をめざして南下する浜街道、もう一方が山間を進み、阪本、風伝峠を経て熊野本宮大社へ向う本宮道である。そのうち、神木から風伝峠手前の阪本へ通じるのがこの横垣峠である。
 みかん畑の中の細い道を登って行く。一行は約60名、バス2台分だ。少し早く着いた1号車の添乗員さんが先頭で、赤い大きな→を貼っていってくれてある。私たちは2号車。2号車の添乗員さんがしんがりでその→をはがしていく。やや傾斜のきついところもあるが快適な登りである。木の階段を上がりきると、よく整備された杉林の中を行く気持ちのいいコースであった。木立の間から見える熊野灘は真っ青で美しい。ここまで来るとそれぞれが自分の体力に合わせて歩いているので、集団はかなりバラバラになっていた。私たちもコースタイムを参考にのんびりと散策を楽しむ。
 燈籠と祠が祀られた水壺地蔵があった。弘法大師が杖で地面を突いて湧き出させたといわれるそうだ。ほどなく360mの横垣峠である。峠下の東屋で持ってきた手作りのお弁当を食べる。よく晴れているが峠はさすがに冷たい木枯らしが吹きぬけていた。
 坂ノ峠の境界までくると、古道の様相は一変する。ここからは折山古道ともいわれる急な下り坂ですばらしい石畳の道となる。この地に特有の神木流紋岩という地中のマグマが隆起して波状に固形化された石で敷かれている。
 さらに少し下ると折山神社があった。ここは、野犬と野生の狼の交配種を祖先にもつといわれる天然記念物の紀州犬のふるさと阪本である。大きな亀島と呼ばれる自然石の上に建てられた神木妙見社の石燈籠や石仏を見ながら里中を歩く。
 やや広い舗装路に出た。コースマップを見ると、この道路を横切り山道に入るようになっていた。ところがその入口にバリケードがあり、通行止めの看板がある。その下に例の→が左に向けてつけてある。なるほど道路工事でもしているので左折してこの舗装路をいくよう変更されたのだな。それにしても街道を行けないのは残念。やがてR311に出た。マップによると街道(古道)とこの舗装路はほぼ平行に走っており、ここを右折し200mも行くと街道の出口と合流するように表示されていた。肝心の311を右折する→はどこにもなかった。ところが行けども行けども街道出口は見えてこない。ようやく街道出口を見つけたのは30分も歩いてからであった。したがって311との交差点は北に2km以上ずれていたことになる。古道歩きは、正確な地図を持って、自分の目と耳と足で確かめながら歩くに限ると痛感した。
 
八鬼山峠越え
 熊野古道伊勢路は、伊勢から熊野詣や西国三十三カ所巡礼などの信仰の道である。急峻な峠越えが多く、なかでもこの八鬼山越えは西国第一の難所といわれている。しかしその大部分は石畳道で、すばらしい古道である。
 夫と私は、小春日和の11月24日念願のこの道を辿った。三木里の駐車場に車を置き、JRで大曽根浦までいき、ここから歩き始めた。大曽根注連掛神事の由来を見て、向井バス停を過ぎると尾鷲節歌碑の前に出る。「ままになるなら あの八鬼山を鍬でならして通わせる」と有名な尾鷲節の一節が刻まれている。献燈所のある登り口は間もなくである。しばらく登ると行き倒れ巡礼供養碑が立っていた。難所の八鬼山道には四基の碑があるという。村人は、病に倒れた旅人の看病をし、死亡すれば地元の負担で手厚く仮葬したそうだ。八鬼山道はそのほとんどが石畳道であるが、なかでもこのあたりは施工当時の面影をよく残し、敷石も大きく立派である。この石畳道は江戸時代、紀州藩の街道整備に伴って敷設されたものといわれている。尾鷲地方は全国有数の多雨地として有名で年間降水量は4000ミリを越える。石畳の敷設は、大雨による路面の流失や崩壊から守り、夏草やシダ類の繁茂をおさえて道筋を確保するためである。しかし地元民に課せられた賦役のすさまじさは容易に想像できる。「自分達の先祖を苦しめぬいた古道が世界遺産とは!」と世界遺産登録反対の意思表示がなされていた。でもそれだからこそ、祖先の辛苦を偲び、その偉業を称えつつ古道の遺産を未来に引き継いでいくとも考えられるのでは。しかし道の両側それぞれ50mは云々など林業が蒙る被害とかいろいろ複雑な事情もあって、地元の人の反対運動もわかる部分がある。白神、知床の現状をみるとことさらに。立木、岩に大きくいくつも赤いペンキで反対の趣旨が書かれていた。しかし文化遺産の町石等にも赤いペンキが塗られている様はいかにも悲しかった。しばらく登ると、大きな敷石がありこれを踏むと小さな音がするのでその音から「ゴットン石」の名があると書かれていた。また町石がたくさんあった。町石(丁石)は、一町ごとに立てられた道標である。ここには麓の矢浜を起点として八鬼山の頂上(627m)まで五十町に五十体が立てられていたが、現存するのは三十三体ですべて地蔵尊である。奉納したのは伊勢神宮の御師や伊勢大湊の廻船問屋衆である。
 登り口から40分で駕籠立場に着いた。樹齢300年と推定される檜の大木があった。ここは紀州藩主や巡見使などが街道を通行するとき、乗っている籠を止めて休憩した場所である。巡見使の従者は多いときで100人。巡見使が通行する浦村は、財政的にも精神的にも「大事件」であったという。さらに行くと、伊勢内宮清順上人供養碑の石像不動明王立像があった。清順上人は、戦国時代二十年に一度の遷宮が長きにわたり行われず、伊勢神宮が朽ち果てていたので、諸国を勧進して浄財を募り、宇治橋と外宮を造営したという。紀和町入鹿の出身とか。
 林道と交叉したところをさらに登る。ここの大木の根元にあった町石地蔵尊はたくさん見た町石のなかでも殊に美しかった。この上にも巡礼墓碑があり、ここからが険しい八鬼山越えのなかでも大難所といわれている七曲である。覚悟して登ったが登山には比較的慣れている私たちであるせいかさほどには感じられなかった。やがて国史跡の桜茶屋一里塚。尾鷲地方の一里塚には、片方の塚の上に松、もう片方には山桜を植えたという。ほどなく江戸時代の道中日記にも書かれている大石があった。平たい石が「蓮華石」、後方の縦長の石が「烏帽子石」である。急坂を一登りすると九木峠。尾鷲から来たという初老の男性と話す。ちなみにこの日は平日で7人の登山者と出会ったのみであった。九木峠は522mで、小さな角柱の道標には「右、みきさとみち 左、くきみち」と刻まれていた。九鬼村は九鬼水軍の発祥の地である。
 さらに登る。県道311号線の八鬼山トンネルの上を行く。大宝2年(702)に建てられたとされる日輪寺があった。三宝荒神堂の中には石像三宝荒神立像が祀られている。ここは西国三十三カ所第一番札所の前札所でもあった。御堂の隣が中(荒神)茶屋で、その上に山賊を退治した萬宝院という人の墓が残っている。
 ついに八鬼山峠(三木峠 627m)に着く。ここに三木茶屋があったという。江戸後期の文人・鈴木牧之はその著「西遊記神都詣西国巡禮」の中でここから見た雄大な熊野灘に感動して「絶頂の茶屋にて 春寒し見おろす海の果てしなき」の句を記している。また「紀伊続風土記」には、「冬ニ至リ快晴ノ日ハ、日ノ出ヨリ前ニ艮ニ当リテ、富士山遥ニ海面ニ顕ハルト云フ・・・」とある。道はここから「江戸道」と「明治道」に分岐する。私たちはまず江戸道の方へ向かい、さくらの森エリアまで行った。竜胆の群生を見、山茶花の咲く整備された展望所に着くと、雄大な熊野灘の景観が展がった。絶景であった。なるほどここから富士山を眺めたのだろうか。
 分岐点まで戻り、私たちは明治の道を下りることにした。下りは、杉が植林された登り道とは一変し、自然林の中を行く道であった。かさこそと鳴る落ち葉を踏みしめて歩く下りは実に気持ちがいい。かなりの距離であったがとうとう明治・江戸道合流点に辿り着いた。さらにしばらく下ると、三木里側の登り口、籠立場であった。また行くと銘柄一里塚があった。すすきをかき分けつつ進むとやがて海岸に出た。「お疲れさまでした。でも私たちは古道の世界遺産に反対です。・・・」との看板にほっとするものがあった。海岸通りを歩いていたら「八鬼山から降りてきたのか、えらかったやろ」と労ってくださる人があり、温かい気持ちが伝わって嬉しかった。
休暇村・南紀勝浦のツアーに参加した。熊野古道の大門坂と熊野古道で最も難所といわれる「大雲取り越え」である。熊野古道の伊勢路ではないが、ここに記すことにした。
大門坂を登る
 5月21日夕方、大門坂を登った。苔むした石段267段、わずか600mなのに、しばらく歩いていなかったせいか、それともいつもマイペースなのに今回は団体、そのペースについていくのにかなり疲れた。それでも樹齢約600年の巨大な夫婦杉を潜り、杉の巨木132本の並木のこの石段はいつ見てもすばらしく美しい。また蟻の熊野詣でではないがすれ違う下り客の多さに驚いた。中に、貸し出している平安時代の衣装を纏った女性2人とすれ違ったのも楽しかった。熊野那智大社と青岸渡寺にお参りし、那智の大滝を下から見上げ、轟音を響かせる滝に向って口琴を鳴らした。
中辺路・大雲取り越えに挑戦
 翌日、快晴に恵まれ、少々の不安をかかえながら8:30青岸渡寺横の登山口を出発した。いきなりかなりの勾配の長い長い石段。しかし昨日の足慣らしのお蔭か今朝の登り調子は順調、あまり引き離されることもなくひたすら登ること30分、那智高原に着いた。いよいよ山道、ひたすら登る。そこから急な下り坂、「えっ、また登り返すのか」と思うとこの下りが恨めしい。「西国三十三所名所図会」にある登立茶屋跡まで30分。この茶屋は田辺からの日用雑貨、勝浦からの海産物を商う商店でもあった。国道42号が整備されるまで大阪・和歌山方面への唯一の幹線道路として利用されていたという。また石段の登り坂。それでも、急な登りを頑張ると、ご褒美のような20mほどの平坦地の繰返し。ガイドさんが2人で、そのうちの1人がしんがりを務めてくださった。おかげで私たちもさほど遅れることなくついていくことができた。45分で舟見茶屋跡に辿り着く。ここでしばらく休憩し、雄大な熊野灘の眺めを堪能した。「紀伊名所図会」には「山嶺より遠く海上を望めば嶋々の形態さながら刻むが如く、島がくれ行く帆船は恰も白扇を散らすに異ならず、その絶景筆紙に盡くしがたし」とある。
 ガイドマップを見ていて「ここまでくれば尾根道なのだ」と誤解していた。地点と地点の標高を結べば平坦な道に見えるがとんでもない、それはアップダウンの激しい苦しい道であった。そのうえ所要時間は標準時間とほぼ同じ、私にとってはかなりのハイペース、必死についていった。急な石段を下りきると色川辻で、八丁の掘割・花折街道の道標があった。林道を横切り山道へ、しばらくで小さな谷川に出会い、その冷たい清水で喉を潤す。また林道と交差し、渡ってさらに下りと登りを繰り返すと林道と合流する。ここからはアップダウンのある山道が続くのだが、途中崩れた箇所があり、1.3km、左側に川を望みながら、舗装された林道をゆるやかに下る。川の向こうに旧街道が見えていた。楽々と進めて嬉しいが、なんだか物足りないような。ちょうど12時、地蔵茶屋跡に着く。ここの立派な休憩所で、高菜でくるんだ「めはり寿し」のおにぎりを食べた。ほろっとした辛味の昔ながらの味でたいへんおいしかった。
 「さてここから、一気に登って一気に下る、また一気に登ってその後急な下り坂を延々と下る、難所中の難所といわれる所以だ。」とガイドの人の言。気合を入れて石畳の急な登りにかかる。石倉峠には歌碑が立っていた。
紀伊のくに大雲取の峰ごえに
   一足ごとにわが汗はおつ   斉藤茂吉
その後小口に着くまでに歌碑は7基ほどあった。
虎杖のおどろが下をゆく水の
   たぎつ速瀬をむすびてのみつ  長塚節
石畳の急な下りを降り、林道と合流し、また石畳の急な登り坂をあえぎつつ登るとようやくコース中最も高所870.6mの越前峠に着いた。
輿の中海の如しと嘆きたり
  石をふむ丁(よぼろ)の事は伝へず 土屋文明
の歌碑が立っていた。
茶屋跡から所要時間50分、絶好のペースである。ここから4.8km 随所に石段のある急勾配の下りが続く。ここを登るのはさぞかしきついだろう。腰を折って登るので胴切坂というそうだ。私はバランスが悪いのか下りは苦手な方なのだが、登山の経験があったせいか今日の一行の中では下りに入ると俄然先頭集団の中にいた。あらら・・・
風のゆく梢の音か瀬の音か
     下りの道は心たのしも   土屋文明
 拾数軒の旅籠があったという楠の久保旅籠跡を過ぎ、休憩所で一息入れた。その後も石畳の急な下りは続く。こんな道を昔の人はよく往復したものだ。中根の旅籠跡、円座石を見る。わら、すげ、いぐさなどをうずまき状に丸く平たく編んだざぶとんのような敷物を「わろうだ」という。巨石の上面の紋様をそれに見立てて円座石という。熊野の神々がそれに座って、お茶を飲んだりいろいろの相談ごとをしたのだと伝えられている。とうとう大雲取登り口に到着した。全所要時間7時間30分。随分足腰の弱った私だが、お蔭で無事踏破できたことを感謝した。登り口に西行の歌碑が立っていた。
雲とりや しこの山路は さておきて
     をぐちかはらの さびしからぬか
 
 
久しぶりに2泊3日で熊野古道を歩きに・・・
12月19日
 途中「花の窟」へ寄り、「さぎりの里」経由で、入鹿温泉「瀞流荘」にお昼過ぎに着いた。早かったので鉱山で栄えた当時の面影を残しているトロッコに乗り湯ノ口温泉に行った。670余年前(延元2年)、後醍醐天皇がこの周辺の金山発掘を手がけた当時より湧き出した温泉だという。
12月20日
 ホテルの車で千枚田の上(通り峠の降り口近く)まで自分の車を置きに行ってもらう。折りしも千枚田には朝霧が流れ、画像で見るよりはるかに幻想的な光景に感動した。さらに車で「さぎり(朝霧)の里」まで送ってもらった。前に横垣峠を歩いてあるのでその到着点からつなぎたかったからである。
風伝峠を行く(本宮道)
 役所跡を覗き、高千良バス停のところから歩きはじめた。上野の大杉を見て尾呂志側登り口へ。紅葉が残り、美しい街道である。「国史跡 熊野参詣道伊勢路 風伝峠道」の石碑が立っている。寺子屋跡だというところは立派な石垣が積まれていた。そこから石畳の登り坂で、途中旧県道を横切りさらに石段を登ると再び旧県道に交わる。そこに風伝茶屋があり、街道を進もうとすると茶屋からおばあさんが出てきて「そこは私有地だから下の道をいけ」と。でもここを通るために歩いているのだから・・・すきを見てさっと街道を駆け上がる。あった!本当の風伝峠である。北山一揆の処刑地で、宝積院へ移転した宝篋印塔、法界塔、台座のみの地蔵などがあった。また天誅組が落ち延びて来たら上から落とすために用意された石のある天誅組騒動の跡などもあった。
 風伝ひさぎりを運ぶ風伝峠
急な下り坂を降りると国道311号、風伝トンネルの近く、風伝峠降り口であった。国道脇に道わけ地蔵が2体「右・北山道 左・本宮道」と刻まれていた。
通り峠から千枚田へ(北山道)
 国道311号を歩き後地バス停のところから通り峠登り口へ。この峠の石畳が小さいのは、雨が多い地域のため細長い石を使用し、水に強いように考えられているそうだ。道幅の狭い急坂を登り、木製の橋を渡ってさらに登る。東屋の建ったところが峠で、寛永4年に作られた子安地蔵が祀られていた。私たちは街道から逸れて260m、170段のかなり傾斜のきつい階段を登り展望所へ。ここからははるか下に千枚田の全景が一望できた。峠まで戻りさらに急な下り坂をひたすら下りる。車まで戻り、この上ない快晴に恵まれ、千枚田を見ながら遅めのお弁当を開けた。
 北山川に沿って下り橋を渡って和歌山県へ。本宮で明日の下見をしてから、今夜の宿、川湯温泉の「富士屋」到着。例によって熊野川の仙人風呂を楽しむ。ああ極楽、極楽!!
12月21日
大日越で本宮大社へ
 本宮駐車場に車を置き、タクシーで湯の峯温泉まで送ってもらう。湯の峯温泉ではつぼ湯や薬湯を楽しみ、ゆで卵をしたりして1時間余り遊んだ。この温泉は日本最古の温泉といわれ、源泉は90度、また小栗判官がその重篤な病を癒したとされ、「小栗判官蘇生の地」の木標が立っていた。
 いよいよ大日山を越える。しばらく登ると湯峰王子に着いた。平安時代、上皇・女院の熊野御幸の際の休憩所が「熊野九十九王子」であり、ここもその一つ。坂はいよいよ急になる。熱帯・亜熱帯に分布する天然記念物ユノミネシダの自生地を見ながらあえぎつつ登る。ようやく峠の鼻欠地蔵に着く。ここからはゆるやかな下りで月見ケ丘神社に着いた。街道の両側に大きな檜が立っており、檜皮葺きに使われるのだろう皮がきれいにはがされた檜が何本かあった。降り坂はいよいよ険しい。しかも延々と続く。途中に行者が修行したという大岩があった。大日越登り口に降りきってから街道を大斎原(熊野本宮大社旧社地)に向う。ここにあった大社はたびたびの熊野川の氾濫のため被害にあったとされる。明治22年の大洪水により神殿の一部が流失したため現在地に遷座したそうだ。「聖地・大斎原は、全熊野古道(参詣道)の終着点であり、よみがえりの出発点である」と書かれていた。新たなる世紀が神と自然と人が共にあるよう願って建立されたという日本最大の第一大鳥居が建っていた。石段を登るとそこは熊野本宮大社、お参りを済ませてさらに大社の裏から続く街道を少し行くと祓殿王子社跡があった。戻って下る坂道の上に「祈りの道・熊野古道」と書かれていた。実に充実した熊野古道歩きであった。 

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熊野古道中辺路・発心門王子から熊野本宮大社へ
 2009年12月7日 久しぶりに熊野古道を歩いた。熊野本宮大社の近くヘ車を停め、バスで。熊野九十九王子の一つである発心門王子(悟りの心を開く入り口の意)はいかにも古道らしく静かですばらしいところであった。この道は、案内板、道標、休憩所、トイレなどが完備され快適な道であった。歩き始めてすぐの小さな集落には、水桶を回転させることによって動くしくみの人形や、木彫りの仏像やふくろうなどがいくつも設置され楽しい集落であった。地蔵尊などを見ながら進むとやがて水呑王子。ここからは一部舗装の地道の下り坂。美しい杉林の街道を下り、菊水井戸を見ながら行くと左手に果無山脈の山々が見渡せた。稜線が奈良県境となっている。伏拝王子に着く。ここからは大斎原が見え、和泉式部の歌が残っていた。茶屋でしばし休憩し、近くの井戸水が美味しいから飲んでいってと勧められ御馳走になった。下りきって林道と交差する橋を越えると三軒茶屋跡で、木戸のそばに、「左かうや 右きみい寺みち」の石標が立っていた。小辺路との分岐でもある。しばらく登った後、「ちょっとより道」の看板を見つけ街道をそれて上ると展望台があり、熊野川や大斎原の大鳥居が一望できた。さらに下り祓殿王子跡を過ぎると熊野本宮大社裏鳥居である。7km 3時間の旅であった。
大門坂を下る
 12月9日 大門坂駐車場へ車を停め、バスで熊野那智大社へ。熊野那智大社、那智山青岸渡寺、三重塔、那智大滝を巡った後、大門坂を下る。何度も上り下りした道であるが、いつ来てもここの石畳の石段と杉の巨木の並木がすばらしい。石段をゆっくり下りていると、その石のいくつかに文字が刻まれたものが含まれているのを見つけた。十一文関跡、多富気王子跡、庚申、樹齢800年という楠の大樹を眺め、夫婦杉の大樹の門をくぐると大門茶屋があり、大門坂の登り口に出た。