熊野街道 巡礼の道をいく 1

熊野街道
巡礼の道をいく 1
 ヨーロッパには壮大な巡礼の道がある。ヨーロッパ各地からサンティアゴ(聖ヤコブ)の眠るイベリア半島の先端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラをめざす道である。「サンティアゴ巡礼路」は世界遺産になっている。
 熊野古道の語り部12人は難所ピレネー山脈越えに挑んだという。約70kmを歩いたそうである。
 作家の小川國夫氏は東大の学生であった1953年、この巡礼路を900km、バイクで走ったそうだ。40年後の1994年、小川さんは再びこの巡礼路を訪れた。ホタテ貝(巡礼者の印)を胸にかけた青年たち、退職した老夫婦、いろんな人々がそれぞれの想いを抱いて今も通る信仰の道である。「世界・わが心の旅」の中で彼は様々に語る。そのひと言ひと言に心がふるえる。
 青白い炎を抱いた青春時代を振り返る。
 スペインの光は、悲しい光、痛みを伴った光である。現実の光と闇は人間の精神の映し絵ではないか。
 人生は、いつ満たされるとも知れないあてのない巡礼の旅である。
 巡礼・・・歩いているときは、自分自身に向き合う。 歩いているときは結局一人きり。
 スペインの光は、自分という存在を、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせてくれる。
 巡礼路には出発点がありゴールがある。しかし人生という現実をさすらう私たちのゴールを説明することは困難である。が人間は無目的にさすらっているのではない。さすらっているうちに、自分では気がつかなくても目的が形をとりはじめる。巡礼は、さすらいの中から目的という種子を育む旅ともいえる。人間は人生の巡礼者である。
 荒々しく美しい大自然の中を旅してきて、そこにヨーロッパの信仰の伝統を感じることができました。そして私の青春の無謀な旅もそれが何であったかということが読めたような感じです。私はなおも旅を続けなければなりません。果たして私の旅はいつどこで終えるのかと考えております。旅はこの世ならぬ他界まで続くのではないかという感じさえいたします。
 日本での巡礼の道、その最たるものは熊野街道ではなかろうか。私もこの巡礼の道をひたすら歩いてみたい。


田丸から川添へ
 山越えもあって少々心細く、運動不足気味の夫を誘って夫の休日に歩いた。JR田丸駅から先ず田丸城址に上がった。ここは南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が愛洲氏や度会氏などの援助を得て、玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことに始まる。吉野から伊勢神宮外港大湊へ通じる道は最重要路線であった。北畠を継いだ織田信雄が大改造を加え田丸城ができあがった。江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が城主となり、その後久野家が代々城代を勤めてきた。今登ってみても石垣が残り往時がしのばれる立派な城跡である。本丸跡では保育所の子ども達がたくさんはしゃぎながら遊んでいた。同じ年頃の東京に住む孫を思いしばし見とれた。天主跡に上がるとかつて伊勢湾上の船が目印にしたという伊勢の三ツ星(白猪山、堀坂山、観音岳)がくっきりと見え、これから向う紀伊の山並みもはるかに見晴るかすことができた。三の丸跡に建つ玉城中学校には大手町にあった道標が移されていた。「右さんぐう道 左紀州街道」と刻まれている。(画像)
 大手町の伊勢本街道と熊野街道の分岐点に戻り、ここから出発である。しばらく西に向かいJRの線路を越えたところで右折する。左折右折をくりかえす細い街道を辿り外城田川に出たところに庚申堂がある。青面金剛像は天明2年(1782)のもので「左広泰寺道」と刻んだ道標庚申である。少し迂回し田丸大橋を渡る。まもなく左に文化7年(1813)建立 2.65mの道標がある。「神照山広泰寺 是より十五丁」「右くまのかうやよし乃 左たなばし 志まかた道」「左さんぐうミち」と刻まれている。道をはさんで前に、豊富地蔵大菩薩、地蔵、嘉永7年(1854)の大乗妙典碑が建つ。ここからは勝田畷と呼ばれ道の左右は条里制のあとを留めた田が続く。400m先にも「富向山田宮寺 是より十丁」 2.3mの道標が建つ。
 やがて野篠のY字路で直進するのが熊野街道、下見のときはこの道を行き、坂の途中に街道供養地蔵があり、接待地蔵尊の石柱を建て「国宝観世音霊場田宮寺 是より南五丁」と刻んであったのを見た。このあたり原入口まで3km余松原が続いて蚊野松原といった。接待地蔵のあたりに僅かに松原の名残がある。Y字路には幸神社の大きな石灯篭がある。ここを左にとり野篠の里中を行くことにした。街道と平行しているらしかったからである。廃寺となった円成寺は野篠公民館になっていて子授け地蔵や遥拝所などがあった。ここで県道に戻ればよかったのだが、野篠のはずれからも県道はよく見えたし、東外城田神社の森らしいものも見えていたので、田の中に続く快適な一本道を行くことにした。ところが森は田宮寺のものだったらしく、県道と思い込んでいたのも別の道であった。結局内宮禰宜荒木田二門が住んだ禰宜の里矢野に出てしまった。かなりの大回りをして蚊野茶屋に出た。東外城田神社を見てさらに行くと、原である。Y字路の右が古道で、廃寺円通山石仏庵があり、1.65mの石柱に「巡礼道引観世音」「くまのぢをみちびきたまへくハんせおん きよきふしやうの人ハえらます」の御詠歌が彫ってある。文化2年(1805)の建碑である。役行者と庚申を祀る堂もある。街道を隔てた丘上に金毘羅堂と観音堂と秋葉堂が並び、観音堂には西国三十三所霊場の観音石像三十三体が祀られている。(画像) 左の県道沿いに2.3mの文化13年に建てられた道標は國束山頂の天台宗涌福智山國束寺への案内道標である。
 野中に入ると猿田彦ゆかりの地があり、三叉路の角に大日堂、その前に石地蔵、西隣に永昌寺山門、山門を潜ると石地蔵と廻国供養塔が並ぶ。石地蔵は光背に蓮華文を施したもので「ねむり地蔵」と呼ばれている。紀州の殿様行列の折旅人が土下座したまま居眠りして打ち首になり、哀れに思った村人が祀ったという。また西行法師ゆかりの歌碑もある。少し行くと1.8mの「右よしのかうやみち 左さいこく道」「すくさんくう道」の道標、天保4年(1833)のものである。伊勢南街道(和歌山別街道)と熊野街道(さいこく道)の分岐点である。南に向かうと「左くつか道」の小さな道標があり、その先が西外城田神社。県道に出て、成川に入る。大師堂(不動堂)がある。村中に2カ所と女鬼峠の入口に1つ道標があったというがいずれも見当たらない。女鬼峠への曲がり角には小さな地蔵が祀られていた。ここ栃ケ池の湿地植物群落は県の天然記念物で特にクチナシの群落は学術上貴重なものだそうだ。
 いよいよ女鬼峠に向う。ここは現在整備が進められており、標高120mのゆるやかな峠で歩きやすい。岩盤に荷車が頻繁に通ったためできた轍の跡や2カ所の水飲み場跡、石積み、茶屋跡などがあり、峠の頂部は千枚岩の岩盤を掘削した切り通しになっている。少し下ると六字名号碑(145cm)と如意輪観音像が2体祀られている。(画像)ここで一休みしお弁当にする。さらに下ると新池が見え、大神宮寺相鹿瀬寺跡に出る。天平神護2年(766)、称徳天皇建立、七堂伽藍の華麗な寺院であったと記録に残るそうだ。県道に出ると、「くまのみち順礼手引の観音是より十八丁」「国束寺観音道 田丸かけぬけ」、天保15年(1844)の道標、県道を少し進んで左折したところの三叉路に文政8年(1825)の「右くまの道 左さんぐう道」の道標。西相鹿瀬に入ると貞享五年(1688)銘のある高さ150cmもある立派な地蔵が建っていた。左に宮川をのぞみながら平坦な河岸段丘上の道を行く。もう少し上流から河口までカヌーで下ったことを思い出した。村はずれの山裾に五輪塔のある小堂が見える。貞享元年(1684)の銘がある。伝染病に苦しむ村人のため自ら生き埋めになって仏の救いを祈った浄保法師のため建てられたとある。深谷川を渡ると千代である。街道はここから右折したらしいが今は通れない。県道を行き左に折れる畑中の小道に入る。街道はこのまま柳原へと続いていたそうだが現在は途切れているため、途中から県道に戻る。柳原には柳原観音千福寺がある。本尊は聖徳太子の作と伝える観世音菩薩。またこの寺は花山院の西国順拝者への影護手引きの発願にちなんで手引観音とも呼ばれている。門前を通り進むと濁川が合流するところに出る。この分岐点に道標があったそうで下見のときも何度も探したが見あたらなかった。新田の熊野街道は民家の間をまっすぐにのびる。このあたりは月の浦といい村々に物資を運んでいた山田舟の舟着場であった。カヌーも確かこのあたりから出発したようだ。国道42号と交差するあたりにも道標があったようだが見つけられなかった。国道とJRを跨ぎ線路沿いに街道は進む。不動谷を通る熊野街道は「バカ曲り」と呼ばれる谷間づたいの大回りを余儀なくされていた。JRを越え国道を渡ると旧街道があるらしいが分らない。しばらく国道を行き国道とJRの間の街道を進む。やがて神瀬で、山の神祠が4カ所、庚申が6カ所あり、民俗学的に興味のある祭りが行われたそうである。街道沿いにも1カ所祀られていた。小さな道標のところで道を左にとり下る。下見のとき右に登ってしまい細い道を入っていくと馬頭観音木像のある神照寺があった。神瀬橋(めがね橋)をわたり、浅間山への道を探すが、線路が渡れない。無理に渡ったとしてもその先の山道はどうも方角が違うようだ。仕方がないので国道を大きく迂回する。やがて国道をそれ街道らしきものを上っていくと山道からの出口をみつけた。残念だったのでこの道を逆に辿った。峠は随分高い。はるか下の方に42号線が見えた。巡礼供養塔があるというので、工事をしていた人に聞いたりして探したがこの道沿いではなく山の中らしいとのことで諦めた。下って下楠の街道を行く。弘化3年(1846)の六字名号を刻した大きな石碑はすぐ見つかった。天明3年(1783)の常夜燈も建っている。(画像)渡し舟の発着地へ下る道の分岐に道標があったはずで探すが見当たらない。うろうろしていたら、このあたりの街道に詳しい森田さんという方が声をかけてくださり、案内してあげようとのこと。天保10年(1839)の道標は移転されており、それを見せていただいた。お言葉に甘えて峠も車で案内していただいた。峠への道はやはりあの線路を横切るところ、ただし街道はすぐに谷に下る。この山道は植林されてしまい廃道になっている。人一人がやっと通れる細い道を湧き水のところまで下り上り返した山の上に、安政6年(1855)銘の小さな行きだおれ供養碑があった。志摩の海野の人らしい。さらに上に佐渡の人のもあるという。峠のあたりの古道、村中に残る人家の裏の古道、旅籠の鬼瓦、中街道、竹薮の中の古道、庚申堂など詳しく教えていただいた。そうこうするうち乗る予定の列車に遅れてしまい、車で松阪まで送ってもらうはめに・・・森田さんに感謝、感謝。
 
川添から阿曽へ
 川添駅から歩き始めた。上楠と粟生の境界に享保年間の銘のある庚申を祀る小祠と山ノ神があった。一里塚もあったとされるが所在はわからないそうだ。しばらく先に道標もあるらしいがこれまたわからなかった。はずれに八柱神社と秋葉神社があった。鉄道を渡り奈良井へ入った。国道42号と合流したところが、奈良井と高瀬が合併した高奈で、ここに道標をかねた地蔵があった。今通ってきた街道は近世以降のもので、中世以前の古熊野街道は下楠から国道を右に見て高奈に出る中街道だったそうだ。その道が左から延びてきていた。国道をしばらく進み弁慶腰かけ岩の下に天保銘の石籠地蔵があった。台座には山田内宮・那智山までの里数が刻してある。ここから鉄道をこえた小道程度の街道が「熊野みち」で、国道を左に見ながら山裾をのびていく。しかし鉄道は立ち入り禁止でちょうど鉄道工事の人が監視してみえ横断を断念した。街道は国道で寸断されところどころにその痕跡を残すのみ。老婦人に昔の様子を尋ねた。「どこまで行くの?」「阿曽までです。」「あっそう!」しゃれっけのある人だと大笑いした。さらに国道を行くと右下に街道らしきものが見えた。左手奥にこれから越える三瀬坂峠、そして道のはるか彼方に大台山系が遠望できた。無理に土手を駆け下り下三瀬の八柱神社の前に出た。その道をまっすぐ進んだら行き過ぎてしまい少し戻る。ここに道標があったらしいが今は民家の庭に移されたそうだ。渡し場へ下りる道の角に文化7年(1810)の道標が建っていた。「よしのはせかうや京大坂道」「すぐ栗谷道れいふ神道 是より三里 左くまのみち」「右いせみち 是より宮川迄七里」と深彫りされている。ここから渡し場へ下りていった。ちょうど工事中の自動車道の下である。民家のはずれの家の前野納さんという88歳のおじいさんに案内していただきいろいろお話を伺った。
 渡し場は「よぼし岩」の前にありそこから「腰掛さん」という神さんの祀ってあった楠の木の下を通って「米はえ場」と呼ばれるところに荷揚げされた。山田からの積荷は米、味噌,溜りなどで、ここからは割り木(薪)を積んだ。小大名が通ることもあり、土下座して迎えたそうだ。下三瀬は開けたところでたいへん賑わったらしい。
 宮川が渡れないのでタクシーで対岸の三瀬川まで送ってもらった。渡し場から皇大神宮摂社多岐原神社(御瀬社・真奈胡さんの別称で親しまれている)の境内でここは旧道の姿がよく残っている。町道と合流するところに「左くまのみち」の道標が立っていた。峠への登り口で女の方二人にお話を聞いた。4月にはこの道を遷宮のお木曳きが通るそうだ。また「昔は小学校の1年生でも毎日峠越えで学校に通ったのだからたいしたことない!」と励ましてもらった。ところがどうしてどうして標高265mと高くはないのだが険阻な峠道であった。街道は曹洞宗妙楽寺の横を上がる。道の一段高いところに宝永2年(1705)の庚申塔が祀られていた。あえぎつつ1.1kmの急坂を登った。峠には2軒の茶屋跡があり、丘状の石窟に峠下三瀬川村吉田作右衛門が宝暦6年(1756)建立の地蔵が祀られ、その前に長州の行き倒れの供養碑が建っていた。峠を南に下るのも上りに増しての急坂であった。三瀬坂溜池を左に見てさらに下ると天水分神を祭神とする八柱神社と刻んだ石塔と小祠が建っていた。
 国道を50mで里に入りしばらくで再び国道を横断したところに、正徳2年(1712)の坂本一里塚跡の史蹟碑があった。左の高いところにある宝積寺を見ながら進む。間もなく滝原宮の境内である。途中にどくろうじんと呼ばれる青石があり、足痛の霊石として附近の人々の信仰は今も絶えないそうだ。旧道は深々とした老松の中に昔も今も変わることなく佇み滝原宮参道の一の鳥居前に出る。神明造りの鳥居から白い参道とまっすぐに伸びる大杉がつづき絶妙な対照をみせる。廃寺になった天台宗神宮寺の史蹟碑が滝原小学校校門内の跡地に建っているそうだが見落とした。
 頓登から中村・出谷にと南に続く街道はその道筋は殆ど変わらず家並も切れることがない。豪壮な邸宅が昔を偲ばせる。はずれの椿茶屋跡は見落とした。ここから街道は国道にずたずたにされ非常に分りにくい。長者野で街道は右側から草に埋もれた小径となって、谷を渡ると岩盤がそのまま道となって急坂となっていてさんぼけ道と呼ばれた石畳みちであったが、県道ができて消滅したそうだ。茶屋跡も今はない。ここから勝瀬への道をとる。寛政4年(1792)の供養地蔵は坂の中ほどに移され、天明5年(1785)の越後の供養碑と地蔵は長者坂に建っている。勝瀬峠を越えて片山に至る国道との分岐に文化10年(1813)の庚申塔があった。ここからまた街道らしくなる。塩宮跡の丘下に鉱泉の湧出する井泉が赤茶けて残っていた。天然記念物の石灰華が見られる。石灰華は噴出した鉱泉から沈澱して塊状となった炭酸石灰からできており、その形状から蝦蟇石と呼ばれている。少し下ったところに宝暦11年(1761)の庚申塔がある。西流して大内山川に注ぐ奥河内川は一部を風呂屋川と呼ばれ温泉湯治客の旅館のあったところで、川中の岩が酸化することから赤渕と名付けられている。小川橋を渡ると観音堂の辻に出る。観音堂には十一面観音、木梏・欅の古木の下に、宝永5年(1708)の地蔵菩薩・廻国供養碑・享和3年(1803)の廻国供養の観音像・宝暦12年(1762)の供養塔・天保12年(1841)の地蔵像・三界萬霊供養碑・庚申塔二基がある。ここからしばらく南して阿曽駅からJRに乗った。
阿曽から梅ケ谷へ
 雨の日が多い。気のせくまま天気予報を信じ曇天の下一人で歩いた。結局一時薄日もさしたが小雨もありという一日であった。JR阿曽駅から観音堂に戻る。しばらくしてから集落の裏の道に入り二つ三つと曲がりながら国道を横切りまた屈折を重ねる。七曲と呼ばれるところだ。途中に庚申堂や大師堂があるはずであったが道路改修のためか見当たらない。ここから街道は消滅し国道を行く。藤ケ野は国道下の大内山川に沿って進む。右側の山は秩父古成層の石灰岩地帯で真洞穴性の昆虫メクラチビゴミムシの生息するところとか。集落の入口に三界萬霊地蔵があるそうだが見つからなかった。再び国道を行き、岩船橋の手前から街道に入る。注連野である。彎曲する大内山川の水田地帯の中ほどにおかい場といって、滝原宮の御茅場が残っているとのことで、地元の人に尋ねたが「そういえば1坪くらいあったかな」という返事で場所はよくわからなかった。柏野は緩やかな勾配の坂道が続く。道の奥に津島神社があった。この参道に阿曽から川向いを来た街道が重なっている。坂を下ると宝蔵寺、前の三叉路にあった道標は民家の庭に移されたそうだ。山端を沼ケ野に向う街道を示す道標である。熊野本街道は寺下から国道を横切って西に進み郷倉のあたり南出橋と鉄橋の間に出る。渡河点は鉄橋の上流10mのところであったらしい。南出橋を渡ると垣内後の水田地帯と大内山川の間を街道がのびのびと続く。タブや榎の古木が茂る庚申塔があった。踏切から街道は山際を静かに南へ延び長野へ入る。旧道はここから山へ入り人家の上あたりの山腹を南へ進んだらしいがすっかり消滅していて入口さえ見つからなかった。岩盤の突出したところである。大皇神社の前に出た。弘化4年(1847)の子安地蔵が祀られていた。元文5年(1740)の庚申塔も道筋一段高いところにあった。踏切を渡り川岸に出る。ここに対岸下崎への渡河点があった。川辺りの土手を上流に進む。笠木川を渡り川に沿った笠木道を行くと享保6年(1721)建立の尾花の地蔵堂があった。街道は左に曲がり山手を行くのだが道路工事のため入れなかった。県道に戻って進む。庚申塔が残っていたらしいが見つからなかった。街道は上野の家並みの後ろにあったそうだがすっかり消えていた。ここから大内山川に沿って坂津の集落へ山際を進む。民家が一列に点在する。向駒への山越え道を何度も探したがどうしても見つからない。五ツ曲がりほどしなければ頂上に着かなかったそうだ。本街道かどうかはさておき、早くから開かれた道らしい。坂津橋を渡り国道を進む。街道はその奥らしいがわからない。本駒には街道が残っておりあたかも旧街道を彷彿させるように道の両側に民家が並んでいる。ここには伝馬所もあったそうだ。国道と交叉するところに国昌寺があった。さらに街道は延びている。庚申像と弁天像が並んでいた。さらに行くと大内山の一里塚があった。樹齢300年以上の大きな松があったらしいが今はなく、代わりの松が植えられていた。その下に「一番なち山へ二十七り」と刻まれた地蔵尊が安置されていた。ここから街道は谷に沿って南に向かう。杉林が延々と続く細い一本道である。ようやく開けたところに出て川辺リを歩いていたら、犬をつれたおじさんが街道は100m程山寄りの道だと教えてくださりそこに戻った。ところが出口がわからなくて木にまかれたピンクのリボンをめあてに道なき道を30分ほど分け入る。どんどん谷を上っているらしい。これはだめだと山をすべりおり細い谷をわたって動物園の前に出た。道を教わる。ずいぶん山深く入ったらしく「よく野犬に襲われなかったものだ」の言葉にぞっとする。教わった道を芦谷に下り国道に出る。あの川辺りの道なら10分ほどだろうに。国道を渡ると、下里、中組、西ケ野の間弓地区。すばらしい街道である。しかし電車の時間が気になりはじめ、あるはずの燈籠も道標も見逃した。国道に出るあたりにあった庚申塔は移されたそうだ。小学校のところで街道は国道に吸収されている。大津の集落でまた街道に入る。庚申像があった。道標もあったらしいがわからなかった。再び国道に出ると道が分岐する。荷坂峠へ向う道と志子へ越える街道である。すぐ近くの梅ケ谷の駅に向った。列車の発車時刻の10分前に着いた。
 
 
梅ケ谷からツヅラト峠を越えて加田を通り紀伊長島までのコースは既に歩いた。(世界遺産・熊野古道伊勢路2) そこでここから南へつないでいこうと思う。ただし私の住む松阪からはどんどん遠くなるのでキャンピングカーでの車中泊が必要となる。いきおいここからのコースは夫との二人旅となる。
加田から太地へ
 3月27日早朝に家を出て松阪インターから南へ、3月12日に延長開通したばかりの自動車道を走り大宮・大台インターで下り紀伊長島駅まで行く。ここから加田までタクシーで送ってもらい歩き始めた。
 大内山からツヅラト峠を経て赤羽に入り島地峠を経て加田に至る旧熊野街道と江戸以降荷坂峠が整備され長島浦を通る道が本道となった新熊野街道の合流する加田に、石仏道標があった。文化11年(1814)のもので、「左くまの道」と刻まれ、旅に倒れた人の墓碑と道標を兼ねている。その横に延宝3年(1675)の地蔵碑も建っている。ここからしばらく国道を行き、左に下りて踏み切りをまたぎ山道にかかる。ところどころにある「一石峠」「古道」の小さな木標をたどって登る。一登りで一石峠に着く。この峠は海野の人々にとっては昭和にいたるまで唯一の生活道路であったと聞く。峠から山腹をたどると平方峠。さらにくだると眼前に古里海岸が望め、里は桜の花が見ごろで、アマナツがたくさん実っていた。甲高い声で囀る鳥やウグイスの囀りも聞こえまさに春爛漫。踏み切りを渡りしばらく国道を行って、古里トンネルのところから展望台に上がる。紀伊の松島と呼ばれる島々と洋々たる熊野灘を望む絶景が展がっていた。整備された道を進み長い階段を下ると若宮神社があった。赤い橋を渡り、道瀬海岸ぞいに行く。熊谷道の登り口があった。好天でもありこの道を行くことにした。道瀬トンネルの上を越え最初の登りは傾斜が急であったがそれも数百メートル、標高140mの三浦峠に着く。満潮時には潮がさしてきたという直下の湿地帯をさけ熊谷と呼ばれる谷あいを大きく迂回する。切り通しの峠からの下りはなだらかで心地よい街道であった。やがて熊ケ谷橋が見えてきた。この橋は熊野古道が世界遺産に登録されてから架けられた新しいものだが、立派な石積み基礎台を生かし、日本古来の橋梁工法である両杖式支柱をもつ橋である。熊谷道を三浦の里に出るあたりに竜王碑があるとのことで、街道をそれて見に行った。竜王碑は三浦の人々にとって大切な農業用水池の水源を守る水神碑として元禄12年(1699)に建てられたものであった。三野瀬の駅を見ながら美しい海岸を望む太地の宮川第二発電所に着いた。
 
宮川第二発電所から始神峠を越え馬瀬までのコースも歩いた。(世界遺産・熊野古道伊勢路2)
馬瀬から鷲下へ
 3月29日、この日は大寒気団の南下で2月中旬なみの寒さ、桜の開花した暖かい当地も昨夜は雪が降り大台の山々は雪化粧していた。JR紀勢線の紀伊長島で降り、バスで馬瀬まで行って歩き始めた。馬瀬からは矢口に出て海岸沿いに相賀まで行く道と船津川沿いに相賀まで出る道とがあるが後者が熊野街道の本道らしいとのことで、こちらを行くことにした。紀勢線と国道によって街道はずたずただとのことであったが、まだかなりの部分で昔の面影を留める街道が残っており楽しい街道歩きとなった。線路沿いに延びる旧街道を行くと、左手には広い湿地が広がっていた。街道は国道に吸収されているところもあるが、それに沿うかたちで右に左に残されており、それを辿りながら行く。大河内川を渡ると上里に入る。その入口には現在も土地の人たちが信仰している平助地蔵が古い昔の堤防上に立っている。さらに行くと庄次屋という屋号をもつ家が建てられており、熊野古道休憩所になっていた。船津駅を過ぎる。火袋のない不思議な燈籠の建つ八重垣神社を見て、中里で海山郷土資料館に立ち寄った。偶然定年退職まで松阪に住んでみえたという井上さんという方に会い、しばらく話し込む。展示で最も興味を覚えたのは河内の地下倉の保存文書、各地の庄屋文書、天保のお触書などの古文書であった。その中に、巡見使関係の記録があった。「巡見使とは江戸幕府が諸国に派遣して地方政治の良否を視察させた役人のことで、将軍の代替わりのたびに派遣していた。将軍の替わりに来るのだから身分は紀州の殿様より上である。従って紀州藩はもとよりこの地の庄屋など、その対応におおわらわであったことが文書のあちこちにみえる。」との説明があり、行列の規模、泊及び休憩の村、人足の割り当て、人足心得、献立表まである。また小山浦で貧窮の中に病弱な母に仕えたゆまぬ孝養をつくし紀州藩主から賞米を一生涯賜った「孝子勘七」の記録、そして倹約の令が出されたようなときなのでそれを返上したいという勘七からの願書もあった。おもしろいのは、元文2年に狼が出た記録であった。船津川を立派な石柱のある往古橋で渡り、新田、中新田、船津では大きな神社があり、白木蓮が咲き誇っていた。昔一里塚があったという小笠原を過ぎると相賀である。相賀は昔伊勢神宮の御厨であり、古ノ本・粉本・木本といわれたところである。真興寺の境内に、はまぐり石という西国三十三所巡礼の手引観音の彫られたはまぐりに似た形の幅1.2m弱の大石が安置されているそうだ。これは銚子川左岸の熊野街道沿いにあったものを移したらしいが見落とした。銚子川に架かる銚子橋のそばに、「村中安全」と書かれた嘉永元年(1848)銘のある法華塔が川を見下ろすように建てられている。馬越峠の登り口である鷲下までは便の山コースと藤ノ木コースがある。十辺舎十九の「方言修行金草鞋」に、「香の本よき町なり。出口に川あり。大水の時は。此の川三カ所にて渡る。川上のひんの村といふ処に舟渡しあり。まこせ村峠に茶屋あり。・・・」とあり、また天保9年(1838)の巡見使通行の際に便の山仮橋工事を行ったという記録からみると、便の山コースが本道らしい。橋を渡らず山裾を川に沿って歩いた。宇山を過ぎてすぐ橋を渡ると鷲毛(下)の里、ここから馬越峠登山口までは息の切れるような急な登りであった。私たちはここから南紀特急バスで帰路に着いた。
 
鷲毛バス停から馬越峠を越え尾鷲までのコースも歩いてある。(世界遺産・熊野古道伊勢路2)
尾鷲から向井へ
 尾鷲駅からしばらく東進し街道を南下する。このあたりは寺町の名のようにたくさんの寺があった町だったが、宝永・安政の津波でそのほとんどが流されたという。途中に立派なお邸があった。財閥土井竹林の本宅らしい。山の鼻庚申の大きな碑があった。ここは山見茶屋のあったところで、中央に地蔵尊を刻んだ道標が残っており、傍らに石経碑がある。中川のあたりは古戦場であったらしい。さらに行くと、石経塚があり、寛政7年(1795)の石経碑、「くまのみち」の石標、石燈籠、橋に使ったという平たい巨大な石、一字一石碑などが並んでいた。ここを曲がると、「やのはま道」といって入り組んだ人一人がやっと通れるようなところもある狭い街道が残されていた。語り部の田中正子さんに案内していただいた。雁木、灰窯、掘井戸、古い石積なども見せていただいた。矢浜の南のはずれに後南朝の皇子桂城宮重信親王の墓と伝える宝篋印塔があり、今も当時の忠臣楠氏・野田氏の子孫が住みついているという。その先の橋と街道は広大な東邦石油の敷地に飲みこまれていた。安永8年(1779)には矢の川を渡る順礼が流死したという記録があるそうだ。工場を迂回し尾鷲節歌碑の建つ向井に着いた。
向井の尾鷲節歌碑から登り八鬼山越えで三木里までのコースも挑戦済み(世界遺産・熊野古道伊勢路3)
三木里から二木島へ
 三木里の駅から出発する。八十川を渡ろうとする手前に「ひだりくまのみち」の道標が立っていた。海岸線に沿って進み、ヨコネ道入口から現在の国道311号より約20mほど高いところを熊野街道が通っている。途中に「比丘尼転び」の看板があった。一旦国道に下り、しばらくで三木峠へと登り返す。江戸後期の越後の文人鈴木牧之の紀行文「西遊記神都詣西国巡礼」には三木峠は「三鬼山」として「三鬼山や坐ろ身に染む春の風」と詠っている。眼下に賀田湾が望め素晴らしい。標高122mの三木峠は一登り。街道から逸れて展望台へも行ってみた。苔むした石が美しい木立の中をいく。近年地元の方たちによって発掘されたそうで猪垣に沿って案内に従って下ると海岸線に出てしまった。数m先の登り口から登り返す。街道というより地元の人たちの生活道路といったところでいかにも狭い。おそらく街道はもっと上にまっすぐについていたに違いない。それでも山の神が祀られており、その祠の脇に聳える大楠はすばらしい。ようやく街道らしくなったところに「是より左くまの道」の道標が立っていた。150mの羽後峠への登りは勾配がかなり急で階段状の石畳が残っていて折からの好天にも恵まれ古道歩きも気持ちがいい。羽後峠から延々と続く猪垣の長さに弥生民族の農業への執念のようなものが感じられ驚く。安政の地震・嘉永7年の大地震で大半が崩れたが山を売って猪鹿垣を造ったと説明されていた。下って秋葉山の五輪塔には寛永18年(1641)の銘がある。秋葉山を開山した修験者の供養碑である。下りきったところが賀田の町である。予定時間をかなりオーバーしたので、昼食は歩きながら摂った。
 古川を渡る。街道は賀田駅のあたりから少し上に延びていたが鉄道によって中断されていた。山裾よりに南へ進み曽根に入る。首なし地蔵、旅の神である道祖神、飛鳥神社、石幢(六地蔵灯籠)がある。飛鳥神社境内には楠,杉の巨木やシマクロキ・バクチノキ・ムクロジ等の亜熱帯性と温帯性の植物が混生、なかでも楠は樹齢1000年以上、幹周り11.5m、高さ30mにも及ぶ。このあたり一帯が縄文遺跡の曽根遺跡であるという。南はずれの向井地墓地には、甲賀の六角氏系佐々木の一族佐々木宇右衛門は招かれて曽根に居住し曽根弾正と号したが、その弾正、夫人の五輪塔、長男孫太郎の板石塔婆があり、その上に安定寺三世元空和尚の南無阿弥陀仏名号碑がある。ここは曽根の南関所跡である。310mの甫母峠への登りはきつい。難所といわれた八鬼山越えの方がまだ楽だったと思われるほどだ。尾鷲と熊野の市境をなす甫母峠は、曽根次郎坂・太郎坂とも呼ばれ、昔ここが紀伊と志摩の国境であったことに由来し、自領他領がなまったものという。水のない坂道で旅人や順礼の苦労した道である。武州足立郡中之田村の順礼墓石、武州葛飾郡小松川村の順礼墓石がある。途中には道の両側にこんもりとした一里塚跡が残っていたり、鯨石と名づけられた大岩もあった。峠には、甫母地茶屋からの転語ともいわれる傍示(ほうじ)茶屋跡があり、京都紫野大徳寺寄進の地蔵が祀られていた。峠からはアップダウンを繰り返す尾根をいく長い道で疲れた身にはこたえる。そういえば案内に健脚コースと書いてあった。坂道に一基の無縁墓碑があり「大嶋浦 浜屋又次郎悴芳松 行年十七才 弾山道的信士 文政三辰二月二九日」と刻まれている。険しい山道で的に弾が当たるが如く急死したという意味の戒名か。ここにも長い猪垣が続き、猪垣記念碑が建っている。また「猪落とし」と呼ばれる落とし穴も残っている。道路で切通しになっているところを登り返し急坂を下る。二木島の家々は急坂にへばりつくように建っていた。逢川を渡ると二木島駅で、近くにくじら供養碑があった。熊野はわが国の捕鯨発祥の地である。この碑は寛文11年(1671)に建てられたもので「鯨三十三本供養塔」と刻まれていた。
 
二木島から波田須へ
 キャンピングカーで崖っぷちの細い道をひやひやしながら二木島に向った。駅に車を止め、まずキリシタン燈籠を見るために50mほど急斜面を登った。燈籠は庚申堂の境内にあった。驚いたことにここは一里塚跡でもあった。私たちは急坂を上り下りしたが昔の街道は浜には下りずこんな高いところを通っていたのだ。庚申森には無縁墓碑があった。信州松本在の行き倒れ墓、供養碑、地蔵尊などである。この先道は途切れているので、また浜まで下りる。逢川は、川を境に以西が熊野の国、以東が伊勢志摩の国で、熊野の神と伊勢志摩の神が逢ったことからその名がある。まず二木島峠への登りにかかる。山道で私の大の苦手の蛇に遭遇する。これだから暖かくなってからの山道は嫌なのだと足が竦む。それでも標高240mの二木島峠には程なく着いた。少し下って今度は290mの逢神坂峠に登り返す。雨の多いこの地の石畳は美しく苔むし、整えられていた。途中には水田跡や猪垣が残り、水場の横には地蔵が祀られていた。逢神坂峠に着いた。峠には昔は大きな松があり、その下に峠茶屋があったという。また駕籠立場でもあった。「おおかみ坂」の地名の由来は、伊勢の神と熊野の神が逢った「逢神坂」、狼が多く出没したので「狼坂」の説がある。現在は杉と檜の美しい峠である。峠からは石畳の急な下り坂が続く。座り仕事で足の弱っていた夫は1週間前の峠では相当へばっていたのだが、今日は慣れたのかすたすたと快調で、後をつくのにほったりした。
 下りたところが新鹿である。里川橋の袂には天保の巡礼道標が建っていた。「右なち山 左いせ道」とある。横に地蔵も並んでいた。しばらく行くと県指定天然記念物の徳司神社社叢が見えてきた。リアス式海岸である新鹿湾の海風と適度の湿度、長時間の日照に恵まれた暖地性広葉樹林である。波田須に入る小さな峠には、「波田須通れば名所がござる 西行法師の帰り松」と謡われた西行松があったという。波田須神社に至るところに鎌倉期の石畳が残っていた。一つひとつが重厚で大きく敷き方も豪快であり、伊勢街道では一番古い時代のものである。土砂流失を防ぐため「洗い越し」と呼ばれる雨水を流すための道路横断側溝も作られている。波田須は徐福上陸の地として名高く、中国や台湾との交流もあり数多くの伝承も残る。おたけ茶屋、弘法大師の足跡水を見ながら波田須駅に下った。
 
波田須から大吹峠を越えさらに足を延ばして松本峠を越え熊野市駅までも歩いた。(世界遺産・熊野古道伊勢路2)
続いて熊野市駅から浜街道を阿田和までも既に歩いた。(世界遺産・熊野古道伊勢路2)
阿田和から熊野大橋を渡り熊野速玉大社へ
 道の駅パーク七里御浜での車中泊は快適であった。早朝阿田和駅の前の街道を歩き始める。いよいよ最後の行程である。国道と合流した海岸の松林の中に六部の墓はひっそりと祀られていた。平坦な松原を見ながら国道の歩道を南進する。逆川に行き当たるあたりで国道から離れる。橋の手前に井田観音の石柱と道標が建っていた。しばらく行くと国道と旧街道の間に徳本上人名号碑と恵比寿像・地引網を伝えた人の墓があった。踏み切りを渡り坂を登っていくと、岩石が突出しているみさご峠があり、狼煙場跡といわれている。そのすぐ先が井田の一里塚跡で石柱が立っていた。ここは浜街道といっても小高くて見晴らしのよい山沿いの街道である。眼下に熊野灘が見える。古くは熊野水軍の支配下にあり、豪商紀の国屋文左衛門のみかん船もこの沖を通ったところである。広がる熊野灘を見おろしながら朝食をとった。その先に横手延命地蔵がある。今も霊水を求めて訪れる人が絶えないという。「お伊勢七度 熊野へ三度 横手の地蔵さんにゃ月まゐり」と書かれていた。さらに先に沖見地蔵が祀られていた。バイパスを越えどんどん上っていくと街道沿いに家並みが続いていた。地名は鵜殿となっていた。耳切り坂を下り再びバイパスを横切ると粥森様と呼ばれる社があった。踏切を渡り細い道を辿ると熊野川に出た。川原の道を行き鉄橋の下を潜る。この少し上流が成川の渡しである。画像後ろに見えるのが熊野大橋である。大橋の真ん中に三重県と和歌山県の県境はあった。三重県に別れを告げると程なく目的地の熊野速玉大社であった。社殿や御神木なぎの老樹やオガタマノキを眺めゆっくりと過ごした。熊野御幸を記録した大きな石碑もあった。後白河上皇の33度には驚く。なかでもおもしろい説明板を見つけた。それは「川原家」についてである。交通の要所にあり、門前町、宿場町、経済の中心地として繁栄した新宮であるが、雨が多く大水が出ることもしばしば。そのつど建築物を畳んで高いところに引き上げ、水が引けば直ちにもとの場所に建て直す。そのため組立解体が簡単にできるよう釘を一切使わない家であった。大社を後にして大辺路コースを辿り新宮駅に向った。途中で佐藤春夫成育の家の跡や阿須賀神社、徐福公園などを見て新宮駅に着いた。駅ではオーストリア・ウィーンで聞いた懐かしい「エーデルワイス」の曲が流れていた。
 車で太地くじら浜公園まで足を延ばしシャチのショーなどを楽しんだ。その夜は紀伊勝浦の休暇村に1泊し、鯨料理フルコースを堪能した。宿の窓から見える日の出もすばらしかった。この日は「川の熊野古道 熊野川」の舟くだりを楽しむつもりであったが時間がうまくいかず、代わりにウォータージェット船で瀞八丁を巡った。
 とうとう長い長い熊野街道を全道歩き通した。感動もひとしおである。

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松阪から相可へ 熊野街道は一般的には田丸を起点とするらしいが、この道には脇道も含めると何本もの道がある。松阪市新町の魚斎さんという鰹節やさんの角にも「くまのみち」の大きな石標がある。これも熊野街道の一つである。私はここから出発しようと思う。
 2006年1月29日、厳しい寒さの今年だが今日は珍しく春を思わせるような日差しの穏やかな小春日和、松阪城から出発する。石標は和歌山街道との分岐点に立っている。ここから旧街道を進む。国道42号と166号の分岐する六叉路を渡る。緩やかな上りのこの旧道は私がかつて10年間勤務した学校の校区であり、懐かしいところだ。しばらく行くと桜並木があり、「本居大人奥墓山室山道」の大きな石標があった。実はこの道を「松阪市史」の古図で調べたのだが国道42号ができたため山室道と熊野街道の分岐がよく分らなかった。するとこの石標の下に半分埋もれた石の小さな道標があり、たぶん「右山むろ 左たき いせ」らしい。ここからすぐに左折し42号に沿っていくのが熊野街道らしい。
 しばらく42号を行き三重高前の広い通りと交叉するところから旧道に入る。金剛川に橋がないので42号へ迂回し、篠田山霊園の手前の旧道に戻る。南勢病院の裏を通る。このあたりも校区だったのだが、すっかり変わってしまったと感慨に浸って歩いていると、もと担任した谷口さんという鯉屋さんを見つけなんだかほっとする。一旦42号へ出る。すると今は亡きお父さんとそっくりな教え子に会い、思わず声をかける。すっかり立派になって・・・
 ふたたび旧道に入る。山に囲まれた田んぼの中をうねうねと続く長閑な道である。ヨシの生い茂る孫川を越える。上蛸路を過ぎさらに行くとやがて小さな峠。峠は崖崩れの修復工事中だったが木立の中を行くこの道もすばらしい。道の下に大小の溜池があり、白鷺が一羽飛び立った。快適な一本道をどんどん行くと射和小学校の横に出てしまった。あれ!射和には蜻蛉坂を下るはずだったのにと、こんどは蜻蛉坂を戻ってみる。帰りのバスの中から見ると八太から通じる42号への出口らしいものを見つけたがつながりがどうもよく分らない。蜻蛉坂の途中に秋葉神社があり、その後ろにある公園に上がっていった。そこには大淀三千風の墓、国分家の功績を称える碑、竹川竹斎の記念碑などが建っていた。日だまりの中で持ってきたおにぎりを食べ、射和の町に戻り、国分家や竹川家などのあるあたりを歩いた。富山家跡と書いてあるところから古い橋に曲がるあたりの辻に「久ま野ミち」と深く刻まれた道標があり嬉しくなった。この橋はもうないので新しい両郡橋を渡ると相可である。ここからは櫛田川に沿って下るすでに歩いた伊勢本街道と重なる田丸への道である。
相可から栃原へ 相可は渡しから上がった鹿水亭の角から旧道へ入る。相鹿上神社の前を通りそのまままっすぐ行き、線路を跨いで多気中の下で国道へ出た。照ったり曇ったりだが寒くはない。黙々と国道を歩く。仁田への下りにかかったところで左手の旧道に入る。東西の道との交差点に「右 相可口駅及田丸ヲ経テ山田ニ至ル」「右 相可町ヲ経テ松阪ニ至ル」「左 熊野街道及丹生大師」の道標があった。ここから西へ向う。佐那神社を過ぎたところで踏み切りを渡る。しばらく進むと神坂の金剛座寺への自然石の道標ともう1本の案内道標が建っていた。「金剛座寺観世音是より十一丁」「昔より菩提の樹それながら出し仏の影ぞ残れる伊勢巡礼十番札所」と刻され嘉永3年(1850)のものである。この寺は藤原不比等創建と言われ、御詠歌は不比等の末裔西行法師作である。なおここからも近長谷寺に通じている。平谷と前村の間には馬頭観音が祀ってあった。このあたりは昔、馬や駕籠の屯所があったと書いてあった。のどかな街道である。線路と交差する手前に大楠神社があった。昔このあたりは北畠家と南朝派一族の隠匿地で、この樹高36m、樹周囲7.5mの巨大な楠はその頃植えられたもので樹齢約600年と伝えられる。旧道と思われる線路の右に入っていったが途中で道がなくなり、無理やり山道を登って国道に出た。おきん茶屋のところである。「右 よしのかうやみち」「左 さいこく道」の大きな道標が建っている。しばらく国道を行き、ようやく探し当てた旧街道に入る。殆ど通る人もないのか心細くなるような草に覆われた箇所もあったが、昔の旅はかくあったろうと想像されるような正に街道らしい街道であった。川添神社の脇を栃原駅を右に見て街道をいく。道の傍らに庚申堂があった。田丸からの街道にぶつかった。その道を少し戻り国道を渡ったところに道標があったとのことで探した。尋ねると自動車がぶつかり壊れてしまったとか、残念。国道に戻りバスで帰った。