オーストリア(ウィーン・インスブルック)
スイスアルプスの街 グリンデルワルトからアルプストレッキングへ
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息子のこよなく愛する街を音楽を知りたい、理解したいと歩き回ったウィーンであった。それはツアー旅行では味わうことのできない豊かな旅であった。与えられたり連れて行かれるのではない自分達の行きたいところへ行き、留まりたいところに何時間も留まる。私たちは旅を満喫していた。しかし今回は息子という通訳つきの旅で、すべて日本語で通じる世界であった。かつてのカナダ旅行のような英会話に四苦八苦し、悪戦苦闘の生活から生まれるさまざまなアクシデントや泣き笑い、そして人との出会いはなかった。その意味でほんとうに外国を旅したという実感は・・・苦労して案内してくれた息子は「何を贅沢な」と笑い、怒るかもしれない。ごめん!でも本音です。
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チロル地方のインスブルックへ
オーストリアアルプスに囲まれた爽やかな古都インスブルックへ移動することにした。オーストリアの西の端から東の端へ、長い列車の旅である。
6月15日
ウィーン西駅を出発し、メルクへ行くとき通ったザンクト・ペルテンを経て、リンツへ着く。リンツは、オーストリアでウィーン150万人、グラーツ22万人に次ぐ3番目に大きな町で人口19万人だそうだ。ヴェルス、ドイツに行くにはここで乗り換える。私たちはそのままザルツブルクへ。モーツァルトを生んだ音楽の都ザルツブルクは、「ザルツブルク音楽祭」という世界でも有数の音楽フェスティバルで有名で、音楽好きな夫にとっては一度は訪れてみたい憧れの古都だという。ここからドイツとの国境を通る。従って列車は止まらずドイツ国内を横断する。ザルツブルク城が見えたが、ちょうど対向列車の通過のため残念ながら撮影できなかった。途中パスポートの点検があった。オーストリアに入り、クーフシュタイン、ヴェルゲル、イエンバッハを経てインスブルックに着く。570kmに及ぶ5時間余の列車の旅であった。
市バスでホテルへ向う。歩いても20分足らず、2停留所の距離であり市内を見て歩いてもよかったが、大きな荷物を持っており、ちょうど来合わせたバスに乗ったのだった。今夜の宿は、モーツァルトも泊ったとという有名なHotel Weisses Kreuzである。
まだ時間も早く、街を散策することにした。「イン川に架かる橋」という名前を持つこのインスブルックは、マクシミリアン大帝やマリア・テレシアに愛されたアルプスの小さな都で、美しいゴシック建築で飾られている。また、1964年と1976年の冬季オリンピックの開催地としても有名なチロル地方の中心都市である。
街の入口は凱旋門。女帝マリア・テレジアが息子レオポルトの結婚の記念に1765年に造らせたものだが、時を同じくして夫のフランツT世が亡くなったため、南側に「生と幸福」、北側に「死と悲しみ」のモチーフが刻まれている。宿のすぐ近くにはインスブルックのシンボル黄金の小屋根が輝いていた。このあたりは旧市街メインストリートで、ゴシック様式の左右の建物の1階はラオベンと呼ばれる石造りのアーケードでエルカーという出窓が連なり美しい。市の塔は高さ51mの塔で148段登った展望台から周囲を山々に囲まれたインスブルックのすばらしいパノラマが楽しめるそうだが、「ホテルの窓から見ても大差ない」と息子がいうので、登ることは止めにした。少し行くと、大聖堂(聖ヤコプ教会)と王宮があった。
私たちはその前の宮廷教会とチロル民族博物館に入ることにした。宮廷教会は、マクシミリアン大帝の霊廟。しかし彼の意思に反して遺体はここにはない。空の柩は鍛鉄細工の格子に囲まれ、彼のエピソードを刻みこんだ大理石で飾られている。さらに両側に等身大以上の28体の銅像が居並ぶ。しかしマクシミリアンの権威の象徴として彼とは何のかかわりもない銅像も多いという。また2階にはチロルのフェルナント大公とその妃フィリピーネ・ヴェルザーの墓がある。この銀の礼拝堂には16世紀に製造されいまだに演奏されているという木製のパイプオルガンがある。
隣に、チロル民族博物館がある。本来は宮廷教会付属の修道院として建てられたもので、15、16世紀の農家の内部を再現している。天井やドアが低くベットも小さい。谷によって様式の違う家具やタイル張りの暖炉などチロルの素朴な生活をうかがい知ることができ、キリスト誕生を人形で再現したクリッペや馬小屋も服装もチロル風に作られたクリッペもおもしろい。時間があればもっともっと見ていたいすばらしい博物館であった。
帰りにイン川に架かる橋にも行ってみた。
夕食は、重厚な雰囲気の郷土レストラン・シュティフツケラーで鹿肉のシチュー、チロルの農民風家庭料理を堪能した。
画像は、上から
・ホテルの窓から見た山裾に広がるインスブルックの街
・Hotel Weisses Kreuz
・宮廷教会 銅像の前で
・市の塔のあるインスブルック旧市街
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アッヘン湖遊覧と民族芸能チロルの夕べ
6月16日
アルプス山中の澄んだ湖アッヘンゼーへ行くことにした。インスブルックからは昨日乗ってきた列車で1駅戻ってイェンバッハへ。ここからアッヘンゼーへ向う約7kmほどの区間は、ノスタルジックな蒸気機関車が運行するアッヘンゼーバーンに乗っていく。(画像上)1888〜89年に製造された蒸気機関車は定期運行されている歯軌条式鉄道では世界最古だそうで、最初は客車を後ろから押して急勾配を上がっていく。途中で、客車の外側についているステップを歩いて車掌さんが検札にきた。なんともユーモラスである。途中駅で蒸気機関車を先頭に結合し尾根道を進んでいくと程なく湖岸駅ゼーシュピッツシフシュタツィオーンに着く。およそ45分の楽しい乗車である。
連絡している遊覧船に乗り、美しいアッヘンゼーをおよそ2時間、湖上遊覧する。(画像2番め)海抜930m、山々に囲まれたアッヘンゼーはフィヨルドとよく似た地形をしており水がとても澄んでいる。ペルティサウ、ショラスティカといった美しい村が湖の周りに点在している様はまるで絵のようであった。(画像3番め)
再び蒸気機関車に乗り、イエンバッハからインスブルックへ、そして宿へと帰った。身軽であったので宿と駅の間は往復とも街を歩いた。小さな町であり、車もバスも一方通行だそうだ。
今夜はチロルの夕べを観に行くので、早めに夕食をとった。ゲーテが泊った宿のレストラン ゴールデナー アドラーである。この宿は1390年創業で、入口に宿泊した有名人の名前を刻んだプレートが掲げられていた。ウィーンでもそうであったがここでも屋外の広場のテーブル席が上席で人気があるとのこと。短い夏の日光浴を楽しむためらしく北国のお国柄がよくでていると思った。路上近くは埃っぽくてと考えるのが日本人だがそんなことは全くなく、実に心地よい。サーモンとなす サフランライス チョコレートムースなどを頼んだが、どれもおいしかった。ちなみに朝食は、泊っていたモーツァルト父子も泊った宿のレストラン ヴァイセス クロイツで。
ボルクスオペラ場で民族衣装の母子の観客を見て以来、チロル州の州都のインスブルックにくれば民族衣装が見られるに違いないと思っていたが、街中ではそうでもなかった。そこで是非民族芸能を観たいと思った。8時30分から2時間に亘って行われた民族芸能「チロルの夕べ」はすばらしいもので、私は大満足であった。珍しい衣装や楽器、そしてその演奏に酔いしれ時のたつのも忘れた。観客は30ケ国以上だったろうか。フィナーレで、それらの国の歌の一節が流れるとその国の人が立ち上がってそれに応えた。日本は「幸せなら手をたたこう」で、観客は少なかったが、私も懸命に手を振った。楽しい一夜であった。(画像下)
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スイスアルプス グリンデルワルトへ
息子が「ヨーロッパへ行こう」と言ったとき、私は迷わず「スイスアルプスのトレッキングに行きたい」と言った。「カナダでロッキーを楽しんできたのに比べると、ヨーロッパアルプスは規模が小さいと思うよ。」・・・それでも行きたい!!友達などからスイスアルプスのすばらしさやそのトレッキングの楽しさを聞くにつけ、いつも羨ましく、スイスの山々は長年の私の憧れだったのだ。恋焦がれた山々と会える。2〜3日前から風邪ぎみであった私だがそんなことは言っておられない。私の気持ちは最高潮に高揚していた。
6日間堪能してきたオーストリアにいよいよ別れを告げ、スイスへの出発である。
6月17日
宿からタクシーを呼んで駅へ。インスブルックからエッツタール、ピッツタール、ランデック、ザンクト・アントン アム アリベルグ、ランケン アム アリベルグの駅々を通る。このあたりはトンネルが多い。アルプスの山並みを越えているのだろう。ブルーデンツを過ぎたあたりから川に沿って走る。フェルトキルヒ ここがオーストリア最後の国境の町である。ここからリヒテンシュタイン王国を通る。パスポートの点検があった。Buch SGで進行方向が変わりサルガンスを経て、ヴァーレン湖を見ながら走りチューリッヒに着いた。インスブルックから4時間の旅であった。ウィーンからインスブルックへのときも今日も長距離列車はすべて日本で予約席をとってあった。こちらではあまり席の指定はしないそうだが予約席のお蔭で助かった。あるときは予約した席に別の人が座っていたが、他に席もすいていたので黙って別の席に座ったこともあったが、予約席であることを言って3人一緒に座ることができたりしたからだ。
チューリッヒの駅では、なにげなく銃を肩にした若い兵士が歩いていたりして驚いた。さすがスイスである。永世中立国スイスは、自分の国は自分で護るということか、なるほど。チューリッヒはスイス最大の都市である。ここでスイスフランに両替する。あとでユーロも使えることが分ったのだが。
チューリッヒで乗り換えて行政上の首都ベルンに着く。ここでまた乗り換えてインターラーケン、標高567mだそうだ。ここでまたまた乗り換えて標高1034mのグリンデルバルトに着いたのはインスブルックの宿を出てから8時間後であった。宿まで1kmだそうだが宿の車に迎えにきてもらい、これから3泊するChalet-Hotel Gletschergarten(グレッチャーガルテン)に着いた。
部屋は3階の角部屋で息子の部屋からと私たちの部屋からとのみ出られる専用の広いテラス付き。花で飾られたこのテラスからは、なんと下グリンデルワルト氷河が白銀に輝き、それに続くフィッシャーホルン、アイガーが眼前に見えた。ここに、新田次郎の「アルプスの谷 アルプスの村」という本があるが、その表紙の写真そのままのすばらしい景色が展開していたのである。(画像上左) 私たちはこの宿の3泊を朝夕の食事つきで頼んだので、安心してゆっくりのんびり過ごすことができた。テラスのいすに座り読書したり、景色をながめたり。夜9時になっても氷河は、夕陽に輝いていた。(画像上右)私たちは驚嘆の声をあげた。
ユングフラウヨッホへ
6月18日
昨夜は咳こんで夫をまきこみあまりよく眠れなかった。しかし今日こそこの旅一番のハイライト。私はサマーセーターにウィンドブレーカー、帽子、手袋と身支度を整えて張り切っていた。グリンデルワルトからゆっくりと登っていく登山列車で50分、クライネ・シャイデックへ。車窓に広がるアイガー北壁をはじめとする雄大な景観に目を見張り息をのんでいた。ここからはさらにアイガーの大岩壁をくり抜いたユングフラウ鉄道で50分登る。息子は「ぼくはそんな高所に立ったことはない。高山病にならないか。日本人はよく倒れるそうだ」と自分にかこづけて親の体調を心配している。それを知りつつ「大丈夫 大丈夫 気分がわるくなれば、すぐ下りてくればたちまち治る」と言いつつ列車に乗り込む。乗っていてつくづく思った。人間というのはなんという馬鹿なことをするんだ。とは言ってもありがたいこと、座っていて標高3454mのユングフラウヨッホに着く。おまけに途中駅では壁の窓から白銀に輝く山々まで見せてくれるのだから。ユングフラウヨッホでは最初、ちょっとふらつくといいつつも、富士山へ自分の足で登ったときのような息苦しさ、空気の薄さは全く感じなかった。「トップ・オブ・ヨーロッパ」と呼ばれるエレベーターで上った万年雪のスフィンクス展望台(3573m)からは、眼前にメンヒ(4099m)が見えた。エレベーターを下り2001年に世界遺産になったアレッチ氷河の上を歩いたり(画像下左)、ハスキー犬の犬ぞりを眺めたりした。また氷の殿堂にも行ってみた。そして再びクライネ・シャィデックへ降りてきた。
クライネ・シャイデックからメンリッヒェンへ
クライネ・シャイデックにはたくさんの宿泊施設やレストランがあった。その1つのしゃれたレストランで軽い昼食をとり、トレイルを歩き始めた。スイスアルプスは花々を散りばめて私たちを迎えてくれた。アップ・ダウンもほとんどなくよく整備された道幅の広いトレイル、草原を彩る可憐な花に包まれて、振り向けばアイガーの堂々とした山容とメンヒ(4099m)やユングフラウ(4158m)などの山々が見える。ほんとうはクライネ・シャイデックに向って歩けばいつも山々を見ながら歩けてもっといいのだろうが、光線の状態がよくアイガーの眺めは午後のほうがよいというし、花々はまさに盛りを迎えようとしており、しかも快晴。これ以上よい条件の日はなかろうと、感謝することしきり。「もう思い残すことはない!」(画像下右)
花の写真をたくさんたくさん撮りながらゆっくりとトレッキングを楽しむ。これがスイスアルプスのトレッキングか。濃い青色の花びら、花芯は銀色に輝くゲンティアナ・ウェルナ(春咲きのリンドウの一種)が最も心に残った。まるで青い星とでも名付けたいような花であった。エンチアン、サボナリア・プミラ、シュヴェーフェルゲルベアネモネ、シュネーフィンガークラフト、ライム・プリメル、プリムラ・エラティオール、ヴィオラ・カルカラータ、ロータス・アルビナス、ツヴェルク・マンシルト、アウリーケル、アルペン・ハーネンフス、クロッカス・ヴェルヌス、アルパイン・スノーベル・・・どの花もどの花も愛らしかった。ただ有名なアルペン・ローゼはまだ蕾で少し早かった。
メンリッヒェンまで1時間50分ほどかけてトレッキングを楽しんだ。ここからはヴェッターホルンからアイガーまでが見渡せすばらしい景観にうっとりする。メンリッヒェン山頂へも1時間足らずで往復できるそうだが、もう充分山歩きを堪能したのでここから降りることにした。この駅は標高2225mのところにあり、ヨーロッパで一番長いというテレキャビンで40分ほどかけてグルントまで降りる。上から、鹿や大きなマーモットを見つけた。グルントからは列車でグリンデルワルトへ。駅から30分ほど街を散策しながら宿に戻った。最高に楽しい一日であった。
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バッハアルプゼーへ
6月19日
スイスアルプス最後のこの日の目的地をバッハアルプー湖と決めた。そして帰りは花の多いボルト附近を歩きたいと。
グリンデルワルト 宿の近くにケーブルカーの乗り場はあった。このテレキャビンは30分でフィルストに着く。テレキャビンからは途中巨大で勇壮な滝が見えたり、下に見える広い牧草地の中に点在する家々、牧草地には放牧された牛、そこは全くハイジの世界であった。
フィルストの駅で降りると、眼前にヴェッターホルン(3701m)、シュレックホルン(4078m)、アイガー(3970m)、ユングフラウ(4158m)など名峰がずらりと連なりその展望がすばらしいのに歓声をあげた。今日も快晴。そういえばこの旅行中雨が降らず、雨傘も持ってきていたが使用したのはドナウを下る船で日よけのためにだけ、ほんとうに天候に恵まれた。
バッハアルプー湖に向って歩き始めた。歩き始めはやや登り傾斜がきつかったがそれもわずかの間だけ。快適なトレッキングである。山を眺め、花を愛で・・・このトレイルも花が多い。昨日とは違うピンクのプリムラ、シルバー・ディステル、ドリュアス・オクトペタラ、カンパヌラ・ショイヒツェリ、シレネ・アカウリス、プリムラ・ウェリス、クレムブレットリゲ・ミーレなど可憐な花が多かった。ことに北海道で見たリュウキンカそっくりのシュネーフィンガークラウトやアルペン・アネモネ、グローブフラワー(キンポウゲ科)など黄色い花の群落があちこちに広がっているさまは誠に見事で目を見張るばかりであった。花を通して遠景の山を配し何枚も写真を撮った。(画像上)
約1時間でバッハアルプー湖に着いた。湖はまだ凍っていた。(画像2番め)氷の割れ目で泳いでいる人がいて、笑ってしまった。すぐ下の湖にはシュレックホルン(4078m)が映っていてきれいだった。(画像3番め) 黄色いくちばしの山ガラスを見つけた。
帰り道では登ってくる観光客にたくさん会った。なかには日本人の団体もあって、喘ぎつつ登ってきて「あと何分ぐらいですか?」 そうか、山歩きに慣れないツアー客にとってはこの快適なトレイルさえたいへんなんだ。
50分かけてゆっくり下りてきて展望のよいレストランで昼食。近くにパラグライダーの基地があって、空には色とりどりのパラグライダーが舞っていた。突然大きななだれが発生したのを目にした。
下りのテレキャビンは途中駅のボルトで降り、そこから歩くことにした。ボルト附近はことに花の多いところで、上の方とはまたひと味違った花が楽しめた。ドイチャー・エンツィアン、ヴァルト・シュトルヒシュナーベル、タウベンクロプフ、アンジェリカ・シルヴェストリス、ダクティロリザ・マクラータ、コケモモ、ブラウアー・アイゼンフート、エビネチドリ、アルペン・ヴクサーブルーメ、ヴァルト・ヴィトヴェンブルーメ、ピンクの野バラ等々そこは花の楽園であった。(画像下)夫は、ウィーンでは遠慮していた口琴を昨日、今日のトレッキングでは思いきり楽しんでいた。下りてきた道はそのまま宿の近くに出た。
新田次郎は、その著「アルプスの谷 アルプスの村」の中で次のように述べている。
からからに乾いた澄明な空の下に、肩を並べている山々のいただきは青空との境界線に鋭い刃物できざみこんだようなスカイラインを作っていた。・・・スイスは確かに自然の美に恵まれている。だが、その美しさの背景となる、アルムも、森も、村も、教会もすべて人の手によって作られたものである。
山の画家としてセガンティーニの後にセガンティーニなしとまでいわれたアルプスの画家セガンティーニの絵を見たとき、そのあまりに暗いのに驚いた。・・・セガンティーニの描いたスイスの山村はそのまま当時の山村の暗さを表現したものであった。暗い谷間、苦しい生活、生まれて死んでいく単調な繰りかえしが、村に与えられた運命だった。セガンティーニはそれをそのまま忠実に描きつつ、常に一点の光明を忘れてはいなかった。どんな暗い絵の中にも一つだけは救いがあった。乙女の頬、少年の瞳、そし彼がもっとも愛し、もっとも得意として描いたアルプスの山こそ、暗い画面に光明を投げかけるものであった。
そしてついにアローザの谷で新田次郎は見た。スイスの美を代表するどこまでも広がる緑萌える牧草地の秘密を。2人の少年が日の暮れるまで牧草畑を作るために、石を取り除いて1カ所に積みあげる仕事をしていたのである。
スイスの美しさは一朝にしてなったものではない。何代も何代もかかって、氷河で荒らされた土地から石を取りのぞき、緑の牧地に変えていったのだ。セガンティーニの描いた暗いスイスから、現在の明るいスイスになるまでには、この少年たちのやっていたような努力のつみ重なりがあったのに違いない。そして、それは今なお山の民が生業にかける思いとして脈々として受け継がれている。
6月20日
いよいよ今回の旅行最後の日がきた。
宿からタクシーでインターラーケンまで行ってもらった。およそ30分であった。
インターラーケンから列車でインターラーケン西、シュピーツ、トゥーン、ベルン ここで進行方向を変えライン川の支流沿いに走ってチューリッヒ、チューリッヒ空港駅に着いたのは2時間半後であった。
チューリッヒからパリの北を通り、ドーバー海峡を渡ってロンドンのヒースロー空港ターミナルまでおよそ2時間20分。ここで乗り換え来たときと同じ英国航空の飛行機に乗る。
ロンドンからの出発はおよそ70分遅れ。北海の上を飛び機内食が出ると夜の7時になっていたので、乗客はほとんど寝てしまった。私はあいかわらず現在空路の画面を見つめ下に展がる世界を想像して楽しむ。ああほんとうに下が見えたらいいのになあ。ストックホルム、ヘルシンキ、白海、ウラル山脈、シベリア・ヤクーツク、ハバロフスク、オホーツク海、このあたりで朝食が出る。日本海、所要時間10時間55分、成田へ着いたのは日本時間の6月21日11時55分。ロンドンで息子のスーツケースが積み残されるというハプニングはあったが無事帰国できた。
成田エクスプレスで東京へ。東京駅で息子に見送られ、新幹線、近鉄を乗り継いで帰松した。
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