オーストリア(ウィーン・インスブルック)
 スイスアルプスの街 グリンデルワルトからアルプストレッキングへ 

文化薫るウィーン
爽やかな古都インスブルック
 そして スイスアルプス へ 
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わたしにとって旅は精神の若がえりの泉である。私は旅に出たいという衝動を感ずる。それは材料を集めにゆくのではない。材料ならば私の内部に、短い人生では汲みつくすことができないほどこんこんと湧いている。だが材料の成熟を待って生きいきと紙上にあらわすには新鮮な気持ちが必要である。旅の生活こそすがすがしい浴みである。そこからわたしは強くなり若がえって帰ってくる。(アンデルセンの言葉より)
 夫が松浦武四郎記念館館長として勤めるようになった4月から、私は旅に出ることを諦めていた。ところがリフレッシュ休暇をもらった息子がヨーロッパへ行こうと誘ってくれた。ほんとうは息子の妻と4人で行ければ最高だったのだが彼女は某大学の助教授で花の最盛期のこの時期休みがとれないのでやむなく3人での旅となった。

6月11日
 息子が予約しておいてくれた近鉄、新幹線「のぞみ」を乗り継ぎ東京駅で下りると、ホームには息子が迎えに出てくれていた。成田エクスプレスで空港へ。成田13:10発 ブリティッシュエアウェイズ(英国航空)BA8 ロンドン ヒースロー空港いき。ワールドトラベラー・プラスというエコノミーとビジネスの中間クラスの席で、なかなか座席もゆったりと広く設備もいい。この飛行機は、新潟・佐渡から日本海を北上し、ちょうどサハリンのあたりからアジア大陸を横断し、ウラル山脈を越えるといよいよヨーロッパ。座席についている画面を見ているのがおもしろく、寝ているような気持ちにはなれない。このあたりで高度39000フィート(11887m)、時速900〜1000km、外気温-58度摂氏、-72度華氏。ヘルシンキ、ストックホルムの上を飛んで、約12時間でロンドン・ヒースロー空港着。ここで乗り継いで1時間30分でウィーン・シュベヒャート空港着。空港からバスで息子が定宿にしているウィーンのHotel Austriaに着いたのは現地時刻で22:50であった。今日からここで4泊する。
 
 

ドナウの至宝 Wien
 息子の妻の専門とする学問分野は、ウィーン(ヨーロッパ中世・近世)の歴史であり文化である。手もとに広瀬佳一編著になる「ウィーン・オーストリアを知るための50章」という本がある。この本の執筆者の一人が彼女である。私は今回の旅にあたってこの本を読んで事前学習をした。 
 ウィーンは最盛期には「日の没することなき帝国」とまで言われたハプスブルク帝国の首都である。そこではシェーンブルン宮殿のような華麗な建築が次々に生み出され、モーツァルトをはじめとする豊かな文化・芸術が育まれた。ハプスブルク家の領地はオーストリアはもちろんのこと、ボヘミア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、イタリア、ポルトガル、スペイン、さらには南アメリカなどにまで及んでいたという。それは主に婚姻を直接の契機とするものである。15世紀以来、神聖ローマ皇帝位もハプスブルク家によってほとんど独占されるようになった。
 ウィーンはまたドイツを中心とするドイツ語を話すゲルマン民族東進の拠点、最先端の都市でもある。オーストリアの皇太子が暗殺されたことに端を発する第一次世界大戦は、ハプスブルク家帝国の崩壊とオーストリア共和国の誕生をもたらした。
 また第三帝国と称したナチ・ドイツに組み込まれたオーストリア(オーストリアはヒトラーを生み出した国でもある)は、第二次世界大戦に巻き込まれていった。そして、ウィーン・オーストリアは第二次大戦後に連合国によって分割占領された後、永世中立を条件として主権を回復した。やがて永世中立のステータスは、厳しい東西対立が続いた冷戦期において、ウィーン・オーストリアの国際的地位を大いに押し上げた。
 しかし、EU(欧州連合)に加盟し、ユーロを使用する国となった現在は・・・
6月12日
 画像は シュテファン大聖堂の内部
 ノイヤーマルクト
 市民公園(後ろにグリルパルツァーの像・さらに後ろに自然史博物館が見える。)
 美術史博物館(ルーベンスの絵の前で)
 終日、ウィーンの主に旧市街地を歩いた。
 ギリシャ教会 グリーヘンバイスル
 ハイリゲンクロイツァーホーフ 白地に赤い縁取りの旗が掲げてあるところが見所だという。息子は一々丁寧に説明してくれるがあまりに多くて覚えきれない。
 シェーンラテルンガッセ
 ゾンネンフェルスガッセ などという細い通りを歩く。花が活けてあったり、馬に乗るための石が埋め込まれていたり。通りの向こうには大学教会も見えた。ウィーンの町でも最も古い壁画というのも見た。やがて
シュテファン大聖堂
 「ウィーンの象徴」「ウィーンの魂」といわれる寺院。天を突くように聳える高さ137mの塔に目を奪われる。12世紀から造成が始まったこの寺院の中で、現存で最古のものは正面入口の門。13世紀後期ロマネスクのもの。全体の外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式だそうだ。フィアカーといわれる観光辻馬車がたくさん停まっていた。
ノイヤーマルクト 建物に囲まれたこの広場にはたくさんの像が置かれていた。
カプツィーナ教会(皇帝納骨所)は、ハプスブルク家の墓所である。
アルベルティーナ この文書館は息子の妻が足しげく通うところだそうだ。  
ウィーン国立オペラ座 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聞いたり、オペラに魅せられた息子が鑑賞のためしばしば訪れるウィーン。オペラ座にも何度も来たことがあるそうだ。オペラの中心であったイタリアにちなんで、ヴェネツィア式ルネッサンス様式の外観はヨーロッパ三大オペラ劇場にふさわしく壮大でかつまた華麗。
ゲーテ広場を通り、ブルク公園を抜けていくと、モーツァルト像があった。一緒に記念撮影。公園を出たところが新王宮の裏であった。表に回る。とにかく広い。ブルク門を入ると、オイゲン公騎馬像とカール大公騎馬像が向かい合って立っている。王宮は、民族学博物館狩猟・武器部門と古楽器コレクションのエフェンス博物館、世界一美しい図書館といわれる国立図書館プルンクザール(ここも息子の妻の仕事場の一つ)、王宮宝物館王宮礼拝堂などに使われている。ヘルデンブラッツ英雄広場からは、フォルクス庭園を通して、国会議事堂や市庁舎の建物や高い塔が望める。
 市民公園に入ると、色とりどりのバラが今を盛りと咲いている。自分でもバラをたくさん育てている息子はこの時期ここを訪れるのははじめてだとたいへん喜んでいた。バラの中にグリルパルツァーの像があり、その向こうに自然史博物館の建物が見えていた。反対側は宮廷劇場。公園を出て、白いギリシャ神殿を思わせる民主主義の象徴としてその発祥の地アテネにちなんで構想されたという国会議事堂の前を通り、宮廷劇場(プルク劇場)の正面に出る。ヨーロッパの中でも一流中の一流といわれている劇場だ。いわゆるなまりのない美しいドイツ語でいろいろな演劇が上演される。リンクを挟んで向かいが市庁舎。教会でもないのに100m以上の尖塔を造るのはけしからんという抗議にあい、設計者のF・フォン・シュミットは塔自体は98mに抑え、さらにその上に市庁舎の男Rathausmannという騎士像(3.4m)を載せ、手には6mの旗を持たせて計107mの高さにしたという逸話がある。
 さらに進むと息子の妻も留学していたヨーロッパの名門国立ウィーン大学。リンクの向こうには市壁の址も残っていた。
 ここでひとまず旧市街地の散策を終え、リンクの上を走る路面電車に乗って戻ることにした。美術史博物館を見学するためである。見たい博物館等場所はたくさんあるのだがなにしろ日数が限られているため今日はここに絞ったのである。威厳に満ちた存在感のあるマリア・テレジアの像が聳え立つ広場の東西に対称形の堂々とした建物が建つ。自然史博物館美術史博物館である。ウィーンで美術館を一つだけ見るなら迷わずここへ。パリのルーブル、マドリッドのプラドと並んで世界三大美術館だけに時間はたっぷりかけて鑑賞したいと案内書にでていた。入ってまず驚かされるのが、柱、置かれた彫像など建物そのものがすでに芸術。3時間あまりをかけて絵画を鑑賞してまわった。ハブスブルクの巨大な財力を持って収蔵された美術品の数々はその質量ともに圧倒され息をのむばかりであった。息子はブリューゲルのコレクション、ラファエロなどの作品がことにお気に入りの様子であったが、夫はルーベンスのたくさんの絵の前から動こうとしなかった。
 名残を惜しみつつ美術史博物館を出てシュテファン大聖堂に戻った。聖堂の前に05と刻印したものが残っていた。これはOS(オーストリア)と書くべきところナチの目を逃れるべく05と書き、オーストリアへの熱き想いを主張したのだという。大聖堂の中へも入ったが彫刻、ステンドグラスのなんともすばらしい聖堂であった。
 その後、フィアカー(観光辻馬車)に乗って60分コースを回った。少し高い視点でまだ歩かなかった小路などを通り街を見るのもまた楽しかった。ウィーンで2番目に古いペーター教会ヨーゼフ広場スペイン乗馬学校ミヒャエル広場などを馬車の上から見た。
 ウィーンは、石畳の道、石を積み上げた城壁、石造りの建造物、まさに石・石・石の石(シュタイン)の文化の街であった。いつの時代も外敵と戦い自らを守らなければならなかった人々にとっての石の文化・・・私は美しい、すばらしいが、そこにめっぽうな強さといささかの頑なさを感じたように思った。
「サウンド オブ ミュージック」に魅せられて
 画像の上は市街地を周ったフィアカー
 この日の夜は予約してあったボルクスオペラ場へ「サウンド オブ ミュージック」を観に出かけた。
 あらかじめ日本で「日本語版ビデオ」を何度も観て予習しておいたあらすじは次のようである。
 ザルツブルクとその近郊でのこと。修道女志願の若いマリアは、ノンベルク・ペネディクト会修道院の厳しい規則になかなか馴染むことができない。院を抜け出し野山で自然を感じることが好きであった。修道院長は「あなたが修道院に来たのは、深い信仰心ではなく、単なるあこがれではなかったのか。自分が本当に修道院生活に向いているのか、もう一度日常生活に戻って考えるように」と指示した。そしてマリアは妻を亡くしたトラップ大佐の7人の子どもたちの家庭教師となる。トラップ大佐は、海軍潜水艦司令官としてかって数々の勲章を授与された退役軍人であった。厳格な父に育てられた7人の子ども達は音楽を楽しむことさえなかった。そこでマリアは歌のすばらしさを感じさせ、歌わせた。子どもたちもマリアを愛し、自由で明るく闊達なそして自然を愛する子どもに育った。生真面目で厳格なトラップ大佐でさえも明るいマリアに惹かれていく。大佐には交際していたウィーンの裕福なエルザ・シュラーダーがいた。トラップ家での舞踏会で大佐は子どもたちのマリアに育てられたすばらしい音楽の才能を知った。集まった友人たち客も子ども達の姿に感動し、婚約者は大佐とマリアの心が通じ合っていることを知り去る。一方マリアは自分の心が大佐に傾くことを知り、修道院へ逃れた。しかし修道院長は、真の信仰から修道院へ入ったのではないことを知り、7人の子ども達とトラップ大佐のもとへ戻ることを勧める。心沈んでいた子ども達はマリアを心から迎え、トラップ大佐は自分の心に素直に従ってマリアと結婚した。
 ところがまもなく、家族水入らずの楽しい生活に1930年代末期の政治情勢が暗い影を落とし始める。オーストリアは自らの国家としての独立と尊厳を脅かされ始めた。オーストリアを深く愛するトラップ大佐はナチ党への加入を拒み、しかも公衆の面前で反対姿勢を示したために、一家は次第に圧力をかけられるようになる。新婚旅行から戻ったばかりの大佐のもとに、前触れもなくベルリンから海軍最高司令部の使いが到着する。そこで大佐は、潜水艦の指揮官として直ちにブレーマーハーフェン海軍基地へ赴くよう命じられる。
 危機一髪のところで、マリアは大佐の赴任を遅らせる手配を整える。トラップ家と親しい興行師マックス・デットヴァイラーの計らいで、一家はザルツブルク音楽祭の歌唱コンテストに招待されたのであった。大佐は赴任地への出発を数日遅らせて、家族と音楽祭に参加する許可を受ける。ここで一家が歌うオーストリアを愛する歌「エーデルワイス」は、会場に集う人々を感動の渦に巻き込んだ。
 音楽祭での授賞式の最中、トラップ一家は逃走に成功し、まず修道院へ、そこから山を越えてスイスへと逃れる。
 音楽祭で一家が「エーデルワイス」を歌い始めたとき、舞台上の今まで英語だった字幕が突然ドイツ語に変わった。そして、オーケストラの指揮者も観客に一緒に歌えの指示。オペラ座の公演の観客は、あたかもザルツブルク音楽祭の観客に同化したように声高らかにエーデルワイスを歌い始めた。深い感動に涙を流していた。民族衣装の女性や子ども達も。
 この物語は、実在のトラップ一家の事実に基づいてアメリカで作られたミュージカルであるが、第一次・第二次の世界大戦に直接かかわったオーストリアの人々の戦争の歴史への深い後悔と平和を希求する強い想いを私はこのミュージカルをオーストリアの地で観て、しみじみと味わったことであった。「エーデルワイス」私はオーストリアで聞き、そして共に歌ったこの歌を一生忘れないだろう。
 
 この夜は、地元のレストラン ミュラーバイスルでウィーナーシュニッツェル(鶏肉のパン粉やき)という地元料理に舌鼓をうった。 
ドナウ川を下る
 ウィーンに着いた夜、バスの中から見たドナウ川から引かれた運河が印象的であった。真夜中というのに、家々には灯りがともり運河越しに見るウィーンの街は美しいと思った。
 ドナウ川はドイツ南部の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し東欧各国を通って黒海に注ぐ国際河川である。私にとっては、「美しき青きドナウ」「ドナウ川の漣」などの言葉がまず浮かぶ。
6月13日
 今日はドナウ川を舟で下ることにした。
 地下鉄でウィーン西駅へ。そこから列車で1時間半、ザンクト・ペルテンという町に着いた。ここはニーダーエスターライヒ州の州都で、バロック建築の町として知られているので、時間があればよっていくつもりだったが、すぐ乗り換えの列車があったので、乗り換え、20分で目的のメルクに着いた。
 列車がメルク駅のホームにすべりこむと、丘の上に聳える壮大な建物が目に入った。華麗なバロックの宝石、メルク大修道院である。15〜16世紀頃の家並みの残る静かでロマンティックな旧市街地を抜けていくと坂の上にそれは建っていた。
 11世紀、バーベンベルク家のレオポルト1世が建立。18世紀に改築され、1770年にマリー・アントワネットがフランスのルイ16世のもとへ嫁ぐ途中でこの修道院に1泊している。私たちもこの壮大な修道院を2時間かけて見学した。10万冊の蔵書と手書きの本1888冊を収めた図書館、息をのむばかりの絢爛たる付属教会など見るものすべてに圧倒された。(画像上はメルク川沿いから見たメルク修道院)
 いよいよドナウクルーズに出発である。
 ドナウの中でも「銀色に輝く帯」といわれるメルクからクレムスの間の約35kmがヴァッハウ渓谷、ドナウの最も美しいところで世界遺産にも登録されている。「銀色に・・・」という意味はいろいろ解釈できる。このあたりが特に地形の変化に富み、風光明媚であること。土地が肥沃で古くから農業が盛んであったこと。そして軍事的に重要な拠点であったこと。民族大移動の頃、また十字軍遠征以来、多くの民族がここで激しく戦い、占領し、去っていった。(画像中は、クルーズの船中で)
 川沿いには次々に城や町が見られた。川に面して建つ美しいシェーンビュール城、15世紀の盗賊騎士が捕虜を塔に閉じ込めた後、谷へ突き落としたという伝説があるアックシュタイン城。旧石器時代のヴィーナス像が発見された町ヴィレンドルフ、静かで美しい葡萄畑に囲まれた町シュピッツ、中世の要塞教会のあるヴァイセンキンヒェン。川にはかなり大きな渡し舟もあった。なかでも美しいのは、 明るい水色の塔のある聖堂参事会修道院教会が聳えるデュルンシュタイン。(画像下)第3回十字軍遠征からの帰途、イギリスのリチャード獅子心王はオーストリアのレオポルト公の怒りにふれ、1192〜93年にかけて幽閉されたというデュルシュタイン城もある。ケーンリンガー城跡は遊覧船からもよく見えた。ここを見学し、泊ったこともある息子は「是非降りてみたいところだが」と残念そうに言った。
 私たちは終点のクレムスで船を下りた。およそ2時間の船旅であった。
 クレムスは、ワインの産地として栄えた町である。2万人の町だそうだ。日本で2万人といえば田舎の静かな村を想像するが、ここクレムスは中世の城壁に囲まれた町、人口の殆どが城壁の中に集中しているらしい。私たちは中世が色濃く残るこの町の散策を1時間あまり楽しんだ。町のシンボルになっているシュタイナー門も潜った。
 帰りは、ドナウ川の反対側を走る列車でウィーンに向った。1時間でウィーン西に着いた。今夜の夕食は、ジャガイモやリンゴなど自然野菜とヘルシー料理が評判のヨタナン & ジークリンデで鶏胸肉とジャガイモの丸焼き、野菜たっぷりの煮込みなどを味わった。
シェーンブルン宮殿を訪れて
6月14日 
 ウィーンで終日を過ごす最後の日となった。そこで今日はウィーンの郊外にあるシェーンブルン宮殿を訪ねることにした。リンクを走る路面電車は環状線になっている。そこで今回は少し遠回りになるが、この前乗った反対周りに乗り、街を眺めることにした。車窓に巨大な双塔の鷲をいただく建物が見える。かつてオーストリア・ハンガリー帝国時代の参謀本部があった建物である。その少し奥まったところに建築家オットー・ヴァーグナーの傑作のひとつ郵便貯金局がある。また市立公園の中にちらとだが、ヨハン・シュトラウスの像が見えた。
 シュテファン寺院とシェーンブルン宮殿を見なければウィーンを語れないとはウィーンの人が旅人によくいうセリフだそうだ。
 16人の子どもを生んだ女帝マリア・テレジア。その末娘マリー・アントワネットは15歳でフランスの王家に嫁ぐまで夏の宮殿としてここで育った。モーツァルトが6歳のとき初めて御前演奏をしたのもここである。1805年と1809年、ナポレオンがウィーンを占領した際ここを宿舎とし、華やかなウィーン会議の際「会議は一向に進まずただ踊るのみ」の大饗宴の場ともなった。明治天皇と親交のあったフランツ・ヨーゼフ皇帝はここで生まれ、ここで86歳の生涯を閉じている。また、1961年にはケネディ・フルシチョフ会議が開かれ「ホットライン」条約を締結している。
 地下鉄を降りヒーツィング門から入る。ときどきリスも横切る並木道が美しい。やがて巨大ですばらしい温室が見え、色とりどりの花が植えられた広い広い芝生の緑が眩しい。
 順番を待って宮殿の中に入る。ウィーンでは教会の中でさえストロボさえ使用しなければ写真撮影は可能で驚いたが、さすがここは撮影禁止、受付でカメラと荷物を預ける。おかげで「ウィーン」「シェーンブルン宮殿」の写真集を買うことができた。
 1680年代再建されたこの宮殿はブルボン家のベルサイユ宮殿を意識したともいわれ、ハプスブルク家の権力を誇示するものとして、ベルサイユをはるかにしのぐ大規模なものであった。(画像上がシェーンブルン宮殿)
 この宮殿で最も重要な役割を果したのがマリア・テレジア。彼女の好みや意見を取り入れ夏の宮殿としてニコラウス・バッカシーに大改築の命を出している。部屋の数1441室。ボヘミアンクリスタルのシャンデリア、豪奢な金箔を張った漆喰装飾、東洋からのふんだんな陶磁器や沈金蒔絵などどれもこれもすばらしいものばかりである。
 宮殿の外に出ると、幾何学的な構成の花壇、44の彫像が立っている総面積が1.7平方kmの庭園。その遥か向こうの小高い丘の上にグロリエッテが見えたのでその方へ向った。丘にかかるところに、ネブチューンの泉があった。これは、1780年に造られたトロイに向う息子アキレスの航海の無事を海の神ネブチュ−ン(ポセイドン)に母テティスが祈るというギリシャ神話を噴水にあしらったもの。像の後ろから水幕を通して宮殿が見えた。ゆっくりと丘を登る。グロリエッテは高さ約20m、幅約80mで、多くの戦いで死んでいった臣下のことを忘れないためにという気持ちを込めて築かれたという。(画像3番目がグロリエッテ。2番目がそこから見た庭園、宮殿、その向こうに広がるウィーンの街。)
 グロリエッテは宮殿との共通券で入ることができた。動物園も植物園もきっとそうだろうとすっかり行く気になった。ところが動物園は入場料1人14ユーロ(1876円)、結構高い。行き掛かり上、入った。私はカナダで野生のヘラジカやバッファローが見られなかったのを残念に思っていたが、それがここにいたので夢中になって写真を撮っていた。ところが夫と息子は暑さに疲れ果て「なんでウィーンまで来て動物園なんだ」とおかんむり、木陰のベンチで昼寝。パンダがいると知り、「子どもの頃、家族一緒に上野動物園で見た」という息子を尻目に「見たことない。見たことない。」と私一人走り回った。しかしやっと見つけたパンダは2頭ともいい気持ちで昼寝中。植物園にも行った。ここにはパリ万博のときジャポニズムの影響を受け造ったといわれる日本庭園があった。温室は総ガラスの建物で、二層のアーチ風なフォルムには気品があり芸術品としかいいようがない。
 朝から1時過ぎまでここで過ごし街へ戻った。息子は「まだまだ見せたいところ、連れて行きたいところはたくさんある。」といったが、「かなり疲れているようなので」と気をつかい、最後にひとところだけ行くことにした。それはCDを作ってもらうのに預けた写真やさんの近く。
 かつてここに木炭(コール)の市場が開かれていたことに由来するコールマルクトを抜けた突き当たりにあるペーター教会。ウィーンで2番目に古い教会で、バロック芸術の極地とまでいわれている。(画像下)
 そして、王宮のミヒャエル門。ミヒャエル門の前の広場にはミヒャエル教会近代建築史上名高いロールハウス。四角くてなんの飾り気もない建物を嫌い、この門はその後使用されなくなったそうだ。またミヒャエル門の手前にはローマ時代の遺跡が一部発掘されて保存されていた。
 その後、ウィーンで有名なお菓子やさんによったり、本屋さんを覗いたりしながら宿に戻り、しばらく休憩してから、ウィーン最後の夜の食事に出かけた。今夜は、レストラン マーホルドでラム肉のクリームソース煮、ぶた肉の胡椒焼きなどを食べた。なかなか美味しかった。
 帰国してから「万博 夢のアーカイブス 明治日本の国際デビュー」という番組で思いがけずウィーンと日本の古いつながりを知った。これは1873年(明治6年)に音楽の都と呼ばれる文化の香り高いウィーンのブラーター公園を会場として44ケ国が参加し720万人もの入場者があったという万博の話。ここに日本は名古屋城の金の鯱とともに江戸時代の大名たちが愛した巨大な陶磁器を出品している。高さ1.8mもの「染付御所車蒔絵大花瓶」は鮮やかな藍色と蒔絵の繊細な技術、さまざまな職人の技を結集して作られたもので人々の目を奪った。この作品の陰にはゴットフリート・ワグネルというドイツ出身の科学者の存在がある。彼は1868年、陶磁器に興味を持ち有田を訪れた。有田焼は鍋島藩の庇護のもと発展したが、職人は藍色の顔料の値がはり安く作れず明治の時代を生き抜いていけるか不安であった。そこで彼は値段の安いコバルトという鉱石を使うことを助言。これによって、有田焼は息をふきかえした。この功績に明治政府はウィーン万博への出品作品の選定を依頼。彼は、職人の高度な技術が産み出す工芸品に絞って出品。直径122cmの「染付山水図大皿」や高さ126cmの銅製の花瓶「頼光大江山入図大花瓶」などが出品された。その結果、大きく繊細な日本の技が驚嘆をもって迎えられ、「墺国博覧会報告書」には仏国「セーブル」に並ぶ世界一の作品と評価され、日本ブームを巻き起こしたとある。驚くべきことであった。 

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