推古六年(598年)、聖徳太子の創建と伝わる天台宗安楽律法流の古刹。
千四百余年の歴史を今に伝える神山一乗寺のご由緒をご紹介します。
当寺は山号を神山(こうやま)、寺号を一乗寺といい、俗に神山寺とも呼ばれています。地元では「神山(こやま)さん」という愛称で長く親しまれてきました。三重県松阪市中万町の最も東、標高約百メートルの山上に位置し、境内の広さは約1,360坪(4,490㎡)。本堂・庫裏・五智堂・経蔵・鐘楼・客寮・山門などが配置されています。
寺の由来は推古六年(598年)に遡ります。伊勢神宮参拝の折、聖徳太子が山上にたなびく瑞雲を見て「これ霊地なり」と感じ、自ら楠の大木で丈六(約4.8メートル)の薬師如来を刻み、お堂を建立したことに始まると伝えられています。以来、薬師如来を本尊として地域の人々の信仰を集めてきました。
南北朝時代には当寺西側の山上に神山城が築かれ、北畠氏の根拠地となりました。延元二年(1337年)に北畠親房の命によって築城されたこの城は、南北朝の争乱の舞台となり、その戦火により延文年中(1356〜1360年)、一乗寺は焼失の憂き目に遭います。
幾度かの戦乱を経て荒廃した一乗寺でしたが、文明年中(1469〜1486年)に転機が訪れます。諸国を行脚する遊方僧・長阿と愛阿の二人が夢のお告げにより当地を訪れ、薬師堂を再建。その後、北畠国司家の深い帰依を受け、堂舎の再建と寺領の寄進が行われ、寺としての体裁が整えられていきました。
江戸時代に入り、元禄十四年(1701年)には一乗寺の歴史に大きな転換が訪れます。天台宗安楽律の開祖である霊空・玄門の二大和尚により、当寺は安楽律院派に属することとなりました。以来、戒律を広める道場として栄え、藩主・藤堂公の外護のもと、近郷の男女が競って受戒したと伝えられています。
文政三年(1820年)、不慮の失火により鐘楼・山門・水屋を残してほぼ全焼。丈六のご本尊も焼失するという大きな災難に見舞われました。しかし日光輪王寺ご門主および藩主の援助のもと、棟梁・田所平吉氏の手により天保二年(1831年)から約九年の歳月をかけて再建が進められ、現在の堂宇はこのときのものです。
現在も天台宗安楽律法流の法脈を守り続け、坐禅会・写仏会・写経会などを通じて地域の皆様の心の拠り所となるよう、日々の務めに励んでいます。
天保二年の再建以来、大切に護られてきた堂宇が境内に配置されています。