目次
0:はじめに
1:樹木に関する民間習俗・伝説
 a:樅
 b:りんご・梨
 c:ぶな
 d:オーク
 e:菩提樹
 f:その他
 g:まとめ
2:支配階級・富裕者の樹木観
3:キリスト教会の木に係わる習俗への態度
 a:新約・旧約両聖書における樹木
  1):旧約聖書における樹木
  2):新約聖書における樹木
 b:十字架の木
 c:伝説での布教者の態度
 d:贖罪規定書の木への態度
4:キリスト教布教
5:ゲルマン民族の樹木信仰
 a:外部からの観察記録
  1):『ゲルマーニア』より
  2):ブレーメンのアーダムによる観察
  3):『ゲスタ・ダノールム』
  4):『迷信及び異教的習慣の一覧表』
  5):まとめ
 b:法律
 c:ケニング
 d:ルーン文字
  1):『エッダ』より
  2):各サガより
  3):まとめ
 e:直接木と係わる儀式・まじないなど
 f:まとめ
6:結論
7:終わりに   
引用文献
参考文献 
            0・はじめに
 クリスマスも近づく12月のはじめは、中学、高校時代の私にとってあまり楽しい時期ではなかった。カトリック系の女子校の生徒で歌に自信がない娘ならば必ず味わう苦痛だろう。一生懸命になった挙げ句に指揮者に見捨てられてはより一層惨めさが増す。それでもクリスマス合唱コンクールでの娘達の歌声は聞いていて心地よかった。ことに中学低学年の生徒が懸命に歌う「樅の木」はかわいらしいものだった。国立大学に入って宗教行事とも縁がほぼ切れても、12月になると町で耳にするクリスマスキャロルには恥ずかしいような懐かしいような気分をかきたてられていた。2年生の年だったか、テレビ番組でプロによるクリスマスキャロルを聞く機会があった。当然「樅の木」も演目に入っていた。ドイツ語で、男性の声による「樅の木」を聞くのは初めてだった。素人の、しかも年端のいかない娘達によって歌われたものしか聞いたことのない人間にとって、それは驚くべきものだった。ドイツ語の歯切れよく厳しい響きが、男性の深みのある堂々とした声によってより一層雄々しい響きを帯びる。そして歌い手の技量によるのだろうが、緑の葉を茂らせそびえ立つ樅の巨木によせるおもいが溢れ出さんばかりに感じとれた。
 ドイツ人達の木によせる思いはどこからくるのか、最初に疑問に思ったのはこれがきっかけだったと思う。それまでにも、何分ひねくれた小娘であるから、カトリック系の女子校の図書館でキリスト教以外の宗教についての本をぼろぼろにしていたので、樹木信仰について刷り込みがなされていたのかも知れない。しかし、あらためてその歌で樹木への思いとはどのようなものであるか疑問を持った。高校時代のキリスト教徒に駆逐された宗教に対する興味が、大学で満たされるというのも奇妙な縁であるが、とりあえず義務教育ではない教育期間中持ちつづけた興味の集大成として、この論文を書いてみたい。
        第1章 樹木に関する民間習俗・伝説
 a.樅
 もともとScottish pineに対してつけられた北欧系の名称。他のpine(マツ)とは異なり、幹は普通真っすぐに伸び、樹形は円錐形またはピラミッド形になる性質がある。ただ、マツと混同されることが多い。たとえばアッティス、ピテュスPitysの神話など.(1)
 樅と言えばまず思い浮かぶのはクリスマスツリーである。だが、そのクリスマスツリーはドイツでは樅とは限らず、ドイツトウヒでもよい。18世紀末、ノルトリンゲン地方ではクリスマスの木は樅の木ではなく、何ヵ月か前から壷にさしておいた桜などであった。いずれにせよ、ドイツでもクリスマスツリーはすっかり民間に定着している。だがしかし、クリスマスツリーが歴史に現われるのは16世紀から17世紀である。1605年に、エルザス地方についての旅行記に、シュトラスブルクでクリスマスに室内に樅の木を立て、紙で作った薔薇の花や林檎、聖餅、砂糖などをつり下げる行事が記載されている。シュトラスブルク大寺院の神父もクリスマスに木に様々なものが釣り下げられ、後でむしりとられる事を偶像崇拝として1657年に批判している。バーゼルの1597年の記録では、仕立て職人が、クリスマスに林檎やチーズを吊した緑の木を持って歩き、職人集会所でつり下げた食べ物をむしりとった。1600年、エルザスのシュレットシュタートでは、名士会が会議室に樅の枝をクリスマスの枝として立て、林檎や聖餅を飾り、1月6日、公顕祭に子供達に振舞っている。さらに遡って1570年、ブレーメンの同業組合の記録に、小さい樅の木に林檎や胡桃などがつけられ、組合集会所に立てられたという記録がある。このように最初はもっぱら豊かな都市の職人組合によって始められた風習である。広く民衆に一般化したのは民衆が豊かになった19世紀の後半である。クリスマスツリーの習慣がクリスマスツリーとして意識され出したのはせいぜい遡って400年である。しかも樅の木ではない。(『クリスマスの習俗I』による)
 しかし、樅の木によせる人々の思いは確かに存在する。クリスマスに先立つ準備期間、待降節には「待降節の輪の祈り」が行なわれる。緑の枝で輪を作って天井から吊し、一週間ごとに一つづつその上の蝋燭に火を灯す。最後には4本のろうそくに火を灯す、キリストの誕生を待つ期間である。この輪は樅の枝で作られ、実のついた柊や宿り木もあしらわれる。(@による)余談ながら私もまだ素直だった中学時代に一度学校で行なわれた「待降節の輪の祈り」に参加したことがある。ドイツやその他ヨーロッパの国々で行なわれるものとは比べものにはならないだろうが、緑や赤の木々の上にともされる蝋燭の光の美しさは幾分味わっている。この待降節には、他にもいろいろと行事がある。若者が木曜日ごとに薪で戸を叩き、時にはそれに樅の枝を添えて、リボンで結んで想う娘の家に置いておく。(@による)また、チロル地方では樅の若木に火をつけて踊る。(Bによる)
 教会歴にはない祭りであるファストナハトには、バーデン・ヴェルテンブルクでは一週間前に緑の葉を残した樅を広場に立てるというならわしがある。
また、夏の迎え入れの儀式にも使われる。ファストナハトの準備期間ともいえる四旬節の日曜日、アイゼナハでは人形に火をかけ、山から落し、次の日樅の木を切り、紐で飾って立てて、その紐を奪い合う。夏の日そのものである夏至には、幹の下の方の皮をはいだ樅を広場に立て、色を塗った卵で飾り、その周りで踊るという祭りがある。夏至にはドイツのみならず多くの国々で火祭りが行なわれる。その火のためにバイエルンでは、燃料をもらう少年が、一人を樅の枝で体中包み、綱でひいて村中を練り歩く。(Bによる)また、その火の中に樅やねずの枝を投げて煙を出し、その煙で牧草地などを燻して病虫害を防ぐこともある。
 キリストの復活を祝う祭りである復活祭の習俗として樅の若枝を家の戸口に飾り、堆肥にもデーモンや魔女よけに枝をさすというものがある(@による)。同じように、家に係わる習俗で、樅は棟上げ式に使われる。これはドイツ中でみられるものらしい。屋根が出来ると、近所の娘達が飾りをほどこした樅を持って家を三周し、大工が上げて祝辞をいいながら梁につける。樅の枝を扉の前に置いて魔除とすることも多い。(『世界有用植物事典』による) クリスマスツリーと並んで有名なのが五月樹である。これは樅とは限らず白樺である場合も多い。ドイツ語のMaienには「五月樹」という意味の他に「白樺の若枝」という意味もある(@による)。五月祭の日に立てる柱の事であるが、5月1日以前に山や森で樅などを選んで枝払いをし、聖ゲオルクの日に広場に立てる。この頃白樺や樅の若枝を切り、花を添えて娘の家の窓にさすこともある(@による)。この習俗は収穫祭にも見られる。シュヴァーベンでは5月1日に樅を飾って踊り、ザクセンでは家の中に樅を持ち込む。(Bによる)。 この時樅などの枝を払うことは、悪魔などが宿っているのを払うためであるとも言われる。(Bによる)
 南部ドイツエアランゲン市の婦人によると、墓に樅の木の葉を敷き詰めるという風習もあるそうだ。
エルザス・タン地方では、三本樅の松明祭という有名な行事が行なわれる。聖テオバルトの日(6月30日)に広場で清められた樅の木に火がつけられるというものであり、その燃えかすに治癒能力があるといわれる。聖テオバルトの聖遺物に係わる奇蹟がもととなっており、教会と俗権力との係わりなどの点からもおもしろい祭りである。(『異貌の中世』による)
 以上見ていくと、樅の木はなにかを待ち望む迎えの時や、守護としての力を感じさせるものがあるらしい。また、墓に飾る風習や、五月樹として卵とともに使われることからみると、生命力にもつながっているのではないだろうか。また、待降節、四旬節、聖ゲオルクの祝日など、キリスト教歴、夏至祭、五月祭など教会歴ではない日双方と結びついている。
樅に関わる伝説は、親切な妖精にまつわるものが多いという。仙女から樅の枝を幸運なものだといってもらった三人の青年のうち、捨てずにとっておいたものの枝のみが黄金に変わったという話や、樅の木に住んでいた妖精がいつも自分の朝食を分けてくれる娘の涙を真珠に変えてやり、さらにその後美しさなども与えたなどというのはその代表だろう。(Aによる)樅の木の上にある鳥の巣の中の石をつかんだら姿が見えなくなったという話もある。その話の中では、どうやら樅が魔女達の集合場所として捉えられているらしい。樅が魔女や仙女の住処であるという伝説はまだある。貧乏な母親が樅の森のそばを通って行くと、仙女の住処に行き着いた。そこからパンの匂いがしたので、思わず不平を言うとパンがもらえたという。(『世界の民話1ドイツ・スイス』による)
b.りんご・梨
 「 りんごの共通の祖先と言えるものは、野生のヤマリンゴである。…このりんごの実は、とても酸っぱく、口がすぼまるほどの味である。…中世にこの小さなヤマリンゴから作っていたものは古いレシピからわかる。」(2)
 りんごと言って神話などですぐに思い浮かぶのはパリスのりんごである。ギリシャで女神の美しさの証とされ、戦を招いたこの実は、ドイツなどでは純朴な恋の(ヨーロッパにおける古い恋のスタイルが「純朴」なものか否かはこの際問わない)占いに多く使われる。
 聖アンドレアスの日(11月30日)に、若い娘が未亡人からりんごをもらって二つに割り、片方を食べて片方を枕の下にいれて眠ると未来の夫が夢に現れるという。(Aによる)また、12月4日の聖バルバラの日に桜桃、杏、りんご等の枝を若い娘が切って暖かい部屋で水にさしておき、それがクリスマスまでに開花したならば願いが叶うという。(Blatter von Baumen Aによる)
 大晦日に水をいれた鉢と石鹸、タオル、りんごをベッドの前のテーブルにおき、「りんごさん、言っておくれ、誰が私の夫になるか」と唱えると未来の夫がきて顔を洗うとも信じられている。同じ大晦日、またはクリスマスにりんごの皮をむいて肩ごしに投げ、その形から未来の夫の名を読みとる占いも行なわれた。(Aによる)
 りんごには何かしら人が決して知ることの出来ないものを知らせてくれる能力があると思われているらしい。恋占いだけではなく、命に係わるものもある。子供が生まれたときに、息子ならりんごを、娘なら梨を植えるという風習がある。後産をそれぞれの木の下に埋めることもある。(Bによる)そしてその木が枯れてしまうと、子供が早死にするという。また、庭のりんごが二度花を咲かせると所有者の死、もしくは結婚式がある。結婚式でりんごをピラミッド状に積み、その崩れ方で夫婦の行く末を占う。また、りんごに限らずに柳などでも行なわれるが、二股の若枝で水脈などを探る占い棒も存在する。(Aによる)
 梨に係わる風習もまた林檎と似て恋に係わるものが多い。
 クリスマスか聖トーマスの日に、梨の木に杖か藁束を投げ、かかるかかからないかで恋の行く末や結婚の時期を占う。また、クリスマスか大晦日に娘が梨の木を揺すり、犬の吠える方角から未来の夫がやって来るという。そのほか、男の心変わりを知ったり、男の子と女の子どちらが生まれるかを知るためにも使われる。(Aによる)
 梨にしろりんごにしろ、性的なもの、生命に係わることを予言するもしてとらえられていたようだ。
りんごや梨にまつわる伝説は多い。鍛冶屋が旅人を泊めてやったところ、3つの願いを叶えてくれるということになった。そこで一つ目に、椅子に招かない客が座ったときに、鍛冶屋が放してやるまでくっついていること、二つ目に庭のりんごに登る人を同じ目に合わせること、三つ目に袋からだしてやらない限り出てこられないようにすることである。そして死神が鍛冶屋のところにやってきたとき、鍛冶屋は死神を言葉巧みにりんごの木に登らせ、降ろしてやる代わりに永遠の命を約束させた。(Aによる)日本のイザナギの黄泉の国への物語を彷彿とさせるものもある。ある王子が娘を見初めた。しかしその娘は魔女である母親によって閉じこめられていた。娘は王子に広場の老婆から胡桃とりんごと梨を買うように言った。そして娘の指示によって王子が買ってきた胡桃を割ると家のドアが開いた。逃げだして、追って来る魔女を見て、娘はりんごを後ろに投げさせた。すると大きな海が出来た。それでも追いかけてきたので、次に梨を投げさせた。すると大きな森が出来た。まだ追いかけてくるので胡桃を投げさせると、獣などが出てきて魔女を食いちぎった。この後もいろいろとあるが、結局結婚してめでたしめでたしと終わる。りんごが直接魔力を持つものとして描かれるものもある。悪魔と取引をすることによって魔法の道具を手にいれた男が、王女とトランプで賭をして、その道具をうまくだまし取られたので文無しとなる。その城を出て空腹になったのでりんごの木に登ってりんごを食べると鼻が伸びた。そのりんごをいくつか取り、歩いて行くと梨の木があったので食べてみると今度は鼻がもとにもどった。そこで王女にこのりんごを食べさせ、梨は食べさせずに仕返しをしたわけである。(『世界の民話1ドイツ・スイス』による)デンマークの話であるが、りんごで健康を取り戻す話がある。健康の実をつける木を相続した兄弟がいた。その国の王女が病気にかかっていたので、それぞれにその実を持って行った。しかし上二人はたまたま会った老婆に無愛想に応対したので、実を不気味な動物や虫などに変えられてしまった。末息子は愛想よく応対したので、無事に城の番兵にも怪しまれずにすんだ。番兵がその実(りんごである)を2つ試してみると気分が晴れ晴れとし、王女が一つ食べると枕から頭を上げて、二つ目でベッドの中で起きあがり、三つ目で起きて部屋の中で踊った。その後は例によって試練をへた末息子が王女様と結婚し、幸せに暮らしていく。(『世界の民話3北欧』による)
民話や伝説の中でもりんごは魔力を持ち、生命や健康に関わるものであるらしい。
c.ぶな   
 ぶなの若芽ほど柔らかいものはない。絹のような輝かしい細毛でおおわれ、陽を浴びるとまるでベネチアングラスであるかのように、強い緑に輝く。(3)
 ぶなは実際の生活に大きく役立った。豚の餌として、食用油の原料としてそのどんぐりは重宝し、また洗濯やガラス製造、肥料のためにその灰は灰汁の原料として使われた。
 しかし力を持つものとしてもとらえられている。北ドイツに、その幹の穴をくぐると病気が治る古いぶながあるという。また、占いにも使われる。南ドイツで、商人達はぶなの目の出方で景気を占う。果実が下から芽を出すと景気が登り調子になり、その逆だと景気が悪くなる。また、ぶなの木を切りとってそれが乾いているかどうかで冬の寒さを知る。ぶなの芽が早く出ると収穫を早くし、秋にぶなの実が多くなると厳しい冬がくる。同じぶなの実の多少によって私生児の多い少ないもわかるという。ぶなの木で出来た盥で入浴した女の子は成長すると男好きになるとも言う。
ぶなの木から供犠のパンが作られて、万霊節に施されたこともある。(Aによる)
 雷よけの木としてもとらえられたらしく、このような民謡がある。
 Eichen sollst du weichen/Vor Fichten sollst du fluchten/ 
 Weiden sollst du meiden/Buchen aber suchen.
 (4)
 実際に、落ちることは少ない、という事なので信仰としてのものなのか経験的なものなのかの判断が苦しいところではあるが。しかし、復活祭の祝火の行事で、教会近くの広場でたいた聖なる火でオーク、胡桃、ぶななどの棒を焼き、それを持ち帰って、さらに新しい火として家で焼き、その家を火災や雷などから守ってくれるように神に頼むという行事がある。また、何本かとっておいて激しい雷の時に燃やしたり屋根にさしたりすることから言っても、あながち経験からくるものとばかりも言えないだろう。(Bによる)天候占いも農民の知恵ととらえられなくもない。幾世代の経験に裏付けられた知識と信仰とは違うだろう。しかし、穴くぐりや景気の善し悪し、私生児の多少などは明らかにぶなに超自然的な力を感じている証拠であるだろう。 また、その占いの性質からすると、未来の予言能力との係わりも読み取れる。景気の善し悪しの占いなどを見ればわかるだろう。 
ぶなに関わる伝説としては以下のようなものがある。
中部ドイツで布教中の使徒が、熱心さの故に異教徒に多くの敵を持っていた。それが高じて異教徒に殺されそうになったとき、ぶなが彼を包み込んで守った。南ドイツではキリスト教とは無関係な伝説がある。ある男が松明用の木を取りにいって、最初の斧をぶなにふるうとすぐに恐ろしい響きが聞こえて、かまわずに続けるとそれがいっそうひどくなったので、そのぶなが不死身の木であると男は知り、切るのをやめたという。
(Aによる)ぶなに対して守護、あるいは生命力を感じていることが伺われる。
d.オーク 
 「オークは風と戦う。オークはそのこわばった巨大な蛇のように幹からつきでている、角張った、太い枝で風と戦う。」(5)
 筆者を1993年の3月、一ヶ月の間家に泊めて下さった南ドイツエアランゲン市の婦人は、ドイツの木とは何か、という筆者の問いにまずオークを挙げて下さった。ドイツのコインの裏にもオークが描かれているところを見ると、あながちその婦人一人の思い入れでもないのだろう。 オークに係わる習俗は実に多岐にわたっている。ぶなのところで述べたくぐり抜けの風習はオークでも行なわれている。このような穴があいたオークがない場合は、雷に裂かれたオークを使ったり、日の出前に縦に割っておいたオークに病人を押し込み、反対側から受け取るということをいっさいだまって行なったりもする。そのほかにも治療に使われることが多い。棺の釘で自分の患部に触れた後、呪文を唱えながらオークの幹の自分の頭の上のところに打ち込むと病気が木に移る。(Aによる)オークの枝を裂いてそのあいだに病気の子供を通し、その後枝を縛って枝がくっついたらその子は治るという。(『図説ドイツ民俗学小辞典』による)また、病人の手の爪と足の毛をオークにあけた穴にいれ、穴を塞ぎ、その上に牛糞を塗る。そして三カ月以内に治ったならオークの木が代わりに病気になったという。(Bによる)熱冷ましに森へ行ってオークの周りを歩き、
 今晩は お婆さん
 あったかいものと冷たいものをもってきましたよ
というらしい。(6)
家畜を病気にさせないために葉を食べさせたり、魔除蛇よけなどにも使われる。(Aによる)
 また、ぶなのところでも同じく述べたが、雷避けに使われる場合がある、これはドイツ語圏に限らず広くヨーロッパで行なわれている。冬至の火祭りに、ユール・ロッグ(クリスマスの祝火の大きい薪)と呼ばれる慣習がある。ウェストファリアでは、太いオークの丸太であるこのユール・ロッグが少し灰になると火からだして保存し、雷がなると火に再び入れる。これがいぶっていると雷が落ちない、という。プロヴァンスにも似たものがある。これはクリスマスイブに燃やし始めて公現祭まで残ったものを雷避けに使う。フランダースでもユール・ロッグの燃え残りを雷避けに使っていた。また、この灰は農作物の生長をよくしたり、薬にもなったりするという。またオークは、清めの火を熾すときにも使われたという。(Bによる)実際にオークにはよく雷が落ちるらしい。ぶなで挙げた歌にもそれがあらわれているし、オークの根は深く伸び、水脈に達することがあることから、よく落ちるのだろう。それを逆にとって避雷針のように使いたがるというのも有り得る話である。
 そのほかにオークの棒や枝がいろいろな行事に使われる。ウェストファーレンの村では、害虫防ぎのため、聖ペテロの日にオークの棒で木を
叩きながら子供達が以下のように唱えるという。  
「貴いお虫様、どうか出ていってくだされ 聖ペテロ様がおいでになりましたぞ」(7)この日は春の始まりとされるが、冬の始まりである聖マルチンの日には「マルチンの枝」と言うものを使った行事がある。オークにねずの枝、白樺の若枝を束ねたもので、これで家畜を叩いて祝福を祈る。その時にはこのような言葉が口にされる。
 さあ、尊い聖マルチン、おいで下され。
 若枝をたずさえ、 
 杜松を沢山、
 牛や仔牛を沢山、
 枝葉を茂らせ、
 干し草を沢山持って来て下され!
 この若枝を畜舎の棚に挿しておけ。
 そうすれば来年も牛は無事である。
 この若枝を畜舎のうしろに挿しておき、
 来年喜んで取り出そう、
 聖マルチンの名において。(8)
オークは使わないが、これに似たもので、「若枝たたき」という習わしもある。人々が互いにFrisch und Gesund!といいながらななかまどやねずなどの枝で叩き合い、互いの一年間の健康と幸福を祈る行事である。これは聖シュテファンの祝日、新年、御公現の祝日などに行なわれる(『図説ドイツ民俗学小辞典』による)。これらは健康や、豊作、家畜の繁栄、つまりは日常生活における豊かさを祈る人々の思いが如実にあらわれたものだろう。
 他の木にも見られるように、オークでも様々な占いが行なわれる。聖ミヒャエルの日にオークが新鮮だと、次の夏は豊作で、濡れていると湿っぽい夏であり、かさかさしていると暑い夏がくる。
 ホルスタインにある「花嫁のオーク」のまわりを娘が三度まわると結婚できる。
 どんぐりが沢山なると豊作で、その逆が不作、というのもある。これは全く私の直感による見解であるが、このどんぐり占いは信仰と言うより実際の体験に基づいているのではないだろうか。どんぐりは中世には貴重な豚の飼料であった。それが多く実ればその冬をたっぷり豚の肉を食べて楽に暮らせるのは当然である。豊作、というのは農耕上の事であり牧畜である豚と結びつけるのも乱暴であるとは思うのだが。(Aによる)
 オークは病気治療、雷よけ、豊饒、占いなど民間信仰においてオールマイティに有効な木とされているらしい。ドイツのみならず、ギリシャや遥か古代のケルトなどでも神聖な木とされた。オークはドイツ人ではなく、インドゲルマン語族の木といった方がよいのではないだろうか。 なお、ドイツ語でEiche、英語でoakと呼ばれるこの木は、日本で言う「ナラ」に当たるらしいが、柏や樫と訳されることもある。どの木を当てるかが文献によって違い、ややこしくもなるので、柏、あるいは樫とされているものについてはすべて「オーク」とした。この論文の主旨からすれば「アイヒェ」とでも書くのが正しかったかも知れないが、筆者のなじみの問題で「オーク」としておいた。以下この論文においては全て「オーク」で統一することとする。古アイスランド語においてもEikというらしいので、サガについてでも特に問題はないと思われる。
 オークにまつわる伝説、言伝えで最も有名なのはワルプルギスの夜の魔女集会だろう。この夜にはオークの上で魔女達がブランコをすると言われている。しかし魔女でないことを証明している伝説もある。ある老婆が魔女との嫌疑をかけられ、水に放り込む神明裁判で有罪となった。山の上で処刑されるとき、女は、地に杖を突き立てて神が自分が無実であると知っている、この杖に葉を生やしてそれを証明してくれるだろう、と言って処刑された。まもなくその杖から根や葉が生え、大きなオークとなった。裁判、契約に係わる話がもう一つある。これはその年代が非常にはっきりとしている。1294年、ドイツ騎士団がプロイセンに破れたとき、プロイセンは将軍と騎士数人を人質にすれば無事に撤退させると言った。だが実際には皆殺しにされ、一人の僧がオークに釘付けにされた。さきにオークの病気治療について述べた、北ドイツリューゲン島では、手足の骨を折ってオークの木をくぐって治らなかったものの魂は木に乗り移ると言う。そしてこの木から船が作られると船幽霊となり、船が難事に陥ると大騒ぎし、必死に船を守ると言う。(Aによる)
 伝説も加えると裁きの機能もオークにはついてくる。木の習俗において王とも言える木であることは確かである。
e.菩提樹
 「菩提樹―この木の名の響きは、それだけで夢や香気、音色といったイメージを呼び覚ます。暖かく柔らかな夏の空気、花と蜜の香り、幾千もの蜂の深みのある羽音。」(9)
 菩提樹もまたドイツ人に愛される樹であるらしい。女の子が生まれるときの誕生樹にはりんごとともに菩提樹も用いられる。魔除としても使われ、雷よけにもなる。樹皮はお守りとしても使われるらしい。(Aによる)また家を守る木としても使われた。スウェーデンのリンデガルト(スウェーデン語はできないが、この地名自体菩提樹との関連を物語っているのではないだろうか)では、こういう報告がある。「3つの幹に分かれた大きな菩提樹が一本立っていて、それはリンナエウス(リンネ)、リンデリウス、ティリアンダーという3つの家族の家族樹だったという。その家族の名前はすべて菩提樹にちなんで付けられた。最初にリンデリウス家が絶えたとき、主な枝の一つがからからになり、植物学者リンネ(リンナエウス)の娘が死んだ後2番目の枝は葉をつけなくなった。そして3つめの家系が絶えたとき、……菩提樹は枯れた。(10)
 こういう民衆のものとしてでなく、公の場でも、中世には菩提樹は使われた。この木の下で裁判などが行なわれ、結婚式もこの木の下で行なわれた。裁判の木であることを示す伝説がある。
 ある男が無実の罪で死刑を言い渡された。その男の夢に聖母マリアがあらわれて、木切れを渡して何かを彫るようにと言った。翌日それを裁判所に持っていくとマリア像に変わっており、奇蹟だとされて男は釈放された。さらにマリアは夢で男に、男が見つけた最初の菩提樹のところにおくようにと言い、男はそうした。その菩提樹は多くの奇蹟を起こしたという。
 三人の仲のいい兄弟がいて、うち一人に殺人の疑いがかけられ、無実であるのに死刑とされた。残りの二人はその一人をかばうため自分に罪があると言い、疑いをかけられたものも罪を認めた。それで神明裁判をすることになり、菩提樹を兄弟がそれぞれ根を上に梢を下にして埋めて、枯れたものに罪があるとした。菩提樹は3本とも生長し、三人が無実であることがわかった。
 ある市長が謀反を起こそうとして配下のものを菩提樹の下に集めた。その謀反は失敗に終わったが、その菩提樹はもう葉をつけなかった。(Aによる)
 菩提樹とドラゴンの関係も言語学の面から言われている。ドイツ語で翼のない悪竜の事をLindwurmという。「菩提樹」Lindeの語源は印欧語の形容詞lento-s(しなやかな)に行き着くという。Lindwurmもここからきているのではないか、といわれているらしい。語源だけではなく、「ニーベルンゲンの歌」で、ジーフリトがドラゴンを倒したとき、ドラゴンの血を浴びて不死身となったがその肩に落ちて弱点を作ったのは菩提樹の葉である。また、ジーフリトがハゲネに殺されたのも菩提樹のもとでである。いささか資料不足ではあるが、菩提樹とドラゴンの係わりがほのみえる。
 菩提樹は守護、裁判、その他ドラゴンとのつながりを持つ木として捉えられていることが読み取れる。魔術的なものに限らず、人々はその香りや姿に引かれて菩提樹の周りに集まったという。(Aによる)菩提樹はオークの厳しい力強さではなく、優しさを体現するものなのだろう。
f.その他
 以上のような木ばかりが使われたのではない。他の木、あるいは木ならなんでもよいとする習わしもある。とねりこは蛇避けに使われた。その木の皮や葉、根を煎じたものは蛇に噛まれたときの薬として使われた。また家畜の病気避けに、聖ヨハネの日や四旬節にとねりこの葉を食べさせた。ねずの木は悪魔や魔女よけ、それに燻して清めるために使われた。(『図説ドイツ民俗学小辞典』による)歯の痛みを止めたいときには、木の幹の北側に刻み目をつけて、そこを削り取り、痛む歯に血がでるまでさす。そして血のついた木のかけらを再び木に戻して、しっかり押さえて再びくっついて生長するようにするとよいという。(『刑吏の社会史』による)家の近くに植えた柊は雷避けになる。(『イメージ・シンボル辞典』による)スウェーデンやドイツでは、オークの宿り木は子供の薬に使われるが、金属を使って落としてはいけないという。(Bによる)筆者がみた例であるが、南部ドイツではイースターのための飾り物として、猫柳に、色を塗ったりした卵の模型を飾っていた。植物学的に言うと猫柳ではないかも知れないが、筆者の見た限りでは猫柳であった。
宿り木は魔除や子宝を得ること、占い棒に使われる。また癲癇治療、雌牛の安産のためにも使われた。息苦しくさせる夢を防ぐことにもシュレスヴィヒ-ホルシュタインでは使われた。(『植物に現れた独逸趣味の研究』による)
g.まとめ
 主な木の習俗、伝説を見てきたのであるが、中には経験からくる知識ととれるものもあった。しかし、りんごによって未来の夫を知る占い、オークの木くぐり、樅による痛風治療、ぶなの占いなどは明らかに木に対してなにかしらの力を感じているから生まれたのだろう。また、多くキリスト教の聖者の記念日や祭日に結びついている。何があっても許してくださるであろう神の子イエズスの力のある日に木も力を帯びるという思い付きからだろうか。
 これらの例を引いた参考文献は、おそらく近代の例を採取した物である。ある程度科学が進んだ時代になっても生き残ったこれらのような木の習俗は、暗黒時代と言われ、またキリスト教がヨーロッパに確実に広まった中世にはどうだったのだろうか。民衆の側からの資料は極端に少ないが、それでも行事などの資料は残っているのでみてみたいと思う。        第2章 支配階級・富裕者の樹木観
 中世には犯罪人を捕らえる専業職、つまり警察と言うものは存在せず、被害者もしくはその家族が自分で犯人を捕らえなければならなかった。過失であっても、殺した人間の家族に四六時中付け狙われることになる。そのような場合、逃亡者が安らぎを得られるのがアジールであった。アジールにいられる間は何も手出しできないこととなっていた。その機能を持つ代表的な場所は個人の家であった。国家権力であっても家長の許可無しには入れなかったのであり、犯罪人であっても、許可が出た場合は滞在でき、誰からも捜査されなかった。もっともそれは武装を認められているものの家であるが。この他にアジールとして認められていたものに聖なる森や特定の木の下がある。この場合、森や木の下は、家の中と同様に平和を守るべき場所と見なされていたということが出来るだろう。(『中世の窓から』による)スカンジナビアではアジールの木はフリートレード(自由の木)と呼ばれ、傷をつけた者は死刑にされた。(『中世ヨーロッパ西洋史(3)』による)
 木が聖なるものと見なされていた法令や判決は他にも見られる。農村の判告録に次のようなものがある。1461年、ヴェッテラウのアルテンハウスラウの記録である。
「立木の樹皮をはいだ者はその臍の部分を開き、腸をとり出して彼が樹皮を剥いだ部分に蹄鉄用の釘で打ちつけるべし、木に同じ樹皮が再び生ずるまで、彼の腸をもって覆うべし……」(11)
この例は他にも見られるという。同じような処刑がデンマークやアイスランドでも行なわれていた。(同前掲書による)明らかに木を犯さざる物と見なしていた証拠であるだろう。
 処刑にも木が特別に使われた。十字架にはオークの木が好んで用いられ、病気と同様罪も木に移ると考えられた。1490年、ベルンカステルの判決文にはこのようなものがみられる。
「余は今日汝の妻を寡婦とし、汝の子供を父なし児とし、相続人を廃嫡し、汝の所領を汝の正当なる主人に戻すものなり、余は今日汝の首のまわりにオークの若枝を巻き、一本の棒をなかに差して〔こじり絞殺し〕枯れたる木に吊すものなり……」(12)
 この判決文について、阿部謹也氏は執行方法そのものが裁判に含まれているとされている。であるとしたら若枝や棒にも特殊な意味が含まれているのだろう。このように判決文でなくとも、道具が規定され、絞首台には中世後期、18フィートの枝のない幹から皮をはいで使い、釘は打たないこととされた。その前には枯木か葉がないこととされた。絞首用の綱はオークの若枝を左巻きに寄り合わせたものが使われた。さんざしかぶなの棒で綱の紐穴をまわすというやり方も資料にみられる。綱などの規定は死に易さを問題にしているのではないらしい。時折死に損ねることもあったらしく、その時は解放された。死に易さではないとすると、別の意味があっての事だろう。(前掲書による)
 このような不気味な例だけではない。中世で職人は修行の旅に出るものだった。その職人達の守護者とされたのがティル・オイレンシュピーゲルであった。オイレンシュピーゲルは民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の主人公で、あちこちを旅歩き、親方や街の人達にとんでもないいたずらを仕掛けてまわる。この本は現存する版としては16世紀初頭のものが最古であり、中世の市民や職人の生活を知る資料として扱われている。このしたたかに親方や街のお偉方を嘲笑して生き抜く主人公を、不安定な旅暮しを続ける職人達が守護者としたのも無理はない。実在については諸説があるが定かではないらしい。したたかに生き抜いたオイレンシュピーゲルもついに第90話でメルンで病に倒れ、聖霊病院に運び込まれ、最後を迎える。(『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』による)中世の遍歴職人の間に広まっていた習慣で、長い旅に出る前に木に釘を打ち込んでおいて道中安全を願うというものがある。この習慣のおかげで、職人の守護者たるティル・オイレンシュピーゲルの最後の地であるメルンを訪れた職人達が釘を打ち込んだ、メルンの菩提樹は枯れてしまった。(『中世の窓から』による)1章で木への病気移しについて述べたが、これは中世にも存在していて、しかも病気だけではなく悪運や災難よけにもなっていたことがわかる。
 同じ旅をする存在に飛脚があった。地につかずに漂泊する職業が蔑まれたのが中世である。商業都市では特権があったが、農村部の小都市では地位は高くなかった。衣服も規定され、どちらかというと下層階級の色である灰色のものを身につけさせられていた。飛脚のシンボルとして初期中世に使われていたのが樹皮をはいだはしばみの枝だった。この枝を手にしている限り、飛脚は不可侵の存在となった。待機しているときには持っていなかった。飛脚が手紙を運ぶときにはこの枝の先を割り、割れ目に手紙を挟んで受取人に枝とともに差しだした。この形式は16世紀に私闘を宣言するときにも用いられた。(『中世の窓から』による)はしばみの枝によって身分の低い飛脚が聖なるものへと変化した、ということだろうか。
 第1章でみたのはおもに全くの民衆の行いだった。それと似たものが中世には公に、文書にするような形で行なわれていた。中世で文書を残せるものといえば支配者階級か裕福な都市の市民ぐらいである。木に係わることが民衆に限らず広く行なわれていたことがここで理解できた。と同時に木が聖なる力を持つものであるという考え方も広く普及していたことも確認できる。これら処刑やアジール、飛脚制度や遍歴職人とは全く世俗の機構である。教会はあまり関与してはいない。中世はキリスト教によって支配され、戦う人、祈る人、耕す人という三つの種類に人々が分けられていたという。第1章で民衆、つまり耕す人の木に係わる習俗を見、ここでは支配階級、戦う人側の資料に主にしたがってみてきた。次の第3章では、キリスト教側の資料について触れてみたいと思う。
 
     第3章 キリスト教会の木に係わる習俗への態度
a.新約・旧約両聖書における樹木
 キリスト教のもっとも基礎となるものといえば新約・旧約両聖書である。そのなかで樹木の力について述べてあるところを拾ってみよう。
1.旧約聖書における樹木
 まず最初に上げなくてはならないのは何といってもエデンの園の生命の木と善悪の智慧の木だろう。言うまでもなくこれは創世記第2章9節で登場する。この二つの木はエデンの園の中央にヤハウェによって生えさせられた。エデンの園には一つの河があるが、生命の木と善悪の智慧の木のところから分かれて四つの河になる。「この流れは初期キリスト教時代には四福音書と英知、公正、勇気、思慮深さという四つの徳に関連付けられていた。」(13)
そして、アダムとエバが楽園から追放された後は、ケルビムと、自転する剣の炎によって守られている。
 生命の木の性質としては、創世記の記述から読みとると、まず不死性がある。第3章22節にヤハウェのこういう言葉がある。
「御覧、人はわれわれの一人と同じように善も悪も知るようになった。今度は手を伸ばして生命の樹から取って食べて、永久に生きるようになるかもしれない。」(14)
このエデンの園にいるだけでは人間は不死とはならずに、生命の樹から実を取って食べたときにときに初めて不死となるようである。この樹は文字どおり生命を与える力のある樹といえるだろう。
 さて、これもあまりにも有名な善悪の智慧の木である。生命の木の具体的な描写が少ないのに比べて、こちらには幾分具体的な描写がある。エバがその木を蛇にそそのかされて改めて見てみると、「食べるのによさそうで、見る眼を誘い、智慧を増すために如何にも好ましい」(15)とある。外見の美しい木として描かれている。この木が何の木であるかは、初期には、アダムとエバが智慧の木を食べた直後に、無花果の葉で体を覆ったという記述があることから、無花果であるとされた。
 その力を見てみる。食べてみると二人は自分達が裸であることを知り、そのことを恥ずかしく思うようになった。この木は知恵を与える力を持つ木として描かれている。ヤハウェの「誰が一体君が裸だということを君に知らせたのだ。」(16)という言葉から、二人はそれまで自分が裸であるということを意識する知恵も持っていなかったとして描かれている。智慧の木の力は絶大であるといえよう。
 他にもいくつか旧約聖書には木の持つ力について触れている箇所がある。出エジプト記では木を使って魔術が行なわれている。苦い砂漠の水を甘くするために水の中に木が投げ込まれた。(『イメージ・シンボル辞典』による)創世記12章で、アブラハムは放浪し、聖所にたどり着くが、その聖所は大木のあるところとされている。アブラハムはそこに壇を作っている。第35章ではヤコブがその木のところに異境の神々などを埋めている。同じ章で乳母もまた大木の下に葬られている。ヨシュア記ではヨシュアは大きな石を聖所にある木の下に立てた。(前掲書による)ダニエル書には地の中央にあり、全ての人に食を与え、生きるもの全てを憩わせる木についての記述がある。また、エゼキエル書にも全ての河がその周りをながれ、周囲で生き物達が憩い、どのような木よりも大きく、神の園の木もおよばない木について書かれている。(『西洋の誕生』による)旧約聖書には、確かにある程度の力を持ち、生き物をやすらわせる木が登場する。
2.新約聖書における樹木
 では、もう一つの経典である新約聖書においてはどうだろうか。新約聖書中で木が例え話としてではなく、力を持っていたり、生命力を持つものとして描かれているところは存在する。黙示録第9章である。
「そしてそれらは、地の草や全ての青もの、また、すべての木に害を加 えてはならないが、額に神の刻印のない人々には害を加えてよいと言 い渡された。」(17)
黙示録第22章もある。
「川の両岸にはいのちの木があり、12回実がなり、毎月実を結んだ。 その木の葉は、諸国の民をいやすためのものであった。」(18)
木は害を与えてはならないもの、生命力を持つものとして描かれている。旧約聖書はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の3つの宗教の経典であるが、新約聖書はキリスト教独自のものである。そこでこのように描かれているということは、確かにキリスト教の根本の時代において木がある程度聖なるものであるという認識があったということだろう。
b.十字架の木
 イエズスが殺されたのは十字架の上であるとされている。その十字架をあたかも一本の木のように描くことがある。おもにドイツとイタリアでその例が発見されている。この初期のものは写本の挿絵に現れる。13世紀のシュトラスブルクの詩編の挿絵によい例がある。木が根元で割れていて、両方の根に悪を象徴するドラゴンが絡みついている。イエズスはちょうど絵の真ん中のあたりではりつけにされている。木はイエズスの上と下で2本ずつつるを出し、そのつるの端は円くなっている。その中で一人ずつ女性がひざまづき、イエズスの体に釘を打ったり、槍を刺したりしているが、これは従順、寛容、謙譲、愛を示している。そして上下の円の間にはマリアとエクレシア、ヨハネとシナゴグが描かれている。イエズスの頭上には殉教の象徴であるペリカンと、天の扉が描かれている。枯れた木材であった十字架が、キリストの殉教によって緑の木となったという思想が表されている。
 その木はたいてい葡萄かバラ、オークであるらしい。葡萄であることは、新約聖書のヨハネによる福音書、第十五章第1節と第5節からきているものと思われる。
「わたしはまことのぶどうの木、
 わたしの父は園丁である。ー中略ー
 わたしはぶどうの木で、
 あなたたちは枝である。」(19)
ここからキリスト教徒は葡萄の木をイエズスと解釈したのだろう。(『西洋の誕生』による)バラはキリスト教ではイエズスの流された血とけが、そして神の愛を象徴する。そしてオークは生命の力を表す。
 これらは教会建築や写本にみられる、いわばキリスト教における支配階級の表現である。民衆の間でも、十字架の木に対する信仰は、幾分時代が下るが、民衆芸術の中にも現れる。
 民衆芸術で十字架の表現が頂点に達したのは宗教改革後である。十字架状のイエズスを彫った像があるが、その十字架ははっきりと葡萄の木であることがわかる。十字架の柱からは幾本か蔓が出て、その蔓には葡萄がたわわに実っている。この葡萄は先ほどのヨハネによる福音書の表現と、ワインとキリストの血とが同一視されたことの表現である十字架につけられたイエズスが樽の中で葡萄を踏みつぶしているものもある。また、十字架の上と両横に花がついていて、十字架によって区切られた四つの空間に最後の審判などの絵がかかれているものもある。
(『Alpenlandische Volkskunst』による) 
 十字架として木が尊敬を集めていることは確認できた。しかし、木に寄せられているのは尊敬ばかりではない。智慧の木は初期は無花果とされたが、後にはそれによって人間が楽園を追われた罪の象徴として、りんごとして表された。これはラテン語でりんご(malum)と罪(malum)が同じところからくる。そしてりんごである智慧の木は死をもたらす木として描かれた。「一つか、幾つかのどくろや一つの骸骨が樹冠にあったり、幹が骸骨で、その骸骨の腕に多くの果実が実った枝のある木として描かれている。」(20)また旧約聖書中でも、オーク占いとオーク崇拝は禁じられている。(『イメージ・シンボル辞典』による)これらの例においては木は生命力など持ってはおらず、死の象徴であったり、占いなどは禁じられていたりしたのである。
 キリスト教の根本である新約・旧約両聖書と、イエズスの殉教の象徴である十字架についてみてきたが、それらで木が二つの意味を持ってることが確認できた。では教会組織に身をおく人間達が、木に対して、生命の象徴として敬う態度と、罪や偶像の象徴として憎む態度と、どちらの態度をとったのか見てみよう。
c.伝説での布教者の態度
 ドイツ人の使徒といわれたボニファティウスの伝説は有名である。彼はイギリス出身で、もとはウィニフレッドという名だった。教皇グレゴリウス二世にボニファティウスという名を与えられ、ゲルマン人に対する布教者とされた。723年、彼は自分の不在中に古い信仰に帰り、雷神の木に巡礼した人々を見て悲しみ、その木を切り倒すことにした。人々はその周りに集まり、ボニファティウスが雷神の怒りに触れて雷に打たれるものと信じていた。しかしボニファティウスは雷に打たれはしなかった。人々はそれを見て洗礼を受け、その木の跡には聖ペトロに捧げられた礼拝堂が建てられた。
 聖バレンチン礼拝堂の近くの泉のそばに、民衆に崇拝されていた大きな菩提樹があった。異境の女神に捧げられていたこの木をキリスト教と達が着ると、やはり異教徒に崇拝されていた大きな猪が飛び出してきた。(Aによる)
 これらの伝説からは、布教しようとしていたキリスト教徒達が、木を邪教のものと見なし、排除しようとしていたことが読み取れる。
d.贖罪規定書の木への態度
 贖罪規定書とは、贖いを必要とする罪の目録で、贖いのための罰の内容を規定した、告解僧のためのハンドブックでもある。つまり、何が罪であるかという教会の考えや基準をこの書から読みとることが出来るのである。
 原題はLibri Poenitentialesで、まず5世紀から6世紀にウェールズとアイルランドで成立し、広まっていった。うち十一世紀初頭のヴォルムス司教ブルヒャルトによる「矯正者・医者」が興味深いものとされる。 ヴォルムス司教ブルヒャルトは1000年頃司教となった優れた聖職者だった。教会改革者としても知られ、オットー三世ら皇帝達とも親しかった。彼の贖罪規定書は、フランク、アイルランド、アングロサクソンの贖罪規定書をローマのものをもとにまとめたものである。(『西洋中世の罪と罰』による)この贖罪規定書から教会で罪とされていたことを読みとって行きたいと思う。
 第60章では、占いが挙げられている。魔術師に相談すること、異教の慣習にしたがって占師を家に招いて占わせたり、占いによって未来を予言させたり、呪文を唱えさせたりすることである。魔術師などに頼った占いは罪とされていた。
 第63章では、豚飼いや農夫や狩人が行なう結び目や呪文が罪とされている。
「彼らはパンか草、あるいはなんらかの邪悪な帯の上に、悪魔の呪文を書き、それらを樹木に隠したり、二本か三本の道が交差するところに投げ、自分たちの家畜や犬が病気になったり殺されたりしないようにし、他人の家畜などに被害を向けようとするのである。」(21)
 呪文の内でも、樹木に隠すことが罪とされていたことが興味深い。このようなことがわざわざここに出されているということは、実際にこの年代に、木に呪文を隠すことが行なわれていたということだろう。
 第66章では、司教たちが決めた宗教施設で祈ることが挙げられている。
「泉や石、樹木や十字路などでその場所を敬うためにローソクや松明が置かれているところへ、パンなどの供物を持ってゆき、そこで体と心の
病を癒そうとはしなかったか。」(22)
 ここでもやはり、樹木を敬うことを教会が禁じていたことを示す文がある。
第92章では、草などで護符を作ることが禁じられている。
「お前は草や琥珀などで、悪魔を説得するときに用いられる悪魔の護符や記号を作ったことがあるか。」(23)
 草などの護符を魔術のものとして見なしている点がおもしろい。
 第94章では、偶像とされるものを規定している。
「お前は偶像に捧げられたものを食べたことがあるか。つまり死者の墓所や泉、あるいは樹木や石、十字路などに捧げられた食物のことである。」(24)
 偶像崇拝はキリスト教に置いて激しく忌み嫌われた。その偶像の内に樹木もいれられている。
 第167章では、自然物への願かけが禁じられている。
「あるいは草や言葉、樹木や石など、愚かにも信じられている物に願いごとをしたり、それらを口に含み、あるいは衣服に縫い込んだり、縛りつけてなんらかの仕掛けを作ったことがあるか。」(25)
 木に願いごとをすることは第1章でもよく見かけられたが、それをキリスト教教会が罪とみなしていることがわかる。
 第194章では、小枝を使った雨ごいについて述べられている。
「雨が降らず、雨を待ち望んでいるとき、彼女たちは大勢の女の子を集め、先頭に少女を歩かせ、この少女を裸にし村の外に連れて行く。ドイツ語でベリサ(ヒヨス)と呼ばれるハーブ草を探し、少女の右手の指でその草を掘り出させ、それを少女の右の靴の先に紐で縛りつける。女の子たちは皆小枝をもち、草を後ろに引きずった少女を近くの川に連れて行き、小枝で少女に水をかけ、彼女たちの魅力で雨が降ることを祈るのである。その後、彼女たちは裸の少女と手をつないで川から村に連れ戻る。少女は後向きに蟹のように歩くのである。」(26)
 このまじないでは草と少女、小枝が重要な道具となっている。しかし、
これらを使ったまじないはドイツに多くみられるものであり、キリスト教の聖人の祝日などとも結びついている。
 以上、贖罪規定書の中から木に係わることについて述べたものを拾ってきた。呪いや予言など様々なものがあったが、明らかに教会は木に係わることを異教的であるとみなし、攻撃し、絶やそうと努めている。第1章で述べたクリスマスツリーの歴史においても、教会は偶像崇拝だとして非難している。また、法律でも禁止されている。「カールのザクセンの法律」の二十一にこのような文がある。
「泉や木の傍らや森の中で誓いを立てたり、異教の慣習に従って何かを捧げたり、悪しき霊のために会食するものは、貴族の場合六0、自由民の場合三0、農奴の場合十五シリング罰金を払うべし」(27)
 この法からもわかるように、明らかに木に対する崇拝は罪とみなされている。これはフランクとアングロサクソンなどの例を集めたもので、ドイツではないが、教会の木などに対する姿勢だけは読み取れる。
教会は木への呪いなどを敵視していたのである。
 新約・旧約両聖書には確かに木に対する崇拝を匂わせる文章があり、写本などの美術にも十字架を木とするものがある。しかし布教者や教会は、木に対する崇拝を嫌い、絶滅させようとしていた。第1章や第2章でみた木に係わる数々の習わしはキリスト教起源ではない。もしくはキリスト教教会が撲滅しようと努めてきたものであることがわかった。ボニファティウスや各々の布教者個人のみならず、贖罪規定書などを作り、組織として撲滅を進めてきたのである。明らかに一聖職者の個人的見解などではなく、教会全体の傾向であったことが確認できる。
 教会の態度が木に対して厳しいものであったことがわかった。ではそれを受け入れる側は、キリスト教をどの様にとらえていたのだろうか。キリスト教以前のヨーロッパには様々な民族がいた。その中でも、北方から強力に移民し、やがてかのローマ帝国を滅ぼす一因となったゲルマン民族についてみてみたい。
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