キャンピングカーで 日本列島縦断の旅 2

キャンピングカーで
   日本列島縦断の旅 2
 第2期 早く早くと思いながらこの暑さでは・・・とうとう出発は8月20日になってしまった。敦賀を出発点とし、日本海を北上、そのまま北陸道を走れば早いのだが、それではおもしろくない、ところどころで降りようと決め新潟へ。男鹿半島は前回時間がなく入道崎まで行けなかったので今回は是非。あまり内陸部へ入らないようにして日本海沿いに北へ。そのまま津軽半島へ。竜飛岬を経て南下、蟹田からフェリーで陸奥湾を渡り下北半島へ。そしていよいよ本州最北端の大間崎。列島縦断は北海道へと続くわけだが北海道へは10月に行くことになっているので、ひとまず我が家へ戻ることにした。尻屋崎も前回中途半端だったので是非廻るとして、そこではたと思案した。本来なら三陸海岸を南下して仙台からフェリーでと考えていたのだが・・・どうにも心が重い。八戸までは行ったがそれ以上は進めなかった。その後内陸部へ入り戻った。
 松尾芭蕉の「奥の細道」と松浦武四郎の「東奥沿海日誌」を携えての旅であった。
 武四郎の記録を読みつつその現場に立つ旅であったが、記録は詳細で、あたりの地形から見て記録の正確さに驚く。事実のみならず人々の暮らしぶりや風聞なども記録しているが、それについての武四郎の考えも書き加えられているのがおもしろい。
 
 第3期 所用を終え9月30日に出発する予定であったが、あいにく台風上陸と重なり、出発を10月1日に延ばす。お蔭で快適な船旅、2日苫小牧着。ここからは何度も走った大好きなオロロンラインを北上、10月4日、宗谷岬着、ついに念願の日本列島縦断の旅を完結させた。ばんざい!!
その後、道北で知己を得た何人もの知人、友人と会い道北を楽しんだ。道北もまたすっかりおなじみの忘れ難い地方である。仕上げは紅葉の天塩川カヌー大会、すばらしい縦断の旅の締めくくりであった。


8月25日
 昨夜は大急ぎで森田まで入ったが、通り過ぎてきた鯵ヶ沢は武四郎が北海道へ渡った大切な地であり、記しておかねばなるまい。「鰺ケ澤・・・地形海中に突き出したる岬にして、二面共人家建連り、其登烽の岬より内ハ濱形東面にして此處に諸國の廻船を繋ぐ。人家千軒共云る地也。當封内二ケ所の大湊也。從是松前へ十八里。江差へ貳十六里といへり。」ついでにその南の深浦も「濱形此邊より鳥居岬迄一灣をなして、其内に又此處は一小灣をなして船澗よろし。是より松前へ海上貳十六里。江差へ直乘三十六里。船代金百疋。
 以前2度竜飛岬まで車を走らせたことがあるが、それはいずれも津軽半島の中央を走る339号線であった。今回は、武四郎の足跡を訪ねてできる限り日本海側つまり十三湖の西側を通ることにした。十三道よりさらに西の屏風山広域農道を北上した。道のすぐ左手が湿地帯であり、その向うが七里長浜である。十三道の右手は田畑が広がり、道をはさんで様相がころりと違う。「是より右之方新田通り。左り海岸通り。扨是より海岸を行にハ少し浪荒き時ハ中々通りがたく、又冬分は七里の間唯一軒の家も無き故に昼休の場所もなし。其故に古来より吹雪等にて度々死人も有よし聞り。・・・凡そ四ツ過と思ふ比に一ツの大なる土くれ此地にてガシと云りに火を付て燃しける有。定て是ハ往来の人の烟草火に致し有かと思はるが、其後乙巳の秋此處通りしニも、此土くれに付し火去年に異成事なくクスクスと燃上り居たり。惣て此邊の土は草の根の堅りしものなると見えて至てよく燃るもの也。」つまりこのあたりは、泥炭地ということであろう。「南部尻屋濱、津輕十三濱ハ、雨の夜ハ海岸に火を焚て沖行船を迷惑させて、破船を待て荷物を盗奪よし古来より申来る事也。其故に此海邊には船の諸色具何程もより居る事也。扨其火を焚と云は、先にしるしたるガシの様なるかもしれ難し。若有時ハ早々之を絶て後難のなからん様に致度事也。然れ共よも此火にてハ有まじと思はるゝ也。此火は海岸に焚故に二三十丁隔ツ時ハ船中よりミへ難し。定て此闇にて火を焚事歟。扨前に日本記行中四艘の船を又賊船としるしたるもはなはだしき訛成べし。此邊の土人破船して半死半生の水夫共ならば切取強盗を致すべけれ共、沖中を行船に何ぞ害を為すべけんや。若沖走る船に寇せん程の氣力有ならば、日本惣海岸の地に此氣習を傳染させて邊寇の一備ともなすべけれ共、異國船は兎も角も日本の船にて敵する□氣習決て無事也。唯破船の輩のミ殺して荷物を奪ふ事也。嗚呼如此東北の地にては誰しらぬものもなきが、其地の領主ハさて置小役人に及迄しらぬ顔して居ると云も氣楽な事成べし。何ぞ此土の風習を餘て此海路の難有らん事の様を絶たき事なり。
 私たちは湿原の一つベンセ湿原を歩いた。このような湿原が海岸のすぐそばの標高の低い(標高20m)場所に存在するのは本州では極めて少ないことらしい。
亀ヶ岡遺跡
 明治20年に出土した「遮光器土偶」(国の重要文化財)で有名な縄文遺跡である。まず木造亀ヶ岡にある縄文館を見学してから亀ヶ岡石器時代遺跡の現場を訪れた。「亀ヶ岡遺跡は、その出土品のすばらしさが江戸時代より国内外に知られていた。・・・また1796年の菅江真澄以後、明治にかけ、松浦武四郎や蓑虫山人など出土品に魅了された著名な好事家・知識人たちが遺跡を訪れた。」との説明がなされていた。武四郎も記す。「亀ヶ岡村 此邊古き陶器出るなり。・・・どうぎ村 冬よりイテ解の後に種々の瓶出る也。・・・土質不宜といへ共品は甚珍敷もの有。余も三ツ程得て一ツハ仙府の一止ヘ送り、一ツは松前の歐洲子に送り、今一ツ貯なり。
高山稲荷神社 
農道に戻りさらにすすむと「高山稲荷神社」の案内板、入ってみることにした。着いて驚嘆した。「なんでこんな辺鄙(失礼!)なところにこんな広大な稲荷神社が!」鎌倉時代から室町期にかけて、このあたりを統治していた豪族安倍安東氏の創建だとか、なるほど。十三湊東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があったとも記されていた。同じ敷地内に「チェスボロー号遭難慰霊碑」があった。「明治22年10月、交易で来航中の米船チェスボロー号が暴風に遭遇し浅瀬に座礁大破し、乗員23名中19名が波に呑まれた。この時怒涛逆巻く中、数人の漁師たちが生命をとして救助にあたった、この美談を讃えるとともに、あえなく異国の海に消えた19名の霊を慰める。」とあった。
 十三湖中島ブリッジをながめながら、名物の「しじみ汁」を味わった。十三浦は「海岸皆沙地にして錠懸り不宜。人家三百軒斗。一條の街をなし農戸漁檐商家の交りにして繁花の處也。・・・春分ハ松前渡海風順よろし。松前ヘ十里。江差へ二十三里。船賃代壹人前金貳朱。」そうここは松前街道の終着地でもあるのだ。ここまではつるが市であったがここで再び五所川原市となる。海岸線を走る。脇本村は「此坂を津輕坂と云は、天正巳前迄は津輕は此處を境と至し、是より東は皆南部の領せしミの也と。故に今の坂の東面は南部坂と云なり。」海岸をしばらく進むと道はやがて険しい山道となる。途中眺瞰台があり降りるがほとんどガスの中。この海岸部に燕岬という所がある。もちろん通らなかったがおもしろい武四郎の記述がある。「我ハ伊勢の國の修行者なるが此海岸を廻らんと此燕岬を一見に来たと云ければ、扨それこそ命しらざる旅人哉と云て舟を出しけるに、其處の道を問て此岩岬を又越、是より龍飛迄は何程ぞと問たれバ、今壹里半も有べしといふて別れけり。
龍飛岬
 ようやく竜飛岬に到達。「龍飛岬 即此岬北へさしたる岬にて西南燕岬と對岐して、東ハ松前白~岬と對岐す。」ああここもすっかり変わったなあ。ここは本州最北端でもないし・・・ここが有名になったのは石川さゆりの「津軽海峡冬景色」と青函トンネルのお蔭だろう。灯台まで上がり、名物おばさんの掛け声に合わせて観光客が「ごらんあれが竜飛岬・・・」と声を張り上げているのを眺めた
 ここからの下りもできるだけ海岸線を行くことにした。宇鉄の記録「宇鐡村 扨此村は皆夷人の子孫にて、凡七八十年前は口髭を生し耳がねを懸たりと申しけるに、此邊にては決而是を祕して人に語る事無りしと。又家に太刀又は行器の類も有といへ共中々人にミする事をせざりしと。・・・此村に四郎三郎と中夷の酋長有て大器のもの成しよし。太守へも御目見致せしと也。」三厩は「三馬屋・・・松前城下へハ凡八里半も有べし。人家八十軒斗。問屋、松前侯本陣、其外商人等、皆家作美々敷事也。」袰月は「母衣月村 人家四十軒斗。漁者のミ也。人家も甲辰の時よりは又去年通りし時甚美敷なるとか。檜山多くして家柄至て富榮へるよし也。又此灣深くして船澗によろし。故に往来の船も此處に多く暫くよく、小商人有。
義経寺
 武四郎の記録に「三馬屋岩 大サ高五丈幅七八丈位の岩に下に穴二ツ有。元来三ツ有しが今は寄る波浪にて打碎て二ツと成しと。石質甚和らかにして少し赤也。此處に源廷尉馬を繋ぎ置て蝦夷が島へ渡り玉へしと等と俗説を申傳へけり。扨此處岬を廻りて花表有。是より右の山に九折三曲上りて龍馬山觀音寺・・・扨土人云傳ふるは義經公此處へ我守本尊を安置し、此石に馬を繋て蝦夷へ渡り玉へりと。其後に此處にて馬は龍馬と化せし由。故に今此山號とすといへり。又此寺に一幅の掛繪有。義經蝦夷渡海の圖としるせり。百文にて開扉す。」私たちもこの岩穴を覗き、高い石段を登って義経寺に参詣した。ここにも「松前街道終点之碑」が建っていた。
平館
 道の駅で音楽ライブをやっていたので立ち寄った。灯台があり、その横に砲台があった。武四郎も「此處砲臺を急ぎて築くを何故ぞと百姓共へ尋し處、當月末には江戸よりは目付大久保様が松前へ御下りに可相成候間、其間に逢様に築由申ける。實に可笑事なり。」と記している。ここで会った青森の人が「対岸は北海道に違いない」と言っていたが、そんなはずはない。「此處内海にて南部燒山と對す。」のである。また「根岸村 此川上に一ツの温泉有よし。功能多しと聞。」が探さずに通過。
蟹田
 「人家皆浪打際より上に建り。人家八九十斗も有べし。旅籠屋、船問屋、小商人等有。町方美々敷此裏の方田地多し。」という蟹田に着いた。少し進みよもぎ温泉で入浴、あすフェリーに乗るため、港で泊。
8月26日
 夜中の3時、機械音で目覚める。夫を「工事が始まったらしい」と起し、車を移動。するとその音は留っている船の方からであった。灯りの灯るところに近づいてみると、たくさんの漁師さんが作業をしてみえる。話しかけると親切に教えてくださった。これは海からあげてきた帆立貝の稚貝で、選別をしているのだとか。掌に載せてもらうと、稚貝はおよそ5mmほど、これを別の籠に入れて海に戻す。これを繰り返すと10月には10円玉くらいの大きさになるとか。それをまた別の網に入れ海に戻す。根気のいる仕事だ。
 むつ湾フェリーで蟹田から脇野沢へ渡る。「脇の澤・・・人家貳百貳三十軒。船問屋、小商人、檜山師、漁師、松前出稼人等入交りにして繁花の湊なり。又土着の士も五六人有るよし。」とある。このあたりが世界最北限の野猿がいるところとかで道の駅脇野沢には猿、カモシカ、猪が飼育されているという。海峡ラインを北上する。「片貝村・・稗畑多し。源土代村・・・一宿の宿は粟稗さへ喰事ならバ宿すべしと云ける故に頼て泊りけり。」と武四郎も宿をとる。山岳ロードである。クルミがたわわに実り、ハンゴン草が目に鮮やか。仏ケ浦といって現在一大観光地になっているのは武四郎が極楽濱と記しているところだろう。「此處岩鼻の碎て落しに波打寄是を洗ひて其美敷事紙筆ニ盡しがたし。」その先の福浦では「福浦歌舞伎」と書いてあった。このあたりの歌舞伎も一度是非見たいものだと思った。「長後村・・・又春より秋迄は男といふもの八十歳より下と六十歳巳上のミ居るよし。ミな松前へ至るときけり。」「佐井湊・・・千石巳上の船は五六艘、其巳下六七百石位の船は二十艘もかゝるによろし。船番所有。人家貳百貳三十軒。船問屋、小商人、船夫、檜山稼、農家、漁師入交りなり。實に大富湊成べし。」「八幡社・・・本社は源君頼義公夷賊征し玉ふ時に、此處に至りて石清水の八幡を勸請し玉へし由を書り。・・・此外一巻の因縁書を見せけるに巻中尻矢岬の鬼~退治の趣を書けり。故に我も此處を出立せば尻矢に至らんと申遣しに、院主の其之を止めて、彼尻矢村といふは旅人が行と皆大勢打寄て殺し、衣裳荷物を奪ふ處也。故に是非是は止るべしと云るゝに依て先止るべしと諾しけり。」
大間崎
 とうとう大間崎に到着した。本州最北端である。「ここ本町最北端の地」の碑の前と「まぐろ一本釣の町 おおま」の前で記念撮影。「本州最北端大間崎到達証明書」をもらう。石川啄木の大きな歌碑も建っていた。大間といえば鮪、これは食べずばなるまいと賞味。武四郎記「大澗浦・・・是より松前、函館湊へ六里。凡此向は函館薬師山の西南クラカケ岬邊へ當る也。」大間崎を後にし、大急ぎで尻屋崎に向う。前回ゲートが閉まる時間が迫り中途半端に終ったからだ。途中サルを見かける。
尻屋崎
 かなり急いだせいもあって、尻屋崎では時間に余裕があった。ゲートから前回行けなかった行き止まりまで行った。灯台は霧の中ではあったが、たぶん東北大震災の漂流物であろうものがたくさん流れ着いているのに驚いた。何より感動的であったのは、30頭ほどの野生馬に出会えたことであった。いわゆる寒立馬である。都井岬の野生馬は美しいと感じたが、ここのは全く逞しい、野生そのものであった。冬もう一度見たいものだと強く思った。例の尻屋崎に関する噂について記したい。「中々左様の事ハよも有まじ、夫ハ昔の事、貴公様御一人殺した迚何程の路金、衣服を持玉へるぞ。其ハ破船の船頭船方の事成べし。假令彼村にてなくとも此村にても破損等致すべし。壹人や貳人の船方共上陸致来らバ、届て何も角も面倒成故に何れ鳶口にて打殺して、衣服積米諸色具共に分取高名に致すべし。なんぞ貴公様壹人位には彼村一村かゝりて何の益か有ぞと大笑しけるに、我も一度ハ安堵一度ハ又恐れけるが、虎穴に不入して何ぞ虎の子を得んと、愈彼地を一見せんと定たり。」少し長くなるが、この村の人情について引用したい。「海岸は岩石磯也。此處東面せバ一大車洋なる故に浪荒くして、四時舟を寄る事成がたし。人家二十七軒。漁者にして稗を皆造るよし。此上に樹木無き故皆破船の寄り木をのミ薪とす。八幡社。源君頼義公を祭るよし。扨此村の人家ニ立寄し處、其人ハ皆白麻布の筒袖、膝限りの物を着て二布半の横前垂を〆、女は髪を螺の如く結ひたり。我村に入を待て何國の人なるぞと問により、我ハ伊勢の國 太~宮様の在る處のもの成が、日本國中の高山を廻らんが為、南部の國岩鷲山より恐居山へ來り、則此岩屋邨の岩屋を見物し、當邨の八幡社へ参詣したるもの也と答ければ、先づ家に伴ひ入、薄縁を敷て、村内のもの凡五十人斗も出來り我に黙禮する事甚丁寧也。扨夫より茶を乞て燒飯を喰んと致せしに、此邊にてハ茶は無、湯を進ぜ申さんとて早々涌しける故、其心切に感じ我持てる大成燒飯を二ツ小く割て、前へ來りし子供に遣はせしに、其親共悦ぶ事限りなく、何か忍びやかに話いたせしが、盆へ蚫のゆで上しを山の如く積上て、我腰かけし前に踞て我ニ與へけるが、恰も野吏に鎭西八郎為朝が鬼ケ島へ行し時、岩に腰打懸しを前に鬼共、寶珠を多く盆に積上て蹲踞しながら奉る圖に少も異る事なく、今我旅裝して此處へ腰かけしに、村人等が白麻布の服を着ケ月代亂髪にて前に蹲りて此蚫を呉るさまいかにも夫と同じ。定而八郎為朝もかゝる位の事成べしと思ふて多く喰、袖へも包みて此處よりシヅカリ村へハ何程ぞと尋るに、陸道一り半海上ハ十七八丁斗也と云けるが、今日ハ風荒くして海上ハ中々行難し、さもなくんバ船にて送らすべしと懇に云こそ嬉しけれ。扨此處にて海面をミるに中々船にてハ難行其故に其陸行を尋し處、村長様の申けるに、此村の若もの共をば荷物持せて此峠迄送らせ申さんと云ける故に、辭すハよけれ共その道の分り難を案じ、則若もの共に荷物を背負せ出立しけるに、庵寺の上に至るに村のもの皆我上るを見て、いと餘波おしげに暇乞いたしける。」南部ヒバ埋没林を見ながら南下。途中北海道にもある「白糠」という地名があった。アイヌ語由来の土地であろう。この地最大の湖である小川原湖のほとりの道の駅「おがわら湖」泊。涼しくなった。月が半月を過ぎた。ひとまず武四郎追従の旅をここで終えることにする。
8月27日
 昨夜は一晩中湿地で低く太いガマ蛙の鳴き声がしていた。4時に起床し荘厳な日の出の中を散策した。
 ここからは日本列島縦断の旅にとってはいわば附録の旅、癒しの旅である。 先ずは
八甲田山
 すばらしい杉林を通り抜ける。途中睡蓮沼に立ち寄る。八甲田ではロープウェーで上る。田茂萢岳一帯は10余の池や沼が散在し、高山植物の一大宝庫となっている。ここを1時間余かけて散策した。すぐ近くの前におもしろい経験をした酸ヶ湯温泉へ。ところが湯気がもうもうと上がっているはずの温泉が、隅々まですっかり見渡せる。気温の低い時でなければもうもうとはいかないようだ。でもいい温泉だった。ここからはブナの二次林が美しい。奥入瀬渓流に沿って走り、十和田湖のキャンプ場へ。十和田ではお目にかかりたい方もあったのだが、ここからだとかなり戻らねばならず断念。
8月28日
大湯環状並石(ストーンサークル)
 発荷峠を越え鹿角市へ。先ず大湯環状列石資料館を見学し、現場へ。ストーンサークルは今までにもいくつか見たが、その大きさに仰天した。平均30kg、最大200kgもの石をこの地に運び、さまざまな形に造られた縄文からのメッセージである。その石の数は代表的な二つの環状列石だけでも約7200個にのぼるという。史跡内からは様々なまつりや祈りに関わる遺構と遺物が発見され、縄文時代の精神文化や社会構造を総合的に理解できる史跡である。画像は方位や時計の役割をするサークル。
 くらくらするような暑さである。ソバの白い花が一面に咲いている。「乳牛」という珍しい地名があった。
史跡尾去沢鉱山
 1300年の歴史があり、国内最大級の採掘跡がある。800kmに及ぶ坑道のうち1.7kmを整備した観光坑道では、壁面に露出した約900万年前の地殻の断層や、再現された採掘の作業風景が見られる。南部藩政時代の手掘り坑道が特に興味深かった。尾去西道金山奉行所もおもしろかった。
 続いて「先人顕彰館」へ。武四郎も訪れているので何かと思ったがそれはなかった。内藤湖南、和井内貞行(魚の住まぬ十和田湖で鱒の養魚に成功。「われ幻の魚を見たり」のタイトルで映画化された。)の顕彰館であった。
八幡平
 八幡平といえば蒸ノ湯、夫にとって青春時代、友とよく山登りをし温泉にも・・・ふけの湯は忘れ難い温泉なのである。「また来たよ」と友にTEL。私も何度か連れてきてもらったことがある。その蒸ノ湯で4箇所の温泉を楽しんだ。東北では湯元ごとに1軒の湯宿があることが多いが、中でも温泉の真横に噴気を上げる野趣あふれるここはいい。その後、後生掛温泉にもいったが湯疲れして見るだけ。その夜は、蒸ノ湯の上のPで。夜間は走行車両なし。下の宿の灯がかすか、月明かりが煌々とし、生き物の気配なし。
8月29日
 八幡平アスピーテラインを走り見返り峠まで行く。ツバメが飛んでいる。ここは岩手県と秋田県の県境であった。
 八幡平ビジターセンターへ戻り、映像を見たり、ボッケへ行ったり、大沼のまわりを1時間ほど散策した。リンドウの青、サワギキョウの紫が目に鮮やかであった。トリカブトには様々な色や大きさ、形に違いのあることも再発見した。沼にはコウホネの黄色い花も見られた。
 仙北市に入ると「美人多し 脇見注意」の看板に笑ってしまった。
乳頭温泉
 田沢湖に立ち寄り、乳頭温泉の蟹場温泉へ。山の中の秘湯を楽しむ。この日ははじめて宿をとる。乳頭温泉鶴の湯別館(山の宿)である。囲炉裏での食事を楽しんだり、本館の大きな野天風呂へ入ったり・・・
8月30日
 盛岡ICから東北道へ。仙台、山形道、東北中央道と走り上山ICで降りる。
斉藤茂吉記念館
 生地山形県上山市金瓶の南の丘にある。近代短歌史上に重要な位置を占める歌人で精神科医の斉藤茂吉が残した業績や、生活を伝える書画などの資料を中心に収蔵・展示しているすばらしい記念館であった。友人への土産などを購入。
蔵王
 コスモス咲く山を上り、蔵王温泉へ。冬の蔵王は賑わうが、今はロープウェーも運休中。泊をと考えていたが適当な場所がない。やむなく蔵王ライン、蔵王エコーラインを走りに走る。昼間ならすすきが揺れてきれいなのだろうが、あいにく夜道。十三夜の月とともに夜間ドライブ。振り返ればはるか下に上山の街のあかり。やがて宮城県。通行車は全くない。お釜へのリフトのりば、各所にP。熔岩流や火口、山並みが見えて美しい場所なのであろう。まあ夜間は夜間でそれなりによい。峩々温泉、遠刈田温泉への道を分け、白石ICから東北道へ。国見SAで車中泊。
8月31日
 磐梯吾妻スカイラインを走る。時々ガスに包まれるが、白樺の峰、つばくろ谷、天狗の庭などを見る。標高1500m。「火山性ガス発生の危険のため駐停車禁止」の看板。
浄土平(吾妻小富士)
 浄土平に着いた。ビジターセンターで、田部井淳子さんが福島県の震災被災者の方と一切経山に登られるのに遭遇、ラッキー!! 私たちは登山の用意もなく、反対側の吾妻小富士のお釜一周を2時間近くかけて楽しんだ。イワツバメが飛び交い、後ろに噴煙を上げる一切経山が聳え、心地よい山行であった。
 磐梯山、安達太良山を眺め、湖見峠、天風堺、国見台と過ぎ、どこか一つ温泉に・・・横向温泉中の湯「温泉湯治療養発祥の旅館」とあったので、ここでひなびた温泉に。小野川湖レークライン、秋元湖、中津川渓谷、涼風峠を越えて「国民休暇村裏磐梯」へ。明日の長距離に備えて休養。ここの「こがね湯」も硫酸塩温泉でなかなかいい温泉だった。
9月1日
 ホテルの庭から磐梯山に別れを告げる。
猪苗代湖へ出、磐越道、北陸道、上信越道、長野道、中央道、東名道、名古屋高速、東名阪道、伊勢道と走ること716.2km。総走行距離は3277.2kmであった。
 
 
 
10月1日
 9月29日・30日に松浦武四郎記念館であった樺太アイヌ文様の刺繍講習会に参加した後、すぐに出発するつもりであったが、あいにく台風が通過中でこの日の日本海は荒れるだろうと出発を1日延期、1日夕刻松阪を出る。赤いまんまるの月が見送ってくれた。
10月2日
 午前1時、新日本海フェリーは敦賀港を出航。午後8時30分苫小牧港着。予定通り日高道、道央道を走り、砂川SAで車中泊。
10月3日
 深川留萌道を走り、秩父別、雨竜川を越えて沼田、北竜、留萌幌糠で下りる。久しぶりに留萌の「海のふるさと館」に立ち寄った。以前よりはるかに充実した資料館になっていて驚いた。松浦武四郎をはじめ北の探検家たちのコーナー、北方民族との交易や盛んだったニシン漁の歴史、そしてアイヌ民族の文化についても詳しく説明されていた。ここは江戸時代末期、北蝦夷地や奥蝦夷地に異変があった時の連絡用烽火台が設置され、弁財船がルルモッペを出港する際に気象を観測した日和山として使われた場所である。黄金岬・波濤の門にも樺太引揚三船殉難平和の碑、そして古丹浜も訪れた。
 道の駅「おびら鰊番屋」の前の広場では大きなトワイライトアーチと松浦武四郎翁の像と歌碑が出迎えてくれた。お久しぶり! ここは「にしん街道」でもあり、ここにも「三船遭難慰霊之碑」があった。郷土資料室にも寄ってみた。苫前、羽幌では道端にたくさんの野菊が咲き、ひまわり畑が広がっていた。
 初山別の灯台を見て、遠別のあたりではからしなの畑、さらに北上、天塩鏡沼海浜公園へ。お馴染みの松浦武四郎像と「蝦夷人のみそぎなしける天塩川 今宵ぞ夏のとまりをばしる」等の歌碑。松浦武四郎の銅像は3つ、上の他釧路の幣舞公園にある。続いて天塩川歴史資料館へ。「天塩川流域探険史」がおもしろい。
 私の大好きなオロロンラインである。快適に走ってさらに北上、北緯45°の地点日本列島縦断の旅のハイライトともいうべきすばらしい出来事があった。しばらく休憩していると、南下してくる自転車の青年とあった。話すと知床から宗谷岬を経てここまで来たという。自転車の旅について話すうち、「日本列島縦断の旅1」の冒頭、夫の日記で紹介したあの青年にあったという。「こんな自転車で日本一周の旅と書いた看板をつけていたでしょう。羅臼であいましたよ。」 年格好といいあの青年に違いない。あのまま別れ、せめて携帯電話だけでも聞いておけばよかったと後悔し、今日はどこまで行っただろう、もう北海道に着いただろうかとずっと気にかけていたあの青年である。ああ無事だったんだ、北海道に着いていたと思わず涙が流れた。この情報をもたらしてくれた青年と出会えた僥倖に感謝した。南下する青年、元気でね!
 砂丘のえき・稚咲内の止宿所跡、抜海岩と見てノシャップ岬へ。折から沈む夕日の中に赤白の灯台とモニュメントが浮かぶさまは圧巻であった。道の駅わっかない着。北海道遺産の稚内港北防波堤ドームや稚内駅を散策した。ここは日本最北端の線路の終点である。つまり稚内駅は日本最北端の駅であり、最南端の枕崎駅より3126.1kmとあった。
10月4日
 稚内公園に戻る。何度も訪れたところであるが、あらためて氷雪の門、9人の乙女の碑、教学の碑、南極観測樺太犬訓練記念碑、樺太犬供養碑、測量記念碑などのモニュメントを見て廻り開基百年記念塔へも行った。その後「松浦武四郎宿営の地」に立ち寄り、宗谷公園へ。ここには宗谷厳島神社、宗谷護国寺跡、旧藩士の墓、津軽藩兵詰合記念碑などの史跡があり、この地を訪れたのははじめてであった。間宮林蔵渡樺の地へ寄り、いよいよ目的の宗谷岬へ立った。思えば2度の中断はあったが、7月19日出発の日本列島縦断の旅の完遂であり、感慨深いものが胸に迫った。北緯45度31分14秒。勿論日本最北端の地のモニュメントの下で記念撮影。
 ユーラシア大陸最西端、ポルトガルのロカ岬には、詩人カモンエスの詩が刻まれた石碑があるという。
“AQUI.....ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMECA”     ここに地果て 海始まる 
 を思い出した。
横に間宮林蔵の立像。 さらに丘陵の上に上れば、灯台や旧海軍望楼、宮沢賢治文学碑、あけぼの像、ラベルーズ顕彰記念碑、平和の碑、宗谷海域海軍戦没者慰霊碑などたくさんのモニュメントが林立していた。
10月4日
 旅の目的は達成したが、知人も多い道北をもう少し楽しむことにした。オホーツク側を南下する。猿払ではインデギルカ号遭難者慰霊碑やいさりの碑を見ていたら、びっくりする碑を発見。「松浦武四郎宿営の地」の碑。確か昨年通った時は気づかなかった新しい碑である。稚内の碑とそっくりなものであった。松浦武四郎碑はこうしてどんどん新しく建てられていくのだと嬉しくなった。この日は、「名勝ピリカノカ 神威岬」を訪れて、近くの知人宅へお邪魔した。ホタテ漁師さんであるが、海が荒れてここしばらく漁に出られないとのこと。浜頓別港へも行ってみた。知人の大きな船やたくさんの船が港に繋がれていた。道の駅ピンネシリ、温泉つきの道の駅泊。
10月5日
 道北にしばらく滞在するのは、少し所用があったことと、道北にいることを知った知人から10月6日に行われる天塩川紅葉ツーリングに参加しないかとお誘いを受けたからである。
 草もみじの美しい道を走り、音威子府へ、役場を訪れ、さらに美深へ。戻って音威子府のビッキ記念館へと走り、所用を終えた。道北を訪れる時はいつも拠点とするなじみの中川町ナポートパークキャンプ場へ。さっそくパンケ川へ鮭の遡上を見に行った。あいかわらぬたくさんの鮭に見とれた。
10月6日
 いよいよ日本列島縦断の完結記念としたいカヌーツーリング、「天塩川紅葉ツーリング 2012」の当日。キャンプ場の方にお借りしたカヌーを音威子府まで運んでいただく。じつは昨年の天塩川カヌーツーリング大会の時は、私たちの手に余る濁流の中参加し、沈した苦い経験がある。それに比べ今日の川は澄んでいて流れも穏やかと自分を納得させ・・・それでも沈したら今日は冷たいだろうの不安も。下りだしてみると、昨年の大会は100艇以上の参加であったが、今日は20艇足らず、それだけにどの艇も経験豊富なベテランぞろい。はやくも参加は場違いであったと後悔しきり。足手まといにならぬよう必死で漕ぐ。それでも待っていてくださったり、励ましてくださったり・・・途中「北海道命名之地」碑のところと、お弁当の地に上陸。沈することもなく無事25kmを下り終え、中川町佐久のポートへ着く。私たちの縦断記念イベントに位置づけたカヌーツーリングを終え、充実感いっぱいであった。皆さんお世話になりました。
 この夜は、キャンプ場で中川町長はじめ多くの知人の方々が手作りの懇親会を開いてくださった。「キャンプ場の客と思ってないよ。友達だからね。」の言葉に人の情けの熱さが身に沁みた。

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