キャンピングカーで 日本列島縦断の旅 1

キャンピングカーで
   日本列島縦断の旅 1
 かねてからの願いであったキャンピングカーでの日本列島縦断の旅を決行することにした。自動車道をただただ走るだけなら、鹿児島の最南端佐多岬から北海道の宗谷岬まで10日もあれば充分だろう。しかしそれではおもしろくもなんともない。
 ・要所要所はじっくりと・・・松浦武四郎を勉強している夫は、もちろん翁の足跡を訪ねたいだろう。
  (松浦武四郎著「西海雑志」を携え、それを読みつつの旅である。)
  「九州之内薩摩領の外は、深山幽谷道ある處は探り入り、海濱孤島も船通ふ處は到らざるなければ、況や~社佛閣詣拜せざるはなし。しかれども旧跡、靈場、佳景、珍奇にわたらざるは漏して載せず。また名所、奇事とても西遊記、筑紫記行、長崎見聞録、畫譜西遊譚、其外諸書に出たるは除てしるさぬもの多く、彼に踈(疎)なるは此書に密に記す。
 ・なんども旅行したことのある九州・東北はそれなりに・・・なるべく重複を避け訪れたことのない場所へ。
など考え2ケ月ほどで。もちろん一気に・・・しかしところどころに所用が入り2ケ月連続はとても無理。そこで3期に分けることにした。まず1期は、所用をやりくりして7月半ばから九州・中国地方を。ところがところが、予想されたこととはいえ暑くて暑くて・・・はしょってはしょって15日間で敦賀までやっとの思いでたどり着いた。楽しかったけど疲れた!!
 
夫の日記より
 8月のある日、宍道湖近くの斐川町の道の駅で「明らかに自転車で遠くを目ざして旅をしている」と感じさせる若者に出会った。
 ちょうど妻と2人で九州最南端の佐多岬から北上しながらの旅の2週間めの日であった。
 歳をとってから旅を重ねると人々の優しさと善意を感じるようになり、それと比例して旅人に声をかけることが多くなった。
 妻がその若者に「どこまで旅をするの」と尋ねた。
 若者は「北海道です。北海道で秋にバイトをしてまたふるさとへ帰ります」と応えた。
 「ええ!北海道まで行くの」
 例年にない豪雨と猛暑の九州。その九州の南端部の大隅半島から自転車で北海道へ。
 若者は、骨格は頑丈ではあるものの、ブラック的野性味と強烈な意志を漲らせているいかにも九州男児らしいという若者ではなく、ごく一般的な若者に見えた。
 「今日で26日目です」と語る若者の話を聞いて「すごい奴だ」と感じた。
 高校1年生のときから北アルプスに登り、駅伝県大会で走り、友人の父親のEP版レコードでクラシックを聞き、いっぱしの男と感じていた自分がなんと小さい奴であったかと感じた。
「我はかくあらんことを願わず。されど、かくあらざりし我が思いをつんざくことのなんと激しき」(佐藤春夫)
 もう年をとって、今はこの若者のように自転車で北海道へ行こうとは思わない。しかし、若いときに彼のような挑戦的な人間でなかったことが残念であったとつくづく感じた。
 互いの旅に幸あれとクラクションを鳴らし手を振って別れた。
 あの若者はどこで何をしているだろうか。志賀直哉の「忘れ得ぬ人」に載せたいような若者だっただけに気になっている。
 


三度九州へ
 前回の旅で二度と再び来ることはないだろうと思った九州への嬉しい旅である。
7月19日
 大阪の南港フェリーターミナルを出航。
7月20日
 早朝、別府港に。南下すると大分の海岸部はすごいコンビナートの町であり驚いた。石油コンビナート、造船所、発電所、高圧送電線、海運物流センター、港湾施設・・・海はすごい水量で、たくさんのヨットが浮かぶ。道路の車は少ないが確かに産業と経済を握る生命線という感じ。このまま南下するのも能がないと佐賀関町をまわり先端の関埼灯台まで行くことにする。海はガスがかかり、時々ガスの切れる間から白い灯台が美しく見えた。かなりの坂を下り関埼灯台まで行った。この灯台は四国の佐田岬灯台と向かい合い、速吸瀬戸の狭水道を航行する船舶の安全を守っている。ビシャゴ岩や黒ケ浜(渚100選)というその名の通り黒っぽい感じのする浜辺を眺めたり・・・この半島は浜木綿、クルマユリが咲き誇っていた。佐賀関名物の関アジ、関サバを堪能した。
鶴御崎(九州最東端)
 臼杵から東九州自動車道を少し走り佐伯へ。九州最東端へ向う。日豊海岸国定公園にある北緯32゜55’ 東経132゜5’の鶴御崎は九州の最東端である。小さな灯台と小さな標識があった。最東端のものものしい標示はない。それより目を引いたのは、明治27年(1894)に設置された鶴見崎海軍望楼と砲台跡だ。明治政府は、日清戦争直前に「海軍望楼条例」を公布し、沿岸監視体制をとった。その先駆として鶴見崎突端にレンガ造りの望楼を設置し、豊予海峡を通過する軍艦や西洋型商船の艦船名、符号信号旗の義務付け、その監視を行った。昭和10年より防備衛所として「海軍聴測隊」が設置されたという。アカトンボやアゲハがたくさん飛んでいた。温泉つきの道の駅「やよい」泊。
7月21日
 山また山の道を走り大分を出て延岡へ。自動車道で門川へ。
大御神社(日向のお伊勢さま)
 ゆきあたりばったりの感はあるが「お伊勢さま」にひかれてお参りした。約100万年前、神社の沖にある海底火山の活動により海岸一帯は多量の火砕流が押し寄せ堆積した。そして長い年月をかけて固まったのが柱状節理(溶結凝灰岩)。柱状節理と並んで立派な社殿が建っていた。海岸まで下って境内社の鵜殿神社へもお参りした。
 道の駅「日向」に立ち寄ってから「美々津」の重要伝統的建造物群の並ぶ町を歩く。江戸・明治時代の白壁土蔵の町並みが残る。関西との交流の主役となった廻船問屋の活躍が「美々津千軒」と呼ばれた繁栄の歴史をもたらしたという。西都原を横に見て、自動車道を宮崎へ。ここから西に向い道の駅「ゆーぱるのじり」泊。今夜も温泉つきの道の駅である。
7月22日
霧島神宮
 まずは霧島神宮へ旅の安全をお祈りする。「天祖天照大神の御神勅を畏み戴き高千穂峯に天降りまして皇基を建て給ひ国土を開拓し産業を振興遊ばされた肇国の祖神をお祀り」とある。まさに神話と伝説の世界である。社殿の美しい神宮である。旅の記念と想い出に御朱印をいただいた。
 道の駅「霧島」、霧島温泉郷、南下して隼人道、道の駅「たるみず」と寄り、桜島を見ながらさらに南下。武四郎は記す。「鹿兒島より三里海を隔て巽に當り櫻島といふあり。其形冨士山に似たり。嶌の周巡三里餘。人家三百軒ばかり住たり。此島安永年中に焼崩れ數多人死ありし事ハ世の人よくしる事なり。大焼巳後ハ半腹より上ハ焦土となり草木ともに生ぜず。只麓の方に少く樹木生たり。今にても常に硫黄もへて絶頂にハ烟のたゆるひまなし。それゆへ今も烈風の時節にハ灰を降し、島中の畠は大かた灰交りにて和かなるにより、大根の育ち格別よろしく大きさ二尺廻りにもおよぶもの多く・・・
 今夜は道の駅「根占」に泊。開聞岳を望む海に沈む夕陽が殊のほか美しかった。またお子さんつれのダイビングリバティ代表のご夫妻との会話も楽しく想い出に残るひとときであった。
7月23日
 鹿児島のウグイスはホーホケケキョケキョと鳴く。所変われば・・・ 早朝に出発。ハイビスカスが咲いている。「あっ里芋の畑だ」
いざ!日本列島縦断の旅出発! 佐多岬
 いよいよ日本本土最南端の岬・佐多岬に立った。ここから日本列島縦断の旅が始まる。武四郎の佐多岬についての記述は他のページに記載したため省略。看板とともに記念写真をパチリ。少し離れた小島に灯台が見える。デイゴ、ブーゲンビリア、夾竹桃の花が咲いている。駐車場のガジュマロの木は前回見たときと同じ大きくて元気だ。最南端の郵便局という大泊郵便局で、記念の絵はがき、切手を買い、スタンプを。
 根占港からフェリーで山川港へ渡る。指宿を廻り鹿児島へ。
鹿児島
 武四郎記「薩摩國鹿兒島の城下は南北二里。東西一里餘。人家數萬軒。従(縦)横に町有。大國の湊なれば繁昌浪華につづきたる處にて店棚諸品物滿盈、往來肩を摩し市場の賑ひ鼎の沸がごとし。屋敷町には權貴の大邸、門塀嚴重にして武備堂々たる有さま也。町の中程に一筋の大川ありて湊口に達す。勾欄付の大橋を掛たり。
 市内は効率的な観光タクシーで廻る。ザビエル公園、島津斉彬を祭る照国神社。鹿児島は銅像のたいへん多い町だ。西郷隆盛さんの銅像とパチリ。市街地の北部に聳える城山は、南北朝時代に上山氏が山頂に城を築いた地。慶長7年ごろに島津家久が鹿児島城(鶴丸城)を築いて以降は城の背後を守る山になっていた。最後の内戦といわれる明治10年の西南戦争で最後の激戦地となった。城山展望台から眼下の鹿児島市街、桜島を眺めた。鶴丸城跡、西郷洞窟(西郷隆盛終焉の地)、西郷南洲顕彰館(南洲墓地)など見て廻った。日本の伝統美と中国・琉球文化が織りなす島津家別邸 仙巌園(磯庭園)にはたまげた。島津家の絶大な力に言葉もなかった。仙巌園は、桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な借景庭園であった。続いて尚古集成館へ。この一帯は島津斉彬が建設した工場群「集成館」の跡地で、大砲を鋳造した反射炉跡や機械工場などが残されていた。さらに東郷平八郎像、私学校跡、天文館など見て、石橋記念公園へ。江戸時代末期、城下整備の一環として甲突川に架けられた5つのアーチ石橋のうち西田橋、玉江橋、高麗橋が移設、復元されていた。大久保利通像も見た。充実した3時間であった。仕上げは運転手さんに紹介してもらった寿庵で黒豚の郷土料理を堪能。近くに適当な道の駅がなかったので九州自動車道の桜島SA泊。
7月24日
 九州に来て2日間ほどは雨も降る天候であったが、晴れたとなるといきなりの猛暑。それに毎日走りに走ってきたし、今日は休養日。コインランドリーで洗濯をして標高1200mのえびの高原へ。気温は22℃ 極楽極楽。懐かしい山々と目に鮮やかなクルマユリが心を癒してくれる。春ゼミが鳴いている。のんびりと過ごし、国民宿舎のホテルで温泉を楽しむ。夜は寒いくらい。満天の星がきれいだった。
7月25日
 カッコウが鳴いている。天草方面に向おうとカーナビに任せたら細い峠越えの山道につぐ山道。大口市、出水市、麓町の出水麓武家屋敷群、ツル渡来地を横に見て、黒之瀬戸大橋を渡り、蔵之元からフェリーで牛深へ。
天草
 武四郎記「天草郡は東西三十七里。南北凡拾里餘。大矢野。瀬戸上。瀬戸下と三ツに別れて村數八十八村。一村といへども幾つにも別れて色々小名を稱し、人家凡千軒餘もある中にも、富岡ハ數千軒の町屋にて、公儀御代官高木作右衛門殿の支配にて嚴重の城あり。これハ先年一撥(揆)の節最初に楯(立)籠りし城にて、石垣、櫓、鐡門等要害よく見ヘたり。
河浦の港町風景にも違和感なく見えるゴシック様式の尖塔が印象的な崎津天主堂。現在の建物は昭和9年にハルブ神父によって建てられたもの。この町は永禄12年にアルメイダ神父が上陸してキリスト教を伝えて以降、天草での布教の拠点となった。家康の切支丹禁止令に始まった禁教時代には逆に激しい弾圧の中心地ともなった。昭和8年、天草での布教に生涯を捧げたガルニエ神父が建てた大江天主堂は、丘に立つロマネスク様式の白亜の天主堂である。小さな村の一つ一つに天主堂がある感じだ。ほんとうは天草から直接長崎に渡りたいと思っていたのだがあいにくそのフェリーが廃止になったということで、鬼池港から口之津へのフェリーで島原に渡る。諫早、長崎、長崎バイパス、川平有料道路と走りに走って300km近く、黒崎天主堂を経て、ようやく道の駅「夕陽が丘そとめ」に着。下に遠藤周作文学館があった。ここに泊。ここで想い出に残る嬉しいことがあった。道の駅の相川さんという方によく冷えた桃をいただいたのだった。そのおいしかったこと!おいしかったこと! 人の情が身に沁みた。
7月26日
 5時ごろからあちこちのチャペルの鐘の音が聞こえ始める。海も橋も教会もまことに美しい。西海パールラインを走って佐世保のハウステンボスへ。約152万uの敷地を誇るここは、アミューズメント施設や美術館、レストラン、ショップやホテルまで揃った大型リゾートパーク。あいにく美術館は、あさってからの「幻のゴッホ展」に備えて休館中。一度は訪れたいと思っていたのだが、広くて暑くて、結局孫たちに土産を送り、食事をしただけで早々に退散。
 午後は、佐世保大塔、西九州道を走り、平戸の千光寺を訪ねた。ここは松浦武四郎が3年間お坊さんをしていたお寺で、蝦夷地が今たいへんなことになっていると聞き、蝦夷地へ行くことを決意したところである。前回訪れた時、檀家総代の方からいろいろお話を聞き、資料を持って再びお邪魔することを約束していた。あいにくその方は入院中とのことでお目にかかれず残念であった。そこで前回行けなかった生月大橋を渡りその先の道の駅に。戻って、平戸のサムソンホテルで入浴。ひぐらしがさかんに鳴いていた。そのまま道の駅「松浦海のふるさと館」まで走って泊。
7月27日
 夏アカネであろうかトンボがたくさん飛んでいる。松浦党発祥の地を過ぎ、伊万里、武雄、北方、長崎自動車道、多久、小城、佐賀、吉野ヶ里、鳥栖、九州道を福岡県へ。筑紫、大宰府、博多、北九州と走り、
海の中道 志賀島
 海の中道とはつまり砂洲の上を走る道路であった。海の中道海浜公園に立ち寄り、金印公園へ。天明4年(1784)「漢委奴国王」と記された金印が出土したと思われる場所である。蒙古首塚、国民休暇村で昼食。前の海岸でたくさんの人たちが海水浴を楽しんでいた。青く澄んだほんとうにきれいな海岸である。潮見公園、火焔塚、志賀海神社など訪ねた。
宗像大社
 宗像三女神を奉斎している。宗像大神を奉祀する宗像氏は、古代の有力な氏族であり、中世には院庁、鎌倉、室町両幕府と関係をもち、戦国記にもその地位を守り抜いた豪族であったという。
 旅の途中立ち寄った記念に、各地の郵便局で切手を求め景観印を押してもらっているが、ここの郵便局は若い女性局員がにこやかに応対してくださり、「お気をつけて、いい旅を!」とたいへん気持ちがよかった。今日も走行距離200kmを超えた。
 玄海ロイヤルホテルで入浴して寛ぐ。ホトトギスの声が聞こえる。道の駅「むなかた」泊。朝方、駐車場横の湿地でカエルの大合唱が聞こえた。
7月28日
英彦山
 英彦山に行きたいのだが・・・ついこの間の大雨で福岡、大分の山間部はかなりの被害があったらしく・・・でもこの機会を逃したら・・・迷いに迷って訪れることを決断。道の駅「ひこさん」で情報を得て向う。英彦山の武四郎の記録は別のページに。
 英彦山は、大峯山、羽黒山と並ぶ三大霊場の一つである。英彦山神宮にお参りし記念に実に立派な御朱印をいただく。前回は山頂にある奥の院まで登ったのだが、今回はとてもとても・・・長い長い石段を銅(かね)の鳥居まで下りる。かつてここには、800の宿坊が並び3000人の宗徒が住まいしていたそうだ。その様を想像しながら行くと、武四郎が四国で出会った聞亮という修験者を訪ねて泊まったという福壽坊はひっそりと佇んでいた。もちろん武四郎は、いっしょに山頂まで極めている。唯一公開されている財蔵坊を見学させていただいた。帰りには法螺貝を吹いて送ってくださった。
和布刈(めかり)神社
 門司まで戻り、和布刈神社へ。九州最北端に位置し、海に面した小さなかわいい神社で、石燈籠まで海の中に立っている。武四郎記「豐前の國早靭(鞆)大明~の宮居は、山の出崎に有て海面に臨ミたれば波浪常に華表の根元をひたし、風景無双の宮地なり。前には與次郎嶋あり、左には嚴(巖)流島。右の方には汗(干)島滿島連りて、大洋の瀬戸口なれバ潮の早き事急湍の如く、往來の船ども潮間をはかつて瀬戸を越る事なり。當社ハ靈~にて年中の祭禮數多き中にも、極月大晦日の夜は社前の海面潮の汗(干)る事常にかハりて遠く退くゆへ、社人炬火をさゝげ石壇を下りて水底の和布を刈取、~前に奉て祈祷あるなり。此事諸書に見へて世人のよくしる處なれバ委くハ誌さず。また浦つづきに大裡と唱へる湊口あり。こゝは下の關よりの渡り口なれば諸國の廻船ひまなく碇をとゞめ、いと繁花の地なり。」この神社でもすばらしい御朱印をいただいた。その後スーパー銭湯湯楽で入浴、今夜の泊をめかりSAと決め行ってみると関門大橋の下のすごいところ・・あわてて次の王司PAに避難。
 
7月29日
 本州の出発地はやはり下関からと自動車道を降りて下関に戻った。唐戸市場に行った。朝から賑やかな市場だ。握り寿司の店がたくさん並ぶ。その一軒で好みの寿司を食し、知人に干物を送る。自動車道に戻り、山口で山口博物館に寄る。
瑠璃光寺五重塔
 山口市は「西の京」と呼ばれ、絢爛たる大内文化の名残を伝える歴史と史跡の街だ。なかでも大内文化の最高傑作として国宝に指定されている瑠璃光寺五重塔はすばらしかった。ガイドさんに叮嚀に案内してもらった。瑠璃光寺でも立派な御朱印をいただいた。
萩往還
 萩往還は慶長9年萩城築城後、毛利公の「お成り道」として開かれた。城下町萩と瀬戸内の港三田尻をほぼ直線で結んでおり全長はおよそ53km、もとは参勤交代道として整備されたが、庶民にとっても山陰と山陽を結ぶ陰陽連絡道として重要な交通路となった。幕末には吉田松陰をはじめ維新の志士たちが往来しており、歴史上で重要な役割を果たした。この道はもちろん山中の道だがそれとほぼ平行に走る道を私たちは車で。ほんとうに歩いてもおもしろそうな道である。道の駅「あさひ」に寄る。このあたりの家は、赤(茶)瓦の堂々たる構えの家が多く、いわゆる佐々並伝統的重要建造物群保存地区なのである。道の駅「萩往還公園」もおもしろい。「松陰記念館」があり、驚いたことにここに松浦武四郎の名が記されていた。北海道以外の記念館、博物館の年譜の中ではじめて松浦武四郎の名を目にしたからである。また外には幕末の志士たちの大きな銅像が7体も建っていたのにはたまげた。
 萩の町を横目に見て、土地の人に教わりながら、道の駅「しーまーと」、道の駅「阿武町」と巡り、道の駅「ゆとりパークたまがわ」に着く。じつは温泉を探していたのだ。今夜は田万川温泉で、入浴と夕食を。そしてその横のキャンプ場で泊。嬉しい知らせが入った。私たち夫婦の母校である高校が甲子園出場を決めたとのこと。生きているうちにこんな日が来るなんて! 鹿児島で三日月だった月が日に日に丸くなってきた。
7月30日
 益田でコインランドリーを済ませてから、昼前に道の駅「ゆうひパーク三隅」に着く。そういえばこのあたりは神楽が盛んなところと聞く。しかし調べてみると常設会場とはいかないようだった。国道9号を走る。道の左側がすぐ日本海であるためか点滅信号がたいへん多い。九州の海もそうであったが、山陰の日本海はとてもきれいだ。水は様々の青色に澄み、なにより海岸にゴミがほとんどない。砂浜の海ではあちらでもこちらでも海水浴を楽しむ人の姿が見られた。浜田バイパス、江津バイパスを走る。このあたりもオレンジ色の瓦が多い。鴟尾が立つ。
出雲大社
 島根といえば出雲大社ははずせない。神話の国、古代出雲の象徴、壮大なスケールの大社である。何度か訪れたことがあるが、大国主命に迎えられ、巨大な注連縄を見上げる。ここでも御朱印をいただく。実は隣接して島根博が開催中で、松阪の本居宣長記念館からも貸し出し出展のあることは知っていたのだが、暑さにまいり失礼する。外など歩いてはおられない。
 早々に退散して、宍道湖のほとりの道の駅「秋鹿なぎさ公園」へ。ここで紹介してもらい、湯の川温泉の日帰り温泉「ひかわ美人の湯」へ。いい温泉だった。そして近くの道の駅「湯の川」で泊。今日も200km以上走ってしまった。そうそうここで、冒頭の自転車で日本一周の気持ちのいい青年にあったのだった。若者は夢があっていいなあ。
7月31日 
 松江市内はパスし、
八雲立つ風土記の丘へ。古代出雲の国造りの中心地であった丘の上に建つ古代の息吹を体感しようというミュージアム。近くの神魂(かもす)神社がまたいい。出雲国造の祖、天穂日命が降臨し創建したと伝えられる神社。現存する最古の大社造であり、屋根の趣がすばらしい。小泉八雲ゆかりの神社でもある。鳥居に茅の輪が設えてあった。
足立美術館
 日本美の粋を極める有名な美術館である。ことに日本庭園の美しさに心奪われた。横山大観をはじめとする近代日本画、河井寛次郎らの陶芸作品を観て廻った。
 ここは安来、安来節とハガネの町である。隣に安来節演芸館もあったが、踊りどころでないこの暑さ! 気温標示に38℃とでていた。車内はクーラーをかけていても首のあたりから背中に湯気がたっているよう、これはたまらない。米子から海岸部を離れて山間部へ避難することにした。少し高度を上げると28℃に、奥大山の鏡ケ成国民休暇村に着くと22℃、この高原でなら涼しく寝られることだろう。しかしせっかく来たのだからと休暇村のホテルに泊。
8月1日
 離れ難い高原を後にする。ホトトギスが鳴いている。地蔵峠を越え、伯耆国分寺跡、伯耆国府跡不入岡遺跡など見て、海岸へ出る。きれいな砂浜海岸が続く。ハマナス自生南限地帯とある。白うさぎ海岸を経て
鳥取砂丘
 この真夏日に砂丘に人はいないのではないかと思いつつ行くと、あにはからんや砂丘は人であふれていた。夏には夏の楽しみ方があったのだ。それにしても砂丘を越えていく若者たちのバイタリティにはただただ驚き。観光客を乗せる馬や駱駝がかわいそうだった。
余部鉄橋
 兵庫県に入り思いがけず余部鉄橋の下を通った。昭和61年、余部鉄橋を走行中の列車が突風にあおられて客車7両が転落し、水産加工場と民家を直撃し、6人の死者を出したあの事故現場だ。道の駅「あまるべ」で高くて美しい鉄橋の写真を買った。
 かにの町であり「夕日百選」の香住を過ぎ、城崎温泉の鴻の湯で入浴。オミナエシが咲いている。三原峠を越え京都府へ。道の駅「丹後あじわいの郷」で泊。普通車550台の駐車場があるのに宿泊車1台(私たちの車)とはふしぎな道の駅である。今夜の月はもう満月に近い。
8月2日
 このあたりは「フルーツ王国」とあり、たしかに果物は売っているのだが、すぐ食べられる冷えた(贅沢かな)ものはなくて残念。丹後松島、丹後天橋立大江山国定公園の美しい海岸線を楽しみながら、
伊根湾めぐり
 海に突き出した家、下は舟を入れるところ、いわゆる舟屋つくりで有名な伊根の町、それを遊覧船に乗って海側から眺めようというのである。観光にされてはたまったものではないだろうが、独特のつくりがよくわかって楽しかった。
 天橋立、丹後ちりめんの里・与謝野、宮津と若狭湾を巡る。途中、山椒大夫の安寿と厨子王の像があった。「筑紫の国に流された父を尋ねて、母と共に越後を旅立った姉弟「安寿と厨子王」。旅の途中、人買いに取られ母は佐渡へ。姉弟は丹後由良の山椒大夫の所へと売られた。姉は命と引換えに弟を逃し、都に出た厨子王は丹後の国守となり悪人を成敗し盲目となった母と再会したという。」とあった。藤津神社、舞鶴、道の駅「とれとれセンター」へ寄り、舞鶴若狭道を福井県に入り、高浜、小浜、若狭、三方五湖と過ぎとうとう敦賀へ。ここが第1期の終着地である。一路自宅まで一気に走った。本日の走行距離423km。
総走行距離 2909km
 
8月20日
 やっと日本列島縦断第2期の旅に出発。自動車道のあちこちに夏ユリが今を盛りと咲いている。第1期の終着点敦賀に戻り、そのまま北陸道を走り金沢で下りる。今夜は内灘町総合公園で泊。前回も行ったほのぼの温泉へ。
8月21日
 北陸道を走る。砺波は独特の真っ黒に光った瓦が美しい。高岡で下りようかとも話したのだが、まだ走り始めたばかりでパス。右手に立山連峰が美しい。そして懐かしい。小矢部川、庄川、神通川、九頭竜川、常願寺川、黒部川と大きな川をいくつも越えるのだが、どの川にもアユ釣りらしい釣り人の姿があった。有磯海SAには「早稲の香やわけ入る右は有磯海」と刻まれた大きな芭蕉の句碑があった。そうここは芭蕉の世界。
市振の関
 朝日ICで下りる。街道には紅白のサルスベリが交互に植えられていておもしろい。江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。市振の関はその53関中重要23関の一つであった。越中との国境の要衝であった。ここでは、関所跡、桔梗屋跡、海道の松、弘法の井戸、市振海岸(ヒスイ海岸)、長円寺の「一家に遊女も寝たり萩と月」の芭蕉句碑などを見て廻った。「奥の細道」から引用する。「けふは、親しらず、子しらず、犬もどり、駒返しなど云、北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に、若きをんなの声、二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て、物語するをきけば、越後の国新潟と云処の、遊女成し、伊勢に参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古里にかへす文したゝめ、はかなき言伝などしやる也。「白波のよする汀に身をはふらかし、あまのこの、世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし」と物云を、聞きく寝入て、あした旅だつに、我われにむかひて、「行末しらぬ旅路のうさ。あまり覚束なう、悲しく侍れば、見えかくれにも、御跡をしたひ侍らん。衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて、結縁せさせ給へ」と、なみだを落す。不便の事には、おもひ侍れ共、我われは、所どころにて、とゞまる方おほし。唯、人の行にまかせて行べし。神明の加護、必つゝがなかるべし」と云捨て出つゝ、あはれさ、しばらくやまざりけらし。「奥の細道」の立派な看板が立っていた。
 親不知子不知を巡って、再び北陸道へ。糸魚川、信濃川を3度越える。道はそのまま日本海東北自動車道に続く。阿賀野川を渡り、胎内ICで下り、道の駅「えちご関川(桂の関)」へ。私たちがここを選んだのは、温泉つきの道の駅だったからにすぎない。ところが着いてみて驚いた。米沢街道に沿う立派な宿場町が残っていたのだ。明日ゆっくり見学することにした。この夜は、体育館に飾られていた、近く行われる「えちごせきかわ大したもん蛇まつり」の主役の大蛇を見学した。その長さなんと82.8m。羽越水害が発生した昭和42年8月28日に因むという。
8月22日
関川(桂の関)
 関川は日本海側と内陸とを結ぶ交通の要衝にあたり、先史時代より荒川沿いに道ができ発達してきた。この道を通って石器や土器の製作法が伝わり、仏教、稲作が伝播した。また時代時代の権力争いの中で軍隊が行き来したのもこの道である。米沢街道沿いに豪壮な茅葺住居が2軒残る。画像はそのうちの1軒、津野邸である。佐藤邸のほか時代を偲ばせる建物が並ぶ。国指定重要文化財の渡邊邸を見学させていただいた。渡邊家の初代は、村上藩主の家臣で郡奉行を務めた。二代は廻船業、酒造業を営み、三代は財政難に苦しんでいた米沢藩に融資、その功で五代以後は勘定奉行格の待遇を受けた。全盛期には75人の使用人、1000haの山林、700haの水田から1万俵の小作米を収納したという。土蔵は12あったそうだが現在は6棟残っており、画像はそのうちの5棟が望める場所。当家は現在5年がかりの大修復中であるが、それだけにいっそう巨大な梁や屋根の造りが眼前に見られ迫力がある。母屋の屋根のほとんどは石置木羽葺屋根で、木羽20万枚と石15000個が使われている。ちなみに宮尾登美子原作の「蔵」がテレビ化されたときの撮影場所がこの渡邊邸だったとのこと。渡邊家分家として建てられた東桂苑や「せきかわ歴史とみちの館」も見学した。
 笹川の流れに寄り、白河関と並んで奥羽三大関門の一つ鼠ケ関(念珠関)関所跡を訪ねた。「荒天時波しぶき注意」の道を走り、鶴岡市の「致道博物館」へ。鶴岡は江戸時代に城下町として発達した町。致道博物館は鶴ケ岡城の三の丸にあたる。藩主酒井氏は明治後も鶴岡に留まり、郷土文化向上のため、旧藩校致道館資料、土地建物を寄附、博物館ができた。画像は旧西田川郡役所。ハンゴン草の咲く道を上り今夜の羽黒山国民休暇村オートキャンプ場へ。夜は虫の声がしきりに聞こえすっかり秋である。
8月23日
羽黒山
 羽黒山に行った。英彦山でたくさんの宿坊跡を見た。羽黒山のそれはどうだったのか確かめたかったからである。先ずはいでは文化記念館で羽黒山と芭蕉について学習した。国宝の五重塔まで下りていこうかとも思ったのだが、前回も2度行ったしこの暑さではとパス。宿坊は大鳥居のすぐ近くに大きな茅葺の由緒ありげな立派なものが現存していた。その後歩いた宿坊町ともいえる通りには、○○坊、△△坊と記された改装された宿坊がたくさん残っていた。黄金堂にもお参りし、正善院におられた修験者の方のお話も聞くことができた。
 その後、庄内映画村へ。広大なオープンセットを作るためそれは人里遠く離れたところにあった。向日葵畑、ハギ、ススキ、月見草の咲く道を延々と走った。
 山形道を走り、最上川を越えて酒田へ。鳥海山を見ながらいよいよ秋田へ。にかほ温泉「はまなすの湯」に浸かりながら、以前獅子ケ鼻湿原を案内していただいた方にもう一度お目にかかりたいと思い連絡をとるがきょうも湿原をご案内中とのことでお目にかかれず残念であった。白瀬南極探検隊記念館があった。日本海東北道を走り、雄物川を越えて秋田道へ。今夜は道の駅「てんのう」。温泉つきの道の駅である。
8月24日
男鹿半島 
 なまはげに迎えられ男鹿半島へ。寒風山を右に見て走る。秋田といえば菅江真澄の世界。あちこちに「菅江真澄の道」の標柱が立っている。浜ヒルガオが咲いている。日本の渚百選の鵜の崎海岸は誠に美しい海岸であった。門前でも大きななまはげに出迎えられた。この下に新鮮な魚貝を売る店が並んでいたが、時間帯が合わないのか人っ子一人見当たらず。舞台島、白糸の滝を見、戸賀湾展望公園には水族館もあった。ここでは遊覧船に乗り海中を覗いた。目的の入道崎。思いがけず開けた場所であった。たくさんの店が並び、白黒の灯台。ここでおもしろかったのは「北緯40゜のモニュメントであった。大きな石が南北のライン上にいくつも並んでいた。
 大潟村から能代へ入り、道の駅「みねはま」、白神山登山口、十二湖、不老不死温泉と以前訪れたところは素通りして、ほんとうは秋田市にも寄りたいし、菅江真澄の墓所も訪れたいのだが、少し内陸部へ入らねばならず目をつぶる。海岸沿いを走る。松浦武四郎によると、「秋田領岩館之番所を過てハ右ハ峨々たる高山凡二十丁斗の間ハ樹木無、左ハ・・・・たり。斷崖疊々屏をなし、岸に寄る浪は砕て白雪をまぜるが如く、道よりして是を眺むに眼暉して見留がたく、此上なる山の端の少し平路を行に、半斗の間は山田有てこれに筧を以水を引けり。其様實に見事也。」「大間越番所 一統志、古城跡篠原勘ケ由同寺田讃岐居之。貫門柵茂木を結て峠の上に番所を構たり。此處へ弘前より物頭格の侍壹人、下役七八人も来りて、往来の旅人より錢を貪る事也。」現在もそこは大間越街道となっている。「K崎村 人家三十軒斗。漁者ハ只鰰時斗猟するよし。平日は只農業のミ也。小商人壹軒有。・・・随分富貴の村也。」「岩崎村 從久田村十三四丁。人家六十軒斗。農漁入接り小商人、旅籠屋有。・・・酒や有。随分自由の處也。・・・濱形西向。此處海岸五六百石位の船三四艘ハ岸より三四丁に懸る由。」深浦町歴史民俗資料館を見学。千畳敷を訪れる。寛政4(1792)年の地震で海床が隆起し水面に現れたものである。武四郎記「海岸傳へ行バ、汐干たる時ハ種々の怪岩奇石露れ出、又絶壁にかゝる小流、何れも瀑布をなし、飛越跳越行に小魚は海間に飛上ル。蚫、海参、小貝類ハ岩間に簇々として其風景實に目ざましかりし事成しか。」鯵ケ沢より岩木山を見ながら走り、道の駅「もりた」泊。
 

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