紀伊半島横断・和歌山街道(伊勢南街道) 本居宣長の「紀見のめぐみ」道を歩く 1

紀伊半島横断・和歌山街道
 本居宣長の
「紀見のめぐみ」道を歩く 1
 
     「続けること
      そうすれば何か答が出てくる
      止めないこと
      それが生きること」
 「世界 わが心の旅」の中で、チェリスト溝口肇氏はそう語った。私も歩き続けようと決心を新たにした。
 飯高町・飯南町が2005年1月1日より新松阪市となった。それを記念して飯高町・飯南町・旧松阪市を貫く街道を歩いてみようと思った。かつて教職にあった私が最初に赴任したのが飯高の地であり、それから10年の歳月をかけて旧松阪に辿りついた懐かしい道でもある。
 さらに奈良を通り和歌山まで歩いてみたい。それは、紀伊半島を横断する道であり、紀州公が参勤交代で通った和歌山街道(伊勢南街道)である。それはまた、本居宣長の「紀見のめぐみ」道でもある。

紀伊半島を横断する
 伊勢より櫛田川沿いに進んで高見峠を越し、吉野川沿いに西進して和歌山に至る街道、これはほぼ一直線で東西に走る大きな地溝帯を利用した自然発生的な通路ともいえる。地質学上では「中央構造線」(フォッサ・マグナ)と呼ばれる「大断層線」である。
和歌山街道
 近世における和歌山街道は、伊勢では「川俣街道」「高見山越え吉野街道」などと呼ばれるが、大和の国(奈良県)から見れば伊勢に向う参宮のルートで、伊勢北街道(初瀬街道)、伊勢本街道とならんで「伊勢南街道」と呼ばれた。明治9年(1876)中央政府の指示により一定の街道名が規定された際、和歌山から松阪に至る「和歌山街道」が正式名となった。
参勤交代の道
 紀州藩は江戸への参勤交代は和歌山より紀ノ川・吉野川沿いに東進し、高見峠を越えて川俣街道を利用し、自領の松坂城へ出て休息するのが常であった。ただし第七代藩主宗将以後の藩主は大坂まわりのコースに変更した。しかし徳川御三家紀州藩の領村の内4分の1よりはるかに多い470村あまりが伊勢領であったから、松坂城の「松坂城代」「勢州奉行」などの権限も強く、和歌山・松坂両城下を結ぶこの街道は、藩士や商人たちにとって重要路線であり、街道筋も大いに繁盛した。紀州藩の藩道であったことから「紀州街道」、庶民の生活道として大和地方との関わりが深くなると「大和街道」とも呼ばれる。伊勢参宮や熊野詣、吉野詣の巡礼道としての「伊勢街道」、また南紀や伊勢志摩地方の海産物や塩等を大和地方に運ぶ交易路としても重要な街道であった。そして五街道を模して駅制や七里役所制が紀州藩によって整えられ、御役米を免除し、使役の人馬の賃金が支払われるなど、藩内の他の街道に比べ優遇されていた。
「紀見のめぐみ」道
 第十代紀州藩主治宝から、紀州藩派遣の松坂城代・勢州奉行を通じ、「御用之候間、此節若山表江罷越候様」と召され、松坂の国学者本居宣長は寛政6年(1794)に松坂から高見峠を越えて和歌山まで講義に出かけている。宣長65歳のときのことであった。その旅日記が「紀見のめぐみ」である。ときにこれは「君のめぐみ」と表記されることがあり、本居宣長の藩主に召された喜びが感じられるとの解説も見られる。

松阪市日野町(和歌山街道の起点)から横野(伊勢本街道との分岐点)まで
 いくつかの街道を歩いた。しかしそれは、整備された車の通るような道でないことも多い。山の中では人跡の途絶えたところもある。そこをできるだけ忠実に歩くには冬枯れの時期に限る。街道歩きはおのずと冬季となる。比較的暖かかった2004年暮れに歩き始めようと計画していたが何かと事が多くて実行できなかった。明けると猛烈な年明け寒波。ようやく第1歩を踏み出したのは1月も半ばであった。
 和歌山街道の起点は松阪市日野町交差点である。「左さんぐう道 右わかやま道」と深く刻まれた石の道標が立っている。つまり伊勢街道(参宮街道)との分岐である。この道は私が子どもの頃はバス1台がようやく通れる狭い道であったと記憶しているが、今は拡張されたまっすぐな立派な道になっている。
 歩き出して間もなく松阪屈指の名刹樹敬寺の山門が見える。境内に本居宣長・春庭墓(国史跡)がある。また山門を潜ると豪商小津家が開いた歌会場の嶺松院跡がある。後に本居宣長も入会したとの説明板が立っていた。
 さらに行くと先のと同じ石の道標がある。「左くまのみち 右和か山みち」と刻まれている。熊野街道の起点である。
 広い道路を渡り、大黒田新道のいかにも旧街道らしい町並みに入る。常宝寺の前を過ぎる。蒲生氏郷が敷設した雷光型街路の名残がある。角に「永代常夜燈 村中安全 五穀成就」の常夜燈がある。ちかくに祠の中に入った山ノ神があり、松の木が立っていたらしいが今は倒れてその跡が残る。そばにかわりの幼樹が植えられていた。
 やがて道は国道166号線と重なる。田村町には旧道が残り静かな通りである。驚くほど豊かな水が流れていた。再び166号へ戻り、かつて茶屋があったとされる立野からまた旧道へという具合に国道とついたり離れたりを繰返し歩みを進める。
 大河内神社は阪内川の右岸にある。数え切れないくらい何度も通る道だが上がってみるのは初めて。なかなか立派な神社であった。桂瀬町は旧道を。
 大河内町の旧道を歩いて行くと、西の丘陵地に県史跡の大河内城址が見える。永禄12年、織田信長に対抗した北畠氏が、50日ものあいだ籠城し、信長の次男・茶筅丸(信雄)を北畠の養子にすることで和解したという城である。伊勢自動車道の手前、広阪集落の南端、丹生道との分岐点に「左大師道」と刻まれた自然石の立派な道標が立っている。道の反対側に、「左大師道」の道標、「南無阿弥陀仏」の六字名号碑、「金剛大日」の大日碑が並んで立っている。
 自動車道を潜り、阪内川沿いの道を歩く。川向こうに薬師堂と常夜燈が見える。振り返る尾根には大河内城の出城であった脇谷城址も見える。辻原に入ると多気道との分岐点に、正面に大日如来が彫られている道標がある。「右あヽらき多気 左紀州道 右まつ坂 左たきあヽらき道」と刻まれている。瀬戸峠へ向う街道は166号線により寸断されておりたいへん分りにくい。峠にあった石室の中に安置されている「瀬戸の石地蔵」もかなり下に移設されていた。辻原の一番西の家の深田ひでさん(85歳)にひでさんが若い頃の街道の様子や新道が作られた当時の様々な話を聞くことができた。「そうそうあれは新しい旧道や」の話になんとも適切な表現だと納得。教えていただいた通り切り通しの上の山の中へ分け入った。下りきると先の台風で大きく山崩れしているところに出た。
 七曲からは、近畿自然歩道になっていてよく整えられている。「旧和歌山街道鳥羽見峠越えのみち」と書いてある。集落に出たところで、お年寄りに鳥羽見峠への道を問うと「これをまっすぐ行くのが紀州さんの道や。鳥羽見峠では紀州さんも休まれたそうだ。」教えていただいた。 鳥羽見峠には、小さな木の鳥居と鳥豆稲荷(とりまめさん とりばみさん)の小祠が祀られていた。「1794年 本居宣長ここを通る・「紀見のめぐみ」道」の木標を提げる。ここからの山中街道はなくなっているので、近畿自然歩道を行く。下に天保4年(1833)11月に起工、人夫22076人を労して同6年7月に竣工した北谷池(親池、鳥羽見池)が見える。下りきってしばらく行くと、半肉彫りの「右山田六里 観照 左松阪三里 辨應」と刻まれた道標地蔵がある。そこから少し行った伊勢本街道との合流点に、上部が一部欠損し、下半分が土に埋まった道標があった。2年前に私が伊勢本街道を歩いたときは確かにあったのだが、盗掘されて今はもうない。
 小片野は166号を離れて集落の中を行く。なだらかな上り坂で根尽坂と呼ぶ。やがて弘法大師の創建と伝えられる不動院本堂に着く。国の天然記念物のムカデラン群落が着生している炮烙岩(観音岩)がある。その下に馬頭観音と大日如来の二石仏が安置されている。本居宣長が
 菅の根の長き日ならは大いしの
       瀧のしら絲よりて見ましを
と詠んだ不動滝も見える。立派な常夜燈もあり、前を流れる櫛田川には巨石・怪石があって美しい。
 おせん茶屋があったことから名付けられたおせん坂を上がって大石の集落に入っていくと連子格子の家並みが見える。上出には庚申堂とその正面石垣に組み込まれた道標がある。かつてこのあたりには旅籠が点在していたそうだ。
 この集落を過ぎると昨年までは飯南町であった町である。櫛田川に沿って上って行く。深野、横野と辿っていくと、昔からの街道旅館「待月」。かつては木造二階建の大きな建物で、三叉路の角いっぱいに建っていたそうだ。ここから道を分けるのが伊勢本街道である。
横野から田引まで
 蛇行する櫛田川に沿って歩き切り通しを抜けて堰堤に出る。紅梅が今を盛りと咲いていた。粥見神社の前が伊勢・熊野に通じる和歌山別街道との分岐点で、「右さんくう道 左まつさか道」と刻まれた自然石の道標が立っていた。しばらく人家の間をぬって進む。やがて中電伊勢開閉所の大きな施設の中に街道は吸収される。深野の地士野呂一之進により開かれた農業用水池・高束池が見えた。池の傍らに用水池の開拓碑が立っている。かつての街道はこの高束池の底を通っていて池の改修とともに何度も付け替えられたと、柏野の妹尾三郎さん(84歳)が話してくださった。ここからは民家の軒先を通り竹薮と雑木の中に街道は消えている。その街道筋に上田専吉さんが営む「魚専」という魚や食料品を売る店があり、この坂を「魚専坂」といったという話も妹尾さんから聞いた。道なき道のウオセン坂を藪扱きをしながら抜けた。
 再び櫛田川沿いの道に出た。目の下に淵の本が見える。澄みきったきれいな川である。昔、紀州候が参勤交代の道を大牛にふさがれ困っていると、一人の男が片手で片付けてしまった。感心した紀州候はこの男にご褒美を賜ったという、宮前村木地小屋の怪力専故の伝説が残る。街道は国道を右に左にしながらうねうねと宮前へと入っていく。大繁盛した茶問屋滝川屋跡、深谷橋の欄干の名残りを見、本陣跡、江戸屋、角屋、大阪屋、岡本屋など旅籠8戸が軒を並べていたという家が建て込んでいる街道を進んでいく。この町には、「大庄屋滝野家跡地」「宮前村元標跡」などの説明板がいたるところに立っていて楽しい。なかには飯高東中の生徒の書いた「キリシタンの制札」などの説明板もあって、ほのぼのと心温まる町が感じられる。花岡神社に寄り、お弁当を食べさせてもらった。
 いよいよ珍布峠への道である。立派な道標が建っている。「左くりたに 是より れいふみち 八十丁」「紀州ミち よし乃かうや ならはせ」「文政二年己卯九月 願主 松阪湊町 中村吉兵衛信可」「栗谷太陽寺中興」と書かれている。折りしも地元の宇佐美源さんが散歩中で珍布峠まで一緒に歩きながらいろいろと案内していただいた。ここにも「霊符山の道標」「旧和歌山街道」「水準点」「木戸の一軒家」「死人谷」、芳野を逃れた源義経と静御前が通ったという伝説の「道行谷」「石灰爺さん」「珍布峠・礫石」などの説明板がある。珍布(めずらし)峠は、柱状節理が水平になったところを切り開いたような峠であった。
 礫石へは、林道と別れ山の斜面を下りていく。このときは道を整えるのかちょうど青いビニルテープが張ってありそれに沿って下りた。といってもかなり歩きづらい。下りると、礫石の碑の前に出た。「倭姫の命礫石」「流れては 昔に帰る川俣川 礫いはうつ 水のしら浪」と刻んである。説明板の伝説にはこう書かれていた。
 昔のこと、天照大神が白馬に乗って珍峠にさしかかり、国境を尋ねると、天児屋根命があらわれ、「この下の堺ケ瀬が伊勢と大和の国境」と答えた。大神は「この境は疑わしい」と言い、大石を川の中に投げ入れ、波のとどまる所で決めることにした。そしてそばにあった大石を礫のように投げ入れると、川の水は巨大な水柱となり、にわかに滝のように落下した。そこで、このあたりを滝野の里と名付けた。勢いよく川上に逆流していった。その波の変化した様子から、それぞれの地名を加波の里、波瀬の里、舟戸の里と呼ぶようになった。さらに激しい勢いで逆流していった波は高見山に達した。この日より高見山を伊勢と大和の国境と決めた。それからこの大石を礫石と呼ぶようになった。
 さらに山中の道を行くと、蔓延元年(1860)5月の壊れかけた石仏二体が祀られていた。旧国道と交わる。街道はここを上っていくのだが、反対に橋を渡り対岸に戻ったところの国道沿いに、本居宣長の歌碑がある。
 いにしへにたか行ひしなこりとて
       名にはおひけむあかをけの里
 相模峠は国道・旧国道に挟まれて峠の面影を留めてはいなかった。峠の岸壁に洞窟をくり抜き祀られていた庚申像も国道沿いに移設されていた。
 やがて新しい田引トンネルの前に出た。街道はトンネルの左、櫛田川沿いに続いている。入口に一本松の碑とその大きな切り株が残っていた。明治以後は別れの一本松、名残の一本松とも呼ばれ、戦地に赴く兵士とその家族が深い哀惜の念で別れた松といわれていたそうだ。さらに進むと、大きな山崩れがあり、大量の土砂が流れ、樹木と4本のコンクリート製電柱などが倒れ道を塞いでいた。やはり去年の台風の被害なのであろう。木を跨ぎ土砂を乗り越えて進む。この先から新しい国道に上がり、少し戻ると、脇谷の観音と橋地蔵が祀られたお堂があった。隣接の脇谷勉さんにお話を伺うと、この観音と地蔵はもとは川のそばにあったのだが、水害や道路改修で3度移設されて現在のところに納まったそうである。
 続く田引の宿場には吉野屋、大黒屋、巾屋、東屋、泉屋、江戸屋等の旅籠があったという。愛誠小学校跡の標柱を見つけたり八柱神社の前を通ったりして川上八幡への分岐のところに着いた。  
田引から大定峠を越えて波瀬まで
 「川上八幡宮道」と刻まれた道標など3つの道標が立っている。川上さんへはここからも行けるらしい。もちろん途中からは歩きで。私たちは今日はこの分岐から和歌山街道を上っていく。櫛田川の流れが美しい。田引と粟野の境は難所であったらしい。道は山が櫛田川へ落ち込むところに細く続いている。九十九曲を上っていく。咳の地蔵があった。石仏も石碑もない岩で小さな鳥居だけが立っている。このあたりに旅籠があったそうだ。下粟野のはずれから国道166号線は橋をわたり対岸についているが、旧道は櫛田川の左岸に細く通っている。再び166号に出るがすぐに地の添の旧道に入る。そして旧道を出る166号脇に地蔵と庚申が祀られていた。庚申には「福本村次郎兵衛寄進」と刻まれている。福本川を渡ったところからも旧道が残っていて今は茶畑が広がっているがかつては旅籠が並んでいたとという。やがて大谷橋が見える。対岸の宮本に渡る橋で、日本の製茶王といわれる大谷嘉兵衛の架橋したものである。元川俣小学校のところには大きな街道松が、そしてその少し上の山林の中に五輪塔二基が残っている。
 川を覗くと下の方に架けられていたコンクリートの橋の半分が台風ででも壊されたものだろう川の下流に沈んでいた。道の分岐点に「為 橋上往来水難除 先亡溺死菩薩」と刻まれた橋地蔵があった。七日市である。本居宣長は一日で松坂からここ七日市まで歩いたのである。当時の旅人はほとんどがそうであったとはいえ実に驚くべき健脚ぶりである。街道は集落の中にうねうねと続き、昔の町並みが残っている。文化5年(1808)の法華塔があった。本陣跡もあった。その前に昔の薬屋の看板が残っているいかにもそれらしい構えの民家があった。
 いよいよ難所の一つ大定峠越えである。この峠を越えると乙栗子。166号線は櫛田川に沿って大きく迂回し森を通っているのだが、それに比べるとかなりの短縮路になる。ただし峠への約500mは道が残っていない。何度も下見に来て、地元の方に「あれが大定峠」と教えていただいた峠をめざして、砂防ダム工事の道らしきものも利用しながらかなりの傾斜を登っていった。やっと視界が開け大定峠に着いた。峠には風で相当痛めつけられたらしい桜の古木があり、その下に役行者が祀られており、そばに常夜燈もあった。祠は注連縄がはられ供花も供えられていてきれいに祀られていた。峠からは緩い傾斜道である。おれん茶屋の跡があり、大岩に地蔵が埋め込まれていたらしいが見落とした。峠を下りたところは旧街道の理髪店の前であった。
 しばらく行って街道が166号線と交わるあたりに堂々たる構えの旅籠跡があった。旅籠と製茶を業としていたとかで、旅籠の看板が現在でも保存されているそうである。さらに切り通し街道が続き、加波と乙栗子の境界のところが、加波峠である。切り通しの崖の上にの「笛吹いて 凩走る加波峠」の立派な自然石の碑が建っていた。その下に、鎮護塔と庚申が祀られていた。
 しばらくして道は166号を離れ、福山の方へ入っていく。「松屋」という旅籠だったという家のところでこの家の松井勇一さん(79歳)に街道の話を聞いた。「この和歌山街道は、六尺幅の街道だったよ。旅籠の前の縁台は雨が降ったときでも駕篭が置けるように三尺の幅があったんだ。」しかしその道もその先は今は消えて、細い人一人がやっと通れる山道になっている。途中に大岩があって松の木が立っていたそうだ。それらしき岩があったので登ってみた。直径が10mもあったという岩は大きく割れていて谷に崩れ、大きな松の根がひっくり返って無残な姿を見せていた。松の木の根元に祀られていたという鎮護塔も役行者も見当たらなかった。あとで聞くと、昨年の台風で崩れたという。
 相原を通り桑原に入る。桑原口に「右すがの 左かうや道よしの」と刻まれた道標が立っている。川に沿って街道は大きく蛇行している。途中に庚申も祀られており、天開山泰運寺参道の入口にも庚申堂がある。その少し先が今日の終着地の波瀬であった。
波瀬から高見峠をこえて杉谷(奈良県)へ
 登山靴にスパッツをつけ波瀬小学校の前を出発する。166号をしばらく行き街道へと上っていく。街道は国道よりかなり上を通っている。勘定坂を上り波瀬神社の前を通り曲がると旧街道らしい趣の家並みが続いていた。連子格子の家の前を通る。本陣・庄屋としての造りを伝える本陣跡も見える。表玄関横の庭には罪人を吟味する白州があったそうだ。町なみには門前町のような宿場の名残がある。「距松阪元標五拾八粁・・・」の大きな石柱があった。橋のたもとの如意輪観音と「光明眞言百万遍稱誦塔」と刻まれた石塔の前の細い道を下り街道は山裾をくねくねと続いている。民家の軒先を通らせてもらい、「庚申青面金剛明王」の庚申碑、地蔵を見てさらに行く。166号線の下を潜る。ここでいよいよ166号線に別れを告げ舟戸へと向う。
 櫛田川と舟戸川が合流するあたりに、地蔵と土に半分埋もれている「右かうや 左いせ」の道標があった。地蔵の下に「右よしの かうや道 大峯 左いせ」の道標があったそうだが、地蔵の置かれている石にはそれらしき文字は見当たらなかった。町道と重なる道をどんどん上って行く。舟戸の集落が見えてきた。ここには4軒の旅籠があったとされるが、今は数戸が点在する静かな村である。思いがけず「紀州街道」の石碑を見つけ、しゃがみこんで見つめた。感無量であった。墓地の入口に自然石の祠の中に庚申さんとも猿田彦さんとも呼ばれる石像が祀られていた。墓地には双体地蔵三基、板五輪三基、「志州鳥羽領坂手邑 佐次良」と刻まれた行き倒れ供養の墓石があった。砂防ダムの下には不動さんが祀られていた。近くの小村さんの奥さんに昔の様子などを聞いた。「お茶でも飲んでいきなさい」と誘っていただいたが先が急がれて「またお邪魔させていただきます」と別れた。少し進むと、地蔵があり、その先の石段を上がった民家の裏に、二体の像が半肉彫されている腰折れ地蔵、「伝尼□妙金□」「妙永方逆修」と刻まれた板五輪二基があった。子供地蔵もあったそうだがわからなかった。
 川を渡ると対岸に大きな五輪塔が建っていた。蘇我入鹿の首塚といわれる。上部から「空 風 火 水 地」を表す梵字が見える。少し上の奥に、高さ2.2m、幅2.3mの自然石に、中央に南無阿弥陀仏、上部に日輪・月輪が刻まれた両部曼荼羅の形式をとった石碑があった。元和5年(1619)5月18日の文字が見える。さらに寺院跡「能化庵」。屋敷跡らしい平地と石垣がある。入鹿の妻と姫君が住んでいたと伝えられる。
 道はかなり急な登りの山道となり、雪も次第に深くなってきた。アイゼンを付けいよいよ本格的な冬山装備である。人影は見当たらないが、今朝から一人登られたような足跡が見える。木の枝に木標を提げる。やがて大二木茶屋跡に出た。「伊勢の高見は高いようで低い 低い大二木の餅や高い」と歌いはやされたそうだ。「かまど跡」「かわや跡」が当時の形をとどめている。道はさらに険しくなってきた。難所中の難所と言われたところである。大ケヤキの木も見える。ここにも木標を提げる。雪もさらに深くなった。しかし道を見失うことはない。「近畿自然歩道・高見山を越えるみち」のしっかりした木標が立っているからだ。先の登山者はどうやら道を間違えたらしいあとがあった。ようやく旧166号線の狭い道にぶつかる。ここまで来ると高見峠は近い。峠下の駐車場には数台の車が止まっていた。ここから1200mの高見山山頂まで樹氷を見に登る登山者の車である。峠直下のその駐車場に本居宣長の大きな石の歌碑があった。
 白雲に峯はかくれてたか見山
     見えぬもみちの色そゆかしき
 この歌は「紀見のめぐみ」に記されている。「紀見のめぐみ」は、紀州家への感謝と喜びから命名された。この年宣長65歳、高見の道は険しいが、宣長には、自分に生を授けてくれた吉野水分神社への道であり、また、生涯をかけた国学を紀州家に普及する喜びに満ちた旅でもあった。との説明が添えられている。 
 大峠は鳥居を潜り登山道をさらに50mほど登ったところである。大峠には、最勝塔・経塚をはじめ、たくさんの石碑等があった。高見山の山頂には高角神社が祀られている。峠からは雪は深いが緩やかな下り、伊勢街道の石畳跡や山賊が住んでいたという洞窟・盗人岩、「旧高見越え伊勢街道」の看板、地蔵などを見ながら下る。やがて小峠に着く。ここにも宣長の歌がある。
 きくがごと まこと高見の山なれば
       わが里見せよ雲居なりとも
 杉谷まではあと2.3km ここからはかなりの勾配である。しかし土曜日とあって、高見山への登山者が列を成している。三重県側とは大違いであった。また説明板もしっかりしている。それを読みながら下る。雲母曲、天狗岩、古市。「紀州、大和、伊勢の人々が集まり、米、塩、魚、其の他の市がたった」とある。撞木松、旧伊勢南街道(又の名を紀州街道とも伝ふ)の説明版もあった。「紀州、大和、伊勢を結ぶ塩の道、米の道、魚の道の交易路であり、かつては伊勢参宮の道であり又紀州徳川家が江戸参勤交代にこの街道を利用した。特に夏季は大峯山、年末には年越え参りでさかえた」と記されている。滑らないように一歩一歩踏みしめて下る。そしてついに杉谷の高見登山口に着いた。
 奈良、大阪へはここからバスがあるが、私たちは今日は三重県側に戻るので、飯高の森からタクシーに迎えにきてもらい車を止めた波瀬まで戻った。
 宣長は松坂を出発して1泊目は七日市で、2日目は鷲家まで行っている。私たちは4日間歩いてもまだ鷲家まで辿り着けない。なんという速さなのであろうか。

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和歌山別街道(野中から粥見まで)
 多気町の野中まで車で送ってもらい、歩き始めた。ここは前に歩いた熊野街道との分岐である。道標には「右よしのかうやみち 左さいこく道 すくさんくう道」と刻まれている。(画像上) 薄曇りで歩くには絶好。近くには慶長10年(1605)建立の古刹永昌寺があり、境内に眠り地蔵がある。昔ある旅人が大名行列を迎えて土下座している最中に居眠りしてしまい、無礼であると斬殺された。人々はそれを哀れみ地蔵を墓地に祀って霊をなぐさめたという。また西行法師が参宮の途中ここに桜の杖を突き刺したらそれがそのまま生えたという逆さ桜の伝説がありその碑がある。隣には大日堂もあった。街道は舗装された新道を挟み左右に残されておりそれを辿る。経塚跡を見て四神田に入ると「よしの道」と書かれた道標地蔵がある。仁田には弘法井戸(二つ井戸)と大師坐像と地蔵、国道42号交差点の手前に道標が立つ。ここからしばらくは熊野街道と重なる。佐那神社のところで踏み切りを渡り平谷を行く。日が照り暑くなってきた。しかしカワセミを見つけたりして足取りは軽い。前村には馬頭観音と常夜燈があった。和歌山別街道ウォーキング・マップではもう少しこのまま進むようになっていたが、曲がったところに神坂金剛座寺への自然石と石柱の大きな道標が建っており、和歌山別街道の標識があったので、まあこれでもいいかと神坂を通ることにした。山裾の三叉路に「右いせ 左あふかみち」の道標地蔵があり、近年まで頭部がなく首欠け地蔵と呼ばれていた。盗賊に追われた旅人の身代わりになったという伝説がある。現在は頭部の形をした石が据えられている。その少し先に弘法大師像が祀られていた。長谷に入ると近長谷寺への道を分けるところに道標が立つ。ここで大失敗をした。ここから丹生の大師までは、国土地理院の25000分の1地形図で西へ2km足らずでおきん茶屋は通らないと確認していたのだが、ウォーキングマップがしっかりしているからと地形図は持ってこなかった。そこで土地の人に丹生大師への道を尋ねると「ここからまっすぐ南下し大楠をめざせ。そしておきん茶屋に出よ。」とのこと。いやいやおきん茶屋は通らないのですと言ってみたもののおきん茶屋のところにも「右よしのかうやみち 左さいこく道」の大きな道標があったことも知っていたし、確か大師道とも出ていたようにも思われてまあそれでもいいかと進む。結局西への山道は見つからず、熊野街道のとき通った大楠神社のところへ出てしまいおきん茶屋を通って舗装された新道を延々3km、あわせて6kmの大回りになってしまった。
やっと丹生大師に着いた。弘法大師が諸国巡行の際にこの地に立ち寄り完備したと伝えられる七堂伽藍があり、自作の大師像も安置されている。丹生大師仁王門は享保元年(1716)、仁王像二体、裏面には持国天と多聞天を安置。隣には丹生神社がある。ここで丹生大師の方がそれは詳しくあちこち説明してくださった。1時間30分、嬉しくありがたいことではあったが、街道歩きが目的の私にとっては・・・本来の街道は大師堂の反対側100mのところに出、ここに六地蔵石幢があった。仁王門前に「左よしのかうや道 右いせさんぐうみち」の道標。ここをまっすぐ行くと弘法井戸と大師の湯(4月30日閉鎖されたと書いてあった)があり、その先の曲がり角に「すぐさんぐう道」の道標があった。立梅井堰の発起人西村彦三衛門の旧宅跡、本居宣長の母の里である永井家旧跡地、長谷川三慶の屋敷跡などを見ながら行くと、「右いせさんくうみち 左よしのかうやみち」の自然石の道標があった。町のはずれに宝篋印塔があり、その裏側に南花首なし石仏群と同類の大師像が祀られていた。また真紹僧都御廟の碑、常夜燈があった。川に出るところに立梅用水堰工事の供養碑「南無阿弥陀佛」碑と線刻地蔵菩薩碑が建っていた。川に沿って行くと街道沿いに文政6年(1823)に竣工した立梅用水が流れている。「右柳原観音」の道標があり、古江に入る。朝柄川沿いにへばりつくようにして立つ家も残る。朝柄に入る。日差しはますますきつくどれだけ水分をとっても顔がほてって日射病状態。木陰を選んで歩き25分行っては5分休みを繰り返すこと3回、まっすぐな登り坂矢坂を通り、ゆるやかで長い上りをようやく桜峠に辿り着いた。峠の木陰に座り込むと青葉を渡ってくる風がなんとも心地よい。生き返った思いがした。さああとは下るだけ。櫛田川に架かる桜橋に着く。昔、舟戸の渡しのあったところだ。橋を渡り集落の中を行くと、突き当りが粥見神社、和歌山街道に合流する。自然石の道標には「右まつさか道 左さんくう道」と刻まれている。迂回したところもあって今日の行程は30km、およそ8時間であった。それでも運良くバスは10分も待たずにやってきた。
 
 前村から丹生大師に到る道を間違えたことが以前から気になっていた。先日やっとその道を見つけた。そこで今回、丹生大師から前村へ向って歩くことにした。
 六地蔵石幢からさらに北へ100mほどの新道三叉路に「すくまつさかみち 右いせミち 左よしのかうや道」の道標は移されていた。六地蔵のところまで戻って旧道を進む。山道である。やがて新道と合流したところが馬宝殿で、縁切り地蔵が祀られ、そばに10基ほど一石五輪が集められていた。そのまま進み伊勢自動車道の下を潜ってかなりの山道を登っていくとウォーキングマップに丹生峠と出ている。しかし土地の人に尋ねると「丹生峠は丹生から津田へ抜ける峠で現在は使われていない。ここは長谷峠だ」とのこと。登ってきた坂が長谷坂である。ここは相可への主要な交通路で、丹生水銀を原料とした射和白粉もこの道で運ばれたという。長谷集落西端に山の神二基が祀られていた。そのすぐ下にきれいな円形を描く車田があった。集落の中ほど約700mの急峻な切り通しの近長谷寺への参道を分ける。入口に「長谷観音道是より五丁 丹生へかけぬけ すぐさんぐうミち」と刻まれた立派な道標が建ち地蔵が祀られていた。車道と分れ山裾の静かな街道を下る。やがて首欠け地蔵のところに出た。そうそう前回は神坂を通ってきたのでここに立つ和歌山別街道の矢印の方向に従い逆方向に歩いてしまったのだ。前にも歩いた弘法大師像の前を通り前村へ。熊野街道との分岐に出た。しばらくで常夜燈と馬頭観音が。あれっ、ウォーキングマップのこの場所の位置がかなり違う、それで曲がってしまったのだ。ここからバスに乗ろうとしたが1時間も待たなければならない。それならもう少し歩こうと仁田まで歩いた。平谷ではまたカワセミに出会ったりして10kmほどの楽しい街道歩きであった。