紀伊半島横断・和歌山街道(伊勢南街道) 本居宣長の「紀見のめぐみ」道を歩く 2

紀伊半島横断・和歌山街道
本居宣長の
「紀見のめぐみ」道を歩く 2
 
 奈良・和歌山を歩くにあたっては、いつものことながらその下調べがたいへんであり、今回もたくさんの方にお世話になり助けていただいた。
 鷲家の道を探していたとき、バイクに乗った木津恒雄さんが通りかかられ、親切にも旧道の要所要所をあちこち案内していただいた。あわせて宿場であった当時の話や天誅組の歴史にまつわる話も詳しく教えていただいた。
 吉野町香束(こうそく)では街道を逸れてしまい山の方へ入っていくと、水本清さんら8人の人たちが炭焼きをしておられた。街道を詳しく教えてくださり、おまけにちょうど昼食のバーベキュー中であったので、私たちにもご馳走してくださった。
 宮滝の吉野歴史資料館を訪ねたら、辰己雅子さんが丁寧に応対してくださり、後日、学芸員の池田淳氏が詳しく調べて電話をくださったり、資料を送っていただいたりした。ことに1953年、奈良県教育委員会の「奈良県綜合文化調査報告書・吉野川流域 龍門地区」は、たいへん参考になり、感激して勉強させていただいた。
 和歌山県については、インターネットで調べ問い合わせたところ近畿地方整備局和歌山河川国道事務所の川島隆宏さんとおしゃる方から「紀の川・高野歴史街道実行委員会」発行の「歴史・おおらか 自然・きよらか 紀の川・大和街道ガイドブック」を送っていただいた。すばらしい冊子で、街道の道筋や街道名残の事物が詳細に記されており、これで和歌山県の分は完璧だと感激した。ただし、その地区地区で執筆者も違い、与えられたページ数も違うためか地図の縮尺がかなり異なっていた。私は思いの外のペースで進む道程に気をよくし、後4区間などと鼻歌まじりで歩いていた。夫はそんなに簡単なことではないという。ところが地図1枚分30分で歩いていたのに、和歌山市に入ったとたん1枚分歩くのに2時間もかかってしまった。よく見ると縮尺の違いだけではなく、省略の部分さえある。夫は国土地理院の2万5000分の1地図を見ており、私の気楽さを笑っていたのだ。それにしても和歌山市の広いこと広いこと。
 他にもたくさんの方に教えを乞い、お話を伺うことができた。
 和歌山街道後半は人々との出会いが楽しい旅でもあった。


杉谷から木津峠・鷲家・小名峠を越えて三茶屋へ
 菜の花忌の2月12日
 木の國はなほ遠けれとけふはまつ
       高見の山をすきたにの里
と杉谷を早朝に出発した。杉谷川沿いに集落の中を道端や岩肌に埋め込まれた地蔵菩薩を見ながら下っていくと程なく出合である。新しい国道166号線が開通するまではよくこの橋を車で通ったものだと懐かしく思いながら渡る。木津(こづ)に入り八坂神社のところで大きく左折し、高見小学校の前を通って、高見川に架かる木津大橋を過ぎたところでバス道から分かれ集落の中へ入っていく。このあたりも庚申、地蔵、千手観音などが多い。沈丁花のつぼみがふくらみ春近しを思わせる。また大和の玄関飾りは伊勢とは趣が異なる。木槌、神棚のようなもの、色紙の付いた輪飾り、お札などが飾られていて民俗学的な興味を覚える。井本和枝さんに、「牛王 寳藏寺 寳印」と書かれた寳藏寺のお札について聞いた。この先国道に出る手前の街道では、下見に来た時出会った方に街道歩きをしていると言ったら「なんと趣味の悪い」と笑われたところだ。すぐのガソリンスタンドから国道を逸れ坂を上っていく。坂の途中に地蔵が祀られており、その少し上大きな木の根元にたぶん山の神だろう小さな社が祀られていた。正月飾りらしき弓矢と注連縄が張られていた。注連縄には、鎌、斧、鍬、木橇、鯛、鋸、鉈などを模したものがつるしてあった。ここからしばらく上ったところが木津峠でバスの通るトンネルができていた。トンネルを通らず山を登っていった上がほんとうの木津峠であった。わずかに人跡が残る峠でシャガがたくさんあった。花が咲く頃はさぞかしきれいだろうと思った。「本居宣長ここを通る」の木札を取り付ける。この先は山が崩れていたがそこを通り過ぎると石垣が組まれ確かに街道だっただろう道に通じていた。下りきると後ろに166号線のトンネルが見えていた。
 ここはもう鷲家である。「文久三年(1863)孝明天皇の神武山陵参詣を機に、倒幕の先鋒と称して中山忠光卿を主将に、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎の三士を総裁とした「天誅組」が五条に旗挙げしたが「七卿の都落ち」に象徴される政変により、志に違い幕軍の追討を受けて吉野山間を転戦、ここで終焉を見た」天誅組の史跡がたくさん残る。天誅組史跡公園でお弁当を食べ、下見に来た時木津恒雄さんに教えてもらった細い坂道を下り地蔵堂をみて、町並みに入っていく。子安地蔵尊堂、格子土蔵造りの町屋、紀州藩本陣跡、八幡神社参道を見て三叉路に出る。
 ここが宿場町鷲家の中心である。1953年の「奈良県綜合文化調査報告書 吉野川流域龍門地区」によると、「・・・佐々羅以東の構造線に沿う道は諸所に小峠があるも殆んど直線的である故人道として早くから利用された」という道である。そしてこの鷲家の辻には文政十一戌子年(1828)建立の銘があり上部に常夜燈がとりつけられた道標が建っている。高見越え伊勢街道と東熊野街道に通じる要衝だったのである。「右 いせ 江戸 左 はせ 大阪 道」と刻まれ、百数十里遠方の江戸をしめすものは奈良県にある道しるべ中最遠距離を示すもので参勤交代の重要街道であったことを物語る記念物とされている。また道をはさんだ向かいにも少し小さい道標があり、辻には「天誅組史跡(油屋) 藤堂藩陣屋跡」もある。
 この先診療所とお寺の境内の間を抜け山へ入っていく。長いが心地よい山道である。かなり登ったところが鷲家峠、山仕事の人の枝打ちの音が聞こえる。急勾配を下り三叉路を右にとりまた登っていくと国土地理院地図に小名峠と記されていたところである。峠には茶屋跡らしきものもあった。木札をさげる。下ると小名である。下見の時お話を聞いたみがき丸太を作ってみえる木下光世さんがちょうどおられたので、茶屋のことを尋ねると「民家があったと聞いている」とのことであった。また地元ではこれから越える小名隧道の上を小名峠というそうである。集落の間の道を通り、道が途絶えたので車道に戻りトンネルの手前を左に入る。くねくねと曲がる長い道である。ここにも木札をつける。やがて久須斯神社の裏に出る。トンネルを出たところにも神社の裏に出るダイレクトに下る道があるが、これは子どもたちのために作った通学路だそうだ。
 この神社は、久斯之大神を祀る氏神で、大井の大水上之神と笛吹の天照国照日子火明之命の二柱を合わせ祀って三社大明神とも呼ばれ医薬の神とも酒造りの神としても信仰されている。この神社の前を通るのが伊勢街道で、社前には文政十三年の銘がある大神宮おかげ詣りの石燈籠が建っていた。
 ここが三茶屋(みっちゃや)である。東西に走る伊勢街道と、南北に通じる宇陀・吉野を結ぶ街道の交差点に位置し、古来より交通の要衝として発達したところである。かってこの集落内に上茶屋、中茶屋、なかやと呼ばれる三軒の茶屋があって、紀州徳川候が参勤交代のおり中食をとるところと定められていたので三茶屋と呼ばれるようになったという。
 
三茶屋から上市を経て阿田まで
 三茶屋には「「(東)右 うだ はせ 左 大峯山道 (南)右 いせ道 (西)右 よしの かうや道 (北)慶應三丁丙十一月建之 村中安全」の碑が立っている。ここからしばらく新道に沿って進む。街道は中竜門小学校の裏を回っていた。「吉野歴史ウォーク 伊勢街道・夢街道」のマップを頼りに歩いたのだが、下柳バス停のところから地図を読み誤り山中へ2kmも入り込んでしまい引き返した。土地勘がないので目印の八幡神社も見逃した。それでもどうにか香束(こうそく)の北方山道との分岐に立つ自然石の道しるべ「此うへハざい所ミち 右 いせ道 左 よしの かうや」のところへは出ることができた。新道ができどこが峠かと思われるような小島峠を越えると山口である。
 山口神社は立派な社であった。境内には、江戸時代(享保元年)に徳川吉宗より寄進された石燈籠、仙境竜門滝の清泉を昔は竹樋で引いていた手水鉢、吉野地方でも最も古い(1503)といわれる燈籠、山口神社の別当寺本地堂跡がある。その鐘楼には建長8年(1256)銘の釣鐘があり、伊勢相可の豪商大和屋某が寄進したものとされる。また天然記念物ツルマンリョウの群落、「嶽神」「龍門滝」の石柱もあった。本居宣長は折角ここまで来たのだからと、雨の中を里人に案内させて龍門の滝を見に行く。私たちも菅笠日記の旅を辿ったときも滝には行かなかったので見たいと思ったがまた日をあらためてと先を急いだ。
 そのまま下ると数軒の旅籠があったという平尾で、貞亨五(1748)戊辰七月十五日建立の道標がある。年号のあるものとしては非常に古いもので重要な交通路であることを示している。「(梵字)よしのかうや道 右 いせ道 左 たふのみね はせ道」と刻まれている。つまり多武峯桜井方面への分岐である。大きな屋敷のところから龍門文庫の前を通り龍門川に沿って下っていく。峰寺のところで一旦新道と交わるが左に道をとって龍門川の左岸を下る。昔はこのあたりに木橋が架かっていたらしいがよくわからない。そのまま下ると天然記念物妹山樹叢に囲まれた大名持神社の横に出た。神社はその上に静まっていた。ここは「妹背山婦女庭訓」の場所ともいわれている。ここ河原屋妹背は龍門川が本流吉野川に注ぐところで、本流に沿う道は往時より川上方面に通ずる山道で、この分岐点は重要な意味を持っていた。道しるべは昭和20年代に龍門川底に転がっているのが発見され、「右 川上 左 いせミち 轟紀州屋助九郎」と自然石に刻まれたそれは、現在神社の下に立っている。並んで伊勢湾台風の時の水位を示すモニュメントが立っていた。
 上市を吉野川に沿って下る街道沿いの町並みは如何にも宿場町らしい風情が残されていてなぜか懐かしい。千股から下りてくる道と交わったところに、「伊勢街道 旅籠 角屋」の行灯式看板があった。
 宣長は、寛保2年(1743)13歳の時にも吉野を訪れている。この時は、大峰参詣の人々に加わり松阪から和歌山街道を高見山越えし吉野に出て水分神社に参詣し、のち大峰山、高野山、長谷寺に参詣して松阪に帰っている。
 柳の渡し、六田、越部とひたすら下っていく。大淀には伊勢南街道の標識があり、吉野川べりから遥か遠くに真っ白に雪をかぶった高見山が見えた。佐名伝、阿田と進み、ここからバスで今夜の五條の宿へと向った。
阿田から五條を経て県境(橋本)まで
 阿田まで戻り五條をめざす。道端のあちこちに地蔵・地蔵堂・稲荷などが祀られておりひなびたのどかな街道である。細い街道が新道に寸断されているというものの随所に残されていてそれとわかる。それを丁寧に辿っていく。宇野峠には「宇野嶺開鑿碑・土倉庄三郎翁顕彰記念碑」が立っていた。この峠の道は,明治17年着工、20年に完成したものらしい。それ以前はもう少し上だったのだろう。少し下に「源九郎稲荷大明神・山高稲荷大明神」の社があった。三在の福塚眞三さんに三在の追分の話やその道標、昔の街道、義経を案内した狐が住んでいたという源九郎稲荷の伝説などいろいろ教えていただいた。
 今井町から「榮山寺入口」の石標のところへ着いた。昨夜の宿の隣が国宝・八角堂、小野道風の書と伝えられる銘文が刻まれている国宝の梵鐘、国の重要文化財に指定されている石燈籠があり、行宮址でもある榮山寺であった。桜井寺を見て大川橋に出、少し戻ったところで偶然、県指定文化財の中家ご当主春二さんにお目にかかり、この町の歴史、見所、道標などについて詳しく教えていただいた。中家は中小右衛門さんが創業された「ナカコ醤油」の醸造元で、住居・店舗・工場・蔵の豪壮な建物で、栗山家の一統とのことであった。道標は少し北の本陣交差点のところに立っていた。道標には「右 いせ はせ なら 大峯山上 よしの道 左 かうや わか山 四国 くまの道」と刻まれている
 五條町から二見までの新町筋を中心とした旧紀州街道沿いに残る町並みには、今も約70軒の家々が残っている。重要文化財で慶長12年(1607)の棟札を持ち、年代の明らかな民家では日本最古とされている栗山家住宅や、先の中家、市指定文化財の栗山家住宅を始め昔ながらの町屋が軒を並べ、独特の雰囲気を醸し出している。昔の面影をしのばせるしっとりとした町並みはじつに気持ちがいい。まちなみ伝承館はあいにく休館日で見られず残念であった。
 二見の生蓮寺には色鮮やかな絵馬が掲げられており、犬飼の犬飼山転法輪寺も立派なお寺であった。標識に従って旧道を行く。鉄道や道路で分断されて通れないところもあったが、細い道を上がっていくと、上野(こうづけ)に「旧紀洲街道 真土越への路」の石標が立っており、上がりきったところが真土峠(「紀見のめぐみ」では待乳峠)であった。道路管理車の方に聞くと、「隣の和歌山県の隅田町真土にある峠が真土峠である」ということであった。ここから急坂を下り集落の中に入っていく。五條市最後の畑田には古い落ち着いた町並みが残っていた。その先の落合川は県境であり、向かいは和歌山県橋本市である。この日は隅田町下兵庫まで足を延ばした。
橋本から高野口、かつらぎ、那賀名手宿まで
 奈良県に別れを告げ、和歌山に入ると、「歴史街道 大和街道」の石標がいたるところに立っていた。「万葉古道 飛び越え石」が200mのところにあると出ていたので、街道は逸れるが寄ってみることにした。この谷を岩を伝い馬が飛び越えたところという。そこから万葉の道を上がって行った。このあたりにはたくさんの万葉歌碑が建てられていた。中の一つには
 橡(つるばみ)の 衣解き洗い 眞土山
      本つ人には なほ如かずけり
と書かれていた。万葉集巻十二−三〇〇九 作者未詳の歌だという。
 そして国道沿いには巨大な自然石の真土山歌碑と大師井戸(冷水)、道の反対側少し下がったところに、万葉歌碑と地蔵が祀られていた。「紀ノ川の万葉」には、次のように記されていた。
 こんにち、国道二四号線が山の北側を通り、鉄道が南側の山裾の川べりを通っているが、古代は川べりを避けて、現国道より南の低い、川ぞいの丘辺を越えていた。峠の上は、東方は五条一帯の吉野川の広い流域を望み、一方、西方には紀ノ川(和歌山県にはいると、吉野川は紀ノ川と呼ばれる)の明るい河谷を望む。紀路にあこがれる旅人のエキゾチシズムを刺激するのは当然のことであろう。
 街道を進み、白木大明神、白石稲荷、阿弥陀堂の前を過ぎると下兵庫の駅に出た。闇(くらがり)峠は今はさほどの峠ではない。しかし峠の表示の山偏が逆さまになっていた。山がひっくり返るほどの難所だったとか。地獄絵が今に残るという西光寺、西の森(妻の杜神社)の前を通って国道24号と沿いつ離れつしながら進む。橋本は道標が多い町だ。古い古い道標、歴史を感じさせる道標、地蔵道標、常夜燈に刻まれた道標、そして近年作られた道標が並んで立っていたりする。その一つには「左 かうや き三井寺 右 いせ 山上 よしの なら はせ」と刻まれていた。本居宣長は橋本で3泊めの宿をとる。そのときの記録にはこうある。
 雨戸を開ける音と共に、冷気が障子をかすかに揺らす。外は細かく雨が降っていた。紀ノ川の細流も、今日は聞えない。色付く高野の山には、紅い霧がかかっている。宿の主人が、「わたや」と墨痕あざやかにかかれた番傘を、宣長に差し掛ける。宣長は少し身をかがめながら、紀州路最後の宿となった「わたや中次宿」の看板をみつめた。紀ノ川の河原まで、ゆるやかな坂道が続いていた。応其寺の山門が、静かに濡れていた。一行は雨にひかる河原石を踏みながら、船に乗り込む。船頭が、立てていた棹に力を入れる。船は滔々と流れる紀ノ川を下る。筏船が行く。白い帆をおろした船が曳かれていく。
 宣長は、ここから船で下ったが、私たちは、かつての本陣の門(かつてはこのあたりに代官所や船番屋もあったという)、戎神社と道標、応其寺を見、通りかかりの人に渡し場の場所を尋ねて、大和街道と高野街道の分岐点で高野街道の方へ道を逸れ紀ノ川の渡しを見に行った。渡し場には大きな常夜燈が建っていた。紀ノ川は静かに流れていた。橋本の地名の由来となった橋は天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが3年後紀の川の増水により流失し、舟による横渡しが行われるようになった。そこに建てられたのがこの大常夜燈籠である。阿波国藍商人をはじめ京都、難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者などの浄財にによって建てられたもので、当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀の川渡場の賑わいを今に伝えている。
 分岐点まで引き返した。ここには立派な四里道標が建っていた。「北 右 わか山 左 いせ なら はせ 追分 西 右 かうや 左 京 大坂道」と刻まれている。この道を北に辿れば紀見峠である。大和街道を進み、大師の井戸を見、JRを渡って堀跡が残る銭坂城跡や生地岩見守を見て進むと、街道は水路に沿った道となる。そこに一里塚(一里松)があった。和歌山市京橋北詰札の辻を起点とする和歌山街道の十里めにあたる。「城下払い十里」の罰を受けた人の目安になったとか。その上150mのところに重要文化財の三彩蔵骨器の発掘地があるというので見にいった。ここは火葬墳墓地で、白色釉薬の上に褐色と緑色の釉薬を斑点状に施した薬壺型骨壷で、色・形・大きさとともに「わが国最大の奈良三彩」と呼ばれるものである。その隣が白鳳時代の名古曽廃寺跡である。住吉神社常夜燈の前を通る。高野口の道標を過ぎるあたりから、あまりの急な坂道に馬も力んでつい・・・とありがたくない「ババタレ坂」と名づけられた坂があるが、あたりはうだつのあがる家が並び風情がある。やがて高野街道との分岐点、九度山橋への道を分ける。
 かつらぎ町に入る。ここは古い道標と法花(華)一字一石墳がたくさん残る町である。法花一字一石というのは、江戸時代に多く、山伏などが法華経を一石に一字ずつ書き供養したものだという。土地のお年寄りに話を聞かせてもらった。慈尊院の道を示す道標もあった。ここから慈尊院、九度山を通り高野山への町石道が続いている。玄関に馬どめも残る造り酒屋、江戸時代にタイムスリップしたような古風なつくりの医院、延命地蔵と法花一字墳を見て進む。小田井用水路は、紀の川が随分低いため水田用水路としてかなり古くから引かれたものである。用水路のこともお年寄りから詳しく教えてもらった。今はこの用水路の上に何軒もの家が並んでいる。法花全部一字一石塔があった。妙寺(みょうじ)の駅を過ぎどんどん行くとまた法華塔一字一石があり、柿畑がたくさん見られる。さらに行くと茅葺の茶室が見える大きな家があった。そこの島元賀代さん(85歳)に養蚕をしていた当時のお話を聞いた。野半の里を過ぎ、また一字一石塔を見て笠田(かせだ)小学校横の妙楽寺へ。ここには大きな十五社の楠があった。昔ながらの酒蔵のある草田酒蔵の前を進み田んぼの中の道を行くと、伊都浄化センターに突き当たった。しばらく道を探したがそれらしきものは見当たらずやむなく国道へ周り背の山パーキング万葉の里の前を通った。車2台がゆうに通れるような幅広い歩道である。街道に戻りガード下をくぐりしばらく上ると才蔵堀跡があった。ここから西笠田駅の前に下りる。後ろが背の山、川向こうに妹山、紀の川は美しいエメラルドグリーンの水をたたえずいぶん下に見えている。川の中には船岡山。船で下った本居宣長と大平は、この島を「ふりさけ」と記し、船を止め、古典をひき話し続けたという。この素晴らしい景色の地は万葉集にもたくさんの歌が残り、「万葉歌碑」が建っていた。線路沿いの消え入りそうな道を進むと川に行き着き橋がない。戻って土地の人に聞くと、確かに旧街道で昔はそこに橋が架かっていたという。迂回路を教えてもらい那賀町へ。華岡青洲の生誕地は近いらしいが寄らずに名手へ。旧名手本陣妹背家跡は見学できるのだが、閉館の4時30分をわずかに過ぎていたのであきらめた。今夜は名手宿で宿をとる。
 
名手宿から粉河、打田、岩出を経て和歌山城まで
 宿を出て名手市場の町並みを行く。町を外れるとハッサク畑が続き、木の下に黄色いハッサクがたくさん落ちていた。粒を大きくするために摘果したものか。東野地蔵堂は格子がはめられ厳重に施錠がしてあった。地蔵の下の石は道標になっており、「右 いせ」の文字が読み取れる。西高野街道の辻には燈籠型の道標があり、その下にはさらに古い道標、その横に現代の道標が建っていた。程なく淡路街道の起点で、やはり常夜燈と下に小さな道標が並んでいた。地元の方と話していたらバイクに乗ったお坊さんまで停まってくださり街道やお寺の話を詳しくしてくださった。粉河寺はすぐそこだ。街道は粉河郵便局のところで途切れていた。国道に架かる橋を渡り街道に戻って、藤崎井用水路に沿って桜並木を行く。岩出の道標は畑の中に建っていた。風市森神社を過ぎ長田の駅の近くにある地蔵像道標を見て、粉河の町を行く。粉河寺の門前町として栄えた粉河町は紀州の小京都と呼ばれ、情緒あふれる街並みを今に留める。また日当たりのよい丘陵など自然にも恵まれ、みかん、柿、ハッサク、桃、梨などの果実を多く栽培している。紀の川の南には竜門山がそびえ「紀州富士」の名にふさわしい姿を見せていた。八幡神社を過ぎると上田井(こうだい)で旧街道の面影を色濃く残している。ここは承応元年(1652)紀の川北岸の紀州藩領長田庄上田井村と南岸の高野寺領荒川杉原村とで杉原村の山の利用をめぐって相互の訴えがおこり、紀州藩奉行と高野山寺僧とで和解させた。その結果、証文をかわし、この山はすべて、上田井村と杉原村で永代にわたって立ち合って利用することになったとの記録がある。東田中神社には一里塚の跡も残っていた。
 打田に入るとやや道が分りつらくなるが県道に平行する道を進む。その先しばらく県道を行き、地蔵堂のところで県道を離れ藤崎井用水路に沿って行くと道の傍らに小さな地蔵が祀られており、堂の周囲に草鞋がいくつも下がっていた。死出の旅路の備えでもあろうか。西田中神社、紀伊国分寺跡を通り、紀の川氾濫原を進んでいくと突然、文政9年に造られた地蔵のついた立派な道標が建っていて驚いた。ここは正しく街道であった。大冠橋を渡り岩出の街中を右折左折を繰り返しながら進むと紀の川の堤防に出た。ここが渡しのあったところで岩出伝馬所もあった。堤防を行くと、根来寺も近いと案内があった。とうとう岩出橋を渡り紀の川を越える。少し戻って船戸の渡し場の跡を訪ねた。大きな燈籠が建っていた。船戸の駅の前から岩出橋に戻り、JRに沿った街道を行く。ここは最早和歌山市であるが、道標もなくなり長い長い道のりである。宝永2年(1705)渡し船が転覆したくさんの巡礼者が亡くなったので当地の人が埋葬しあつく葬ったという巡礼墓があった。ようやく馬次の地蔵堂の前に出る。布施屋(ほしや)の渡し場跡、和佐の二里松(神様松)を見て、千旦(せんだ)に入った。ここから和歌山街道起点まではあと8km、続いて歩けないことはないが、意気揚々とゴールし和歌山でやりたいことがいろいろあったので、日を改めることにした。
 3月7日、快晴、歩き始める。すっかり春である。堤防の上を行くと車の交通量がたいへん多い。たまらず河川敷に下りる。ここは気持ちよく歩ける。河原に咲いていた菜の花を数本手折った。見えてきたのは長い田井ノ瀬橋である。船着場のあったところだ。本居宣長は岩出で遅い昼食をとり、再び船でここまで下っている。八軒屋までくると、紀州藩から迎えの人が出ていた。船をおり、なつかしき人々とともに語りながら、紀ノ川の土手をあるいて行こうと宣長は言ったが、また雨足が激しくなってきた。一行は迎えの人々といっしょに、再び船の上の人となった。
 田井ノ瀬橋の少し下で堤防から離れしばらく行くと、根來寺不動明王の道標、続いて八軒家の道標があった。阪和自動車道のガードを潜り国道24号の歩道を進む。緋寒桜が咲き、沈丁花の匂いがほのかに漂う道である。傍らの成田山不動明王の碑を過ぎ、しばらくで史跡四箇郷一里塚の前に出た。元和5年(1619)に徳川頼宣が入国し、大和街道、大坂街道を整備して一里塚を設けた第1号。藩主の参勤交代の時は、藩士たちはここまで見送り、また出迎えたという。二里塚は和佐に、三里塚は船戸にあった。どんどん行くと地蔵堂があり、そこから100mほどで地蔵の辻の広い交差点。さらに進むと、嘉家作りの家並みが見えてくる。嘉家作りというのは、家並みが片側(南)だけで、家を紀の川堤防の斜面に向けて建てることで、軒先の深い中2階、白壁の家が今も残っていた。間口3間(5.4m)の家が54軒、藩主の休憩所などもあったといわれている。和歌山城下の家並みで現在残っているのはここだけだそうである。しばらく進み左折して踏み切りを越えそのまま南下すると、ゴールの和歌山街道起点の京橋であった。京橋には、鞠と殿さまの歌碑、駕篭、手鞠を持ったひげやっこなどが飾られていた。とうとう
やり遂げゴールしたのであった。感無量である。
 しかし私たちにはまだしたいことがあった。さらにまっすぐ行くと、和歌山城の二の丸と三の丸をわたす橋、一ノ橋に出た。そこから和歌山城をまわって右折し、吹上(すいじょう)寺をめざした。本居宣長の養子大平は、紀州家で国学を進講するためこの地に移り住み、ここで亡くなったのである。そして吹上寺には、「本居大平大人奥都伎」がある。今は訪れる人もないそうで、ご住職は私たちの来訪をたいへん喜んでくださった。本居家の墓石が9基並んでいた。そのなかの本居大平大人奥都伎に手折ってきた菜の花を供えお参りした。そして、吹上寺檀家総代の佐久本博吉さんに、紀州藩のこと、本居家のことなど詳しく教えていただいた。訪れてほんとうによかったと思った。
 その後、国土交通省 近畿地方整備局 和歌山河川国道事務所に伺い、地図を送ってくださった川島隆宏係長に完歩できた報告とお礼を申し上げた。この方も喜んでくださり、さらに和歌山の歴史や名所に関する冊子を8冊もくださった。嬉しいかぎりである。これでまた今後への楽しみが増えたことであった。
 最後に和歌山城に戻り、城をめぐり、JR和歌山駅まで、今日も和歌山市内をあちこちほんとうによく歩いた。疲れた。でもやり遂げた満足感で心は満ちていた。

戻る
 歩き終わってから、三重県立図書館で三重県教育委員会編集の「歴史の道調査報告書 初瀬街道 伊勢本街道 和歌山街道」という本を見つけた。1982年発行のものである。和歌山街道の部分を見ると、三重県側の街道について、街道の道筋、そこに残る遺跡・遺物が詳細に述べられていた。しかも執筆者の多くは知人であった。そのお一人に先日会ったのでこの話をすると、「あの時はほんとうに苦労しました。かなり力を入れましたよ。」と懐かしそうに話された。20年あまり前のことである。現在私の歩いた街道と比べると、無くなったり壊れたりした遺跡、遺物も多く、途絶えてしまい探しようもなくなった街道の部分ありで、わずか20年の間に過ぎないのにと感無量であった。写真も豊富なこの史料を眺め、往時の様子に想いを馳せた。世界遺産に登録された熊野古道では、埋もれた道が発掘されたり整備されたりして保存が図られている。他の街道でもそんな運動が少しでも進めばと心から願っている。
 
 「紀見のめぐみ」道を辿って歩いたと本居記念館の主任研究員である吉田悦之さんにお便りしたら、早速お返事をくださった。
 (私たちが10日かけて歩いた道、今は立派な国道もでき車でなら5時間もあれば充分だろう。)
 紀州藩の早飛脚は最速で松坂和歌山を1日(24時間)で走ることになっていた。・・・速度は心を喪失させます。(と共感してくださった。さらに、大平のお墓についても)松坂を遥拝する大平の気持ちを思うとつらくなります。(そういえば大平の奥都伎は松坂の方向、東をむいて建っていた。)
 (近世国学の中でもっとも重要な事件であったとされる「松坂の一夜」。加茂真淵と本居宣長は松坂の新上屋で出会い、一夜を語り合っている。)
 江戸まで400km、真淵は2週間くらいで歩いた。
 「もう一度会いたい。ぬけ参りでもいいから生きている内に江戸に来い。」と真淵は言いました。でも宣長は行かなかった。この距離が真淵と宣長の関係では重要だったと思います。・・・大平の気持ちを考える上でもこの(松坂と和歌山の)距離を忘れることはできません。