国学者 本居宣長の吉野山への旅「菅笠日記」の路を辿る

「菅笠日記」の路を辿る 1
 私は今まで 山辺の道 伊勢本街道 熊野古道などを歩いてきました。旧街道 古道を歩きそこに残る歴史の跡を偲ぶのは楽しいものでした。そして何よりその土地土地の人々と交わす会話の楽しさに夢中になりました。
 私の住んでいる伊勢松阪は偉大な国学者本居宣長(歴史上の人物ですから敬慕の念は言わずもがな敬称を略しました)を生んだ町です。宣長は桜を愛し、吉野を愛し、吉野への旅を「菅笠日記(すががさのにき)」に著しています。私はかねてよりこの道を辿ってみたいと思っていました。
 しかし最初の一歩がなかなか踏みだせませんでした。意を決して2004年1月4日歩き出しました。寒い、日が短いなどなかなか道は捗りません。

 さるはむかし我父なりける人 子もたらぬ事を 深くなげき給ひて はるばるとこの神にしも ねぎことし給ひける しるし有て 程もなく 母なりし人 たゞならずなり給ひしかば かづかづ願ひかなひぬと いみじう悦びて 同じくはをのこゞえさせ給へとなん いよいよ深くねんじ奉り給ひける われはさてうまれつる身ぞかし 十三になりなば かならずみづからゐてまうでて かへりまうしはせさせんと のたまひわたりつる物を 今すこしえたへ給はで わが十一といふになん 父はうせ給ひぬると 母なんものゝついでごとにはのたまひいでゝ 涙おとし給ひし かくて其としにも成しかば 父のぐわんはたさせんとて かひがひしう出たゝせて まうでさせ給ひしを 今はその人さへなくなり給ひにしかば さながら夢のやうに    思ひ出るそのかみ垣にたむけして麻よりしげくちるなみだかな
袖もしぼりあへずなん かの度は むげにわかくて まだ何事も覚えぬほどなりしを やうやうひとゝなりて 物の心もわきまへしるにつけては むかしの物語をきゝて 神の御めぐみの おろかならざりし事をし思へば 心にかけて 朝ごとには こなたにむきてをがみつゝ 又ふりはへてもまうでまほしく 思ひわたりしことなれど 何くれとまぎれつゝ過こしに 三十年をへて 今年又四十三にて かくまうでつるも 契あさからず 年ごろのほいかなひつるこゝちして いとうれしきにも おちそふなみだは一ツ也 そも花のたよりは すこし心あさきやうなれど こと事のついでならんよりは さりとも神も おぼしゆるして うけ引給ふらんと 猶たのもしくこそ かゝる深きよしあれば 此神の御事は ことによそならず覚え奉りて としごろ書を見るにも 萬に心をつけて 尋ね奉りしに 吉野水分神社と申せしぞ 此御事ならんと はやく思ひよりたりしを 續日本紀に 水分峯神ともあるは まことにさいふべき所にやと 地のさまも見さだめまほしく としごろ心もとなく思ひしを 今来て見れば げにこのわたりの山の峯にて いづこよりも 高く見ゆる所なれば うたがひもなく さなりけりと 思ひなりぬ 
 宣長は「菅笠日記」にこのように書いている。つまり宣長は生涯3度吉野へ行っているが、第1回が13歳のときであり、自分の誕生についてのお礼参りということで吉野水分神社参詣である。2度目は42歳、明和9年(1772年)、3月5日松阪を立ち、8日9日(陽暦4月10日11日)吉野山に花見・水分神社参拝、14日に松阪に戻る。この旅日記が「菅笠日記」である。3度目は70歳のとき、正月若山へ旅し、その帰り陽暦4月1日に水分神社へ参拝している。

本居宣長旧宅前から八太へ
うけよ猶花の錦にあく神も心くだきし春のたむけは
の歌を残して宣長は旅立つ。私は夫と二人、魚町の本居宣長旧宅前から出発する。折りしもお正月のこととて宣長の生家小津家の産土神であり「古事記伝」の版本が奉納されたことでも知られる御厨神社の禰宜さんが通りかかられた。幸さきのよい旅立ちである。
 西町、川井町、船江 何度も歩いた懐かしい道である。薬師寺の前を通る。百々川のほとりに常夜燈が立つ。塚本の古川水神常夜燈、久米の庚申堂、船木家なまこ壁、いがみち分岐の道標,常夜燈、庚申堂などを見て市場庄に入る。ここで偶然三雲町郷土史研究会の橋本さんという方とお会いし六軒までの街並みを詳しく説明しながら案内していただく。「憩の家いちのや」にも寄らせてもらいお話を聞く。家々には屋号がかかげてあり、その家の仕事や出身地を知ることができる。「合羽屋」には旅人のための地図の木版が残っており見せてもらった。
 街道から少し逸れて三雲町指定文化財の「忘井」がある。斎宮群行に侍した官女甲斐が都を離れはるばると伊勢の地に来て望郷の念やみがたく涙とともに「別れゆく都の方の恋しきにいざ結びみむ忘井の水」と詠んだことに因む。
 いよいよ「明日はお立ちかお名残り惜しや 六軒茶屋まで送りましょう。六軒茶屋の曲がりとで・・・」と道中伊勢音頭に歌われる六軒である。三渡橋のたもとに「いがごへ追分」「右いせみち」「やまとめぐりかうや道」の道標。初瀬街道と伊勢街道の分岐点である。反対側に大きな常夜燈、伊勢講の講札や旅籠の看板をかかげたかつての旅籠「いそべや」などがある。
 川に沿って上流に向う初瀬街道を通り3カ所に渡しがあったという川を渡ると津屋城(庄)。明治28年の頭部がない常夜燈、津屋城主別府九郎左衛門武綱の長官塚、竜王神社が合祀され旅人憩いの場所で竜燈の森や鶴の宮とも呼ばれ毎年大晦日には付近の神々が集まり夜中に大小の火の玉が舞うという伝説のある中原神社、その東の常夜燈、境内の常夜燈を見て小川村に入る。
 宣長の旅は時々雨の降る旅であった。
  雨ふればけふはを川の名にしおひて
           しみづながるゝ里の中道
 このあたりは嬉野である。倭姫命が皇大神宮鎮座地をもとめての旅で、荒振神に大変困り大若子命に命じその神をお鎮めになった。倭姫命はそれを喜び「ああうれし(宇礼志)」といわれたことに由来する。
 このあたりは常夜燈、壇ノ浦の戦いに敗れた平家にまつわる伝説がある五六橋がかかる西方寺と境内の道標、小川神社と境内の常夜燈、常念寺と門前の「真盛上人御旧蹟」の道標、さらに中川小学校そばの常夜燈と見るべきものが多い。
 直進する小川橋は今はないので大きく迂回して川を渡ると宮古である。「初瀬街道 はせ迄やく70km」の看板がある。秋葉山大権現の常夜燈、石柱、「斎宮御道蹟 忘井 従是 右凡二丁 左参宮道」の道標、「右忘れ井道」の道標がある。宣長は
今その跡とてかたをつくりて 石ぶみなど立てたる所の 外にあなれど そはあらぬ所にて まことのは 此里になんあると 近きころわがさとの人の たづねいでたる事あり げにかの哥 千載集には 群行のときとしるされど ふるき書を見るに すべていつきのみこの京にかへりのぼらせ給ふとき 此わたりなる壹志の頓宮より二道に別れてなん 御供の女房たちはのぼりければ わかれ行みやこのかたとは そのをり 此里の名によせてこそはよめりけめ なほさもと思ひよる事共おほかれば 年ごろゆかしくて ふりはえても尋ね見まほしかりつるに けふよきついでなれば 立よりてたづね見るに まことに古き井あり 昔よりいみしきひでりにもかれずなどして めでたきし水也とぞ されどさせるふるき傳へごともなきよし 里人もいひ 又たしかにかのわすれ井なるべきさま共見えず いとうたがはしくこそ・・・と市場庄よりこちらが正しいと思ったがどうもそれも疑わしいという宮古の忘れ井にも行ってみた。
 さらに進むと八太である。八太の七曲がりという狭い街道が続く。班光寺跡石柱、道標、古い土塀の家を見て当時は板橋であったと記されている八太橋をわたり波瀬川の堤を歩く。宣長の旅は雨が降り続く。
  春雨にほさぬ袖よりこのたびは
      しをれむ花の色をこそ思へ  である。
 私たちはここからJR名松線一志駅より帰路についた。
八太から川久保へ
 第2日は一志駅より出発した。田尻から井関へ、ここでお宮さんと常夜燈、万燈さんと常夜燈、谷戸坂を登り薬師地蔵へ立ち寄る。ここから山中への道は途絶えるので県道を迂回する。再び旧道に戻ると途中に堰跡がある。初瀬街道はこの堤防の上を通っており難所であったと言う。雲出川(大のき川)に架かっていた板橋の上流200mの大仰橋を渡る。宣長は花盛りの桜を見て
 しばしとてたちとまりてもとまりにし
        友こひしのぶ花のこの本  と詠む。
 さて川辺をのぼりゆくあたりのけしき いとよし 大きなるいはほども 山にも道のほとりにも 川の中にもいとおほくて 所々に岩淵などのあるを 見くだしたる いとおそろし  のあたりが波多の横山である。急な崖の巨岩に刻まれた磨崖仏、笠着地蔵がある。真盛上人が幼児の頃、故あって雲出川に捨てられたとき、上人を乗せた笠が流れをさかのぼり、この淵に流れ着いたという、その奇跡にちなんで刻まれたもの。道中安全を祈る地蔵で「笠着き」または「逆着き」とも呼ばれる。宣長が通ったあと安政の大地震の際、道路脇の巨岩が二つに割れて転げ落ち、刻まれた地蔵が逆さまになったのだというさかさ地蔵が川岸の巨岩に見られる。 
 初瀬街道は大和と伊勢を結ぶ重要な街道である。旅人の心を癒す雲出川の眺めのよい休み場として吉野桜が植えられた。桜の名所亀ケ広である。街道は県道を少しそれ竹藪の中の道となる。そこまではどうにか入れたがその先は近鉄大阪線の軌道になっており通れない。やがて二本木の宿である。末広屋、紅葉屋、角屋(上角屋)、徳田屋、増田屋、桝屋などの旅籠があったという。犬やらいなど昔のたたずまいを残す角屋(下角屋)と安政4年(1857)まで旅籠、それ以後は醤油屋の丁子屋の二軒が残っていた。天保4年(1833)の「太一」と刻まれた常夜燈を過ぎると道は曲がりくねって人家の間を通り分かりにくい。地蔵堂、東明寺、山の神が見られる。岡に入るとすぐ地蔵堂があり、そこから長い石段が続く。智光院称名寺である。訪れると奥様は松阪の大石出身の方だとか、驚く。慶応3年(1867)の常夜燈を過ぎ田の畔道のような細い道を通っていくと白山神社の一の鳥居跡に石柱が立っている。中佐田川に沿っていく。街道は民家の庭先を通ったりところどころに細く残っている。
 白山町郷土資料館に寄る。講札などが展示されていた。慶応4年(1868)「両宮」と刻まれた常夜燈、天保15年(1844)の常夜燈、立派なお寺の成願寺、その末寺の慈眼寺に寄りながら垣内手前の川久保に着いた。私たちはここから白山町営バスで榊原温泉口まで戻り松阪へ帰った。
川久保から七見峠へ
 歩き出して間もなく垣内宿に着く。奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道は、峠の名前をとって「青山越え」と呼ばれたり、麓にある村の名前から「阿保越え」「小倭越え」と呼ばれていた。青山峠の東坂本にあたる垣内宿は、峠を越える英気を養うため、また峠を越えてきた旅の疲れを休めるために欠くことのできない宿場であった。江戸時代の末には戸数70戸以上、旅籠は常時300人以上の収容能力があった。屋号も30数戸が知られている。常夜燈、山の神、元標、行き倒れた旅人の無縁仏が多い乗渓寺などが見られ家並みも宿場の面影を残している。花山橋より山道に入る。安永4年(1775)の石仏が見られる。八重坂を登る。道は一旦国道165号に出、すぐに空き地のふちをぐるっとまわり白山トンネルの上に続く。切り通し風の道で道路脇に石垣が残っている。ここが小峠である。宣長の阿保の山路もまた雨。
  旅衣たもととほりてうくひずと
     われこそなかめ春雨のそら
 街道は残っていないので国道165号を迂回する。ところどころに街道跡らしきものが見られ伊勢茶屋らしき跡もあった。青山トンネルの手前から街道に入るとそこが青山峠である。ここは伊勢国と伊賀国の境であり、古くは阿保山といわれ「垣内越」「青山三里」といわれた峠道は初瀬街道最大の難所だった。また長谷と伊勢の中間点にあたる。
おほかた此山路は かの過ぎこし垣内より 伊勢地といふ所迄 三里がほどつゞきて ゆけどゆけどはてなきに 雨もいみしうふりまさり 日さへ暮はてゝ いとくらきに しらぬ山路を わりなくたどりつゝゆくほど かゝらでも有ぬべき物を なにゝきつらんとまで いとわびし である。
 やがて青山地蔵の前に出る。岸壁に彫られた磨崖仏である。境内には樹齢数百年の杉が立つ。弘法大師一夜の作と言う伝説があり青山大師とも呼ばれる。旧道がとぎれとぎれに残る。木立の中に二体ずつ組み合わされた石仏がたくさん並んでいるところがある。
 やっと伊勢路宿に着く。宣長はここで第一夜を迎える。(松本のなにがしといふものゝ家にやどりぬ
 妙見大菩薩の石碑を見て伊勢路宿に入る。全盛期には20軒あまりの旅籠があり初瀬街道中最も賑わった宿場である。宿の特徴は入口の梁が高いことで、馬に乗ったまま家の中に入れるようにとの配慮だった。現在も入母屋づくりの豪快な家並みが続く。旅籠「徳田屋」の玄関先に当時の看板が今もかかる。文政11年(1828)の常夜燈が立つ。
 宿場はずれに庚申塔と並んで「本居宣長大人菅笠日記抄」の記念碑がある。「宣長、からうじて伊勢路の宿にゆきつきたるうれしさもまたいはん方なし、そこに松本のなにがしといふものの家にやどりぬ」と刻まれている。
 善福寺、常夜燈、町石、道標などを経て伊賀の中山、あるいは天狗岩というところにさしかかると「河づらの」歌碑がある。
  河づらの伊賀の中山なかなかに
      見れば過うき岸のいはむら 宣長 
残念ながらガードレールに阻まれて見ることが困難。
 阿保橋を渡って阿保宿に入る。橋のたもとに「太神宮」と刻まれた常夜燈と並んで宣長の碑がある。「本居宣長大人菅笠日記抄。河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら、かくいふはきのふこえしあほ山よりいづる阿保川のほとり也、朝川わたりて、その河べをつたひゆく、岡田別府なンどといふ里を過て左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは大村ノ神社なンどをあやまりてかくまうすにはあらじや、なほ川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる、昨日の雨に水まさりて橋もなければ衣かゝげてかちわたりす、水いと寒し、明和九年三月六日
 大村神社への参道社標、旅館たわらや清右衛門、安養寺、街道随一といわれる安政7年(1860)の常夜燈、延命地蔵尊、石碑を経て羽根に入る。庚申碑、常夜燈、常夜燈と地蔵群、安楽寺、常夜燈、「照皇宮」の常夜燈、常夜燈と水神碑などが次々に出てくる。国道を渡り川に沿っていくと街道は山に突き当たり進めない。ゴルフ場になっているからだ。
 四五丁ばかり坂路をのぼる この坂にたむけより 阿保の七村を見おろす故に 七見たうげといふよし 里人いへり されどけふは雲霧ふかくて よくも見わたされず
 私たちも山に阻まれ2kmほど迂回して伊賀神戸の駅から帰宅した。途中の木津川はたいへんきれいでカワセミを見ることができた。 
上庄田から名張へ
美旗駅から上庄田まで戻る。七見峠の山(ゴルフ場)を越えたところだ。天保3年(1832)の「太神宮」と刻まれた名張市で最大の常夜燈がある。街道はそこから更に山に向って入れる。戻って坂の途中に首のとれた石地蔵がある。街道が右折するところに慶応2年(1866)の常夜燈がある。地震で2度崩壊したが道の反対側に再建されたとおばあさんが教えてくださった。天保3年(1832)の「ひだりいせ道」と刻まれた道標、堤の下に「左いせ道」の道標、愛宕神社、地蔵、街道名残の杉などが並んでいる。日本の伝統芸能の一つの頂点といわれる能はおよそ600年ほど前、足利三代将軍義満の時代に花開いた。能を大成したのは観阿弥・世阿弥の父子だが、その活躍は1363年頃観阿弥がここ名張の小波田で猿楽の座を建てたことに始まるという。またこのあたりは、伊賀地方最大規模の古墳群がある。馬塚を始め、貴人塚、女郎塚など5基の前方後円墳と横穴式石室を備えた円墳・赤井塚が現存している。真性寺を過ぎると新田用水の日時計石がある。命の水を見守ってきた「隔日時間給水」の慣行の証である。連子格子の家、長屋門のある家、嘉永元年(1848)の常夜燈を見ながら街道を行くと、「いとざくら」の歌碑がある。
 いとざくらくるしきたびもわすれけり
    たちよりてみるはなの木かげに
     宣長六世孫本居弥生書と刻まれている。
きつね坂を下ると愛宕神社の祠、台座の部分に「右いせ道 左うゑ乃道」と刻んだ道標がはめ込まれている延命地蔵、国道を横切ると四国遍路の供養碑が埋め込まれた延命地蔵、安永2年(1773)の供養碑がある。ここから山道に入る。名張育成園の寮跡の前を通りさらに入る。すると1998年の台風で山が荒れ倒木が多くて入れない。やむなく国道に戻る。
  此ごろの雨にあらひてめづらしく
         けふはほしたる布引の山
この山は ふるさとのかたよりも 明くれ見わたさるゝ山なるを こゝより見るも たゞ同じさまにて 誠に布などを引はへたらんやうしたり と宣長が記したところである。
 さらにこの先は桔梗が丘の団地造成で街道はずたずた跡かたもない。桔梗が丘の駅前から新道を登りガソリンスタンドの角を曲がってようやく追分を見つける。
 本居宣長「国学者」の歩いた道(道中安全碑)の看板が立っている。たいへんな難所であったという開立坂がここで天保4年の道中安全碑が建っている。蔵持(倉持)里には街道の雰囲気が残る。常夜燈そっくりの湯舟谷開路碑、二月堂はん、春日神社の祠がある。ここから先の街道はなくなっている。蔵持小学校の前を通る道に迂回する。南無妙法蓮華経の碑、両宮八幡宮を通ると名張の町である。愛宕神社が祀られていた。今回は道を探すのにあちこちしたいへん疲れたので名張駅より電車で帰った。
名張から榛原へ
名張駅の前に車を留める。駐車場係りの人も旧道歩きが好きとのこと「気をつけて」と温かく送り出してくださる。駅周辺にはよく来る名張だが街中には思いがけず宿場の面影がたくさん残っている。安永7年(1778)に寄進された宇流富志禰神社一の鳥居(市文化財)、街道名残の一本松、辻の丁子屋、酒屋「木屋正」、江戸川乱歩生誕の地の石標、酒蔵旭金時等を見ながら進む。町屋のはづれに 川のながれあふ所に 板橋を二ツわたせり なばり川やなせ川とぞいふ いにしへなばりの横川といひけんは これなめりかし の新町橋・黒田橋を渡る。黒田橋東に天保15年(1844)の「右はせならみち左あめがたき」と刻まれた大きな道標、川原石の道標、供養碑、北に「黒谷法然上人石碑・・・」と刻まれた法然寺への道標、地蔵2体を祀った祠がある。このあたりは平安末期から中世にかけて東大寺の有力な荘園であった黒田荘である。「第五十三番黒田村弘法大師・・・」の町石、宝暦5年(1755)「観世音菩薩」の供養碑、坂之下の笠間峠を越える奈良街道の登り口に「右ならみち」と刻まれた地蔵道標、五輪塔が立つ。ここはかつて東大寺二月堂への松明調進で私も歩いた坂であり峠である。さらに行くと沈橋(猪尻潜水橋)、その北に享保2年(1802)の水神碑がある。やがて大きな鳥居が見える。両側に灯籠が並ぶ参道の奥が鹿高神社である。壬申の乱の際このあたりを通りかかった大海人皇子が折からの大水で宇陀川を渡れず困っていると、どこからともなく白鹿が現れ皇子を乗せて川を渡ったという伝説に因む。鳥居の横に「きのふ今日」歌碑(菅笠日記の碑)が建つ。
名張より又しも雨ふり出て このわたりを物する程は ことに雨衣もとほるばかりいみじくふる かたかといふ所にて
 きのふ今日ふりみふらずみ雲はるゝ
      ことはかたかの春の雨かな 本居宣長
宇陀川の川底が巨大な岩盤になっており「兵頭の瀬」と呼ばれるところに出る。街道右の崖下の岩窟状になったところに記念碑、大峯山参拝記念碑、地蔵、供養碑、阿部田村義民碑が並ぶ。元禄2年(1689)の庚申堂、権現坂の上の秋葉大神、番取山越の道(江戸末期頃の街道はこちらが本道)の入口、慶応3年(1867)の水神碑、鹿高渠水碑、孝女碑がある。
山のそはより 川なかまでつらなりいでたる岩が根の いといと大きなるうへを つたひゆく所 右の方なる山より 足もとに瀧おちなどして えもいはずおもしろきけしき也 又いと高く見あぐる 岩ぎしのひたひに 物よりはなれて 道のうへゝ一丈ばかりさし出たる岩あり そのしたゆく程は かしらのうえにもおちかゝりぬべくて いといとあやふし すこし行過て つらつらかへりみれば いとあやしき見物になん有ける 獅子舞岩とぞ 此わたりの人は言ける げに獅子といふ物の かしらさし出せらんさまに いとよう覚えたり の難所にかかる。唐崖の切り崩した窪地に延命地蔵、唐崖修路碑が建つ。
いよいよ県境である。県境のそばに六宝地蔵が祀られている。長瀬に入ると弘法大師像を収めた辻堂があって室生山絵図を正面に掲げてある。室生寺の北の大門丈六寺から室生寺の東北へ出る参詣道で、長瀬の辻堂を町石の出発点として町石発願主が建てた1.5m大の道しるべが建っている。少し行くと赤い橋があり室生寺への道となっている。橋のたもとで南正彦さんにいろいろ教えていただく。国宝子安地蔵の安産寺、海神社の参道への分岐路に日露戦争終結記念の大きな常夜燈、宝林山頒光寺の前を通る。ここで少し道を間違えて白鳥神社の方へ迂回してしまう。伊勢で亡くなった日本武尊の神霊が白鳥となって飛来してきたとの伝承による神社だ。
 三本松は宿場らしい家並や町家風の家が残る。「従是西萩原迄二里」の道標、嘉永3年(1850)の太神宮常夜燈がある。内陸の奈良県に海神を祀る社が宇陀川流域の大野と三本松に鎮座する。この海神社は室町時代に祈雨神・水の神として室生の竜穴神社から勧請された。えび坂を下り近鉄大阪線のガードをくぐる。
大野寺といふてらのほとりに 又あやしき岩あり 道より二三町左に見えたり こは名高くて 旅ゆく人もおほく立よる所やといへば ゆきて見るに げにことさらに作りて たてたらんやうなるいはほのおもてに みろくぼさちの御かたとて ゑりつけたる ほのかに見ゆ 其佛の長五丈あまり有といふを 岩の上つ方は 猶あまりて高くたてる うしろは山にて 谷川のきしなるを こなたよりぞ見る ということで私たちも大野寺へ寄った。大野寺は飛鳥時代に役の行者が開き天長元年(824)に空海が慈尊院と改め室生寺の西の大門とした。室生寺の四門は東が田口の長楽寺、北が赤目の丈六寺、南が赤埴の仏隆寺である。宇陀川右岸の磨崖仏は国の史跡で、石英安山岩に刻まれた弥勒菩薩像は光背の総高13.8m、菩薩像総高11.5mもあって、後鳥羽上皇(別説・興福寺僧の雅縁)の発願により笠置寺の磨崖仏を参考に宋人の石工が承元元年(1207)から彫刻をはじめ同3年3月に落慶供養が行われた。大野寺への分岐には石佛彌勒の石柱が立つ。戻って安政6年(1859)の太神宮常夜燈の前を通り近鉄線を潜り線路に沿って行くと「室生道」の石標がある。さらに魚やの角の「右いせ道」の道しるべを頼りに坂を下り再び近鉄線を潜り南側に出る。民家が2軒ある。さらに旧道は続いているので線路に沿って進むと山に柵がしてあって行き止まり。しかたなく延々と戻り半焼橋を渡り国道を行く。子安地蔵・緑の道標のところで、静岡県掛川から高野山まで歩くという青年とあう。感動ししばらく話す。
 篠畑から里道として街道が残っているはずだが入り口が分からない。国史現在社篠畑神社の下で土地のご夫婦に尋ね急斜面の畑の間を下りガードを潜って行く。東村でまた人に聞くとここにたくさんあった家も明治の中頃県道が新設されるとほとんどが移り住んだそうだ。地蔵山の磨崖仏濡れ地蔵の前に出た。今は水位が高く見えないようだ。このあたりから向出まで初瀬街道は道路の新設と近鉄線の架設によって全く消滅したそうである。天満台東で国道に戻る。「山辺赤人墓」の道しるべ、長峯の天満神社、向出と進み旧街道に入る。「観音道」の道しるべ、常夜燈のある庚申堂の辻、そこにある「右いせ 左はやま道」の道しるべ、「往来安全」の石標、椋下神社、稲荷社、石灯籠、宗祐寺など見るべきものは多いがすでに日も沈んだ。宣長の泊まった萩原の「あぶらや」の前に辿り着くともはや真っ暗であった。
  うつしてもゆかまし物を咲花の
        をりたがへたる萩はらの里
こよひ雨いたくふり 風はげしきに 故郷のそらはさしおかれて まづ花の梢やいかならんと 吉野の山のみ よひとよやすからず思ひやられて いとゞめもあはぬに 此やどのあるじにやあらん よなかにおき出て さもいみしき雨風かな かくて明日はかならずはれなんとぞいふなる きゝふせりて いかでさもあらなんと ねんじをり
私たちは、近鉄で榛原から名張に戻った。
萩原から慈恩寺追分へ
日頃の雨に ゆくさき道いとあしく 山路にはたあなりときけば 今朝はたれもみな かごといふ物にのりてなん出たつ さるはいとあやしげに むつかしき物の 程さへせばくて うちみじろくべくもあらず しりいたきに 朝寒き谷風さへはしたなう吹入て いとわびしけれど ゆきこうじたる旅ごゝちには いとようしのばれて かちゆくよりは こよなくまさりて覚ゆるも あやしくなん
と宣長は駕篭で出立したが私たちはもちろん歩きで。出発地は「あぶらや」の看板を掲げた旧旅籠の中川家の前。「本居宣長公御宿泊」の木札が掲げてある。この三叉路が萩原の辻で札の辻ともいう。「榛原町道路元標」、伊勢街道の本街道と表街道を示す道しるべ、太神宮常夜燈がある。道しるべには「右いせ本かい道 左あをこ江みち」とある。宿場をぬけ国道へ上る坂道に村道改修碑と「右いせ道 左かい場やくし道」の道しるべがある。吉隠にも「右いせ道」の道しるべがある。榛原の西峠から長い長い下り坂が続く。桜井に入り初瀬ダム・小夫への分岐路に「従是四丁多羅尾滝」の元文元年(1763)の道しるべがある。この信号を渡ったすぐ下の田の畦道が街道である。たいへん分かりにくい。私たちも以前長谷寺から化粧坂を越え土地の人に聞きながらやっと見つけた。この道を行くと、「いせみち」の道しるべ、石灯篭、石仏などを並べた庚申堂の前に出る。
けはひ坂とて さがしき坂をすこしくだる 此坂路より はつせの寺も里も 目のまへちかく あざあざと見わたされるけしき えもいはず 大かたこゝ迄の道は 山ぶところにて ことなる見るめもなかりしに さしもいかめしき僧坊御堂のたちつらなりたるを にはかに見つけたるは あらぬ世界に来たらんこゝちす ここにいうけはひ坂とは上けはい坂のことである。この道は庚申堂のところで下けはい坂への道を分け、細い山道を登って稲荷社の下に出、長谷寺全山と門前町を見渡したのである。ここを下ると与喜天満宮鳥居前に「左いせミち」の道しるべがある。
長谷寺は、初瀬山の南斜面に70余棟の堂宇を構えた末寺3000の上にたつ真言宗豊山派の総本山で山号は豊山、院号は神楽院と称している。私たちも桜、牡丹、紅葉とよくここを訪れる。宣長もあちこち見て歩いたようである。
  はつせ川はやくの世よりながれきて
      名にたちわたる瀬々のいはなみ
よきの天神、どうみょうの塔、貫之の軒端の梅、蔵王堂産霊の神の祠、雲い坂、御堂。巳の時とて 貝ふき鐘つくなり の鐘を聞く。
  名も高くはつせの寺のかねてより
          きゝこしおとを今ぞ聞ける
二本の杉の木の跡、定家の中納言の塔という五輪の石、八塩の岡、玉葛の君の跡、家隆の二位の塔、石の十三重、牛頭天王の社、苔の下水。杉などは多けれど 名にたてる檜原は見えず
「くさえ餅元祖さかえ屋」の看板の横に、伊勢本街道・伊勢表街道の出発地点となり、伊勢・伊賀からは初瀬街道の到達地点になる「伊勢辻」の道しるべがある。門前町を抜けると「総本山長谷寺」の大きな看板と石標のある一の鳥居跡のゲート、正面に愛宕山、裏面に宝暦十年(1760)と刻銘がある大きな常夜燈がある。宣長の旅はまたもや雨。
  ぬぎつれど又もふりきて雨ごろも
       かへすかへすも袖ぬらすかな
出雲に入る。出雲人形は垂仁天皇の時代に、皇后日葉酢媛の崩御に際して殉死を廃止し埴輪にかえるため、進言者の野見宿禰が土偶製作の命を受け、出雲の国より土部100人を呼び寄せ出雲で製作したのが始まりである。粘土で形を作り籾殻の中で時間をかけて焼き上げ素朴な色彩を出す。この貴重な伝統は今水野家一軒で守られている。私たちも立ち寄り買い求めた。
出雲の氏神さん十二柱神社には天保2年(1831)の太神宮常夜燈、野見宿禰の顕彰碑、台座に相撲力士像を刻んだ狛犬、野見宿禰墓という五輪塔、12基の石灯籠のうち古いのは「奉造立十二柱権現社・寛文元年(1661)八月吉日」、泊瀬列木宮伝承地の石碑などがある。宝形の流れ地蔵堂には、文化8年(1811)の初瀬谷大洪水で流れ着いた室町時代の地蔵石仏が祀られており、天保11年(1840)の常夜燈がある。
宣長は黒崎で、家ごとにまんぢうといふ物をつくりてうるなれば と食している。西国名物図絵に「此里の名物とて、まんじゅうを二つあわせ これを女夫まんじゅうとて 商う家多し。黒崎といへども白きはだとはだ 合せて味わい夫人まんじゅう」と出ている。
黒崎の氏神さん白山神社には、1.5m大の地蔵二体を収めた地蔵堂、「泊瀬朝倉宮伝承地」の石碑がある。脇本へ入ると山裾を伝っていた古い初瀬街道に面した脇本の氏神さん春日神社があるので回り道をして寄った。本殿は室町様式の三間社春日造の県指定の文化財で奈良春日神社若宮社の社殿を移築したものである。少し行くと初瀬街道を挟んで、南側のは天保2年(1831)の元号を、北側のは太神宮と刻んだ常夜燈がある。初瀬街道と上街道との三叉路が追分で、近世から明治にかけて慈恩寺の町屋と呼ばれ茶屋・旅館と商家が並んでいたところである。
慈恩寺の追分から多武峯談山神社へ
此里の末を 追分とかいひて 三輪の方へも桜井のかたへもゆく道のちまた也 今はそのすこしこなたより 左へわかれ 橋をわたりて 多武の峯へゆく細道にかゝる 此橋は はつせ川のながれにわたせるはし也けり そもそもたむの峯へは 桜井よりゆくぞ 正しき道には有ける
ということで私たちも桜井の1つ手前の朝倉で近鉄を降り追分の少し手前まで戻り、初瀬川に架かる朝倉橋を渡って歩き始めた。向かいは大きな団地になっているが山裾の道がわずかに旧道のそれだと分かる。間もなく忍坂に出る。ここからは外鎌山がよく見える。左に常夜燈がたくさん並ぶ社がある。ゆくさきいそがれて宣長は訪ねることができなかった舒明天皇陵へ行く。「この御陵はいつ頃のものですか」と守衛さんに尋ねたが「いつといわれても・・・」近くに大きな巌に注連縄がはられたものがあった。石位寺にも上ってみた。石仏がたくさんあった。道路を横断し、生首峠への山道を登っていった。旧道は峠のあたりから倉橋溜池の南端のあたりへ通じていたはずである。ところが桜井のグリーンセンターやアーチェリー場のため入ることができない。訪ねてもそんな道は残っていないとのこと、やむなく学校の運動場のまわりを大きく迂回し山道を抜けるとそこは浅古であった。桜井から南下してくる道であろう「歴史街道」の標識があり、道標地蔵や常夜燈、五輪塚、御堂などがある。下って下にも道標、立派な常夜燈、地蔵などが並んでいる。
倉梯の里にいでぬ こゝはかのさくら井よりくる道也けり・・・例の都のあとを尋ぬれば 【崇峻天皇の都倉梯柴垣の宮】・・・金福寺と申す寺ぞ その御跡には侍る・・・かの寺といひしは 門などもなくて いとかりそめなる庵になん有ける・・・まへにごまだうとて かやぶきなるちひさき堂のあるを さしのぞきて見れば 不動尊のわきに 聖徳太子崇峻天皇とならべ奉りて かきつけたる物たてり されどむげに今やうのさまにて さらに古しのぶつまと成ぬべきものにはあらず・・・御陵【倉梯岡陵崇峻天皇】・・・忍坂と申す村より五丁ばかりたつみの方に みさゝぎ山とて こしげき森の侍るなかに 洞の三ツ侍る ふかさは五六十間も侍るべし 私たちも崇峻天皇陵を訪ねた。
此道に 桜井のかたよりはじまりて たむのみね迄 瓔珞経の五十二位といふ事を 一町ごとにわかちて ゑりしるしたる石ぶみ立たり・・・道ゆくたよりとなるわざ也 と書かれている「丁石」を見つける。熊野出身の人に会い、このあたりのことをいろいろ教えていただいた。丁石は浅古の談山神社一の鳥居から始まるそうである。倉橋には立派な常夜燈やところどころに丁石が残っている。町屋の外れに倉橋溜池に至る道がある。旧道はこのあたりに出たに違いない。とすると道路を横切ったあたりから倉橋溜池の堤防に上がりここに出たほうがより旧道に近かったのかもしれない。辻の上に、地蔵堂、六地蔵、常夜燈、集められたらしい道祖神などがたくさんあった。下居に入る。ここからはゆるやかながら5kmにも及ぶ登り坂である。丁石がたくさん残っている。音羽山が聳えている。南羽には音羽山観音寺の大きな道標がある。
なほ同じ川ぎしを やうやうにのぼりもてゆくまゝに いと木ぶかき谷陰になりて ひだり右より 谷川のおちあふ所にいたる 瀧津瀬のけしき いとおもしろし 破不動尊、不動延命の滝、文化年間の道標、湯川秀樹の碑などがあった。井内に入ると磨崖仏や丁石がある。
こゝははや多武の峯の口也とぞいふ さて二三町がほど 家たちつゞきて 又うるはしき橋あるを渡り すこしゆきて 惣門にいる 左右に僧坊共こゝらなみたてり 御廟の御前は やゝうちはれて 山のはらに 南むきにたち給へる いといかめしく きらきらしくつくりみがゝれたる有様 めもかゞやくばかり也 十三重の塔 又惣社など申すも 西の方に立給へり すべて此所 みあらかのあたりはさらにもいはず 僧坊のかたはら 道のくまぐままで さる山中に おち葉のひとつだになく いといときらゝかに はききよめたる事 又たぐひあらじと見ゆ 桜は今をさかりにて こゝもかしこも 白たへに咲みちたる花の梢 ところからはましておもしろき事 いはんかたなし・・・
  谷ふかく分いるたむの山ざくら
     かひあるはなのいろを見るかな
ようやく談山神社の屋形橋に着いた。寛政3年と刻銘された擬宝珠が残っている。道の反対側には御堂、石仏、常夜燈が祀られている。霰が降ってきた。丁石が並ぶ。やがて城郭風の門が見える。県指定文化財の談山神社東大門である。両袖付きの高麗門で本瓦葺き、左右に木柵がつけられている。急坂を喘ぎつつ登る。途中に重要文化財の摩尼輪塔がある。摩尼とは宝珠のことで、八角大石柱笠塔婆の塔身に薬研彫で「妙覚究竟摩尼輪」と彫られ、上円部に梵字「アーク」を刻む。乾元2年(1303)の銘がある。重要文化財の後醍醐天皇御寄進の石燈籠もある。談山神社の赤い鳥居と長い石段が見える。その脇に道路元標が立っている。今夜は神社正面の多武峯観光ホテルに宿泊することにする。常夜燈に灯りが入り幻想的である。
談山神社から上市桜の渡しへ
談山神社には重文がたくさんある。摂社東殿、本殿、宝庫、十三重塔、権殿、神廟拝所、総社拝殿、末社総社本殿拝殿、閼伽井屋、比叡神社本殿である。かつて私は紅葉のきれいな秋、「蹴鞠」を見に来たことがある。西門(惣門)はその跡だけが残る。かつてここは女性の立ち入りを禁じた結界地であったことを物語る女人禁制石柱が建っている。飛鳥の岡へ五十町の道とかや・・・吉野へは この門のもとより 左にをれて 別れゆく はるかに山路をのぼりゆきて 手向に茶屋あり やまとの国中見えわたる所也 なほ同じやうなる山路を ゆきゆきて 又たむけにいたる こゝよりぞよしのゝ山々 雲ゐはるかにみやられて あけくれ心にかゝりし花の白雲 かつがつみつけたる いとうれし
いよいよ冬野への険しい登りである。しかしハイキングコースになっており明日香村の木製のベンチがところどころに設置されている。植林された杉が大きくなっているが木の間隠れに飛鳥の里が見渡せる。鴬がしきりに啼く。水飲み場と石仏を左に見て一息上ると冬野である。五軒の家がある。茶屋はここにあった。冬野総代の石田さんの奥さんとしばらく話す。屋号を「伊勢屋」といい伊勢の出だという。教えてもらい良助法親王墓を訪れる。冬野に「菅笠日記道」の木標を提げる。しばらく下るがまた登り、明日香村と吉野町との境の辻に休憩所と木製の道しるべがある。ここにも木標をつける。300mで竜在峠。ここにも木標を取り付ける。この峠には茶店や旅籠があったという。それらしき所に古い茶碗のかけらがたくさん落ちていて当時の物に違いないと嬉しくなる。宣長が感激した吉野の桜はここからだが今は全く展望がない。吉野へ下る道は細く険しくなり、冬枯れの今だから通れるが夏草が生い茂ったら道も見付けにくいだろうとこの時期歩いた幸運を思う。
さてくだりゆく谷かげ いはゞしる山川のけしき 世ばなれていさぎよし の面影もない。神社の前を通り下りたところが滝畑である。又山ひとつこえて の入口を尋ねる。今回の行程で一番見付けにくいだろうと心配していた箇所だ。「そんな道はない。止めた方がいい。」と強く止められたが・・・地形図からするとこのあたりらしいと思われる所の橋は朽ちていて渡れない。目印に考えていたのが高圧線。それが見えたので山にはいる。4年前に設置されたという高圧鉄塔の工事用登山路が残っている。それを登る。高電圧送電線塔南大和線97の鉄塔に着く。ここは山頂で越えてきた竜在峠も滝畑の家もそして吉野もよく見える。峠はこの鞍部に違いない。その方向にかなり下りる。するとあった!峠である。青垣峠と記されている。ここにも喜んで木標を付ける。ここからは細い山道がわずかに残っている。千股岩後大師堂の前を通りさらに下ると岡と上市を結ぶ道に出た。千股には立派な御堂や道標があった。宣長は千股で泊まっている。
  ふる里に通ふ夢路やたどらまし
       ちまたの里に旅寐しつれば  
宿で龍門の滝のはなしを聞く。
此瀧かねて見まほしく思ひしゆゑ けふ多武の峯より物せんと思ひしを 道しるべせし者の さてはいたく遠くて 道もけはしきよしいひしかば えまからざりしを 今きくが如くは かしこより物せんには ましてさばかりとほくもあらじ物をと いとくちをし されどよしのゝ花 さかり過ぬなどいふをきくに いとゞ心のいそがるれば 明日ゆきて見んといふ人もなし そもこのりう門といふところは いせより高見山こえて 吉野へも木の国へも物する道なる 瀧は道より八丁ばかり入ところに有となん いとあやしきたきにて 日のいみじうてをり 雨をこふわざするに かならずしるし有て むなぎののぼれば やがて雨はふる也とぞ
  立よらでよそにきゝつゝ過る哉
           心にかけし瀧の白糸
 後日、1953年、奈良県教育委員会発行の「奈良県綜合文化調査報告書・吉野川流域 龍門地区」を読むことができた。非常に興味深い報告書であったので、少し長くなるが引用してみたい。
 龍在峠は奈良盆地の東部と吉野渓谷を結ぶ近道である多武峯街道と称する重要な道筋に当たっている。・・・750mの龍在峠に達し、南下して滝畑を経て更に矢立峠(弓出峠)と言う小峠を越え千股に下り上市に出たものである。・・・龍在峠の附近に龍在と称する集落あり、明治初年戸数10あり旅館1戸茶屋2戸ある標式的峠集落の特性を備えていた。・・・雲井茶屋と称する茶屋が大正末迄あったがこれを最後として全く集落は消失するに至った。滝畑は峠麓集落で藤屋、森川屋、もみぢや、たばこや等数戸の旅館あり・・・吉野山への本道は滝畑より志賀へは下らず矢立峠を越え千股を経て上市へ出る近道を多く用いられ、この峠にも1〜2軒の茶屋が出張していた。千股は滝畑上市間の間の宿であったが、多武峯街道と岡街道の合流点(分岐点)に位し栄えた。・・・多武峯街道は旅客が多く、明治初期では一年中夏最も多く山上参りの盛な頃には一日300人位通った。春秋は吉野観光の客で、春には外人も籠で多武峯を越えたものもいた。冬も「関東ベー」と称する赤ゲットの旅人が雪国方面の農閑期を利用して見物に来て通った。籠は竹で造ったもので、こゝより多武峯迄乗る者が多く、春先女子供が主として利用した。二里半の坂道を三時間半費やし、二人でかく籠かき代は20銭(明治25年頃、米代一升4〜5銭)で、籠かき人夫は多い時は40〜50もいた。千股は上市滝畑間の間の宿であったが、交通の要地で旅館が数軒あり、明治の中頃迄坂本屋、吉岡屋が営業していた。坂本家の襖の裏張中より発見した文書によれば、明和9年(1772)には農業を営むかたわら宿屋を営む者八軒もあって、それ等の内宿引に出ない約束を破る者があったので今後は領分内より出ないように仰せつけてほしいとの願い書が出て来た。・・・本居宣長の・・・宿の名は明かでないが、この年は丁度坂本屋から出た文書と全く同年に当るのも珍しい一致で興味深く感じる。
千股から上市に出る。ここには街道の面影が残っていて「伊勢街道 旅籠 角屋」がある。そこから吉野川に下ると「桜の渡し」である。もう1泊して吉野山を歩く予定であったが体調が悪くバスで八木まで出て家に帰った。
桜の渡しから吉野山へ
近鉄上市駅より桜の渡しまできて桜橋を渡り歩き始める。宣長が よし野川 ひまもなくうかべるいかだをおし分て こなたのきしに船さしよす と渡ったところである。吉野川を挟んで妹山と背山が見える。
  妹背山なき名もよしやよしの川
      よにながれてはそれとこそ見め
渡ったところは飯貝である。道標が立っている。登校するたくさんの高校生と出会う。丹治の街並みに入ると信号のある交差点の少し手前から旧道は延びている。新道と交わってからもところどころに旧道を残す。玉井楢七さん(88歳)に旧道の話を聞く。やがて近鉄吉野駅。天武天皇の「よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見」の歌碑が建っている。車道から離れロープウェイの横の山道を上る。大峯山登拝一の行場幣掛神社のところから七曲がりの坂を登る。上ったところが吉野三橋の一つである大橋。橋といっても下に水はなく地形の最も高い位置にあって両側は深い谷になっている。
こゝより見わたすところを 一目千本とかいひて 大かたよし野のうちにも 桜のおほかるかぎりとぞいふなる げにさも有ぬべく見ゆる所なるを たれてふをこの者か さるいやしげなる名はつけゝんと いと心づきなし 花は大かた盛すぎて 今は散残りたる梢どもぞ むらぎえたる雪のおもかげして 所々に見えたる そもそも此山の花は 春立る日より 六十五日にあたるころほひなん いづれのとしもさかりなる
それでは今年は4月8日頃か、今はまだ蕾が少し膨らみ始めたところである。
黒門から青根が峯女人結界まで登りに登る
宣長が訪れたとき この二月のつごもりがた いとあたゝかなりしけにや 例の年のほどよりも ことしはいとはやく咲出侍りつるを いにし三日四日ばかりや さかりとはまうすべかりけん そも雨しげく 風ふきなどせし程に まことに盛と申つべきころも侍らぬやうにてなん うつろひ侍りにし であった。金峯山寺の総門でいうなれば吉野一山の総門でもある高麗門の黒門をくぐり町屋が建ち並ぶ中を行くと日本三鳥居の一つ重要文化財の銅の鳥居がある。扁額の「発心門」の字は弘法大師の筆である。大峯詣での行者はこの柱のまわりをめぐり修行の心を新たにし俗界を離れるという。
しばらく行くと仁王門があり国宝の金峯山修験本宗総本山金峯山寺本堂蔵王堂に着いた。重層入母屋造り桧皮ぶき、棟の高さが34mもあり東大寺大仏殿に次ぐ古建築の壮大な寺院である。いともいとも大きなる御像の いかれるみかほして かた御足さゝげて いみしうおそろしきさまして立給へる   四本桜がある。その片側に 昔塔の九輪のやけ落たるが あったというのを問うと管長さんに尋ねてくださったが分からないとのことであった。「吉野の歴史年表」が掲げてあり、その中に本居宣長の来山が記されていた。堂の傍らから高い石段を下ると実城寺跡である。この所は かりそめながら 五十年あまりの春秋をへて 三代の帝【後醍醐天皇後村上天皇後亀山天皇】のすませ給ひし 御行宮の跡なりと申すは いかゞあらん ことたがへるやうなれど をりをりおはしましなどせし所にてはありぬべし 今は堂も何も つくりあらためて そのかみのなごりならねど なほめでたく こゝろにくきさま こと所には似ず 現在は「吉野朝宮址」として保存され平成11年に三重の塔が建立された。その南が妙法殿、東南院と続く。
吉水神社(吉水院)に詣でる。このあたりに宣長が泊まったという「箱や」があったそうだが今はない。吉水院は 後醍醐のみかどの しばしがほどおはしましゝ所とて
  いにしへのこゝろをくみてよし水の
       ふかきあはれに袖はぬれけり
  あはれ君この吉水にうつり来て
       のこれる御影を見るもかしこし
  みよし野の花は日数もかぎりなし
          青葉のおくも猶盛りにて
  咲きにほふ花のよそめはたちよりて
          見るにもまさる滝のしら糸
  世々をへてむかひの山の花の名に
       のこるくもゐのあとはふりにき
後醍醐天皇御製「こゝにても雲居の桜咲きにけりたゞかりそめの宿と思ふに」が掲げてあった。南朝の皇居跡を拝観する。
続いて勝手神社。吉野八社明神の一つで金峯山の山の入口にあるので山口神社ともいう。「五節の舞」の発祥地といわれ「三間社流造り」檜皮葺の日本でも数少ない社で厳かで優美なため県の有形文化財に指定されていたが残念なことに平成13年、放火により消失した。後ろの山が袖振山でその横の宮坂の急坂を登る。
吉野山四宿坊の一つ喜蔵院、山伏文化の殿堂と称せられる桜本坊と続く。桜本坊の樹齢350年のギンモクセイの巨木は県指定の天然記念物である。画像は春の大祭修験護摩である。竹林院の前を通り、吉野三橋の天王橋を渡って奥山に入る。坂はいよいよ険しくなる。しかし眺めは頗るいい。
  花とのみおもひ入ぬるよしの山
      よものながめもたぐひやはある
  あかなくに一よはねなんみよしのゝ
          竹のはやしの花のこの本
  うらやまし我もこひしき花の枝を
        いかにぎりてやどりそめけむ
横川の覚範の首塚、佐藤忠信花矢倉、世尊寺跡、吉野三郎と称される名鐘を見てさらに登る。東に高見山がくっきりと見えている。いよいよ吉野水分神社である。ここは宣長が今回の旅に出た最大の目的地である。水の神を祀る。「みくまり」が「みこもり」に通じ、子宝、安産の神として親しまれている。一間社春日造りの左右に三間社流造りが並ぶ華麗な本殿である。宣長はタイトル下に詳しく述べたような次第で 此御やしろは よろづの所よりも 心いれてしづかに拝み奉る
ここで宣長は、尾張の国の夫婦連れに名張であって以来4度目の出会いをし、何首かの和歌を交わしている。
  今は又きみがことばの花も見ん
       よし野のやまはわけくらしけり
  よしの山ひる見し花のおもかげも
        にほひをそへてかすむ月影
  みよし野の山よりふかきなさけをや
         花のかへさの家づとにせん
  ちぎりあれや山路分来てすきがての
          木の下陰にしばしあひしも
  旅衣袖こそぬるれよしの川
        花よりはやき人のわかれに
ここから宣長は宿に下るが私たちはさらに進む。宣長の翌朝は 空はちりばかりもくもりなく はれ渡りたるに 朝日のはなやかにさし出たるほど 木々のこのめも はるふかき山々のけしき 霞だにけさはかゝらで 物あざやかに見わたされたり であった。吉野三橋丈之橋跡、牛頭天王社跡、閼伽の井を過ぎてさらに登ると奥千本である。
  高根より程もはるかの谷かけて
          立つゞきたる花のしら雲
やがて二の鳥居(修行門)が見え、坂の上が金峯神社(金御峯神社・金精大明神)である。社務所は近年火災にあったという。左の小道を少し下ったところに隠れ塔がある。義経が隠れたといわれ「義経の隠れ塔・蹴抜けの塔」ともいわれる。戻ってまた登る。辻に「さくら狩り奇特や日々に五里六里」という松尾芭蕉の句が立っている。さらに登って左折し200mほど下ると西行庵がある。小さな草葺の庵である。西行は
 吉野山去年の枝折りの道かへて
       まだ見ぬ方の花をたづねむ
 吉野山花のさかりは限りなし
    青葉の奥もなほさかりにて 
など詠んでいる。 宣長も
  花見つゝすみし昔のあととへば
       こけの清水にうかぶおもかげ
歌にも詠まれた苔清水は右手奥にある。
ここから右に登っていく。目洗い井があり、さらに上の少し開けたところが宝塔院跡である。この付近には安禅寺蔵王堂・宝塔など大小の寺院が点在していたという。ここから奥へ続く山道は大峯山への修験の道で、1kmほど行くと女人結界碑が建っている。その後ろの山が青根が峯である。宣長はこの尾根を伝い西河に至るのだが、現在はこの尾根は通行不能とのことである。さらに山道を進むと車道に出、音無川に沿って蜻蛉の滝に出る道を分ける。私たちはここから引き返し、今夜は竹林院に泊まることにした。この宿は大和三庭園の一つで群芳園という名園を持つ。庭は池泉回遊式あるいは借景式庭園で宣長もここからの景色を楽しんでいる。宣長が 細き尾の上になん有めれば 左右に立なみたる 民の家居どもゝ 前よりこそさりげなく たゞよのつねの屋のさまに見いれらるれ うしろは みな谷より作りあげて 三階の屋になん有ければ いづれの家も 見わたしのけしきよし と書いているように竹林院も玄関は四階、泊まった部屋は二階で、露天風呂からの眺めも頗るよかった。堂のまへに めづらしき竹あり 一ツふしごとに 四方に枝さし出たり のことを尋ねたが、今はもうないとのことであった。
青根が峰より音無川に沿って下り蜻蛉の滝へ
尾根伝いの道がないのでこのコースを辿る。私たちは昨平成15年8月30日〜31日に吉野町観光文化講座に参加しこのコースを歩いたのでそのときの記録である。
歩いて行く道は谷深い山の斜面である。急勾配の下り坂を黙々と歩く。やがて小さなせせらぎを跨ぐ。音無川の源流だろう。深い杉木立の中を小鳥の声を聞きながら進む。林道を離れしばらく舗装路を歩く。そこから山道に入り蜻蛉の滝への登りにかかる。しばらく登りつり橋を渡ると蜻蛉の滝に着く。休憩所の螺旋階段を降りて滝を見にいったが、下の橋の上から眺める滝は迫力があった。 しげ山の岩のつらより 十丈ばかりが程 ひたくだりに落る滝也・・・上はせばきが やうやうに一丈あまりにもひろごりて おちゆく 末はこなたかなたより み山どもおひかゝりて をぐらき谷の底なれば 穴などをのぞくやうなる所へ 山もとよみて おちたぎるけしき けおそろしく そぞろさむし かたはらにちひさき堂のたてる前より 岩根をよぢ つたかづらにかゝりつゝ すこしのぼりて 滝のうへを見れば 水はなほ上より落来て 岩淵にいる この淵二丈ばかりのわたりにて 程はせばけれど 深く見ゆ 淵はやがてこの淵の水のあまりて 落るなりけり こゝに里人の岩飛といふことして 見するよし かねて聞しかば さきに西河にてさるわざするものやあると 尋ねしかど 此ごろは 長雨のなごりにて 水いとおほければ あやふしとて するものなかりき さるはこのかたへなるいはのうへより 淵の底へとび入て うかひ出ることをして 銭をとるなるを 水おほくて はげしき時には 浮みいづるきはに もしおしながされて 銚子の口にかゝりぬれば 命たへずとなんいふなる 勿論そうしたことは現在行われていない。
大滝から宮滝へ
歩きつぐために私たちはバスで大滝まで行った。此大瀧の里のあなたのはづれは すなはちよし野川のべにて 瀧といふも やがて川づらなる家のまへより 見やらるゝ早瀬にて 上よりたゞさまにおつる滝にはあらず・・・そのわたりすべて えもいはず大きなるいはほどもの こゝら立かさなれるあひだを さしも大きなる川水の はしりおつるさま 岩にふれて くだけあがる白波のけしきなど おもしろしともおそろしきとも いはんは中々おろかに成ぬべし むかしは筏も 此瀬をたゞにくだしけるを あまりに水のはげしくて 度ごとに くだしわづらひし故に いはほのやゝなだらかなる所を きりとほして 今はかしこをなんくだすなると・・・みなかみはるかに この筏くだしくる物か・・・のりたる者共は 左右の岩の上に とびうつりて 先なる一人 綱をひかへて みな流れにそひて はしりゆくに 筏の早く下るさまは 矢などのゆくやう也 さて岩のとぢめの所にて 人共皆筏へかへる そこは殊に水の勢ひはげしくて ほどばしりあがる浪にゆられて うきしづむ丸木の上へ いたはりもなくとびうつるさま いといとあやふき物から めづらかにおもしろきこと たぐひなし
現在はすぐ上流にダムができ本流の水量は減り当時の面影は全くない。むろん筏流しも行われてはいない。
宣長は吉野離宮跡の所在を いにしへ吉野の宮と申て みかどのしばしばおはしましゝところ としてこの大瀧をあげているが、近年宮滝遺跡からそれを裏付ける建物跡・敷石・瓦などが出土し、現在は吉野離宮は宮滝が有力である。
  ながれての世には絶けるみよしのゝ
        滝のみやこにのこる瀧津瀬
蜻蛉の滝に上ってみた。そしてかつて宣長が岩根をよぢ つたかづらにかゝりつゝ登ったところから淵を覗いた。
西河に出る。宣長の見た紙漉きは、今はこの里には残っていない。
西河から現在の五社トンネルの上あたりの急坂を宣長一行は上り返すのだがどうにかしてその道を通りたいと地元の人7人に聞いた。しかしどの人も現在その道はないとのことであった。ことにかつて役場の総務課にお勤めだったという新田量脩さん(68歳)は「トンネルができその道はなくなった。山仕事にもそんな上までは入らない。地図や高度計、磁石を持っていても無理だ。」と言われる。それでも諦めきれずトンネルの左へ登ってみた。しかしわずかの踏み跡さえ見当たらなかった。そこでこゝにて鹿塩神社の御事をたづねたれば そは樫尾西河大滝と 三村の神にて 西河と樫尾とのあはひなる山中に 今は大蔵明神と申て おはするよしかたる この道よりは ほど遠しときけば えまうでずとの五社峠を越えることにした。ここもかなり険しい峠である。九十九折れになっており、下の方はしゃがの敷き詰められた道。それが登るにつれて倒木あり土砂崩れありで時々道を見失う。殊に羊歯がはびこってくるとお手上げである。しかし早春の今はなんとか道を探して歩けた。よく見ると道の要所要所に石積みがしてあり、重要な道であったことが伺われる。切り通しのようになっているところが峠である。ここから100m程上ったところに鹿塩神社があり、遷宮が行われなくなって今の社殿は明治のものだが檜皮葺きの立派な造りであり、その上に保護のための屋根が被せてあった。説明に上の菅笠日記の一節が書かれていた。ここからの下りは簡易舗装がなされており歩きやすい。途中宣長一行の下った道を合わせさらに下る。その道の途中に「菅笠日記道」の木標を掲げる。菜摘へ下る道の三叉路に彫りの深い立派な道分け石標が立っていた。この道は大台・熊野への重要な街道だったのである。下りきったところが樋口、柴橋はもう近い。 
宮滝から再び吉野山へ万葉の道を登る
こゝの川べのいはほ 又いとあやしくめづらか也 かの大瀧のあたりなるは なべてかどなく なだらかなるを こゝのは かどありて みなするどきが ひたつゞきにつゞきて 大かた川原は 岩のかぎり也・・・此わたり川のさま さるいはほの間にせまりて 水はいと深かれど のどやかにながれて 早瀬にはあらず・・・宮滝の柴橋といひて 柴してあみたる 渡ればゆるぎて ならはぬこゝちには あやふし
いまは鉄橋に架け替えられた柴橋を渡る。橋の中ほどに立つと、上流正面が舟張山、その麓が菜摘、右に迫るのが三舟山、下流左が象の中山、山裾を流れる渓流が象の小川、本流に注ぐ所が夢の和田、川の中松の生い茂る岩山を中岩の松などが一望に見渡せる。橋の向こうに「史跡 宮滝遺跡」「吉野離宮顕彰碑」が建っていた。吉野歴史資料館へ寄って見学した。
  いにしへの跡はふりにし宮たきに
        里の名しのぶ袖ぞぬれける
宣長はここで「岩飛び」を見る。 そのをのこ まづき物を皆ぬぎて はだかに成て 手をばたれて ひしと腋につけて 目をふたぎ うるはしく立たるまゝにて 水の中へつぶりととびいるさま めづらしき物から いとおそろしくてまづ見る人の心ぞ きえ入ぬべき
戻って喜佐谷川に沿う吉野・宮滝万葉の道を登る。うたたね橋跡を見て梅の盛りの喜佐谷の里中を行くと桜木神社が見える。屋根付きの橋を渡るとこじんまりしているがなかなか美しい神社がある。やがて万葉歌人がこよなく愛し行き交った万葉の山道に入る。入口に大友旅人の和歌が立っていた。
昔見し象の小川を今見れば
       いよゝ清けくなりにけるかも
わが生命も常にはあらぬか昔見し
       象の小川を行きて見むため
「やまとの水 象の小川」を過ぎ高滝に着く。
喜佐谷村といふを過て 山路にかゝる すこしのぼりて 高滝といふ滝あり よろしき程の滝なるを 一つゞきにはあらで つぎつぎにきざまれ落るさま 又いとおもしろし
森閑とした杉檜の木立の中を吉野山へ登るこの道は、3.5kmに及ぶひたすらの上りではあるが、万葉の人々が愛した道であるだけに趣が深い。途中の鎖場に「菅笠日記の道」の木標をつけた。このあたりはかなり険しい。あえぎつつ上り、御園への道を分け、稚児松地蔵堂を左折すると吉野山は近い。ここから残している如意輪寺に行こうとしたが土砂崩れのため交通止めで止むなく竹林院のところから行くことにした。しかし疲れた足には谷へ一旦下りまた上り返すこのコースはかなりきつかった。ようやく如意輪寺に辿り着く。ここは桜の頃向かいの山から見ると三重塔の建つすがたがたいへん美しい。堂の傍らの宝蔵などを拝観する。寺の裏山の石段を60段上ったところに後醍醐天皇陵(塔尾の御陵)があった。
  苔の露かかるみ山のしたにても
       玉のうてなはわすれしもせじ   

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