国学者 本居宣長の吉野山への旅「菅笠日記」の路を辿る

「菅笠日記」の路を辿る 2
 できるだけ忠実に「菅笠日記」の道を辿りたいと思った。しかしそれは容易なことではない。当然古道が残されていないところもたくさんあるし、たとえ残されていてもその入口を探すのがたいへんである。市立図書館や県立図書館、本居宣長記念館などへ何度も足を運び、調べたり教えていただいたりした。また車で何度も下見に行き、土地の方に尋ねて歩く。実際に歩くときもいろいろな方に声をかけ、教えていただいて修正する。そうしてできるだけ記された道に近い道を、たとえわずかでも古道が残っていればそこを、行き止まりとわかってもそこまで入り引き返す。かたくなにこれを繰り返した。ある時は歩いた道をもう一度車で確かめに行ったこともあった。ありがたいことに、リックを背負って歩いていると「どこまで歩くのか。」と声をかけてくださる方も何人かあって、親切に説明し教えてくださったり、道案内してくださったり。そんな出会いがまた楽しい旅であった。

そして遂に3月28日「菅笠日記」の全行程を歩き通した。感激である。宣長10日間の旅を私たちはちょうど2倍の20日間かかった。当時の人々の健脚ぶりには舌を巻く。それにしてもなんとたくさんの方々の温情に助けられたことだったろうか。
   道中お世話になりましたことを心からお礼申し上げます。
   思い出をいただきましたことを心からお礼申し上げます。
お名前がわかるかぎりの方々に心をこめてお礼状をしたためた。

吉野山から六田へ
いよいよ吉野山を後にする。大橋のところが上市からの道と六田からの道が交差するところでここから六田の方へ下り飛鳥に向う。ここはまた攻ケ辻という元弘の激戦地でもある。松尾芭蕉は吉野山へ二度来山し「野ざらし紀行」「笈の小文」を著している。その句碑がここにある。村上義光公の宝篋印塔、峰の薬師堂跡を経て不動坂を下る。後醍醐天皇を祭る官幣大社吉野神宮を参拝してさらに下ると吉野川に達し、そこが柳の渡しである。「音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも」であり、説明版に本居宣長が渡ったと記されている。吉野山から大峯を経て熊野へ駆ける修験者の水垢離場でもある。そのわずかに上流の美吉野橋を渡る。当時は修験者、吉野山への花見客、筏の貯まり場でもあり、宿場町としてたいへん栄えたところである。ただ宣長は
  有としもみえぬむつだの川柳
      春のかすみやへだてはつらん
柳の渡しから飛鳥へ
六田駅から柳の渡しまで戻って出発した。やがて土田。上市の方より きの国へかよふ道と 北よりよし野へいる道とのちまたなる駅也 であり構えの大きい古い家が残っている。ここから北にむかう。2km程で右にそれて山沿いの道に入る。ここまでは車の行き交う喧騒な道であったのでほっとする。ここでも壺坂寺への山越えの道を結局8人の人に問うた。皆口をそろえて言われるのは「ない!」であった。それでも行けるところまで行こうと進んでいった。畑屋という里である。小さな集落の入口に山から山へ長い注連縄が張ってあった。畑をしてみえた古戸さん母子に尋ねると「村に厄病や災害が入らないように張るものでカンジョという」そうだ。里は戸数は少ないが豪壮な家が並ぶ。林道から細い山道に入る入口を教わったのだがわからずさらに進む。山の高いところで仕事をしてみえた方を見つけて道を尋ねた。すると「道はこの上にありもっと下の池のところから上るがそこまで戻るのはたいへんだからここを登ってこい」といわれる。それならと草や木につかまりよじ登る。その西垣内康孝さんは「100mくらい行くと道が分かれる。左への道はとらず山を右に巻いていく道があった。私有林ならまだ多少人が入るがその先は国有林だから道はなくなっている。止めた方がいい。」お礼をいって行けるところまで見てきますと進む。確かに右に道はあったらしいがどうにも進めない。山の上には登れる道がある。それなら上に上り向こう側へ下る道を探そうと高度100mくらいの急斜面を登り山頂に着く。それから道なき道をさまよい、ようやく人家に辿り着く。そこはなんと壺坂寺であった。畑屋から悪戦苦闘すること3時間が経過していた。
  かへりみるよそめも今をかぎりにて
         又もわかるるみよしのの道
吉野の眺めどころではなかった。
壺坂山南法華寺は高取山の南の谷の陰にあって、「壺坂霊験記」のお里沢市の話で有名である。仁王門には普門観と書いた額がかかり、南法華寺、立派な三重塔、大観音石像などが建ち並び、朱塗りの建物が山の緑に映えていた。
谷の道を下り清水谷に入る。ここから下子島、上土佐、下土佐と町屋が続く。高取山の上にあった高取城は周囲のどこからも眺められたすばらしく豪壮な城であったとか。その城下町として武家屋敷が、そして吉野への重要な街道として栄えたこの町はその家並みに当時の面影を残し、今もすてきな街道の町である。お里・沢市の墓、石燈籠の並ぶ小島神社、伊勢路から移り住んだという伊勢屋屋敷跡などがある。夢創館に立ち寄りお茶をご馳走になって森下祐一さんにお話を伺う。
土佐の街並みを離れ右の山手の方に向う。この小高いあたりが檜隈で檜隈寺跡がある。例の翁たづねいでゝ いにしへの事共とへど と宣長は古老にものを尋ねることを常としたらしいが、私たちもお年寄りにお話をよく聞いた。それが一番手っ取り早い。その於美阿志神社が檜隈寺(道光寺)の跡であり、檜隈廬入野宮の石柱、十三重の塔、塔などの跡と見られるずいぶん大きな土台石などがあった。宣化天皇の都のあとに【檜隈廬入野宮宣化天皇の都】寺たてられて いみしき伽藍の有つるが やけたりし跡也 このあたりにその瓦ども 今もかけのこりて多くあり とをしふるにつきて見れば げに此庵のまへにも 道のほとりにも すべてふる瓦のかけたる 数もしらず つちにまじりてあるを 一ツ二ツひろひて見れば いづれも布目などつきて 古代のものと見えたり とあるが私たちもいくつかの布目瓦を拾うことができた。大かた此にきよ たゞ物の心もしらぬ里人などのいふを きけるまゝにしるせる事し多ければ かたりひがめたる事もありぬべし 又きゝたがへたるふしなども有べければ ひがことゞもゝまじりたらんを とそのままは信じ難いと述べられている。
  聞わたるひのくま川はたえぬとも
       しばしたづねよあとをだに見ん
その丘を下って北にむかい平田の里でまた少し上ると文武天皇の御陵がある。その西側には高松塚古墳がある。私たちはここから飛鳥駅に戻り今日は引き上げることにした。
飛鳥駅から飛鳥寺へ
墳丘土を失った終末期古墳の石室の一部である鬼の雪隠・俎の前を通り天武天皇・持統天皇檜隈大内陵へ。こはやゝ高くのぼる岡のうへに いと大きなる石してかまへたる所あり みなみむきに 横もたても二尺あまりなる口のあるより のぞきて見れば いはやのやうにて 内はせばく 下は土にうづもれて わづかにはひいるばかり也 うへには たてよこ一丈あまりのひらなる大石を 物のふたのやうにおほひたり そのうしろにつゞきたる所 一丈四五尺がほど やゝたひらにて 中のくぼみたるは ちかき世に 高取の城きつくとて 大石どもほりとりしあと也といへり みだれたる世に 物の心もしらぬ むくつけきものゝふのしわざとはいひながら いともかしこき帝の御陵をしも さやうにほりちらし奉りけん事の心うさよ と記された野口の御陵であろう。里の人はこれを武烈天皇の御陵というがどうも違うようだと宣長は書いている。また現在の大内陵は場所的にはここらしいが整えられていて記述にあるような石室は見えない。檜隈坂合陵は 磯城島宮に天下しろしめしゝ天皇 同じき大内陵は 飛鳥浄御原宮に御宇天皇 又藤原宮御宇天皇 同じき安古岡陵は 同宮にあめの下しろしめしゝ文武天皇にておはします このうち いづれかいづれにおはしますらん 今はさだかにわきまへがたし なのである。戻って亀石を見てしばらく行くと川原寺(弘福寺)址である。中金堂、塔、西金堂、中門、回廊、講堂、三面僧坊などが整然と配置されたさまはまさに白鳳時代の宮の大寺としての盛観がしのばれる。伽藍の礎石が今もお堂の辺りにはそのままあり、有名な瑪瑙の礎石も残っている。道路をはさんで南に橘寺がある。聖徳太子誕生の地とされる。伽藍は四天王寺式伽藍配置で二面石が有名である。画像は広大な川原寺の礎石と橘寺である。
飛鳥川を渡り門前町を通り急坂を登ると岡寺である。門前にやや広い場所がありここが旧岡寺跡とされる治田神社である。菅笠日記には八幡の社と記されている。岡寺は仁王門に龍蓋寺という額が懸かっている。さて御堂には 観音の寺々をがみめぐるものども おひずりとかいふあやしげなる物をうちきたる 男女おいたるわかき 数もしらずまうでこみて すきまもなくゐなみて 御詠哥とかやいふ哥を 大聲どもしぼりあげつゝ ひとだうのうちゆすりみちてうたふなるは いとみゝかしかましく・・・ 今日も大勢の人で賑わっていた。
菅笠日記の道中ではないが蘇我馬子の墓ではないかと言われている石舞台古墳はここから1kmあまりだというので訪ねて見た。桃の花が盛りでたいへんきれいな里であった。岡に戻りしばらく行くと伝飛鳥板蓋宮跡がある。さらに進み坂を登ると酒船石がある。あやしき大石あり 長さ一丈二三尺 よこはひろき所七尺ばかりにて 硯をおきたらんやうして いとたひらなる 中の程に まろに長くゑりたる所あり 五六寸ばかりのふかさにて 底もたひらなり 又そのかしらといふべきかたに 同じさまにちひさくまろにゑりたる所三ツある 中なるは中に大きにて はしなる二ツは 又ちひさし さてそのかしらの方の中にゑりたる所より 下ざまへほそきみぞを三すぢゑりたる 中なるは かの廣くゑりたる所へ たゞさまにつゞきて 又石の下といふべき方のはし迄とほり はしなる二すぢは なゝめにさがりて 石の左右のはしへ通り 又そのはしなるみぞに おのおの枝ありて 左右にちひさくゑれる所へもかよはしたり かくて大かたの石のなりは 四すみいづこもかどなくまろにて かしらのかたひろく 下はやゝほそれり そもそも此石 いづれの世にいかなるよしにて かくつくれるにか いと心得がたき物のさま也 と日記に詳しく記されている。この石も元はもっと大きく、切り取られて高取城築城に使用されたらしい。そこから下って亀形石造物を見学する。飛鳥寺はもう近い。
飛鳥寺から大福駅へ
飛鳥寺は蘇我馬子が発願し創建された日本最古の寺で壮大な伽藍であったが今は小さなお堂が残るだけである。大きなる佛のおはするは(飛鳥大仏) 丈六の釈迦にて すなはちいにしへの本尊也といふ げにいとふるめかしく たふとく見ゆ かたへに聖徳太子のみかたもおはすれど・・・ 前に訪れたときは入鹿の首塚は田の中にひっそりと立っていたが今はコンクリートで固められたところにあり風情が失われたように思った。寺を出て北へ少し行った辻に「元伊勢」の道標があった。そこを曲がり東に向ったつきあたりが飛鳥坐神社。鳥居の下に飛鳥井の跡がある。石段を上ると新しい社殿が静かに佇んでいる。奥に天照皇大神・豊受大神を祀る社がある。元伊勢はこれに因んだものか。下って社の森を周り小原へ向う。右手に大友夫人(藤原鎌足の母)の墓があり、少し行った左に「大織冠誕生之旧跡」の石柱の立つ大原神社がある。大織冠とは藤原鎌足のことで、社の裏の谷へ下りたところに鎌足のつかった産湯の井戸がある。ただし現在はこの井戸はもう少し新しいものだとのこと。菅笠日記には大原寺・藤原寺と記されており、大原明神と申て かのかまたりの大臣の御母をまつれる神也とかや 又此寺は 持統天皇の藤原宮の跡なるよし・・・されど持統天皇の藤原の宮と申すは こゝにあらず そは香山のあたりなりし事 万葉の哥どもにてしられたり
上八釣を経て山田村に至る。ここは磐余街道である。山田寺跡があった。ここも広大な寺跡である。さらに磐余街道を進み生田を過ぎると阿部である。安倍寺跡が見える。安倍文殊院へは艸墓古墳のところから池をまわり裏から入った。此里におはする文殊は よに名高き佛也 その寺に岩屋のある 内は高さもひろさも 七尺ばかりにて 奥へは三丈四五尺ばかりもあらんか 又奥院といふにも 同じさまなるいはやの 二丈ばかりの深さなるありて 内に清水もあり ・・・いといとあがれる代に たかき人をはふりし墓とこそ思はるれ 石室について道案内が 嶋の庄といふ所には 推古天皇の御陵とて つかのうへに岩屋あり 内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る・・・坂田村と申すには用明天皇ををさめ奉りし所 みやこ塚といひて これもそのつかのうへに 大きなる岩の角 すこしあらはれて見え侍る也となんかたりける
ここからさらに北へ行き、戒重で左折して大福村に入った。今日は大福駅から帰ることにした。距離にすると15km程と思われるが一つ一つお参りしたり見学したりしていると思わぬ時間がかかり総行程10時間にも及んだ。
大福から久米寺へ
大福から橘街道を南に向かう。吉備の里で少し西向しそこから再び南へ行く。東池尻に膳夫の寺があり参道に雪やなぎの白い花が咲きこぼれていた。膳夫に 荒神の社といふ 北にむかへり むかしは南むきなりしを いとうたてある神にて 御前を馬にのりてとほるものあれば かならずおちなどせしほどに わづらはしくて 北むきにはなし奉りしとぞ というおもしろい社はこのあたりと思われるが見当たらなかった。竹林を通り田の畔をわたって更に竹林を抜けると古池に出る。かなり大きな池である。池の傍らに「草枕旅の宿に誰が夫か 國忘れたる家待たまくに」という柿本人麻呂の歌碑がありしばし昔の旅を想った。池を周ってまた竹林を行くと天香山神社である。古事記にこの木の皮で吉凶を占ったとある波波迦の木があり、鳥居の元には「天香山埴安傳称地道」の石標があった。この社のうらから香久山に登る。有名な大和三山の一つで標高が152m。耳成山、畝傍山は孤立峰であるが、香久山は多武峰、音羽山に続く龍門山塊の一部で一番山容が目立たないが三山の中では最もよく知られている。此山いとちひさくひきゝ山なれど 古より名はいみしう高く聞えて 天の下にしらぬものなく まして古をしのぶともがらは 書見るたびにも 思ひおこせつゝ 年ごろゆかしう思ひわたりし所なりければ 此度はいかでとくのぼりてみんと 心もとなかりつるを いとうれしくて
   いつしかと思ひかけしも久かたの
         天のかぐ山けふぞわけいる
峯はうちはれて つゆさはる所もなく いづかたもいづかたもいとよく見わたさるゝ で畝傍山、金剛山、葛城山、二上山、生駒山耳成山が見えたそうだが今はそれほどの眺望はない。山頂に竜王の社が祀られていた。「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鴎立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は」の舒明天皇の歌が書かれていた。
   ももしきの大宮人のあそびけむ
      かぐ山見ればいにしへおもほゆ
   とりよろふあめのかぐ山万代に
      見ともあかめやあめのかぐ山
   いにしへの深きこころをたづねずは
      見るかひあらじ天のかぐ山
   わかるとも天のかぐ山ふみ見つつ
      こころはつねにおもひおこせん
 下の宮を経て南浦の里に下る。日向寺で住職のお話を聞く。埴安の池といわれた御鏡の池は埋め立てられたそうで、神代のふることをいひつたへたる石あり とあったその石もわからず 日向寺の南西に小さな祠はあったが湯篠の竹薮は見当たらなかった。ここから南にいったところに飛鳥最大の寺院であった大官大寺跡があった。中門、金堂、講堂がならび回廊の中に塔の建つ伽藍配置であったという。画像は香具山をバックに大官大寺跡に立ったところである。香具山の文殊(興善寺)は道を隔てた戒外の里にあった。近くに春日社もあったのでお参りをする。南浦に戻り天岩戸神社の前を通り、北西の方角に進み藤原宮跡に向う。木之本には大きな常夜燈があった。久しぶりに常夜燈を見た気がする。大きな池の北を過ぎると藤原宮跡である。持統・文武・元明天皇三代にわたる都であるがわずか16年。藤原宮には内裏、大極殿、朝堂院、八省百官の役所があり、藤原京は耳成山、天香久山、畝傍山に囲まれた広大な日本最古の人工都市で寺院や市場も設けられた。朱雀大路が再現されている。 さて埴安の池も かならずこのわたりと聞えたるを 今たえだえに所々つゞきて ひきゝ岡のいくつもあるは かの堤のくづれのこりたるなどにはあらじや ふるき哥どもにも見えて 名高き堤なりしはや 空中に留まって雲雀が囀っていた。静かである。ここを離れ別所に入る。大宮(高市社)へお参りしたとあるが、別所には春日神社しかない。補注に「大宮というのは高殿町にある藤原宮大極殿跡の社」とある。南に行くと上飛騨(神ひだ・神膝)である。飛鳥川を渡り田中の里を過ぎて豊浦に着く。推古天皇豊浦宮跡である。推古天皇が小墾田宮に移ったあとこの地は蘇我氏が賜って日本初の寺とされる豊浦寺(向原寺)を建てた。その後疫病が流行し、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ寺は焼却されたという。その難波池も残されている。甘樫丘はすぐ近くである。折りしも桜の花が咲き出し、花見客であろうかたくさんの人が丘の上に見られた。飛鳥川の向こうは雷で いにしへ飛鳥神社のたゝせ給ひて 神なみ山とも 神岳ともいひしは この所ぞかし 豊浦の外れの田圃のまん中に立木が一本だけ残っているのが小墾田宮跡である。和田を通り剣池に下りると孝元天皇劔池嶋上陵である。池から少し上ったところにある。 れいの里のおいびとたづねてとへば・・・孝元天皇よといへば・・・物とはんとして かへりてこなたよりをしへつるもをかし 石川を経て天皇の都の跡で軽の市などと言ったという大軽を過ぎるといかにもそれらしいと思われる古墳が見えてくる。丸山古墳である。奈良県下では最大の規模をもつ前方後円墳で、長い羨道が特徴の石室は日本最大であるという。 内はやゝひろくて おくも深くは見ゆれど 闇ければさだかならず 下には水たまりて 奥のかたにその水の流れいづる音聞ゆ 画像は前方部の小高い丘に上ったところでこんもりと円く見える後円部である。宣長は宣化天皇の身狭桃花鳥坂上御陵ではないかと考えたが現在ではそうではないことが分かっている。その西が見瀬(三瀬)で、孝元天皇軽境原宮跡の石柱が建つ。この奥の上が牟佐坐神社(飛鳥坐神社)である。
   思ふどち袖ふりはへて旅ごろも
        春日くれぬるけふの山ぶみ
道の程はなにばかりもあらざめれど そこかしことゆきめぐりつゝ ひゝとひたどりありきつれば げにいといたくくるしくて と宣長一行は三瀬で宿をとるが、私たちはもう少し進むことにした。久米を訪ね久米寺に詣でた。弘法大師ゆかりの真言密教根本秘宗傳燈の聖地である。このお寺ではどこよりも一足早いと思われる山桜の花が満開だった。私たちはその後飛鳥に戻りペンション飛鳥で宿泊した。
橿原神宮から大神神社へ
深田池をめぐって先ず訪れたのが橿原神宮である。神武天皇を祀る神社である。ここで四日市出身の権禰宜長倉健一さんに出会い、畝傍山のあたりの御陵について詳しく教えていただいた。御陵を次々に訪ねるとちょうど畝傍山を一周することになる。耳成山と畝傍山が男山で香具山が女山であると聞いていたが、長倉さんによると、畝傍山は橿原神宮の側から見ると雄雄しい雄山だが畝傍山口神社の方からは女体が横たわり畝傍山口神社がちょうどそのお腹にあたり安産の神様だから雌山であるという説もありそれも確かめてきてくださいと言われた。おもしろい話である。
   玉だすきうねびの山はみづ山と
         今もやまとに山さびいます
   うねびやま見ればかしこしかしばらの
         ひじりの御世の大宮どころ
畝傍山は慈明寺山とも御峰山とも呼ばれ山頂に神功皇后の御社が祀られているそうだ。 五丁ばかりときけば いざのぼらんといへど 日ごろの山路にこうじたる人は いでやことなることもなかめる物から あしつからさんもやくなしとて すゝまねば えしひてもいざなはずなりぬ
最初に訪れたのが懿徳天皇の御陵。西池尻にあり宣長が探しえなかった御陵である。吉田に入り安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵。みほと井は残念ながら見つからなかった。 まろに大きなるをかにて 又その前とおぼしき方へ いと長くつき出したるところあり そこはやゝさがりて 細くなんある・・・岩屋などの侍るもあるは うへの土のくづれ落て なかなるかまへのあらはれたる也・・・又いずれにも むかしはめぐりにから池の有つる
大谷の東の山麓に畝火山口神社。神社の下の池に亀が泳ぎ、この神社の桜は7分咲き 春であった。なるほどここから見る畝傍山はなだらかである。門前の街並みも立派である。続いてすぐ慈明寺。ここの池にもたくさんの亀がいた。寺の横にすいぜい塚、天神社があった。地図を見ながら歩いていると多くの人が声をかけてくださりていねいに道を教えてくださる。どの人もたいへん親切である。畝傍山に登っていったらと勧められたがまたにし、山本から麓を巡ると神武天皇の御陵の参道に突き当たる。杉並木の参道は見事である。そこから北に向うと綏靖天皇桃花鳥田丘上陵。230年前はこれらの御陵はいずれがいずれとも分からなかったようだが今はどれもはっきりと記されている。
さらに北に進むと今井である。一向宗の称念寺を中心とした環濠の寺内町である。今なお数多くの伝統的な建物と街並みを残している。今井まちなみ交流センター華甍を見学してから宣長が通ったと思われる辰巳口門跡から入る道を通り抜けた。そのまま進むと八木に出る。ここからは伊勢道・横大路を東へ進む長い長い一本道である。当麻・龍田・奈良へはここから北に向う。 よきついでなればとて ゆかまほしがる人おほかれど かの所々は またまたもきつべし このたびは われらはやむごとなき事しあれば 一日もとくかへりぬべき也と いふ人もあるにひかれて みなえゆかずなりぬ さるは旅のならひとて たれも故里いそぐ心は有ながら なほいとくちをしくなん 耳成山(天神山)のすぐ下を行く。
   さもこそはねぎこときかぬ神ならぬ
         耳なし山にやしろさだめて
   いにしへのそれかあらぬか耳なしの
         池はとふともしらじとぞ思ふ
出合町は藤原京と平城京を結ぶ道中ツ道と横大路の出合うところである。祠があり、藤原京域の北東角に位置する。三輪神社南西隅の礎石がある。またここにも三輪神社が建っている。この伊勢道には、地蔵や太神宮の大きな常夜燈があちこちにある。伊勢道に帰ってきたという感を強くする。大福で左折しうねうねと曲がった道を大神神社に向った。三輪に入ると一之鳥居がありここから長い参道が続く。           
 
三輪の社から高井へ
三輪の社にまうでんとすれば・・・・・奈良のかたを思ひてながめやりたるそなたの里の梢に 桜の一木まじりてさけりけるを見て 
  思ひやる空は霞の八重ざくら
        ならのみやこも今や咲らん
こゝはゆきゝの旅人しげくて この日ごろの道とは こよなくにぎはゝしく見ゆ
鳥居を潜り大御輪でらにいく。仁王門、三重の塔、堂は十一面観音にて 三輪の若宮と申す神も同じ堂のうち 左のわきにおはします がある。そして社の御門。大神神社(国指定史跡)である。三輪山は高さ467m、周囲16km、面積350ha、全山松・杉・檜に覆われ古来より神の鎮まる山(神奈備山・三諸山)として仰がれてきた。大神神社は本殿を設けず拝殿からその奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという、我国原初の神祀りの様を今に伝えている。このことと鎮座の由来が「日本書紀」「古事記」等の古典にみえていることから我国最古の神社と称されている。いと神さび大きなる杉の木の こゝかしこにたてる神社であった。
  杉の門又すぎがてにたづねきて
        かはらぬいろをみわの山本
ここから山の辺の道を南に下る。大神神社の神宮寺として栄えた平等寺を経て海柘榴市にでる。三輪・石上を経て奈良への山ノ辺の道、初瀬への初瀬街道、飛鳥地方への盤余の道、大阪河内和泉からの竹ノ内街道などが集まり、また大阪難波からの舟の便もあって大いに賑わったところである。金屋の石仏がある。二体の石仏は右が釈迦、左が彌勒と推定され、高さ2.2m幅約80cmの2枚の粘板岩に浮彫りされたこの仏像は古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものとされ重要文化財の指定を受けている。右側の赤茶色の石は石棺の蓋である。やがて大きな「仏教伝来の地」碑の建つところに出る。宣長はこのあたりが敷島の宮の跡だと記している。そしてあの「とかま山」もよく見えたという。往きに通った追分に着く。
  二本のすぎつる道にかへりきて
        ふる川のべを又もあひ見つ
今宵の宿も前に泊まった萩原の「あぶらや」である。
これよりかへるさは 道かへて まだ見ぬ赤羽根ごえとかいふかたに物せんといひあはせて ともなるをのこに かうかうなんといへば かしらうちふりて あなおそろし かの道と申すは すべてけはしき山をのみ いくへ共なくこえ侍る中にも かひ坂ひつ坂など申して よにいみしき坂どもの侍るに 明日は雨もふりぬべきけしきなるを いとゞしく道さへあしう侍らんには おまへたちの いかでかかやすくは越給はんとする さらにさらに ふようなめりといふをきけば 又いかゞせましと みな人よわく思ひたゆるゝを 戒言大とこひとり いなとよ さばかりおそろしき道ならんには 絶てゆく人もあらじを 人もみなゆくめれば なにばかりのことかあらん 足だにもあらば いとようこえてんと つゆききおぢたるけしきもなく はげましいはるゝにぞ さは御心なンなりとてをりぬ
ということで、翌日は伊勢本街道を行くことになる。宿を出るとすぐ墨坂神社。橋も鳥居も社殿もあざやかな朱色である。参拝して宇陀川の流れに沿って歩く。檜牧である。ここは大和政権が牧場のような土地として重要視した肥伊牧でその後荘園化された土地である。檜牧バス停の近くに「右いせみち 寛文四年(1664)」の道標がある。奈良県で一番古い道標である。式内社の御井神社がある。自明を過ぎたあたりで街道は民家の軒先を通る。民家の方にお断りして通らせてもらい山を越える。下りたところが高井の辻である。
高井の辻から山粕へ
国道369号線は伊勢本街道を利用したものであったが、ここからは旧道に入り山越えの道である。梅ケ瀬橋を渡りしばらく行くと三叉路に出る。ここが高井の辻で高井関の跡、三基の道標が建ち宿場の面影が残る。左折して少し歩くと道標や常夜燈・「壹丁」と刻んだ丁石が残る。仏隆寺への道を分ける。旧家宮田家の前に「女人高野室生山之図」が掲げてある。いよいよ「あかばねごえ」である。大和棟の旧家松本家・「右いせみち左むろう」の道標がある。高井の地名となった古井戸があり、その井戸杉の天然記念物高井の千本杉が聳えている。大和棟の津越家もみごとである。「右いせ道」の道標、石仏が立っている。諸木野はほんとうに美しい村であった。諸木野弥三郎の五輪塔がある。村を外れ少し行くと諸木野関。そして難所の石割峠。傾斜のきつい細い山道である。下ったところが上田口。ここも落ち着いたいい村である。道は「めんめん坂」といい、各家の前を通り専明寺の門前を抜けていく細い野道である。広い県道に出る。左へ行けば室生寺だが宣長は 室生は程ちかしときけど 雨ふりまさりて 道もいとあしければ えまうでず と記している。室生川に沿って上り、弘法大師作の不動尊を納めたお堂と黒岩川との間の細い山道に入る。川の北側斜面に点々と黒岩の家が見える。しばらく行くと黒岩川に沿って水田が開けている。宮城への道を分け、杉山のすその細い道を行くと「南無阿弥陀仏」の六字名号碑がある。急な坂道をあえぎながら登ると杉と竹林の混ざった明るい峠、山粕峠に着く。茶屋のあった山粕峠から川に沿って下ると岩をくりぬいた中に不動尊を祀る佐田の宮跡がある。しばらくで国道に出る。「元伊勢街道旧問屋家敷跡」の石碑が建つ。
山粕から敷津へ
「伊勢参りして怖いとこどこか飼坂、櫃坂、鞍取峠・・・」と歌われた鞍取峠への登りにかかる。倭姫命がこの坂で強風にあい馬の鞍が飛ばされたのでその名があるという坂で、わずか500mであるが高度差120mの急な坂道の難所とされている。しかし今登ってみるとさほどのことはない。「浄空欣了法師之塔」と刻んだ宝永8年(1711)の石碑がある。下りたところが白髪稲荷神社で桃俣である。一旦国道369号に出て土屋原に入る。旧村社の春日神社が祀られ境内にはめずらしいラッパイチョウの巨木がある。次の三叉路辰巳辻に「南かばた 左いせ 右はせ」の道標がある。桜峠を過ぎ菅野に入ると駒繋橋があり倭姫命が馬を繋いだ神代杉があったという橋のたもとに「左いせみち 右はせみち」の道標と天保3年(1832)の常夜燈がある。山手に曹洞宗の安能寺が見える。続いて四社神社の森が見える。「伊勢本街道 右旧ちか道 左新」の道標に従って牛峠に向う。坂の途中に目無地蔵が祀られている。牛峠を下り神末に入る。町屋辻には道標や常夜燈が残っている。敷津の入口佐田峠に首切地蔵と自然石の菅野村行悦の道標がある。分岐点に「伊勢本街道 右旧ちか道 左新」の道標がある。敷津に入ると水田地帯が広がる。太神宮常夜燈が建っている。
敷津から上多気へ
御杖村敷津には「子もうけ石」「月見岩」「夫婦岩」「弘法井戸」「金壺石」「姫石明神」「霊泉」などの言い伝えがあり敷津の七不思議といわれている。それらを見て歩く。丸山公園から杉山の谷へ下る。姫石街道である。途中に奇妙な陰陽石を祀る姫石明神や大日如来供養碑・六部経塚がある。ここが大和と伊勢の国境である。小橋を渡ると伊勢地、そういえば伊賀と伊勢の国境の青山越にも伊勢地という地名がある。払戸という所がある。祓所であり身を清めた場所であろう。左折すると「三多気の桜」という桜の名所、真福院の参道がある。左折せず進む。杉平、払戸、瀬ノ原、奥津に大きな燈籠があり、竿石に「太一」と刻まれている。伊勢神宮御用の印「太一(たいいつ)」で、天照大神は天神地祇の元首、唯一絶対無比の存在であったからだろうという。「右伊賀なばり 左大和はせ すぐいせみち」などあちこちに石の道標が残っている。宣長は、多気まで行く予定であったが雨風も激しく疲れ果て石名原で宿をとる。日もいとあしく うちはへ心ちさへなやましかりければ のせいか いづこもいづこも たゞ同じやうなる山中にて 何の見どころもなかりしを とぼろくそであるが、どうしてどうしてこの街道は私たちにとってはのどかですばらしいお気に入りの街道歩きとなったのである。私たちはさらに進む。奥津宿に着くと木綿の暖簾を下げた家が数軒あり、宿場の面影を残している。谷口の「太一」常夜燈・正念寺の前を過ぎるといよいよ「殊の外なんじょなり」の飼坂峠越えである。宣長は 例のあやしきかごといふ物にのりて 飼坂をのぼる げにいとけはしき山路也けり されどおのれはかちよりならねば さもしらぬを みな人の とばかりゆきては いきつき立やすらひつゝのぼるを見るにぞ くるしさ思ひやられぬる とものをのこは 荷もたればにや はるかにおくれて やうやうにのぼりくるを には思わず笑ってしまった。 現在は道もかなり整備されてさほどのことはない。坂の途中に参宮の途中で倒れたり賊に襲われた人を供養した「首切地蔵」「腰切地蔵」が祀られている。茶屋跡などもある峠を下るとそこは上多気である。
上多気町屋から飯福田へ
このコースは伊勢本街道や表街道・初瀬街道に比べると文献も少なく、その土地土地の古老に聞くしかないたいへん苦労した道であった。それだけにいろいろの方に随分お世話になり思い出の多い旅となった。
先ずは名松線で伊勢竹原まで行き、かなり待って美杉村の村営バスに乗る。乗客は私たち二人だけで、村役場の運転手さんとも話すことができた。上多気町屋で下りる。飼坂峠を下ったところである。このあたりはたいへん賑わった宿場町で、「すぐいせ道・すぐはせ道」と刻んだ嘉永6年(1853)の大きな道標や元治2年(1865)のこれまた大きな常夜燈がある。しばらく川に沿って下ると北畠神社がある。北畠氏の本拠地である。私たちも登ったり観賞したことのある霧山城跡(国指定文化財)や北畠氏館跡庭園(国指定文化財)が残っている。
こゝはおのがとほつおやたちの 世々につかうまつり給ひし 北畠の君の 御世々へてすみ給ひにし所也ければ 故郷のここちして すゞろになつかしく覚ゆ
せんその事思ひて ねんごろにふしをがみ奉る
  下草の末葉もぬれて春雨に
      かれにしきみのめぐみをぞ思ふ
堂のまへに そのかみの御庭の池山たて石なども さながらのこれるを見るにも さばかりいかめしき御おぼえにて 栄え給ひし昔の御代の事 思ひやり奉りて いとかなし
  君まさでふりぬる池の心にも
      いひこそいでねむかしこふらん
かたの山を 雰が峯とかいひて 御城の有し跡ものこれりとぞ されど高き山なれば えのぼりては見ず さてむかしの事共かきとゞめたる物などやあると 此寺のほうしに尋ねけるに 此ごろあるじのほうし物へまかりて なきほどなれば さる物も この里の事おこなふ者の所に あづかりをるよしいらへける るすなめり さてその物見に 又里にかへりて かの家たづねて しかしかのよしこひけるに とり出て見せける物は 此所のむかしの絵図一ひら 殿より始めて つかへし人々の家 あるは谷々の寺ども 町屋などまで つぶさに写しあらはしたり さては つかへし人々の名どもしるしあつめたる書一巻あり ひらきて見もてゆくに かねてきゝわたる人々 又は今もこゝかしこに そのぞうとてのこれるせんぞなど これかれと多かる中に己が先祖の名【本居宗助】も見えたり かの絵図に その家も有やと 心とゞめてたづね見れど そは見あたらざりき かくて此家にかたらひて くひ物のまうけなどしてゆく さるは伊勢にまうづる道は こゝよりかのひつ坂といふをこえて 南へゆくを 今はその道ゆかんは遠ければ 堀坂をこえてかへらんとするを そのかたは 旅人の物する道ならねば くひ物などもなしときけばなりけり
西向院の前を通り下多気の白口に入る。ここから長い長い白口峠への登りになる。車両通行禁止の標識が出ているが今は山仕事の車が通る林道になっており、ところどころに旧道らしきものが残っている。振り返ると大洞山がきれいに見えた。仕事をしてみえる人と話したりしながら峠に着く。峠に”本居宣長「菅笠日記」道”の木標をぶらさげる。途中に石の道標があった。下りたところが上小川で一軒目の家の上で橋を渡り旧道は竹やぶの中を通り万福寺の横に出た。ここに大きな石の道標が建っていたという。伊勢湾台風のとき倒れ今は寺の反対側の土手に倒してある。土地の古老が「道分けさん」とよばれる立派な道標であり、このあたりに3基あったといううちの1つである。道を隔てて延喜式内社の宇気比神社がある。社殿の建築様式は「流れ造」で大和の影響を受けていることが注目される。前川成生さん(83歳)にお話を聞く。菜種峠の登り口を捜して下見に来たとき、ある本に写真が出ていたのを見せ「菜種峠の入口にこんな石の碑が建っているはずですが」と聞いたが菜種峠にはなくそれは中峠の入口に建っていた。中峠は上小川から花園へ抜ける峠で比較的短い。峠の上に六地蔵が祀られており、この峠にも木標を提げる。花園では以前「時芽輝農場」と銘うって有機農業に取り組む青年に会ったことがある。さていよいよ菜種峠である。下見に来たとき富田幸一さん(84歳)に詳しく教えていただく。そのお話によると菜種峠の入口にも同じような「道分けさん」があったが伊勢湾台風で山が崩れその道標もどこへいったかとのことであった。教えていただいたところを探すと叢の中に半ば土に埋もれてその道標は倒れていた。(この道標は嬉しいことに2007年8月立て直された。)今回いよいよ菜種峠を越えさせていただくと富田さんに挨拶に行くと、「山が崩れ道が荒れているので私が案内してあげる。」とおっしゃる。でもお年のことを考え堅く辞退して出発する。その背中へ「分からなくなったらきっと戻っておいで!」と。かなり入ったところで道は全くなくなり行きつ戻りつ1時間ほど悪戦苦闘するが、どうしても峠に出られない。しかしこの峠を越えなければ迂回路は気の遠くなるほど遠い。やむなく富田さんのお家に戻る。「やっぱりあの時行ってあげればよかった。」ともう杖を持って気軽に歩き始められた。ここは従うしかない。ところがどうしてどうして、山道をすたすたと歩かれる足取りの軽いこと。私たちはふうふういいながら後をつく。そういうと「山仕事を渡世としてこの歳まできた。」と笑われる。恐れ入りました。そしてその温かい人情に涙した。なんと親切な。菜種峠に着いた私たちは思わず万歳をしてしまった。「ここからは谷に沿って下れ。一軒家が見えたら橋を渡り蘭さんへの道を登れ。」と指示し、夕暮れ近い山道を一人戻っていかれた。私たちは「どうぞ無事に。」と祈った。菜種峠に心を込めて木標を提げた。蘭神社の分岐に道標、そしてさくら峠、下り道に大日如来碑、南無阿弥陀仏の六字名号碑、柚原下出に道標が建っている。携帯電話が通じるようになったので富田さんに電話する。お家に戻ってみえたのでほっとする。「そうか柚原まで行ったか、蘭さんへの道が分かるかと心配していた。」と安心してくださる。なんともありがたいことである。この道だけは不案内な者には絶対無理だと思った。
柚原には大きな常夜燈や道標がある。ここから後山へ越える峠が外之峠。左手に秋葉山が聳える。ここで狼煙を上げると北畠の領地のどこからも見えたと言われる。今はこの道は舗装された立派な車道になっているが昔は細い険しい山道であったに違いない。小さな広場で、車を預かってもらった飯福田の坂口さんがゲートボールをしてみえたのに気付き驚く。東谷で与原への近道を分ける。伊福田寺にまうづ こゝはすこし北の山陰へまはる所にて 道のゆくてにはあらねど 御嶽になずらへて さうじなどしつゝ 国人のまうづる所にて かねてきゝわたりつるをよきついでなれば まはりてまうづる也けり 山は浅けれど いと大きなる岩ほなど有て 谷水もいさぎよく 世ばなれたる所のさまなり というわけである。坂口さんが「車に乗せてあげる。」と誘ってくださるが、いやいや歩かなければ!!
国峯山飯福田寺は大宝元年(701)役小角の開創と伝えられ真言宗に属する。中世には伊勢国司北畠家の祈願所として荘厳な伽藍を構えたというが蒲生氏郷により堂宇は壊され松阪城の用材に充てられたという。現在の本堂は享保4年(1719)に再建されている。また「伊勢山上」と称される飯福田山は一志高原の北麓に位置する標高390m余りの山麓丘陵である。山内には自然風化した巨大な露岩が奇岩、怪岩、岩窟の様相を呈し絶妙の風光美を形成している。そのため古来修験道の霊場となり、岩屋本堂をはじめ鏡掛、蟻ノ戸渡りなど多くの行場がある。名勝指定区域は約30万平方メートルに及ぶ。
坂口さん宅に着いたのは日もとっぷり暮れた頃であった。
飯福田から松坂へ戻る
本居宣長は美杉の石名原から松坂まで1日の行程である。しかしそれより近いとはいえ上多気から松坂を今の私たちでは到底1日というわけにはいかない。下見を繰り返すうちそれがよく分かった。が旅館は上多気にあるのみ。下見の時、飯福田の坂口一夫さん(86歳)にいろいろお世話になった。峠や旧街道を教えていただいたりご自分もその編集に携わられた郷土誌「うきさと」を貸してくださったりした。その坂口さんが「うちへ泊まればよい」と言ってくださったのだが。そこで考えた。坂口さんのところへ車を預け松阪まで歩く。翌日上多気から歩いて車をいただきに行こうと。
坂口さんの家の横に文政3年の常夜燈がある。旧道はここから山へ登る。改修され今は県道45号として立派な車道になっているところへ出る。下見に来たときこの道に猪が2頭飛び出して驚いたところだ。1kmほど行きまた山道に入る。この入口も坂口さんに教えてもらわなければ見つけられなかっただろう。車道から2mくらい上ると旧道がそれと分かる。ここは飯福田から与原小学校への通学路になっていたそうだ。途中に20mはあろうかと思われる柱状節理状の石(岩)が横たわっている。貝坂峠である。峠に例の木標を提げる。この旧道は車道を迂回するよりかなり短い。峠の出口に山神が祀られている。
与原では宣長も休んだという善正寺に寄ってみる。里中を通り旧道を探す。里の人に聞いても今はそんな道は残っていないとの事。地形図を頼りに谷筋に違いない道を探す。幾度もの街道歩きで旧道を探すのもかなり上手になってきた。あった!谷筋にそれらしき山道が続いている。経験からこれに違いないと自信をもって進む。1時間近く登っても山は深くなるばかりで目的地は見えてこない。おかしい。どうも間違えたらしい。仕方なく引き返す。結局峠から堀坂山を往復した以上の距離を登って下りたことになる。引き返して200mほど先に今度こそそれらしい登り口がある。黒岩直蔵さん(77歳)に聞くとこの道だと言われる。「ひぐち坂」と言っているそうだ。木漏れ日の美しい道である。立派な石垣が山の上の方までどこまでも続き、弥生民族の稲作への願望と努力・執念とでもいいたいような想いが感じられじーんとくる。今はそのどれもが杉林である。坂道に木標をつける。県道45号に出たところに妙見堂と水飲み場がある。堀坂山は大日さんの山だけあってあちこちに大日碑が建っている。堀坂峠には石の大鳥居と常夜燈2基が建っている。宣長は 峯は南になほいとはるかに見あげつゝ と書いている。県道は舗装されうねうねと大きくカーブを描きながら下っている。旧道を探すが見付けにくい。1ケ所ピンクのリボンが結んであるところがあり、下りてみる。確かに旧道である。県道が大きくS字カーブを描いているところの下に出た。県道の乙女の滝は見ないことになる。このたむけよりは 南の嶋々 尾張三河の山まで見えたり 日ごろはたゞ 山をのみ見なれつるに 海めづらしく見渡したるは ことにめさむるこゝちす わがすむ里の梢も 手にとるばかりちかく見付けたるは まづ物などもいはまほしき迄ぞおぼゆるや との喜びがさぞやと思われる。確かに松阪の街並みが美しく見渡せる。ここにも大日碑と地蔵、さらに下っても大きな大日碑や地蔵がある。森林公園入口の少し上に「十五丁目」とはっきり読み取れる地蔵を見つけた。聞けば昔は堀坂峠まで1丁ごとに立っていたという。よく見ていくと壊れかけた地蔵を4体見つけることができた。途中に堀坂神社(廃寺?)の入口がある。伊勢寺の外れに至る。15丁だからさきほどの地蔵の基点はこの横滝参道の常夜燈の建つあたりらしい。伊勢寺の旧道には庚申さん、秋葉山の燈籠などが残っている。伊勢寺国分寺跡(三重県指定史跡)周辺の畑からは今も古瓦の破片が拾える。この瓦から寺は白鳳期に創建されたものと考えられる。その前に井の本の井戸がある。光明皇后の「恋しくば尋ねてもみよいせの国 いせ寺もとにすめるわらわを」の歌が残されている。曲地内に「右さんぐう 左ごんげん」の大きな石の道標、堀坂川のほとりに厄払い十一面観音の石柱がある。とうとう菅笠日記の旅も終わりである。
いぶたにまはりし所より 供のをのこをば さきだてゝやりつれば みな人の家より むかへの人々などきあひたる うちつれて 暮はてぬる程にぞ かへりつきける
画像一番下は「鈴屋」で、二階に見える部屋で宣長は執筆をしたというところである。
 
   ぬぐもをし吉野のはなの下風に
       ふかれきにけるすげのを笠は
 
郷土の偉人本居宣長の心に少しでも触れることができたらと「菅笠日記」追蹤の旅に出て、歩き 歩き 歩き続けた。日数にして20日間の旅であった。
ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは“Panta rhei”という言葉を残している。「万物は流転する。人は同じ川の流れに足を浸すことはできない。」という意味である。
宣長と同じ川の流れに足を浸すことはできなかったが、さまざまの人との素晴らしい一期一会があり私はそれだけで満足であった。

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