パンダさんの体験発表 

平成14年1月19日にワークセンターで行われた
障害児教育を考える集いでの
パンダさんの体験発表全文です。
ただし固有名詞等を一部変えています。
長くて見にくいけど、
のんちゃんとパンダさんの事
よく分かっていただけると思います。

               
          
第一章 生まれてから

 こんにちは、私はY小学校
5年生情緒障害児学級在籍の則道の父です。則道は家や学校では、のんちゃんと呼ばれています。私たち家族の自慢の宝、のんちゃんのこと、そして私たち家族は、何事も前向きに考えよう、何があってもプラス思考でいこうと考えるようになった事、そして仕事人間でのんちゃんの障害の事から逃げるようにしていた私がどうしてこんなに変わる事ができ、今こうしてみなさんの前でのんちゃんの事をお話できるようにまでなったかの体験をお聞きください。

のんちゃんが、赤ちゃんの時は、立つのと歩くのが遅かったくらいで、まさか脳に障害を持って生まれてきたなんて全く思いもつきませんでした。しかし言葉の出るのがあまりにも遅く、2歳を過ぎても「たーたー」とか「いーいー」しか喋らないので、心の奥の奥で、まさかの不安がありました。しかし、小児科の先生の紹介で大きな病院で脳の検査を受けましたが、その当時の、のんちゃんからはっきりした事は分かりませんでしたので、もう一方の心の奥で、大丈夫、のんちゃんは、喋れるようになる、障害児じゃないと希望をもっていました。

この当時の私は、仕事人間で、のんちゃんの事は、妻や母にまかせっぱなしで、のんちゃんの病院通いや、児童相談も、のんちゃんは、障害児じゃないと信じ、死にもの狂いで取り組んでくれました。私は、のんちゃんが、障害児である事が分かるのが怖く、また信じられなくて、とても前向きに取り組む事など出来ませんでした。

歩けるようになった、のんちゃんは、落ち着きがなく、水平方向のもの、たとえば柵とか、テーブルとかを見つけると、首を傾け、タタン、タタンとステップを踏むようにして行ったり、来たり、行ったり、来たりするばかり、遊園地や動物園やどこへ連れて行っても、子供の喜びそうな物には、全く興味を示さず、ただただ走り回るばかりで、一時たりとも目を離すことが出来ませんでした。私達の心労は増すばかりでした。

こんな事がありました。用事で四日市へ行った時の事ですが、のんちゃんが、動き回ると思い、早く着くよう特急の指定席に乗ったのですが、のんちゃんの行動は、私たちの予想をはるかに上回るもので、車内通路をステップを踏むようにして、ひたすら行ったり、来たり、行ったり、来たりして全く座ろうとしません。周りの迷惑になると思い捕まえようとすると、大きな声で叫び、大暴れしました。暴れるのんちゃんを取り押さえようとする私たちの姿は、まるで子供を虐待しているとしか見えなかった事と思います。ついには周りの視線にたまらなくなり、デッキ部分に連れて行き、泣き叫び何とか通路へ入ろうと暴れ回るのんちゃんを取り押さえながら一刻も早く到着するのを祈る気持ちで待ちました。もちろん帰りも同じ事で、片道約40分の道中が私には、何時間にも感じました、もう電車には乗れない、いえ二度と乗りたくないと思いました。

こんな事もありました。当時のんちゃんは、アトピーが酷く温泉につかると少し体の調子がよくなるみたいだし、動物園や遊園地へ行っても、走り回っているだけで何の興味も示さなかったのんちゃんも唯一、温泉の大きなお風呂だけは、大喜びしましたので無理してでもよく出かけました。そんなある日のこと、のんちゃんの服を脱がし、私もパンツを脱いだ時、のんちゃんが、いきなり外へ飛び出して逃げてしまいました。私はびっくりして、のんちゃんを捕まえに裸のまま外へ飛び出しました。その時は、とっさの事で何も思いませんでしたが、脱衣所に戻ったとたん、恥ずかしさ、悲しさ、何でこんな事にとの怒りが込み上げて、体中の血が頭に上ってしまった気持ちになりました。

また温泉に行く時、外食するのは至難の技でした。動きまわるのでテーブル席はだめで後ろが壁側の座敷席を探し、待つがまんが出来ないので誰かが先に入り注文と座席の確保をする。のんちゃんが動きまわらないように、両脇を家族で固める。でもこんな事をしてもおとなしく食べる事などありませんでした。時には料理を自動車まで運び交代で食べたこともありました。

 私は動きまわり、手づかみで食事をするのんちゃんを見る周りの冷たい視線に耐え切れず、一刻も早く店を出たいというか、叫びだして逃げ出したい気持ちになりました。

そんなのんちゃんに一生懸命に関わってくれる妻や母そして父、そしてのんちゃんは情緒障害,多動症、自閉の傾向もあると分かりました。しかし私は、障害児ということを受け入れられないというか、それ以前にそういう事に背を向けていたので、児童相談を受け、多くの子供達と関わる事で、少しずつよくなるかもしれないと教えていただき保育所へ入所させていただくことになった時、子供たちと関わる事や、しかるべく教育を受ければ、きっと喋れるようになり、小学校は普通学級に入れると思っていました。

                   第二章 保育所で 

保育所まではそんなに遠くはなかったのですが、車を運転できない妻は、しっかり捕まえていなければどんな事になるやもしれないので、のんちゃんを乳母車に乗せ、暑い日も、寒い日も、雨の日も毎日送り迎えしてくれました。そういうこともあり妻は時々保育現場に参加させていただきました。妻から聞く話や、連絡帳を見ると保母さん方の情熱ある取り組みをうかがい知る事が出来ました。

何もしないでただ逃げているだけの私にも、のんちゃんが少しづつ変わってきたのが実感できました。世間一般の物差しでしか、のんちゃんを見る事ができなかったので、他の子と比べあれができない、これができないとしか考えられなかった私も、次第に物差しの長さがのんちゃんの長さに近づいてきたのか、あんな事が出来た、こんな事が出来たと思えるようになり、のんちゃんに関わる事が少しずつ楽しくなってきました。 しかし私の心が開くには、まだまだ時間がかかりました。

年長の頃、のんちゃんは、「ちゃーちゃん」や「きっき」の赤ちゃん言葉や「いっぴい」「うーわ」「びーぱーぱー」など意味不明な言葉を喋るようになっていました。一緒に暮らしている私たちには、のんちゃんが今何を言いたいのか大体分かりました。                                         これはのんちゃんらしい楽しい話ですが、保母さんが自分を指差し「これだれ」と聞いたら「てんてい」とのんちゃんが答えたので大喜びされて、保育所中の保母さんが集まり「これ誰」「これ誰」と聞いたそうです。そしてちょっと体格のいい保母さんが 「これ誰」と聞いたらのんちゃんは「ぞうたん」と答えたのです。そう「ぞうさん」ですね、何回聞いても「ぞうたん」と答えるので、他の保母さんが「さすがのんちゃん、本質を見極めとるわ」と言って大爆笑になったそうです。

のんちゃんが明るく楽しい子になってきたのは、保母さんや関わってくれるお友達の他に私の父と母の力もとても大きかったです。父は仕事から帰ると毎日休みなく、のんちゃんを車に乗せドライブへ出かけてくれました。その時、母は、のんちゃんがちょっとでも興味を示した物を見つけると、その名前を根気強く何回も何回も言って聞かせてくれました。そのおかげでのんちゃんの言葉数もしだいに増えました。またのんちゃんが指差した物と言葉が一致した時は、父も母も、どんな時でも大喜びしてくれたので、のんちゃんも言葉の意味が通じる喜びや楽しさを感じ取りどんどん明るい子になりました。しかしここまでになるには想像を絶する父と母の努力がありました。そしてこの ドライブは今も続いています。

もちろん嬉しい事や、楽しい事ばかりではありませんでした。昨日まで出来た事が急に出来なくなってしまったり、初めての場所や人、出来事には必ずと言っていいほどパニックになってしまい、物を壊してしまったり、大声で泣き叫び手がつけられなくなり落胆してしまうこともありました。

保育所での3年間で、のんちゃんが保育所へ入った当初、私が休みのときは妻と一緒にのんちゃんを迎えに行く事がありましたが、わたしは保育所の門のはるか遠くから、二人が出てくるのを待っていました。それが、のんちゃんや一生懸命の保母さんのおかげで、だんだんその距離が短くなっていき年長の頃には、保母さんと妻が話をしているのを聞ける距離にまで近づくようになりました。


        第三章 小学校入学

さて小学校入学前になりますと、Y小学校の先生から就学の説明を何度も受け、体験学習のような事も何回もしていただきました。以前よりは前向きにはなっていたかもしれませんが、まだ心が開けずにいる私には、原学級保障という言葉の響きのよさと、真剣に取り組んでくださる先生方の影響が大きく、養護学校へ入れる事など全く考えませんでした。

私は、この時まで、のんちゃんに障害児というレッテルを貼ってしまうようで療育手帳を受けるのをためらっていましたが、情緒障害児学級に入るのを機に、療育手帳を受ける決心をしました。これ以降、私も少しは、前向きになったような気がしました。

さて一年生になったのんちゃんは、情緒障害児学級担任のH先生に歩くという授業を取り入れていただき、我慢する事や、落ち着くようになる努力をしていただきました。この授業は、まさにのんちゃんにぴったりあいました。そして歩くという事は、その後の私たち家族の人生の大きな道筋となりました。歩く事で、のんちゃんも少しずつ落ち着くようになってきました。またその副産物として体が丈夫になり風邪をひきにくい体質になりました。歩きの授業は私たちの希望で今も続いています。

家では、学校のリズムを崩さないように歩く事を基本に心がけました。山登りにも挑戦しました。今では1000メートル級の山も平気で登れるようになりました。またもう二度と乗りたくないと思っていた電車やバスにも努めて乗るようにしました。わざと満員電車に乗る事もしました。興味を示さなくても動物園、水族館、遊園地に何回も行きました。そうするうち少しずつですが、あんな事が出来た、こんな事を喋るようになったと、毎日が新しい発見と感動の連続でとても充実できました。

        第四章 心の扉ひらく

そしてのんちゃんが2年生になってから、私を大きく変える出来事が起こりました。則道がある誤解を受けた事です。当時の則道の行動パターンとその状況から判断しても今でもあれは誤解だと信じていますが、H先生は、自分の意思を伝えられない則道に代わって絶対違うと最後の最後まで身を呈して則道をかばってくれました。そのためH先生は、校長先生や私たちの前できつい言葉を受け耐える事になってしまいました。その姿を見た私は、自分の子供でもないのに、こんなにも一生懸命に関わってくれる先生がいる事に感謝の気持ちでいっぱいになり、この出来事に対する悲しみより、先生に対する感謝の気持ちで涙が出ました。この時私は、先生のお手伝いがしたい、私にできる事なら何でもすると心に誓ったのです。

そしてその数日後、障害児学級のみんなで、白猪山820メートルへ登る授業があり、山登りの好きな私は、何かお手伝いが出来ればと思い参加させていただきました。当時障害児学級には、のんちゃんの他に3人在籍していましたが、私は、名前しか知らず、どんな子供達なのか関心もありませんでした。しかし、彼らと山登りをするうちに、一生懸命頑張るその姿を見て、彼らの澄みきった目、澄みきった心に触れる事が出来ました。大人になって、仕事人間になってしまって、やさしい心、澄みきった心を見失っていた私は、彼らと共に頂上に立った時、感動で心が洗われる思いがしました。家に帰ってから、家族に今日の素晴らしい感動を何度となく力説してしまいました。この日から私は、何事も前向きに考えるようになり、のんちゃんや彼らとのふれあいを大切に考えるというか、もう一歩前へ出て彼らと共に生きていきたいと考えるようになりました。

そして、のんちゃんが3年生になった時、その後の私をもう一つ大きく変える出会いとなるT先生が担任となりました。T先生は、確固とした信念のもと、のんちゃんを指導していただき、深い愛情をそそいでくれました。また私たちにも細心の心づかいをしていただきましたので、全幅の信頼をおく事が出来ました。またクラスメイトとのよりよい関係作りにも取り組んでいただきました。そのおかげで、のんちゃんも大きく成長する事が出来ました。言葉がつながるようになったり、偏食が少なくなったり、なかでも特に人と関わる事の苦手なのんちゃんにクラスメイトが一生懸命取り組んでくれ、またのんちゃんもクラスメイトとの関わりを少しずつ持てるようになってきた事は大きな喜びでした。

家においても、のんちゃんの障害の事、行動面など、もうこれっぽっちも恥ずかしいなんて思わなくなりました。いえ逆に、のんちゃんが手づかみで食事をする姿や、大声で奇声をあげたりする行動を見て、世間の人がどんな反応を示すのか見るのが楽しく思える程になりました。

T先生とは1年間だけの学校生活となりましたが、その後、T先生は、退職後、ボランティアで障害を持つ子供達や、その親のために子育て支援を始められました。そして私たち家族もその仲間に入れていただきましたので、私は、より一層子供たちと関われる幸せをいただきました。また、かけがえのない友人を得る事が出来ました。そして子供達のために一生懸命取り組んでくださるM市障害児教育振興会の先生方、子供達の笑顔のためにボランティアで参加される先生方やT先生のご友人を知る事が出来ました。まさに私たち家族は、のんちゃんのおかげで、お金では得る事の出来ない、素晴らしい人達という宝物を授かったのです。

4年生は、S先生、5年生は、O先生と1年おきに担任が代わりましたが、S先生もO先生も私達親の考えをよく聞いていただき、授業に反映していただいていますので、安心して学校へ預ける事ができました。また現在S先生は、のんちゃんのクラスの原学級を担任され、O先生と協力して、のんちゃんと障害児学級のクラスメイトのM君を中心とした明るく楽しい学級作りに挑戦されています。私達も授業参観や、この取り組みの授業に参加させていただき、この試みは、着実に成果を上げているのを実感しました。このクラスの子供達は、将来、障害児者と健常者との心のバリアフリーを実践してくれる先駆者となるでしょう。

        第五章 宝の子供

ある日、母にこう言いました「のんちゃんは、神様が、僕らにしか育てる事ができやんから、僕らに授けてくれたんやな。のんちゃんは、僕を変え、家に福を運んでくれるために生まれてきたんやな」と、母は私にそんな素振りを見せた事がなかったので知りませんでしたが、のんちゃんの障害の事を思い悩んでいたそうです。しかしこの言葉で救われ、胸のつかえがすっと取れ、のんちゃんのためなら何でもしたいと思ってくれたそうです。

こうして逃げてばかりいた私は、のんちゃんや多くの心温かい人たちや家族のおかげで、こうして今、皆さんの前でのんちゃんの事をお話できるまでに変わることが出来たのです。

のんちゃんは、今、いたずらざかり、これから難しい年頃となりますが、これから私達家族が経験する辛い事、悲しい事、嬉しい事、楽しい事は、すべて私達家族の人生というジグソーパズルのピースと考えるようにしています。どのピースも私達やのんちゃんにとって大切なピースなのです。私達は、将来を思い悩むより、私達に関わってくれる心温かい人たちや家族に対する感謝の気持ちを忘れず、今を大切に生きていけば、きっと明るい未来がある事を信じて疑いません。 

                                        平成14年1月19日発表

どうだった?のんちゃんとパンダさんの11年間の記録だよ
もし何かプラスになるもの見つかれば嬉しいな
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最後まで見てくれてありがとうございました