窓が震え、灯明が揺れる。
「嵐か」
ただでさえ湿気が多く、紙が手に張り付き、洋墨がにじむ季節だ。書き物には向かない。かり、とペンの先がひ
っかかった。先端は削ったばかりだ。溜息をつく。ペンをおき、軽く吹いて乾かす。
ほとほとと、扉が叩かれた。
「入りなさい」
「パードレ・マルチノ。少し、憩まれてはいかがですか」
日本語が返ってきた。扉が開くと、若い者が湯気の立つ椀を手に立っていた。よく見かける者だ。確か、名はペ
トロと言ったか。
「この時間に厨房係に世話をかけるのは感心しないな」
母語で応じながら椀を受け取る。薄荷を浮かべた湯だ。
「いえ、私が作りましたから」
何が自慢なのか、胸を張って言う。
「そう、か。ではありがたくいただこう。君も、早くやすみなさい」
「はいっ。では、失礼いたします」 扉は静かに閉まったが、去っていく足音は高い。苦笑しながら、マルチノは湯をすすった。
ぴりっとする香りと、ほのかな甘みが心地よい。
「さて」
半ばほどで椀を置き、再びペンを手に取った。
今度は何の前触れもなく、扉が開いた。声で判断したり、振り返って容貌を見たりする必要もない。マルチノ
の房に許可も得ずに入ってこようとする人間など、限られている。
「マルチノ。もう寝ないと、朝のミサにさしつかえるぞ」
今度は聞き慣れた声のポルトガル語だ。一拍おいて頭を切り換えた。
「そろそろ終えようと思っていたところだ」
とうに諦めたとはいえ、苦情を言っておかねば気が済まない。マルチノはペンを置き、洋墨の容器に蓋をしてか
ら立ち上がった。
「何度も言いたくはないが、コンスタンティノ」
「なら言うな」
友は、薄い色の髪を揺らして笑った。同時に、窓が激しく音を立てた。
あの船の中でも、嵐になるとぎしぎしとあちらこちらが鳴った。船員達が半ば怒鳴るように指示を出し合って
いたが、そのことばはセミナリオで習い覚えたものよりもずっと早口で、なまりもきつく、きいたことのない単
語もいくつも混じっているので理解できなかった。
風、雷、きしむ船体、意味のわからない大声、そして船酔い。
身体が弱いミゲルは寝床におり、その顔色は青を通り越して白くなっていた。海育ちで嵐には慣れているはず
のジュリアンですら手の震えを隠しきれず、普段は他の少年達を力づけるマンショも、ぐったりと壁に身を預け
ている。
そうしてじっと耐えていると、船室の扉が開く。淡い色合いの髪をした年嵩の少年と、西洋人の聖職者二人が
姿を現すのだ。
大丈夫ですか、少年達。恐れることはありません。
まったく、お前達ときたら。先は長いんだ、こんなことでどうする。
「器用な奴だな。立って目を開けたまま寝るか」
船の中ではない。マカオだ。自分もコンスタンティノも、少年と呼ばれる年頃はとうに過ぎた。マンショとヴァ
リニャーノ師、メスキータ師は御父のみもとに還り、ミゲルにジュリアンは。
振り返って机に目をやった。質のいいペンと豊富な紙に灯火。さわやかな香りの甘い湯が、まだ湯気
を立てている。
自分と扉の間に立つコンスタンティノを押しのけた。
「マルチノ。寝るんじゃ」
問いかけには答えず、開いたままの扉から廊下に出た。もう長く暮らしている建物だ。明かりなど必要としない。
「どこへ行く」
腕を捕まれた。宿房の僅かな明かりを背にしたコンスタンティノの表情はわからない。声音はいつになく固い。
「上役のところだ」
「この夜更けに、何をしに」
「日本に行く許可をいただく。二人を連れてくる。ミゲルも身体がよくなれば、戻ってくるんだ。ここの方がい
い医者がいる。ジュリアンも」
「マルチノ」
コンスタンティノの声が、低い。強く腕を引かれ、マルチノはよろめいた。そのまま房に引き戻されそうになっ
たが、何とか踏みとどまった。
「私だけだ。私だけを」
「お前があの国で死んでどうなる。あの国が態度を改めるのか。ミゲルを棄教させた連中が喜ぶだけだ」
日本語を、コンスタンティノが話している。腕が痛い。
「私は死なない。二人を」
「会が、殉教しに行かない人間のために船を出すと思うのか。原マルチノ」
「なら、自分で船を捜す」
腕をふりほどき、半ば走って通用口に向かった。コンスタンティノは、追って来なかった。通用口の夜番を強引
に説得し、外に出る。
航海の時と同じ嵐だ。立っているのがやっとなほどに、雨も風も強い。月も星もない嵐の夜に、外に出ている
者はいない。当然明かりなどない。道すらもよく見えない。
「は……ははは」
土の上に膝をつく。笑い声が漏れた。まったく、今港に行ってどうするというのだ。この時期に日本に行く船
などない。解っていた。そう決めた。
丁寧に掃き清められた土間と、敷物も畳もないが清潔な板間だった。壁の隙間から、僅かに光が差し込む。
あのローマの壮麗さとは較べようもない。だが十二使徒の時代に立ち返ったようなミサだ。密やかに、誇り
を持って賛美歌が歌われる。
これが日本では最後になるかもしれない、と思いながら何度のミサを奉じたか。禁令か追放令は、いずれ確実
に出るだろう。かつて使節として教皇猊下の御座所にまで赴いた者としてマルチノは、日本に残って平信徒を導
く覚悟を決めた。しかし、周囲はそれを禁じた。日本人の中で群を抜いているのはもちろん、ラテン語や教義解
釈において並のヨーロッパ人よりも上にいる。そのような人間は、無理に殉教の道を歩むよりも、日本が教
えを再び受け入れる日のために働くべきだ。だが、と言いつのるマルチノの心を動かしたのは、コンスタンティ
ノだった。演説は得意でも、平信徒への説教はど下手な人間が残って何になる。自分の能力をわきまえろ。変わ
らず陽気な口調で、しかし冷たい目と固く握った拳とともに言う彼に逆らえなかった。
扉がきしむ音がした。平信徒達の歌が止まった。マルチノは構わず歌い続けた。扉は、ゆっくりと開いた。狼
藉をはたらきに来た者ではないようだ。歌は、再び始まった。
使い込まれて古びた聖具を丁寧に拭きながらしまう。無事に終わった。途中で入ってきた者の顔に見覚えはな
いが、少なくとも邪魔はしなかった。
「ぱあでれ・まるちのでいらっしゃいますか」
「……そちらは」
民の牧者らしからぬ物言いである。しかし、用心にこしたことはない。その男は、深く頭を下げた。無意識に
強張っていた身体から、力が抜けた。
「ぱあでれ・じゅりあんより御文を」
男が懐から書状を出した。ひったくってこの場で中身をあらためる衝動を必死に抑え、ことさらにゆっくりと
手を伸ばした。受け取り、そのまましまう。
「ご苦労様でした。誰か、この者に白湯なりと」
「はい」
婦人がいそいそと竈に火をおこした。マルチノは片付けを再開した。
人が少なくなった民家の片隅で、マルチノは書状を手に取った。紙の質がよくない。おそらくは、筆や墨も
あまりいいものではないだろう。
「まあ、ジュリアンの字だしな」
そっと開いた。予想通り、読みやすいとはとても言えない字だ。苦笑が浮かんだ。
読み終えて、紙を畳む。
「……ん。あ」
紙の角をうまくあわせられない。
「紙いちまい、綺麗に切れないのかあいつは」
他人のもののように響いた自分の声が震えていた。今日奉じたミサの回数は、声が嗄れるほどではなかったはずだ。
「すまない。火をまだ落としてないなら、湯を一杯もらえないだろうか」
すぐに湯飲みが運ばれてきた。
「ぱあでれ。大丈夫ですか。離しますよ」
「あ、ああ」
童相手でもないのに、奇妙なことをいう。マルチノは、湯飲みに目を落とした。中の湯が、揺れている。
少し考えた。自分の手が震えているからだ。先程の言葉の意味がわかった。マルチノは、しっかりと両手で湯飲
みを持ち、熱い湯を啜った。飲み終えて、とん、と湯飲みを置いた。
「では、今日はこれで」
声は普段どおりだ。文をしまい、立ち上がった。聖具を入れた包みを慎重に持ち上げる。
「ぱあでれ。また、いらしてください」
「ああ。可能な限りは」
相手が目を伏せた。こういうことばの選び方は、マンショやジュリアンの方が上手だった。マルチノは黙って
軽く頭を下げ、その場を後にした。
投宿している屋敷に帰り、聖具をしまい、あてがわれている部屋に戻った。障子を閉める。
膝がくずれた。
「今日のミサはどうだった」
音もなく障子が開いた。コンスタンティノだ。髪の色が薄い彼は、現状ではあまり表だって外出が出来ない。マ
ルチノ等の日本人司祭が外出すると、そとの様子を聞きたがる。
「今日のミサ、ああ、そうだな」
姿勢を正し、笑顔を作ってみせる。
「マルチノ。何かあったな。お前が笑っていると、ろくなことがあったためしがない」
ひどく侮辱された気がしたが、マルチノは黙ってジュリアンの文を渡した。コンスタンティノは、いたって無造
作に紙を開いた。
「相変わらず読みづらい字を書くなあいつは」
年長の友の表情は苦笑から困惑へと変化し、やがていっさいの感情を読み取らせないものになった。一度でぴっ
たりと手紙を畳んでたちあがり、コンスタンティノは言った。
「一応、上に報告だけしておいた方がいいぞ。ジュリアンも正式な知らせはよこすだろうが」
マルチノはびくりと震えて、コンスタンティノの顔を仰ぎ見た。眉はよらず、口元は軽く自然に結ばれている。
「あ……ああ。そうだな。ジュリアンの決めたことだからな。そうしなくては」
「まったく、どいつもこいつも」
コンスタンティノは呟き、文を返すと滑らかな動きで去っていった。
ジュリアンは、禁令が出ても日本に残る、そのときは自分を待たずに船に乗ってくれと手紙に書いてよこした。
禁令が出れば、棄教しないかぎり拷問の末に殺されるだろう。少なくとも安らかな生活<は望むべくもない。
「ジュリアン」
唇を噛む。
「なあ。私は、説教が下手なんだ。知っているだろう」
マルチノの唇から漏れ出したのは、嗚咽の声だった。
頭が痛い。熱いのか寒いのかわからない。鼻で息が出来ない。不快さに、マルチノは目を覚ました。自分の房だ。
夜に外へ飛び出した。そこまでは覚えている。さらに記憶をたどろうとすると、世界がまわった。頭痛が激しく
なる。当分は起き上がれそうにない。軽く溜息をついた。翻訳などの仕事が溜まっているのだが。
扉が開く音がした。
「起きたか」
コンスタンティノの声がした。首を巡らすと、小さな桶を持って立っていた。満面の笑みを浮かべている。降っ
てくるだろう言葉の辛辣さを、マルチノは覚悟した。寝台に歩み寄り、卓に桶を置くと彼は口を開いた。
「お前は本当に馬鹿だな」
おこった目眩は、発熱の故のものではない。
「私にそれを言うか」
「より正確を期すなら、専門馬鹿というやつだ。だいたいお前、語学と教義以外になにか人並みに出来るものが
あるのか。説教をさせたら平信徒には皆目理解不能な教義論をぶちかます、ラテン語の教師をやらせたら生徒が
教室から泣きながら出てくる、音楽は楽器も歌もまるで駄目」
反論しようとしたが、頭がまるで働かない。
「あげくの果てには嵐の夜に一晩中外にいて大熱で寝込む。これを馬鹿と言わずになんと言うんだ」
「専門馬鹿でもただの馬鹿よりは」
「鼻が通らないから、ポルトガル語の発音も悪くて聞き取りにくいな。自分で自分の首を絞めるとは、やはり本
物の馬鹿だな」
熱でうまく機能しない頭ではろくに対抗も出来ない。マルチノは黙って目を閉じた。
「たまにはゆっくり寝てろ」
声とともに水音がした。そして額にひやりとするものが乗せられる。
「さてと、厨房に行くか」
何か持ってこられても、口にする気になどなれそうもないのだが。しかし、コンスタンティノが用意したもの
を食べないとそれはそれで嫌な結果になるだろう。経験から学ばないほど、自分は愚かではない。
何やら派手な足音が聞こえた。コンスタンティノのものではない。こちらに近づいてくる。ばん、と大きく響
いた。足音ではない。マルチノは目を開けた。
「パードレ・マルチノ、やっとお気づきになられたとうかがいました。もう心配で心配で。何か修練の一環で
らしたのでしょうか、それにしてもあまりにも」
「ああ、うん、大事ないから。心配させてすまなかったね」
薄荷湯を持ってきた若いの。大声がひびいて、先刻ほどひどくはないが痛む頭でマルチノは懸命に記憶を探って、
けたたましい若者が誰であるかを思い出した。戸口に盆を持ったコンスタンティノがいた。彼のあきらめ顔を見
ることが出来た。マルチノは、この頭痛を喜んで堪え忍ぶことにした。
「あなたのような方を徒に喪っては、日の本のキリスト者の名折れです」
「ペトロ。マルチノは疲れているから、静かにさせてやってくれ」
穏やかで、柔らかい声音。コンスタンティノを親しく知る者は皆、彼がこの調子でした発言には一も二もなく 従う。
「これは、気遣いがいたりませんでした。失礼いたします」
ペトロはコンスタンティノの口調の意味に気付いたふうもなく、しかし心底申し訳なさそうに言って去った。
コンスタンティノが盆を卓に置き、マルチノの額から布を取った。
「薬湯だ」
飲めるか、とは聞かれなかった。マルチノは答える代わりに上体を起こした。こめかみに手を当てて頭痛に耐え
る。マルチノの状態を慮ったのか、しばらくの間をおいて湯飲みがよこされた。ひとくち啜ってみた。鼻と舌が
よくきかないことに感謝しつつ、マルチノは黙ってゆっくりと干した。
空になった湯飲みを、じっと見つめる。コンスタンティノはよこせと言わない。
「私は、あの若いのが思っているような人間ではない」
ことばが漏れた。意図したことではなかった。これ以上吹き出さないように、ぎり、と唇を噛む。
「知っている。お前はただの専門馬鹿だ」
揶揄の響きはまったくない。コンスタンティノが椅子を引き寄せて座った。
「誰かに『お前は悪くない』と言ってもらって安心出来るなら聴罪司祭を呼んでやるがな。お前はそれで納得
できるほどかしこくはないだろう」
淡い色合いの髪の、西洋人の血が入っていることは明らかな友は長く息を吐いた。
「あの国の連中を見返すためにヴァリニャーノ様についていった。あの国での教えの弥栄のためじゃない。自分
がここまでやっているんだ。お前が何を罪と考えているかは知らんが、許したり責め立てたりできるなんぞとお
こがましいことは言えない」
若い者に慕われる陽気なコンスタンティノが、おそろしく不遜なことを淡々と言っている。
「ことばにして考えてみろ。お前が得意なことだろう」
湯飲みを、握っては開く。何回か繰り返した末に、口を開いた。が、声は出てこない。意図して、身体から力を 抜いた。
「あの時……ジュリアンから最後の手紙を受け取ったとき、私はジュリアンの今後を思っては泣かなかった。
ただ、自分がひとりになることがこわかったんだ。マンショやヴァリニャーノ師はもういらっし
ゃらない。メスキータ師も、日本に残る道を選ばれていた。少なくとも生きているミゲルと語らうこともできな
い。ジュリアンと志をともにすることもできない。
ただそれが悲しくてこわかった。私は、皆を思っては泣かなかったんだ」
だんだんと声が大きくなる。自分らしくないという意識はあるが制御できない。頭が痛い。
「私には、こんなものを飲む資格などない。ジュリアンやミゲルは」
湯飲みを膝の上から払いのけた。乾いた音を立てて床に落ちる。コンスタンティノがそれをひろい、椅子に座り
直す。ことん、と音を立てて湯飲みを寝台の傍らの机に置く。
「ミゲルやジュリアンの苦しみでなく、自分のつらさから泣いたことがお前の罪か」
コンスタンティノがどのような表情を浮かべているかは、視線を上げなければわからない。声音は変わらず静かだ。
「それはお前の日常のような気がするんだが」
「……は」
他人のものを聴いたならば、その人物に間抜けという評定を下すだろう声をマルチノはあげた。コンスタン
ティノの顔をみると、額に手を当てていた。
「先刻も言ったが、聴衆の教養や知識を考えもせずに教義論をふっかけ、初心者にラテン語を教えさせれば容赦
なく間違いを責め立てる。要するに、お前はもともと人の事情やこころもちなど慮らない人間だと言っているんだ」
「コンスタンティノ」
言おうとしていることがわからない、とは口が裂けても言えない。
「故に、聖マルティヌスのように慈愛に溢れ、ひとの痛みをわがものとするお前など想像も出来ないし、もしそ
のような態度をとったら真剣に心配する」
「……人の一世一代の告白をいったい何だと」
キリストの教えを学ばない、ごくありふれた武士として育っていたならば、自分はコンスタンティノに果たし状
を叩きつけていただろう。マルチノは思った。
「お前、他の三人にそのことで苦情を言われたことがあったか」
未だコンスタンティノの意図は読み取れないが、マルチノは記憶をたぐった。
ミゲルが一人考え込むことが多くなったころだったか。苦難の多かった旅から無事に帰還し、日本での生活に
再び馴染んですっかりと大人になってもミゲルの身体の弱さは変わらず、講義も休みがちだった。
心配したマンショにせっつかれ、ミゲルが休んだ日の講義の内容を彼の房に伝えにいったことがあった。
「ミゲル。入るぞ」
返事は、かろうじて聞き取れる程度の声量だった。よほど具合が良くないのだろうかと思いつつ扉を開けた。
ミゲルは、床の上で上半身だけを起こしていた。床の傍らに書物が置いてある。何か読んでいたらしい。
「マンショが案じていた。今日の講義について話してやってくれ、とな」
床の傍らに腰を下ろす。ミゲルの顔色は、良くはない。しかし、それはいつものことだ。
「……じゃあ頼もうか。マンショがそう言っていたなら」
口ぶりに含むものを感じつつも、マルチノは記録帳を開いた。
「つまりだ、この教義においての論調は」
記録帳から顔を上げて、ミゲルの反応を確認する。寝台に上半身だけを起こしたミゲルの顔は、横顔しか見えな
い。眉間に皺をよせ、マルチノではなく、床の一点を見つめていた。
「気分が悪いのなら、無理をさせたくはない」
ミゲルの体調を案じているとも解釈できる言葉を一応選んで使い、マルチノは記録帳を閉じた。
「マルチノ」
「なんだ。質問なら手短にしろ」
ミゲルは、視線をこちらにはよこさない。マルチノはいらだちを隠す努力を放棄した。
「マルチノにとっては、勉学や会のための活動は好もしいものか」
意表を突かれたことを隠すため、マルチノは咳をひとつしてから答えた。
「当たり前だ。すればするだけの手応えはあるし、ローマにまで行けた。ちがう国の言葉も、議論も興味深い」
「……そうか。ならいいんだ」
言葉が途切れた。
「ミゲル」
もとの身分は上であった友が、マルチノを見た。
「自分の尺度でだけ生きられるのは、お前が強い証なんだろうな」
ミゲルは笑っていた。しかし、視線は変わらず伏せられていた。
「そうあってくれ。ずっとな」
「……こころがけておく」
ミゲルはまた笑い、傍らの本を手に取った。もういい、という合図だろう。
「マンショとジュリアンには、明日は講義に出ると言っておいてくれ」
使い走り扱いされるのは業腹ではあるが、あの二人がミゲルを案じてまた自分に何やかやと頼むことは避けたい。
マルチノは頷いて、ミゲルの房を後にした。
あれは、どういう意図で口にしたことばだったのだろう。
「私自身の尺度で生きろ、とはミゲルに言われたことがある。どういう意味で言ったのかは解らないが」
「ミゲルが、か」
コンスタンティノの表情に、束の間影がさした。彼の視線が泳ぐ。いっときうつむいてから、コンスタンティノ
はことばを続けた。
「ジュリアンやマンショは、ミゲルもだが、お前のあの演説を喜んでいたぞ。ヴァリニャーノ様やメスキータ様
もな。マルチノらしい、聖地に赴いた人間にふさわしい演説だと言っていた。私もそう思った」
コンスタンティノは、まっすぐにマルチノの目を見据えている。
「傲岸に、周囲に構わず、自分の判断のみに従って、誇り高く生きろ、と皆はお前に願っている。少なくとも私
はそう判断する。お前がどう考えるかは自由だが」
静かにコンスタンティノは立ち上がった。
「……どう言われようと、あの時の私は」
大声を出す。ローマじゅう全ての鐘を耳元で鳴らされたような頭痛がした。思わず頭を抱える。コンスタンティ
ノが爆笑し、それがなお頭にひびく。
「さて、もう休め。あまり長居すると、あの若いのがうるさい」
とん、と肩を押された。横になれという合図らしい。あまり働かない頭で考えようとすると、頭痛がひどくなる。
頭痛がする状態で考えると、ろくな結果が出ない。マルチノは従うことにし、そっと身体を倒した。コンスタン
ティノが布を絞り、額に置いた。ひいやりと気持ちがいい。眠ってしまいそうな予感がしたが、今はそれがいい
だろう。マルチノは目を閉じた。
足音の後、きい、と扉が開く音がした。コンスタンティノが音を立てるとは、珍しい。
「自分がとった行動を、自分の頭に刻み込んで一生忘れるな。それだけだ」
小さく日本語が聞こえた気がした。
「コンスタンティノ」
主な参考:「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」若桑みどり著 集英社
打ち合わせも終わり、やれやれと腰を上げたところで、コンスタンティノは呼び止められた。まだ何かあるのか、
とうんざりしつつも笑顔を浮かべてみせる。
「何か」
「パードレ・マルチノのことですが」
「はあ」
相手は言いあぐねている。確信がないか、他聞をはばかるかのどちらかだろう。部屋にはまだ人がいる。多分、 前者だ。
「最近、よく一人きりで祈っておられるようで。何かあったかと、皆が心配しております」
「ああ。故国でのことで、多少思うことがあるようです。そっとしておいてやって下さい」
コンスタンティノは、自分にも言い聞かせた。そう簡単に吹っ切れるような問題でもないだろう。
「それと、翻訳や執筆、言葉に関して厳格な姿勢をとられるのは以前からのことですが」
「そうですね」
心の底から同意した。
「その……このところ、以前にもまして熱心になられて。正直、若い者達が音を上げ気味です。あなた
からそれとなく伝えてはいただけませんでしょうか」
「……申し訳ありませんが、期待せずにお待ち下さい」
コンスタンティノは深々と頭を下げた。苦笑を見られてはいけない。
歴史サイト「ヘラクレスサムライ」ヘラクレス 他、タチカワ株式会社、イエズス会日本管区(敬称略)等の諸サイトを参考にさせていただきました。用語の
誤用・歴史的事実誤認等の全責任は筆者にあります。