西方寺の諸堂

  本堂

  • 本堂正面

     写真1 本堂正面

  • 鴟尾

    写真2 本堂屋根の鴟尾

  • 本堂内部

    写真3 本堂内部

新築再建

 本堂は、当山第34世明紀上人代の平成16年3月6日に新築再建された。設計・施工は三重県桑名市 小島建設、棟梁は松阪市大宮田町 大藪勇。64.5坪、間口7.5間X奥行8間、これに裏堂と書庫を付設した。


屋根構造

 寺院の本堂には主として入母屋造りと寄棟造りがあるが、当地は台風の通過が多く、また強風の地でもあるため、風に強い寄棟造りの寺院が多い。この先人の知恵に習い、また前本堂のありようを引き継ぐ意味もあり、寄棟造り(写真1)を採用した。


耐震構造

 屋根の重量を減らし、耐震性を向上させるため、本瓦葺きには土を使わず、木製の桟を組み、瓦を一枚一枚ステンレスの釘で固定した。
 境内地は海岸に近く、地質は砂で、耐震性に不安があった。そのため耐震性を増加させるために、二重のコンクリートで出来た大きな台船に新本堂を乗せるような工法を採用した。そして、台船の基礎を大半土に埋めた。  さらに、すべての壁に7.5cm角の角材で約30cm間隔で格子を組み耐震壁とした。このように、耐震構造を取り入れ、また耐熱にも配慮した。

鴟尾

 寄棟の大棟の両端には、古代寺院に使用されていた鴟尾(しび)が、設置された。 鴟尾は、鴟が大空を舞う鳶(とび・とんび)をさすことから、「とびのお」とも、または古代の役人たちがはいた沓(くつ)と形が似ていることから「沓形(くつがた)」とも言われた。しかし、その鴟尾誕生の歴史をたどると、棟の両端を反らすことによって建物を力強く見せる工夫と、瑞祥(ずいしょう)(めでたいしるし)と辟邪(へきじゃ)(邪悪を退ける)の象徴である鳳凰の羽が結びついて出来たのが鴟尾であろうと考えられている。日本では飛鳥(6世紀末~7世紀前半)・白鳳(7世紀後半~8世紀初頭)時代、本格的な寺院は瓦製の鴟尾を飾るのがごく当たり前のことであったようで、最近の発掘調査によりこの時代の瓦製鴟尾の断片が全国多所で発見されている。奈良(710~794)・平安(794~1192)時代には、宮殿・寺院の主要な建物には金銅製を最上級とする種々の素材でできた鴟尾がのせられていたようである。しかし、平安時代の終わりと共に鴟尾を飾ることが途絶えてしまい、これにかわって鯱(しゃち)や鬼瓦が棟を飾ることになっていった。
 鴟尾は、鰭(ひれ)が頂部をめぐる百済様式と、頂部で途切れる初唐様式の、二つに大分される。前者は朝鮮半島の百済からの瓦工の渡来によって日本にもたらされた、飛鳥・白鳳時代の古い時代に見られるものである。後者は唐や新羅から伝わったもので、奈良・平安時代に作成されたものは概ねこの様式である。  昭和59年、松阪に近い嬉野町大字釜生田字辻垣内瓦窯跡群の2号窯から出土した二個の鴟尾(高さ各125、149cm)は、白鳳瓦製としては最大級のもので、百済様式のものである。また最近のものでは、奈良薬師寺の棟に燦然と輝く鴟尾が百済様式である。一方、完全な形で現存する日本最古の鴟尾としてよく知られる、唐招提寺金堂の西方の鴟尾は宝亀年間(770~780)の作製で、高さ119cmの初唐様式の代表である。また、東大寺の大仏殿のそれは、唐招提寺のものにならって明治の修理の際に新造された木芯銅板張り金箔押しのものである。なお、唐招提寺、大仏殿とも、その屋根は寄せ棟造りである。  西方寺では、新本堂の再建に当たり、その大棟には鴟尾をのせることを希望した。西方寺の創建が天長元年(824)であることから、寄せ棟造りによく映える、鰭(ひれ)が頂部でとぎれる初唐様式の鴟尾を、滋賀県大津市美濃邊鬼瓦工房に製作依頼した。唐招提寺の鴟尾を手本に、見事な鴟尾(高さ92cm)が完成し、平成15年6月18日、建設中の新本堂の大棟に無事取り付けられた(写真2)。
 この鴟尾の飾られた西方寺本堂の寄棟の屋根は、平成16年2月29日開催の京都府瓦技能士会主催の第23回屋根瓦施工コンクール、一級技能士社寺の部において、これを施工された徳舛瓦店(京都)の深町健次氏に最優秀賞(京都知事賞)が授与された。

彩色

 前本堂には欅の丸柱、美しく彩色された組み物など後世に引き継ぐに十分価値の高いものが使われていた。そこでこれらを出来るだけ新本堂でも再使用することとした。前本堂の彩色部を取り外すための調査と作業が進む中で、彩色の下層に、江戸中期の元禄期に、高度な彩色が施されていたことが判明した。そこで、この新築再建工事の際に、元禄期の古彩色を出来るだけ復元することになった。こうして、新本堂の内部は元禄期の色鮮やかな彩色に富むものとなった(写真3)。



  観音堂

  • 観音堂

     写真4 観音堂

  • 観音堂内部

     写真5 観音堂内部

  • 聖観世音

     写真6 聖観世音菩薩立像

  • 聖観世音

     写真7 地蔵菩薩立像

修復再建

 小屋組敷梁、小屋梁、鏡板、大斗、肘木などを除き、ほとんど新築に近い修復再建であった。工事期間 当山第34世明紀上人代の平成17年3月~7月末。施工業者:棟梁 松阪市大宮田町 大藪勇。


観音堂の歴史

 前観音堂は、宝暦元年(1751)に寄進を受けた聖観世音菩薩立像を本尊として、安永4年(1775)、165両の浄財をもって当山第20世真界上人代に建立された。工匠は高町屋村長谷川甚七氏であった。
 その観音堂も長年の風雪を経て老朽化が進み、建物は傾倒して倒壊の恐れが生じたため、平成2年、地伏を取替え、建物を起こし、壁を修理し、囲いを新調した。その後も、屋根の痛み、瓦のずれが進行し、地震の際の危険性が危惧されるに至った。そこで、新本堂再建につぐ第二期工事として、当山第34世明紀上人代に観音堂を再建することになった。
 新観音堂には、前観音堂の柱等の部材を出来るだけ再使用しようとしたが、痛みや変形が著しく、台輪上組物、小屋組みの松材、正面破風内側組物、内陣上壇、地伏、向拝の建具などを除いて殆ど新調することになった。建物の構造、規模は全く前観音堂と同じである。



観音堂の佛たち

 本尊聖観世音菩薩立像(正面真中)(写真6)

 宝暦元年(1751)当山19世真浄上人代に、大口村仙薹屋傳左衛門氏の仲介を経て大口村池田屋清九郎氏から当山に寄進された。素朴なお姿ではあるが、お顔は清楚で美しい。
 聖観音の姿は出家前のお釈迦様のそれが基本となっており、宝冠をかぶり、装身具を身につけ天衣などをまとった、きらびやかな姿をされている。宝冠の前面には観音の教主である阿弥陀如来の化仏(けぶつ)が付く。この化仏は欠損していたので、後補した。 本尊右脇の聖観音は郷里を離れられた檀家から預かったものである。
 観音にはこの聖観音のほか、十一面、千手などの観音がある。これは観音が人々のさまざまな願いに応じて自らを変身させた姿であり、変化(へんげ)観音と言われる。これに対して変身しない基本の姿をしたものを聖観音と呼ぶ。観音は人々の苦しみを除き、願いをかなえる佛として人々から広く信仰されている。

 地蔵菩薩立像(一番右)(写真7)
 江戸末期には当山は十四ヶ寺の末寺を有したものの、明治5年、無檀・無住の寺院は廃寺とするとの布告により、松坂(今は松阪と書く)二十四ヶ所地蔵巡礼の第二十一番札所として親しまれてきた江津村海珠庵が廃寺の憂き目に会い、その本尊であったこの地蔵菩薩立像が観音堂に合祀されたと伝えられている。
 地蔵菩薩は、お釈迦様が入滅された後、弥勒菩薩がこの世にお出ましになるまでの永い年月、この世には佛様がおられない無佛の時代となるため、それを哀れんで、人々を救済するために地蔵菩薩が遣わされたと言われている。

 不動明王立像(左から二番目)
 聖観音の寄進と同年の宝暦元年(1751)預川覺範僧都御作のこの不動明王が朝田村武兵衛氏から寄進された。
 この不動明王の御宝前では毎年2月15日、郷津町町民による家内安全五穀豊穣のご祈祷が催されている。
 不動明王は、赤々と燃え上がる火炎を背負い、眼を見開き、歯をむいた恐ろしい形相をしているが、それは大日如来の命を受けて、すべての悪を払い、邪神や仏敵を強い力で従わせようとするためである。また、この不動明王は、煩悩に迷う人々を屈服させてでも救おうとする大日如来の化身、使者とも言われ、一方では、密教の修行をする行者を加護する、慈悲深い明王でもある。

 弘法大師像(一番左)
 当寺は天長元年弘法大師空海上人の開基と伝えられており、当山開祖弘法大師の尊像が観音堂に奉安さている。先の「西方寺の歴史」に述べたとおり、昔は、四国八十八ケ所の伊勢版である伊勢四国八十八ケ所の第五十四番札所であった。なお、今も門前にこれを示す小さな石碑が建っている。

 青面(しょうめん)金剛立像(右から二番目)
 三眼を持ち、とぐろを巻いた蛇を頭上にのせ、身体や両手・両足にも蛇をからみつかせ、髑髏(どくろ)の冠やネクレスをつけた迫力あふれる姿の立像は、庚申待ちの本尊とされる青面金剛である。人の身体には三尸(さんし)虫(ちゅう)という虫(三彭(さんほう)ともいう)が寄生していて、庚申の夜眠るとその虫が這い出て天帝にその人の罪を告げるという。そこでそれを防ぐため、庚申の夜は皆で集まって念仏などして夜を眠らずに過ごす。これを庚申待ち、または庚申講といい、近郊でもつい最近までこれが行われていた地域がある。
 庚申の日、この青面金剛を祀り、夜半に南に向かって、全国的には、「彭(ほう)侯子、彭常子、命(みょう)兒子」と三度唱えるという。またこの地では、「庚申で 庚申で まいたりまいたり ソワカ」と唱和する、とも言われる。
 この青面金剛は、病魔悪鬼を取り除くご利益があるとされている。

 観音堂での四度加行(しどけぎょう)
 四度加行とは、仏教の一つである密教の修行者が、その秘法に通じた阿闍梨となるための、伝法灌頂を授かるに先立って習得する四段階の修行で、我が宗では最も厳しい修行の一つで、15日間に及ぶ。この四度加行が当西方寺では観音堂で行われ、最近のものでは、令和6年3月2~17日に厳修された。







  閻魔堂

  • 閻魔堂

    写真8 閻魔堂

  • 閻魔堂内部

    写真9 閻魔堂内部

  • 閻魔と地蔵

    写真10 閻魔と地蔵菩薩



 西方寺に所蔵される明治3年の境内周辺地図によると、現在の門前の駐車場の東南端にある槙の古木から道を挟んだ地に、海珠庵、十王寺、という西方寺十四ヶ寺の末寺のうちの二ヶ寺があった。これらは明治5年の布告により、無檀、無住のため、廃寺の憂き目に会い、十王寺にあったこれらの十王等の尊像が西方寺に移された。それらを祀った先の閻魔十王堂は、明治39年当山第31世真浄上人代に建立された。
 このお堂も、昭和62年、当山第33世迪生上人代に修理が行われたものの、老朽化が進み、本堂新築再建に次ぐ第二期工事の一環として、新築再建工事が進められ、当山第34世明紀上人代の平成17年7月25日に完工、7月29日に入仏回向を厳修した。この新築再建工事は新本堂や観音堂と同じく、大宮田町大藪勇棟梁によって進められた。


 閻魔堂は十王信仰に基づき建てられたお堂のことで、閻魔大王が中心になることから閻魔堂または十王堂と呼ばれる。十王信仰とは、中国の道教に起源があり、これが仏教と結びついたもので、死後の世界である冥土には十人の王が初七日から三回忌までの忌日に、生前の罪によって死者を裁くというものである。

 その十王は前列左から二人目の秦広王(初七日)から順に、右に初江王(二七日)、後列左の宋帝王(三七日)より右に、五官王(四七日)、閻魔王(五七日)、それに地蔵菩薩をはさんで、変成王(六七日)、泰山王(七七日)、平等王(百か日)、都市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)、である。これらの十人の裁判官がそれぞれの忌日に裁判長となり、死者が裁かれる。このお堂では、五七日の裁判の様子が再現されている。

 五七日では、閻魔王が裁判長となり、閻魔帳に記された罪状に従って行状を糺(ただ)していくとされる。下段左より三番目の冥土の役人である、司録または司命が記録などの事務をとる。その右隣にいる、三途の川で死者の衣類を剥ぎ取るという奪衣婆(だついば)(閻魔王の姉でもある)が、死者から生前の罪や行状を上手に聞き出そうとする。そのとき死者が罪を隠したり、言い逃れをしようとすると、下段中央にある現代での再現ビデオの役割をする、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)に、その行状が映しだされる。さらには、その両脇にいる同名・同生という名の二人の倶生神が、人が誕生するとそれ以降絶えずその両肩に乗って、その所業の善悪をすべて記録しているから、たまったものではない。

 裁判で死者が窮地に立たされたとき、閻魔王の本地佛である地蔵菩薩が、弁護士の役を演じ、何かと助け舟を出したり、善行に目を向けたりして、罪を軽減してくれる。そして、死者が、地獄に堕ちるか、極楽浄土に行けるかは、この閻魔王と地蔵菩薩の駆け引きと、罪の重さに依る。
 死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって施しなどの善行を行い、供養することによって、償われ、軽減される。よって中陰中や年忌の供養は、死者の罪を軽くするための追善供養である。

 最終的に、罪の重さは、下段中央近くにある罪状秤(ざいじょうばかり)という秤で計られる。この秤の一端には大岩が乗せられており、その一方の皿に死者が立たされる。そのとき、岩が持ち上がれば、地獄行きの判決が下される。(なお、この罪状秤の竿、皿、鎖のみ、紛失しており、この新築の際に後補した。)

 このほか、裁判が正当かつスムースに行われるための道具として、檀拏幢(だんだどう)という台に、生前の悪行を見通す男の頭部と、善行を見通す女の頭部(人頭杖(にんずじょう)という)が、乗せられている。
 このように、西方寺の閻魔十王堂にはその必要な全てが揃っており、貴重なものと思われる。
 またこの地蔵菩薩(写真10)は観音堂のそれに続き松坂二十四ヶ所地蔵巡礼の第二十二番札所となっており、春秋の彼岸には新佛を出された家の家族が新霊の戒名を書いた地蔵札を納めにこられる。




  山門

  • 山門東より

    写真11 山門東より

  • 山門西より

    写真12 山門西より



 「尊い寺は門より見ゆる」の諺がある。お寺の門(山門)は、単なるお寺の入り口ではなく、お寺の重要性の有無を表わす大事なお堂である。

 西方寺の山門の歴史を概観しよう。
 宝永元年(1704) 第16世真純上人代に、薬医門が建立される。
 昭和34年(1959) この山門は、伊勢湾台風により大破し、修復される。
 昭和54年(1979) 台風17号により、大松(松阪の黒松と称された樹齢430年、空也上人お手植えの九重の松の二代目と思われる)が、地上8mで折れ、山門を倒壊する。  当山第33世迪生上人代の昭和55年に山門(四脚門)を再建し、11月23日落慶式を挙行する。
 この山門は急遽再建されたこともあり、設計図とは著しく異なり、縦横のバランスが悪く、山門としての基本が守られないものであった。  先の薬医門の内側の敷石がそのまま使用されたが、屋根がそれより狭いため、雨が降ると敷石一面が水びたしとなった。また、屋根の勾配が急なため、風の弱い台風で降り棟が滑落した。山門は参詣客の出入りが多く、大型地震の際には棟や瓦の滑落や、山門の倒壊により、犠牲者が出るのではと危惧された。
 平成28年、檀信徒のご協力を得て、これらの問題を取り除き、山門の基本を満たすための大改修工事を行った。この工事は新本堂新築と同じく大宮田町大藪勇棟梁によって進められた。

 山門の最も重要な役割は、そのお寺に新住職が赴任する晋山式での開門儀式で発揮される。晋山式では、新たに任命された新住職を中心にした一行が、山門の前に到着するが、門は堅く閉ざされている。そこでその新住職が「如(にょ)却(きゃく)閞(けん)鑰(にゃく) 開大城門」と、『法華経』の一句を大声で発すると、山門は静かに開らく。この開門を経て、新住職は本堂に進み、本堂で待ち受ける前住職からその寺の住職を象徴する柄香炉を引き継ぐ。
 この大改修の完成した平成28年5月14日、西方寺では晋山・山門改修落慶法要が執り行われ、輝明上人が当山第35世に就任した。






  鐘楼堂

  • 鐘楼堂

    写真13 鐘楼堂

  • 梵鐘

    写真14 梵鐘


 西方寺の鐘楼堂の歴史を概観しよう。
 元禄16年(1703)、当山第15世真遄上人代に鐘楼堂が建立され、梵鐘が坂内氏の寄進により設置された。その梵鐘の銘文には、当山の歴史に触れ、梵鐘鋳造の功徳が述べられた。
 その梵鐘はその後、安政3年(1856)12月2日、隣の大口村に大火が発生し64軒が焼失した「大口大火」の際、急を告げる早鐘を力強く撞いたため、鐘にひびがはいり、その音がかすれた鈍い音(鯨音)となり、これを聞く人々は嘆いた。明治22年1月に、当山第31世真浄上人が梵鐘の改鋳の発願文を檀信徒に配布し、同意と寄附を得て、4月22日治鋳を終えた。この新梵鐘には旧鐘の銘文と新鋳造の由来が刻まれた。
 太平洋戦争戦時下の昭和17年、金属供出令によりこの梵鐘を供出することとなり、その決別法要が当山第32世真達上人により挙行され、この銘文が書写された。
 以来、鐘楼堂には梵鐘のないまま30年が過ぎたが、昭和47年大久保與一氏夫妻により、新な梵鐘が鋳造され、寄進された。  この梵鐘には、「人はみな 佛なるぞと 告げわたる この鐘の声 シャカムニの声」との銘文がある。この和歌には、仏教経典の中でも最も重要視される『法華経』の教えの神髄が見事に詠まれている。昭和48年3月18日、当山第33世迪生上人によって梵鐘懸垂式が営まれた。







  庫裡


  • 庫裡外観

    写真15 庫裡外観

  • 庫裡 仏間

    写真16 庫裡 仏間

  • 僧形文殊菩薩像

    写真17 僧形文殊菩薩像


 庫裡とは、本尊等への供物を準備し、住僧の食事をする建物で、古くは食堂(じきどう)といわれた。また、当山では檀信徒との応対をする場でもあり、住職の家族の居住する処でもある。
 西方寺の庫裡の歴史を概観しよう。
 宝永4年(1707)の大震災により、それまでの庫裡は倒壊した。そこで、翌年一民家を移設・改造し、庫裡とした。元文2年(1737)に藁葺きを改修し、嘉永3年(1850)に修復をしたものの、元来民家の旧屋であったため、更に日を経て柱朽ち棟傾く状態であった。
 そこで、当山第32世真達上人がこの状況を檀信徒に訴え、庫裡の新築再建を願う趣意書を配布し、理解と寄付を得て、現在の庫裡の新築工事が大正11年に起工された。この工事の後半に至った大正12年9月1日、関東大震災が発生し、建築資材が著しく高騰した。そのため、二階の造作はなされないまま、工事は終了した。
 その後、当山第33世迪生上人代の昭和55年に二階の造作を終え、この庫裡の工事は完了した。
 この地は、東南海地震にいずれ襲われる可能性が高いため、緊急避難の時間を稼ぐ必要があり、松阪市の耐震検査を受けた。その結果、このままでは避難の時間も危ういと言う診断を受けた。
 そこで、当山第35世輝明上人代の令和2年、一部松阪市の耐震補強事業費補助金を得て、耐震補強工事を行った。この工事は、多気町波多瀬、薗井建築の薗井朋樹棟梁によりなされた。
 庫裡の仏間(写真16)には、左側に僧形の文殊菩薩像がみえる。天台諸宗では、食堂には僧形の文殊菩薩像を安置することになっており、平成19年に、京都市花園の法金剛院の重用文化財の像を模刻した(写真17)。その後、当山のこの像の縮小版が総本山西教寺の食堂に安置された。
 毎月2回、僧侶は庫裡の食堂の文殊菩薩像の前に集まり、自分の犯した罪を告白懺悔し、清浄な生き方をするするよう、確認しあったという。







  客殿


  • 客殿外観

    写真18 客殿外観

  •  
  • 客殿上座敷

    写真19 客殿上座敷

  •            


 西方寺の客殿の歴史を概観しよう。
 前客殿は嘉永4年(1851)、当山第28世堯圓上人代に建立された。戦時中は陸軍将校夫妻が居住した。その妻は大らかな人で、空襲警報のサイレンが鳴ると、一般の人々は洗濯物を取り込み、雨戸を閉め、居留守を装うが、彼女は洗濯物を干したまま、雨戸も開けたままでいた。そのため、米軍艦載機により機銃掃射を受け、戸袋に銃弾が当たり、戸袋と雨戸5,6枚が貫通した。また、近くの大きな松も被弾した。
 戦後は、老朽化が著しく進み、遂に取り壊した。
 寺院の客殿は、客をもてなすのみならず、千部法要などの大きな法要では客殿で僧侶の一行が装束を整え、鐃鈸を打ち鳴らして声明を唱えて、行列を作って本堂に入堂する。このように大きな法要は客殿で始まり、客殿で終わる、寺院における重要な建物である。
 そのため、平成6年、当山第34世明紀上人が客殿の必要性を檀信徒に訴え、理解と協力を得て現在の客殿が建立された。この工事は石津町竹内功棟梁により進められた。

 以上見てきたように、当山西方寺はその境内に七堂伽藍が整えられており、また境内の外には下記の別堂、笠の地蔵堂を有している。





  笠の地蔵堂


 
  • 笠の地蔵堂外観

    写真20 笠の地蔵堂外観

  • 笠の地蔵堂内部

    写真21 笠の地蔵堂内部

  • 笠の地蔵尊

    写真22 笠の地蔵尊



 石津町にある、西方寺境外の別堂である笠の地蔵堂に奉安されている地蔵尊は、松阪市の民話の一つとしてよく知られている。
 本尊地蔵菩薩は、延暦年中、弘法大師が伊勢神宮にご参詣の折、諸人結縁のために30cm余りの地蔵尊を彫刻して畑の中の楠のもとに置かれた、と伝えられている。
 後代になって、永禄12年(1569)織田信長が伊勢の国司北畠家と合戦した際、大阿坂村白米城の戦いで大宮入道の率いる北畠軍は敗れた。このとき北畠軍の一人の兵士が敗走してこの地に至り、そこに安置されていた小さな地蔵尊に念じ、楠のもとに必死の思いで身を隠した。追跡の軍が兵を探しにきたが発見できずにいたところ、そこには小さい僧がいて「落武者は東の方に逃げた」と告げたので、追っ手は指示の方に追行した。こうして、兵士は難を逃れ、この僧にお礼を述べようとしたがその姿はどこにも見当たらなかった。そこで、これはまさしく地蔵菩薩が小僧の姿に身を変じて自分をお救い下さったものと信じ、報恩のために自分のかぶっていた陣笠を地蔵尊にかぶせ、その上、髪を剃り僧侶の身となって一生涯この尊像に奉仕した。以後、陣笠をかぶせたことから笠の地蔵と呼ばれ、定紋も笠を用いるに至った。
 この地蔵尊は笠の地蔵堂と呼ばれるお堂に奉安され、お堂は明治3年3月に建て替えられたが、庫裡の部分が朽ちて傾倒したため、平成2年、お堂のみを残して改築整備した。改築前の姿は、時田早苗 画、『松阪百景』、かやの木創房、No.60、昭和63年に見られる。笠の地蔵の現状を写真20,21,22で示す。
 この笠の地蔵は、何でも願いを叶えて下さることで知られている。特に、笠の地蔵の笠は、できものや傷などが治るにしたがってできる《かさぶた》の《かさ》と音が通じるためか、この地蔵菩薩にはできものや傷を治すご利益があると信じられ、参詣者が多数訪れる。その願いが叶えられた時には、御礼に笠(現在では帽子)が奉納される。
 『今昔物語』には、地蔵菩薩が化身となって小僧として現れ、種々の奇跡を起こすとの、説話が多く集められている。
 8月24日の地蔵盆には、毎年朝から施餓鬼供養が執り行われる。




小僧

写真23 地蔵の化身の小僧か?