西方寺の歴史


  • 弘法大師

    写真1 空海上人像

  • 阿字

    写真2 空海筆 梵字「阿」字

  • 空也

    写真3 空也上人像

  • 真盛上人

    写真4 真盛上人像



前本堂

写真5 西方寺前本堂(1686~2002年)



 当寺は江津(ごうづ)山 安養(あんにょう)院 西方寺といい、天長元年(824)弘法大師空海上人(写真1)による開基と伝えられている。この地には江津三昧という二十余郷の墓所があった。その前の伊勢古道を通られた弘法大師空海上人は、この墓所を弔うお寺がないことを憂い、当寺を建立され、胎蔵界・金剛界両部の石曼荼羅を埋敷され、梵字「阿」字の掛け軸一幅(写真2)を遺された。このため昔は、四国八十八ヶ所の伊勢版とも言える伊勢四国の第五十四番札所であった。なお今も門前にはこの第五十四番札所の小さな石碑が建っている。
 「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏を日本において初めて実践したとされる空也上人(写真3 京都 六波羅蜜寺蔵 空也上人像 国重要文化財)が、天暦年中(約950)当寺にしばらく住錫され、九品浄土を表わす九本の松を植えられ、「九重の松」または「空也松」と呼び伝えられた(昭和54年の台風によって倒壊した樹齢約430年の「松阪の木、黒松」(松阪市史 第一巻の最初の写真)はその二代目と思われる)。
 延徳の頃(約1491)、伊勢の地(現、津市一志町大仰)から出られた圓戒国師慈摂大師真盛上人(写真4、「西方寺の諸佛」の頁の「宗祖真盛上人」の項で詳細を記述した)が来錫され、不断念仏の道場とされ、天台宗に転じた。
 安永9年(1780)日光輪王寺貫主大王猊下より末頭寺格香懐色が許可された。天台律宗、天台宗真盛派を経て、昭和21年3月天台真盛宗発足により同宗に属す。
 開基以来の名刹も幾度も兵火等に焼かれ、堂宇や多数の寺宝も灰燼に帰した。現本尊阿弥陀如来は、延宝6年(1678)出羽の国(現、山形県)立石寺より勧請した、平安後期の作と思われる上品上生の坐像である。この本尊を招請するために同年壮大な本堂が建立されたが、わずか数年を経て焼失した。その後、貞享3年(1686)当山14世真眼上人によって、前本堂(七間半x七間)(写真5)が再建された。
 この本堂ならびに文化2年(1805)建立の大玄関棟も、老朽化が進んだため、当山第34世明紀上人代に本堂等新築再建事業が推進され、新築再建工事が平成14年(2002)8月に始まり、平成16年3月6日に山本孝圓管長倪下のご親修を仰ぎ落慶法要が厳修された。