西方寺の諸佛
本尊阿弥陀如来と脇侍
写真1 本尊阿弥陀如来
写真2 脇侍 観音菩薩
写真3 脇侍 勢至菩薩
本尊阿弥陀如来
西方寺の現本尊である阿弥陀如来座像は延宝6年(1678)に奥州出羽国(現山形市)立石寺より招請したもので、9月11日に当山第12世真能上人により入佛された。施主は、奥州仙臺(台)の増井休悦(寄付記録には当山第十九世真浄上人により「是ハ大口村仙臺屋傳左衛門先祖奥州仙臺ニ住居有ルニカ其節招請寄付シ當寺ノ本尊ニ 安置シ奉ル者也」とある)である。
また、この尊像(写真1 像高80㎝)の像底に、「抒此本尊ハ出羽国立石寺ヨリ出給フ聖徳太子ノ御作ナリ奥州仙臺ノ住人増井休悦ト申仁不思議ニ申請江津ノ西方寺ヘ寄付之 住持真能上人ノ時再興延宝6戊午九月十一日ニ入佛」、との書付が有る。
昭和60年頃に、当山34世明紀上人が本尊の写真やこれらの記録を持参し、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の芭蕉の句でも知られる天台宗の名刹、立石寺に伺ったが、立石寺様はこの佛像は立石寺の多数の塔頭の一つから出たものであろう、伊勢の地にまで遷座されたとは驚きである、と述べられた。
本尊脇侍、観音菩薩と勢至菩薩
本尊の両脇には向かって右に観音菩薩(写真2)、左に勢至菩薩(写真3)(各像高75㎝)が奉安されている。この両菩薩は、貞享3年(1686)当山第14世真眼上人代に松阪の浄土宗の清光寺より招請した。この脇侍は清光寺の脇侍であったが、新しい脇侍が新造安置されたため、当山に譲渡された。
佛像には佛たちが光り輝くさまを視覚化した「光背」が取り付けられているが、当山の本尊阿弥陀如来と両脇侍とでは、全く異なった形式のものが見られる。本尊には舟の形をした舟形光背が、脇侍には光輪形の光輪光背が付けられている。前者の形式は天台宗系の、また後者のそれは浄土宗系のもので、それぞれ招請もとの寺院の宗派の違いが明らかに見られる。
史料からすると、本尊は享保年中、宝暦2年、寛政3年の三度、再興または御洗濯を施し、ご身体をきらびやかに再興している。当時この佛像の御洗濯が流行したためである。脇侍も同じくなされた様である。
以上見てきた本尊阿弥陀如来と両脇侍は、死者を三尊が迎えに来られる様子を具現化した三尊来迎形式である。
当山では、これらの三尊の後ろ壁に、二十五人の菩薩像が描かれており(「西方寺の美術」の頁の、その他の画の写真9にこの二十五菩薩図を掲げている)、これを入れると、阿弥陀如来が二十五菩薩を伴って死者を迎えにこられる聖衆来迎形式をとることになる。この塀画は、元禄9年(1696)当山第15世真遄上人代に、橋本氏により寄進された。
南脇檀に奉安の阿弥陀三尊立像
写真4 阿弥陀如来
写真5 観音菩薩
写真6 勢至菩薩
南脇檀に奉安の阿弥陀三尊立像
本堂南脇壇に奉安の阿弥陀三尊は旧庫裏佛間に奉安されていたものであるが、本堂工事の準備中の平成14年、閻魔堂倉庫長持より発見された。 この阿弥陀佛の光背、蓮台が大破した状態であったので、光背・蓮台修復のほか阿弥陀佛の白毫、左手中指の第一間接より先など数箇所を後補した。当山の史料では、方丈佛三尊 施主 射和之庄 辻権三郎 、とあるのみで、いつの頃に寄進を受けたかは不明である。
簡易鑑定
この阿弥陀佛(写真4 像高91cm)は、快慶作の「三尺阿弥陀」とよく類似しているが、足枘銘(足の裏の枘へのサイン)は見られなかった。折しも、平成19年(2017)、奈良国立博物館で特別展「快慶」が開催されたので、第34世明紀上人が出向き、快慶の佛像はその衣文(えもん)が作者の年齢と共に少しずつ変化することを知り、帰宅して当山の阿弥陀佛の衣文を見ると、快慶が最終的に到達した快慶佛として知られる京都の極楽寺所蔵のものと極めて一致した。そこで奈良国立博物館にこれを報告し、当山の佛像の鑑定を依頼した。「快慶」展の中心的役割を勤められた山口隆介学芸員が、写真による簡易鑑定をお引き受け下さった。
その結果、江戸初期にこの快慶の佛像の写しが多数制作され、全国の寺院に広がった。当山のこの極めて精巧な立像もその一つであろう、とご報告を賜った。
この阿弥陀如来の脇侍(像高58cm)も、勝れたお姿である。
北脇壇に奉安の諸佛
写真7 金剛界大日如来
写真8 如意輪観音菩薩
写真9 十一面観音菩薩
写真10 宝冠阿弥陀如来
北脇檀に奉安の諸佛
本堂北脇壇には次の諸佛が奉安されている。これらは当山史料に記載がない。
大日如来
この大日如来(写真7 像高43cm)は智慧を表す智挙印という印相を組むことから、金剛界の大日如来である。
この大日如来は、古色掬すべし(一見して古いことが分かる)であるが、どの時代のものか不明である。
如意輪観音菩薩
この観音(写真8 像高18cm)は、願いを自在に叶える「如意宝珠」と仏法を転じる「法輪」をもつ。延寿、安産、除難などの願いを叶えるという利益がある。
十一面観音菩薩
この観音菩薩(写真9 像高38cm)は、頭部に十一の佛面をもち、抜苦与楽や除病息災などの十一の御利益を与える観音菩薩である。
ふくよかな容顔をもつ、美しい姿をとる。
宝冠阿弥陀如来
この佛像(写真10 像高28cm)は、宝冠をかぶり、瓔珞(ネクレス)をしたきらびやかな姿で、阿弥陀定印と言われる印相を組むことから、宝冠阿弥陀佛像である。なお、比叡山延暦寺の常行三昧堂の本像として宝冠阿弥陀如来が祀られている。
客殿佛間の阿弥陀如来座像
写真11 客殿佛間の阿弥陀如来座像
客殿の佛間には阿弥陀如来座像(写真11 像高28cm)が祀られている。
この阿弥陀如来は、小さいながらも全てを包み込むようなおおらかで美しい、定朝様にも通じそうな座像である。そこで客殿新築の際これを本堂脇壇から遷座した。
残念ながら、この佛像に関した史料はない。
向佛 釈迦如来金佛
写真12 釈迦如来金佛
当山の山門を入ると右側に金佛が本堂に向かって奉安されている。
この釈迦牟尼如来金佛(写真12 像高140cm)は、本堂の本尊阿弥陀如来と向き合っていることから、向佛と称される。
当山には、享保11年(1726)に、松坂(松阪の旧地名)蛸路住の鋳物師である天命安弾作のこの向佛が、願主 高町屋村 了休 により寄進された。
この天命とは、下野国佐野天明(栃木県佐野市天明)の地名をさし、ここでは鋳物師の集団が活躍していた。ただし佛像を造る程の技術はなく、その一人が松坂の蛸路に修業にきて技術を習得し、松坂周辺に多くの作品を残し、各作品には自分の出身を銘に刻んだものと考えられる。天命作の釈迦金像の研究者の一人は、松阪周辺の多くの金佛を調査したが、そのお顔は当山のものが一番秀でていると、述べられた。
二河白道の譬え
中国浄土教の高僧である善導大師の教えに、次の「二河白道の譬え」がある。
人が西に向かって進もうとしていた。途中で、先を見れば南には怒りの炎を燃やす火の河が流れ、北には貪欲の激流が渦を巻いて流れている。その二つの河の大きさは、底もなく河辺もない。この二つの河の中間に一尺(30cm)程の狭い白い道があり、
これはとても危険で渡り得るとも思えない。その人は渡れば必ずや水や火に害されようと思い煩っている。その時、東の岸に人の声(釈迦如来の声)
があって、「ただその道を渡って行きなさい。間違いはない」と勧めている。
西の岸に人の声(阿弥陀如来の声)あって、「早く来い。吾は汝を守って水火の河には落さないぞ」、と言う。この此方から行けと言い、彼方から来いと呼ぶ声を頼みとして、二つの河をかえりみず、危うき道を少し渡っている時に、東の岸に群賊・悪獣などが寄って来て、「帰ってこい。その道は危険で進めば必ず死んでしまうよ」、と口々に叫んでいる。しかし、その声を無視して急いで西方に歩き進むと、まさしく強い守りを得て支障なく西の岸(西方浄土・極楽)に到着し、大喜びをした。
このように、佛の導きを信じてひたすら進むと、必ずや願いの如く往生を遂げ、限りない楽しみに至るとの、譬えである。
かくして、西方寺の境内は、山門から釈迦牟尼如来の勧めに従い石畳を本堂に向かって進むと、煩悩の炎が消えた静寂で楽しい事のみある悟りの世界である、阿弥陀如来の膝下に到着するという、「二河白道の譬」を具現化した構造になっている。
このような釈迦佛を向佛といい、松阪周辺にはこの向佛が多く奉安されており、例えば黒部の西連寺(天台真盛宗)や新町の樹敬寺(浄土宗)などで見られる。
地蔵菩薩
写真13 無縁塔の地蔵菩薩
写真14 同地蔵菩薩
写真15 墓地入り口の地蔵菩薩
写真16 同地蔵菩薩
お釈迦様がこの世を去られ、次に弥勒菩薩が出世されるまでの長い間、この世は無佛の乱れた世界となる。そこでこれを哀れんでこの世に遣わされたのが、地蔵菩薩であるとされている。
西方寺には多くの地蔵菩薩像が奉安されている。既に観音堂、閻魔堂および境外別堂の笠の地蔵堂にそれぞれ、安置されていると述べた。この他に、山門を入ると無縁墓の塔があり、ここに二体(立像(写真13 像高約100㎝)、座像(写真14 像高60㎝)、墓地入り口に、六地蔵(写真15 像高38㎝)と二体(写真16 座像(像高55㎝)と立像(像高60㎝))が祀られ、寺墓に一体、檀家から移設されたものが一体、さらに境内に隣接して二体が祀られている。
この様に多くが祀られているのは、地蔵尊に託する人々の願いの表れであろう。
当寺が属する天台真盛宗の宗祖は、真盛上人であり、上人は地蔵菩薩の化身(生まれ変わり)であると、信じられている。これが当寺に多くの地蔵尊が祀られるもう一つの要因でもあろう。