西方寺の美術
当山第29世観阿堯禅上人筆佛画
当山第29世堯禅上人
堯禅上人は嘉永5年(1852)、23歳にして当山の住職に就任された。多くの貴重な書物や経典を書写され、悉曇の貴重な書籍を蒐集・所蔵された。また、多くの佛画を描かれ、優れた学僧であると共に画僧でもあった。しかし残念ながら、明治4年(1871)42歳にて遷化された。
ここでは上人が残された佛画の中で、修復の終わったものの中から数点を示す。3>
釈迦三尊図(本堂后門の壁画)
写真1 釈迦三尊図
釈迦三尊図
阿弥陀像を本尊とするお堂の来迎柱間の裏面である后門の壁には釈迦三尊図を描くこととされており、旧本堂に釈迦三尊図が描かれていた。ところがこれが古くなり痛みが増したことから、画僧であった堯禅上人が新たに描かれ(写真1、高さ188cm、幅234cm)、表装の際内側に元絵を残された。
釈迦三尊には釈迦如来像を中尊として、両脇に脇侍を配すが、脇侍の尊像は一定ではなくその一つが、文殊菩薩と普賢菩薩を配する。この脇侍は共に法華経と強く関連することから、この三尊形式は法華経を所依の経典とする寺院によく見られる。
文殊菩薩は、『法華経』の提婆達多品で龍王の娘が成佛したと述べていることから、文殊菩薩は女性たちの信仰を集めた。また普賢菩薩は、法華経とそれを信仰する者たちを守護すると宣言していることから、女性たちが、普賢菩薩をこの経の守護者と、仰ぎ見るようになった。
平安中期以前までは、釈迦三尊の文殊・普賢両菩薩は厳しい男の姿で描かれていたが、女性たちが信仰を深めたことから、以後は、一層女性たちに受け入れやすいようにと、女性の姿に描かれるようになった。釈迦三尊図では、文殊菩薩は獅子に乗り、普賢菩薩は白象に乗って、描かれる。
宗祖真盛上人図、真阿宗淵上人図、法華経曼荼羅
写真2 宗祖真盛上人図
写真3 真阿宗淵上人図
写真4 真盛上人図、宗淵上人図と法華曼荼羅
宗祖真盛上人図
史料はないが、この堯禅上人の描かれた宗祖図(写真2、高さ128cm、幅72cm)の原画は当山の属する天台真盛宗の総本山、西教寺所蔵のものであると思われる。
真盛上人
本宗の宗祖は真盛上人である。嘉吉3年(1443)、上人は現津市一志町大仰の地に生を受けられた。後、比叡山で厳しい修行を重ね、宮中での御進講の講師をも勤められた。然るに、ご母堂様の逝去に遇い、生死の問題を解決していない我が身を内省され、
比叡山での栄達の道を捨て、落ちこぼれがいく深い谷である黒谷の青龍寺に籠もられ、一層厳しい修行と学問に励まれた。伝教大師の祀られる浄土院に参籠して、夢に伝教大師が恵心僧都の『往生要集』を拠り所として衆生済度に出るようにと勧められ、文明18年(1486)坂本の西教寺に入寺された。上人は黒衣を身に着け権力者を糺すときはいかにも厳しく、庶民を導くときは情愛をこめて接しられた。
その教えは「戒称二門」といわれる。戒とは円頓戒を指し、悪行を慎み、善行にいそしみ、人々のためになる生き方をすることで、自分の心の中に佛をみつける日々の生き方を目指すものである。また称とは称名念佛を指し、無心に「南無阿弥陀佛」と念佛を唱え、自分が佛の慈悲で生かされていることに気付くことを言う。それ故、この法門は、人々のためになる生き方をして、自分の心の中の佛を育て、阿弥陀佛と一緒に、阿弥陀佛に護られて生きることを喜び、感謝する日々を勧めるものである。
明応4年(1495)伊賀の西蓮寺にて遷化される。御年53歳。「無欲清浄 専勤念佛」を遺誡とされた。
真阿宗淵上人図
この堯禅上人が描かれた宗淵上人図(写真3、高さ140cm、幅70cm)の原画は、津の西来寺に所蔵されている。
真阿宗淵上人
宗淵上人は、天台声明の本山とも言われる、京都大原で天台声明の研鑽と研究の日々を過ごされ、『魚山六巻帖』を改版されたが、声明学理の論争に巻き込まれ、大原を追われ、蟄居の身となった。後、42歳にして津の別格本山西来寺に迎えられて、西来寺第31世に就任し、真阿の上人号を名乗られた。
その最大の業績は、天保6年(1835)に『法華経山家本』を開板されたことである。この本は、比叡山所蔵の『伝教本』
または『山家本』と称された法華経を模刻し、大原寺如来蔵に所蔵された「慈覚大師の点本」と葛川明王堂所蔵の乾元本『法華讀音』の読音を正用して、開板された。ところが、後に兜木正亨氏により、この底本は日本開版史の上から指摘して、室町時代の開板であると結論づけられた。
いずれにしろ、我が天台真盛宗の伊勢教区では、この上人版の『法華経山家本』を常用している。
法華曼荼羅
『法華経』の見宝塔品には、お釈迦様が多くの菩薩・神々・人々(衆会という)に法華経を説いておられると、地中から巨大な多宝塔が湧き出し、空中に留まった。その中から「善いかな、善いかな。お釈迦様は見事に法華経をお説きになっている」との大音声が聞こえた。人々の願いに応えて、お釈迦様がその多宝塔の扉を開けると、痩せ衰えた多塔如来が獅子座に坐っておられ、「釈迦牟尼佛よ、この座に坐られよ」と言われ、半座を譲られた。
そこで、お釈迦様は多宝塔に多宝如来と並んで坐られ、法華経を説くことを続けられた。
この多宝塔に釈迦如来と多宝如来が並んで坐られ、それを多くの衆会が取り囲んでいる情景を絵にしたものを、法華曼荼羅と言う。
この堯禅上人画の曼荼羅(高さ122cm、幅122cm)には、多宝如来・釈迦如来や衆会の一人一人がそれぞれ梵字一字で描かれており、その梵字を読み解けばそれぞれを特定できる。法華経には、多宝如来が半座譲られたとのみあるため、他の佛画では、多宝塔中の二佛の位置が左・右異なるものが見られる。西方寺の曼荼羅では多宝佛が左手側に移られ、釈迦牟尼佛が右側に坐られている(向かっての左右はこれとは逆)。
西方寺の年間を通じての最大法要である春恒例の千部会では、本堂の余間にこの法華曼荼羅と、真盛上人図・宗淵上人図とを掲げて、法華経読誦法要を行っている(写真4)。
山越えの弥陀図、普賢菩薩図、楊柳観音図
写真5 山越えの弥陀図
写真6 普賢菩薩図
写真7 楊柳観音図
山越えの弥陀図
平安時代に天台浄土教を大成された恵心僧都が奈良の二上山で阿弥陀佛を感得されたことからこの図が生まれた。これ(写真5,高さ175cm、幅112cm)は堯禅上人筆である。
普賢菩薩図と楊柳観音図
普賢菩薩は上の釈迦三尊図で述べた。楊柳観音は、三十三身の観音の一つで、病苦からの救済をその使命とし、右手に柳の枝を持つ。
これら二幅(写真6、7、共に高さ153cm、幅65cm)は、堯禅上人の晩年の作である。
田南岳璋筆画
写真8 田南岳璋筆画
田南岳璋
田南岳璋画伯(明治9年~昭和3年)は松阪市高町の出身で、当西方寺の檀徒であり、お墓も当寺にある。
風景・花鳥を描き、文展に無審査出品するなど活躍した。
大正3年の一夏を菩提寺である当西方寺に逗留し、作品創作に励む。このとき描かれた一幅が当寺に寄進され、ここに示す大作(高さ199cm、幅100cm)であり、大正三年九月とある。
その他の画
本尊後の二十五菩薩図、および涅槃図
写真9 二十五菩薩図
写真10 涅槃図
本尊後の壁画、二十五菩薩図
本尊阿弥陀如来座像とその脇侍の後の壁画には、二十五人の菩薩が描かれている(高さ188cm、幅234cm、写真9はその一部)。よって、本尊阿弥陀如来は、二十五人の菩薩を伴って死者を迎えるという、聖衆来迎の姿を示している。
この壁画は、元禄9年(1696)当山第15世真遄上人代に、橋本氏により寄進された。
涅槃図
お釈迦様は80歳となられて自分の死を悟られ、郷里への旅に出て沙羅の双樹に囲まれた地で入滅された。これを知って王侯貴族・弟子や、生きとし生けるものが集まって、悲しみに涙する。この情景を描いたものが涅槃図である。ただ、猫だけは一般には描かれない。これは、生母マーヤ夫人が、天上界で蘇生薬を袋に入れて投げ落とされたところ、沙羅の木の枝にひっかかってしまった。そこで鼠がこれを取りに上がろうとしたが、猫がこの鼠を食べてしまった。 そこで、涅槃図には猫は描かれないことになっている。
一般に涅槃図は大きさを競う傾向があるが、当寺のそれ(写真10、高さ136cm、幅87cm)は小幅ながら金泥のみならず金箔を多く使用した豪華なものである。