東海道(日永の追分から関まで) 伊勢別街道をゆく
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熊野街道を歩いているのだが、残るコースはどんどん南へ行ってしまい遠い、しかも菜種梅雨が続きなかなか思うにまかせない。
そこで比較的近いコースを歩くことにした。折りしもNHKで「街道てくてく旅」という番組が始まり、4月から6月にかけて55日間で東海道を歩き53宿を訪ねるという。そうだ、三重県内の東海道を、それに先駆けて歩いてみよう。といっても、伊勢街道(参宮街道)を歩いたとき、桑名の七里の渡しから日永の追分までは歩いてあるし、関から坂下を通り鈴鹿峠も越えてある。日永の追分から関宿までの道程、2日もあれば充分である。ついでに関から江戸橋までの伊勢別街道も歩こうと思いたった。
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日永の追分から井田川まで
東海道と伊勢街道の分岐点(追分)に嘉永2年(1849)建立の道標がある。「右京大坂道」「左いせ参宮道」「すぐ江戸道」と刻まれている。ここが今日の出発点。東海道を通るが伊勢に参拝しない人のために安政3年(1774)に神宮遥拝鳥居が立てられた。伊勢神宮式年遷宮ごとに神宮の古材を使って立て替えられる。昔は伊勢へは鳥居をくぐって通行したそうだ。大蓮寺、観音禅寺、小許曽神社、願誓寺の前をいく。道が直角に曲がっているのはこのあたりに大きな寺院の境内があったからだという。国道1号に出るあたりに近年まで街道名残松が2本残っていたそうだが今はそれもない。内部川は国道の橋に迂回する。このあたりは道路が交錯していて旧道への入口が見付けにくかった。やがて、距離は短いが東海道の中でも急坂で知られる杖衝坂にかかった。神代の昔日本武尊が東征の帰りにここにさしかかった際大変疲れていたので杖をついて歩いたと言われることからその名がついたとのこと。坂の登り口に金刀比羅宮があり、途中に「史蹟 杖衝坂 三重県」の石碑、文化8年(1811)の「永代常夜燈」、旅人や住民が飲み水として利用した「弘法の井戸」「大日の井戸」という井戸が2ケ、宝暦6年(1756)建立の「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」の芭蕉句碑がある。坂の上に尊の足の出血を封じたという御血塚の祠、「日本武尊御血塚」の石碑、民家の玄関先にお地蔵さんが祀られている。ちなみに古事記によれば東征の帰路伊吹山に登って病にとりつかれた日本武尊が三重の村にさしかかったとき「私の足は三重に曲がってしまった」と嘆き、このことから「三重」という地名が付けられたという。国道に沿う長い道をいくと、寛治2年(1088)創建の豊富稲荷神社があり、昔は参勤交代で通行する大名を旅人がここで迎えたという「土下座場」があったそうだ。国道を分けるあたりに、延命地蔵と南無阿弥陀仏碑があった。再び国道を越えて地蔵堂のところから旧道に入る。江戸から数えて44番目の宿、石薬師宿である。連子格子の家が残り旧街道らしい家並みが続く。「信綱かるた道」と称して街のあちこちに佐々木信綱の短歌額が掲げられている。ここは信綱の生まれた街である。道の奥に式内社大木神社が見える。小沢本陣跡を過ぎしばらくで、歌人で国学者であった信綱の生家が江戸期そのままの姿で残っていた。研究資料等を展示した無料の記念館とともに見せていただき時の経つのも忘れた。なお生家の隣には昭和7年信綱が還暦にあたり寄贈した石薬師文庫、その前庭に翁の碑と「ふるさとの 鈴鹿の嶺呂 秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を」など3首の歌碑が建つ。館を出るとすぐ佐々木家の菩提寺浄福寺があり、その先道の角に道標が立つ。国道を陸橋で越えると地名由来の石薬師寺。本尊の薬師如来は、地面から生えていた菊面石に弘法大師が爪で刻んだと伝えられている。小さな橋を渡ったところに、石薬師の一里塚があった。昔は榎が植えられていたらしい。「史蹟 石薬師の一里塚址」の標柱の前でしばらく休憩し、持ってきたお握りを食べた。ここで地図を見誤り10分ほど進む。このまま進んでも旧道に合流することはわかっていたのだが、できる限り正しい街道を歩きたいと山ノ原の常夜燈のところから一里塚まで戻った。鈴鹿川に沿う国道沿いをいく。工場の角で曲がり2本奥に平行する道が庄野宿を通る街道である。庄野宿の入り口に東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業として安藤広重の描く「庄野の白雨」を中心とした立派な看板が建っていた。善昭寺を過ぎると旧小林家住宅が資料館になっていたが、あいにく金曜日の今日は休館日だった。街のあちこちに問屋場跡、庄野宿本陣跡、高札場跡、郷会所跡などの説明木札が掲げてあった。常楽寺、川俣神社などを家並みの中に見ながら進む。国道をトンネルで潜って汲川原に入ると平野道の道標が立っていた。真福寺を見て少し行くと「従是東神戸領」の石柱と石燈籠があった。大きな女人堤防の石碑も建っていた。下流に神戸城下があるので堤防工事が禁止されていたため夜に女性たちが密かに堤防を造ったという女人堤防がすぐそばにあった。道の反対側に山の神。手洗石は文化10年(1813)のもの。さらに行くと式内川俣神社。中富田一里塚のあったところである。現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号の家があるそうだ。この地から江戸へおよそ百里である。常夜燈、楠の大木(樹齢600年)、山の神、手洗石(1856)、「従是西亀山領」と刻まれた石柱がある。眺めていたら東海道を歩いているという人に出会った。山梨の人で暇を見つけては日本橋から歩いているそうだ。しばらく話をする。常念寺、福満寺を過ぎ、「ひろせ道」の道標を見た。ついで川俣神社に立ち寄った。ここには庚申塔、山神、献燈(1803)、慶応2年(1866)の常夜燈、「右ひろせ 左はたけ」の道標、神戸城主織田信孝ゆかりの井戸跡の標柱などがあった。和泉橋に迂回し、「右ののぼり道」の石柱、自然石の道標、観音堂を見て進む。坂の上に地福寺を見て細道に入る。踏切を渡ると井田川の町並みに入る。道の角に地蔵堂が祀られていた。井田川駅の前にあったという街道名残の一本松は今はもうない。
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井田川から関まで
各駅停車のJRは本数が極めて少ない。亀山からタクシーで井田川駅まで送ってもらった。駅近くには松並木が続いていたが戦時中に伐採されて一本だけ残っていたそうだが、今はそれもない。国道を渡りしばらくで左折すると西信寺がある。椋川を理左衛門橋で渡る。この川はしばしば氾濫したため、安永年間に亀山藩士生田理左衛門が私財を投げ打って水流を南に変え橋を架けたという。さらに直進すると「南無妙法蓮華経」と刻まれた法悦の供養塔、元禄3年(1690)に立てられ県内東海道中最古の「従是神戸白子若松道」と刻まれた道標がある。道なりに曲がったところにシャングリサンの小祠、「井尻道」の道標、福善寺、石上寺と続く。石上寺は紙本墨書石上寺文書が県指定文化財になっているそうだが、今境内のムラサキツツジが美しい。やがて和田一里塚跡、きれいに整備されている。どんどん行くと西亀山宿。
亀山は城下町、宿場町として栄えたところだ。今町の有志が屋号札を作って掲げ町並み保存に努めておられる。地蔵堂があり、日本武尊を祀る能褒野神社の鳥居、その下に頭部がわずかに10cmほど見える道標、「従是北境町」と刻まれているらしい。露心庵跡、江戸口門跡、椿屋脇本陣跡、樋口本陣跡と宿場町を通る。遍照寺を見、人形(でごろぼ)坂を下ると連子格子・幕板・板庇の家が残る。坂の上に並木松が見える。その上が亀山城である。天正18年(1590)岡本宗憲が築いた城で三層の天守閣があった。現存する多聞櫓は天保の頃本多俊次が建てたもので、県下唯一の城郭建造物として県文化財に指定されている。多聞櫓を取り巻く桜が美しい。西町問屋場跡、「左東海道 右郡役所」「左停車場 右東海道」の道標が道を挟んで2基ある。なまこ壁の屋敷は亀山藩家老の屋敷で、門・長屋・土蔵が残っている。「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた京口門跡、梅厳寺、連子格子の家、光明寺、慈恩寺の前を通り連子格子の家並みを過ぎると宿場町のはずれである。「天照皇大神御鎮座跡 忍山神社山道」の碑を過ぎると野村一里塚がある。慶長9年(1604)に家康の命により建造された。県内に12か所あった一里塚の中で唯一現存する。椋の木は国史跡に指定されている。布気皇館太神社、昼寝観音、常夜燈、清福寺、道標、もう一つの常夜燈を見て国道を渡る。このあたりは太岡寺畷といわれる長い松並木があり、里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかにき(気・木)はない まつ(松・待つ)ばかりと謡われている。旧街道と名阪国道が交差する高架下には、広重の浮世絵「東海道五十三次」から県内の宿場町にちなんだ7枚の拡大版画が設置されていた。国道から逸れるところに、関の小萬の碑、関の小萬のもたれ松があった。程なく東海道と伊勢別街道の分岐点、東の追分である。県指定史跡で、伊勢神宮一の鳥居や道標・常夜燈・手水鉢・一里塚跡の碑などがあった。ここから関宿である。
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関から高野尾まで
伊勢別街道を歩くことにした。出発点は東の追分である。ここは東海道と伊勢別街道の分岐点である。大きな伊勢神宮一の鳥居が見える。内宮宇治橋の南詰めの鳥居が遷宮の時に移設されたものである。元文5庚申年(1692)の常夜燈がある。また享保7壬寅年(1722)の常夜燈もある。こちらは火袋と屋根がないが、「是よりいせみち」と刻まれている。他に「是より外宮十五里」「右さんぐうみち 左江戸橋」と刻まれた道標が2基あったそうだが、ここを訪れるたび何度も探すのだが見当たらない。坂を下り南へ向うと勧進橋がある。度々洪水で流失し、勧進により浄財を求めて架けたそうだ。少し行った曲がり角に鈴鹿駅家跡があった。旅人の便宜のために乗馬や人夫を備えたり旅人の宿舎を設けた場所である。隣に御厩の松跡があり、直径2.35m、樹齢約350年の根株が保存されている。大井神社跡の石碑も建っている。連子格子の家も残っている。東名阪道の下を潜る。しばらく行くと庚申塚があり、小堂内に三面忿怒形の青面金剛石像、地蔵三体などが祀られていた。ここから旧街道に入る。村社明神社の石標のところから少し入ると文化10年(1813)の常夜燈があった。街道らしい家並みの中をいき橋を渡ってから山道に入る。日は照っているのだが雨がパラパラと落ちてきた。それも心地よいと進む。家並みの始まったあたりに、それと気をつけて見ないと見落としそうなところに小堂があり、その前に高さ60cm自然石で「弘化4年(1847)」と刻まれた碑があった。ここは楠原宿である。白子への道との分岐点に二階建て古い洋風建築の芸濃町資料館があった。雨がしとしとと降る春雨になってきた。フードを被って歩く。県道との交差点に「御神燈 右さんぐう道 左り京道 安永五丙申年(1776)」と刻まれた道標を兼ねた常夜燈があった。直進し突き当たるのが横山池。慶応2年(1866)駒越五良八が私財を投じて造った池だ。駒越翁彰功碑がある。その横に文化2年(1805)の自然石の碑も建つ。いよいよ椋本宿、立派な宿場町である。案内書には駒越五貞氏の家が廃屋となって残っていると出ているが見当たらない。雨が本降りになってきた。地名となった国の天然記念物の大楠を見たいと思ったがそれどころではなくなってきた。道の角に標柱と自然石の道標があり、白く大きく「左さんくう道」と刻まれていた。突き当たりに旅館「角屋」があり、今も営業中だ。軒下に参宮講札がかかっている。雨はますます激しくなり、おまけに雹まで降って痛い。教えてもらい、300mばかり離れたコンビニへ走り大きな傘を求めた。これで安心ともとのところまで戻り街道を進む。正徳5年(1715)建立の延命地蔵堂があり、その前に文政4年(1821)の手水鉢があった。しばらく行くと「仁王経」と刻まれた塔が建っていた。かつては広大な原野が広がっていたという道を進み、伊勢自動車道の下を潜る。赤塚農園の植木農場が広がり、道沿いの1kmに及ぶかと思われるところに植えられた石楠花が今まさに花盛りですばらしく美しい。ここが今日の目的地と考えていた高野尾である。
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高野尾から江戸橋まで
雨はすっかりあがり青空が広がってきた。それにまだお昼前、せっかくだから江戸橋まで歩くことにした。県道を逸れてすぐのところに、小さな地蔵が立っていた。2kmほど進み再び県道と交わるところに、小堂があった。石柱に「ぜに可け松」と刻まれていた。昔、病気になった参宮道者が旅半ばで引き返す際、この地の松に銭を結びつけ松を拝んで立ち去った。別の人がその銭を取ろうとすると銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮と同じくらいのご利益があるという民話が残る。句碑と文政5年(1822)の常夜燈があった。ここで持ってきたおにぎりを食べた。長い長い一本道を辿り中の川を越えると窪田宿である。入口に青木地蔵が祀られている。やや道の奥に六大院、道の角に仲福寺。JR紀勢本線の踏み切りの前で曲がる。道の脇に巨大な常夜燈がある。文化14年(1817)神宮へ奉献燈されたものである。真宗高田派本山の専修寺の大きな屋根が見えてきた。ちなみにここは我が家の本山である。踏み切りを渡り、一身田駅の前を通る。この前の通りが桜堤があったという桜道。ここを曲がると、一心龍王権現と延命地蔵尊を祀る社があり、小路の奥に専修寺が見える。小路はいかにも門前町らしく家並みが美しい。伊勢鉄道の踏切を越え、旧道を道なりに進むと、今度は近鉄名古屋線の踏み切り、そこを渡ると江戸橋の駅は間もなくであった。駅を通り越し、伊勢別街道の終着点、伊勢街道との追分まで足を延ばした。ここには、「左高田本山道東京占とをりぬけ」と刻まれた道標と、安永6年(1777)の常夜燈が建っていた。
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