天上の音   



品良く纏められた部屋の中にあって
重厚で深い存在を放つ グランドピアノがひとつ。
窓から差し込む、あたたかな白い光が
ピアノの前に座る少年の
亜麻色の髪を、柔らかく包む。


鍵盤の上を流れるように滑る、その指先から生まれるのは、
透明な音の破片達。


少年は、優しく目を伏せながら
その欠片達を拾い集め、
まるで魔法を見せるかのように、音を織りあげていく。


音は輝きながら翔けあがって花弁となり
水面に舞い落ちて、波紋を広げる。


初めて聞く筈なのに、
魂の深くで確かに知っている・・・そんな音楽。




穏やかな時間。
時を止めた、夢の世界ではないと告げるのは
ピアノの音だけ



そんな、永遠に続くかと思われた時間は


唐突に消えた音に引き戻された。



手が止まり、亜麻色の髪がふわ、と揺れる。
余りの静けさに、ふと我に返ったのだ。
ついつい集中して自分の世界に入ってしまい、周りが見えなくなる。
現に、この音楽を聞く客人の存在をたった今まで、忘れてしまっていた。



振り向いた先。
ベルベット素材に似た手触りを持つ高質な生地に包まれたソファに沈む、その少年は
少し首を傾げて、 聞えてくる奇蹟を聞き逃さぬよう 目を閉じている・・・かに見える。


けれど、音が止んだのに、その瞳が開かれることのない。


「キラ?」


ニコルは微かに押さえめのトーンで、少年の名を呼びかけると椅子から立ちあがった。





ヴェサリウスが帰港する寸前。待ち伏せていたキラに掴まった。
とても深刻そうな、真剣な眼差し、
文字通り掴まれた腕。

『なんですか、キラ』

その表情に、何を言われるのかと早鳴る鼓動をねじ伏せて、キラに向き直る。
キラはすうっと軽く息を吸いこむと、上目遣いにニコルを見つめ・・・唇を開く。

『ニコルって・・・ピアノ弾くんだって?』

え、
何だ、そんな事?

辛うじて口には出さない事には成功したのだが、思いっきり顔には出たのだろう。

『やっぱり・・・知らないのは僕だけか』

キラは口を結ぶと、珍しく拗ねたような表情になった。


『い、言ってませんでしたっけ』
『・…聞いてない。アスラン達はピアノ聞いた事あるんだ?』
『あると思いますよ。全員が揃ってる場で演奏した事もありますから』

ふーん。
キラは釈然としないといった表情で、どうして僕だけ・・・と口許に手を宛て呟く。


こんなキラを見るのは本当に珍しい。
ニコルの顔は自然に綻んだ。


キラは、独特の・・・警戒心を解かせる雰囲気を持っている。
それにキラの方も余程でない限り拒むような事はしないから、気を抜くと彼の周りは人だかりが
できてしまう程で、アスランなど心中穏やかではない人は多い。

けれど、容易に人を近づけさせるのだけれど、
更に深く・・・と手を伸ばそうとすると、するりとかわされてしまう。
人当たりはいいけど、どこか掴みどころがなくて。

綺麗で
強い

ザフトの勝利の女神。


そんな呼び名をも戴くキラが、今自分のピアノ如きで少し拗ねているらしい。
その姿は・・・年相応・・・・いや少し「かわいい」かもしれなくて。


(アスラン辺りにはいつもこうなんでしょうか)

思わず噴き出しそうになるのを必死で押さえていると、
キラがぴたりと独り言を止めた。

『・・・ニコル。休暇中一日くらい空いてる?』
『え?えぇ、大丈夫ですけど』
『僕も一度ニコルのピアノを聞いてみたい…駄目かな』


口許を手で覆いながら、少し赤くなった顔で言われ・・・
断るなんて事、できる筈が無かった。




「寝ちゃいましたか?」


手の甲で茶色の髪を掬い上げ、少し体を屈めその顔を覗きこむ。

と。
長い睫が震え・・・アメジストカラーの瞳が静かな色を湛える。
薄く開く唇。


「・・・そんな勿体無い事する訳ないよ」


そこから零れる、少し掠れた耳に溶けるような 声。


そして、流れるような仕草で、髪に触れられていたニコルの手を捕らえると

そっと唇を降らせる。

浸透する・・温かい感触。


それはまるで、騎士が主君に捧げる仕草。



「!?」


瞠目するニコルの前で、キラはその唇を離すとふわりと微笑んだ。


「素敵な音を聞かせてくれた、この綺麗な指に感謝と敬愛を込めて…」



光りに透ける純度の高い鉱石。
その目に映るのは、自分だけだと思うだけで、体中が甘く痺れる。



「ってイザークの真似なんだけど・・・やっぱりやる人がやらないとカッコ良くないな。」


キラは亜麻色の髪を指に絡めて、悪戯っぽく・・・優しく目を細める。



耳に熱が集中してくるのが解った。
きっと目も潤んでいる。

泣きたくなるような、溢れる気持ち。


キラにとっては何でも無い行動だとしても
自分の自制心を掻き乱すのには充分過ぎる・・・力。


「・・・ずるい・・・です」


ニコルは無理矢理表情を笑みに変える。


この人は、駄目だ。
絶対に自分の手には入らない事なんて、解っている。



「・・・キラはそうやって・・・人の心を奪うのが・・・得意だ」


けど、このままでは。


あのアスランにさえ嫉妬してしまう。
敵うはず・・・無いのに。




抑え切れなくて、思わずキラの唇に自分のものを重ねていた。
キラは少し驚いた表情をしたけれど、それでも突き放すようなことはしなくて・・・静かに受け入れてくれる。


宥めるように触れられる優しい、手。


きっと、これでキラの心が変わることはないのだと思う。
明日も「ニコル」と変わらぬ声で呼んでくれるのだろう。


(けれど・・・せめてこの瞬間が・・・)


―― 少しでもキラの中での葛藤となればいいと祈るような気持ちで



更に深く唇を落とした。