朝晩が涼しくなりずいぶん秋らしくなりましたね。
昨日息子を連れて山奥に入ってみました。
大きな木の下に実が落ちていました。栃の実です。
栗ほどの大きさでちょっと見は栗のような色合いの実です。
栗のようなイガではなく分厚い種皮に覆われています。
種皮を取り除いたものを道の駅で売っているのは見たことがありましたが実際に拾ったことはありませんでした。
田舎に育ったボクでさえ初めてのこと、息子は栗拾いもしたことがないので2人で喜んで集めました。
でもどうやって食べるのかな?栃餅は食べたことがありますが…
こういうときは実家の母に任せるのが一番です。
さて本題です。
今月の初めに同居の義父が亡くなりました。74歳でした。
家内が一人娘なのでボクが喪主を務めてお見送りをしました。
1年前に肝臓癌だと判り通院療養していましたが7月頃からは入院が続いていました。
怖がりの義父でしたので癌告知はしていませんでした。
本人が癌と知っていたかどうかは定かではありません。入院患者間での情報交換や症状から疑いは持っていたようですが確証には至らなかったというところでしょうか。
ボクにも直接問われたら困ると思っていましたが、本人も聞きたくなかったのか病名について触れることはありませんでした。「治ったらあれがしたいこれがしたい」と言っていましたので不治の病とは思っていなかったようでもあります。
前述しましたが今年の正月に親友を癌で亡くしました。
彼も余命については触れませんでした。癌であることは知っていましたし衰弱していく自分が永くないことは判っていたと思います。
病室では「絶対に治るからな」「おう、判っとる」こんなやり取りの繰り返し。痛いとは言っていましたが、家族や友人に「生きたい」とも「死にたい」とも決して言いませんでした。
1人のときは涙していたこともあったそうですが最後まで取り乱すことなく、誇り高い彼らしい誇り高い死に際でした。
早すぎる死ではありましたが『死にざま』は見習いたいものです。
義父は最後は脳症ぎみになり惚けたような状態になりましたが、結果的には死について触れることなく死んでいきました。
癌告知はほとんどの人が希望しているようです。余命も知りたいという人が多いと思います。
『病は気から』というように、治らないと思うと治らないという観点から告知をためらう周囲の気持ちもよく分かります。
ボク自身は「必ず告知して欲しい」と常々言っています。
しかしながら理想的な死に際を実行できるかどうかは不安です。義父のように知らないほうがいいのかも知れません。
あまり永く考える時間があると精神に異常をきたす恐れがあります。全く準備も出来ず事故や突然死で世を去るのも困りますが…
『死にざま』は『生きざま』でもあります。
映画【ラストサムライ】で死にざまを問う日本人である天皇に対して「いかに生きたかお話しましょう」と答える主人公の欧米人。
ボクにはどちらも大切です。
『死にざま』はなかなか自分の思い通りにはいかなさそうなので、せめて『生きざま』だけは誇りをもって努めていきたいと思うしだいです。
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