ドン・キホーテを読んで
若い頃に読んだ時は、 ドン・キホーテは少し滑稽な人物に見えた。 風車を巨人と思い込み、 周囲から理解されず、 何度も失敗を繰り返す。 なぜそんな話が長く読み継がれているのか、 当時はよく分からなかった。 けれど年齢を重ねると、 少し見え方が変わってくる。 世の中には、 効率だけでは説明できないことがある。 もっと簡単な方法があるのに、 あえて遠回りをする人がいる。 誰も気にしないような地方料理を調べたり、 昔の本を探したり、 現地で見た作り方を再現しようとしたり。 考えてみれば、 ずいぶん非効率なことをしている。 今なら、 もっと分かりやすい料理も作れるし、 もっと受け入れられやすい方法もあると思う。 それでも、 なぜかそちらへは向かわない。 正しいからではなく、 単純に興味があるからだ。 ドン・キホーテは最後まで、 自分が見ている世界を信じていた。 それが正しかったかどうかは別として、 少なくとも人に合わせて生きた人物ではなかった。 地方料理を追いかけていると、 時々そんなことを思う。 大きな流れから見れば、 ずいぶん小さなことをしている。 それでも、 まだ見てみたい景色がある。 だから今日も、 同じような本を開き、 同じような仕込みをしている。ズッキーニのファルシィ
ズッキーニのファルシは、 日本の肉詰めピーマンのように「中身を詰めて形を保つ料理」とは少し発想が違う。 肉が剥がれないことや、 中身が外に出ないこと自体は主目的ではない。 むしろ、 火入れの結果として自然に一体になっているかどうかが重要になる。 ズッキーニは水分が多く、 火が入りやすい野菜であるため、 単純に詰め物を固定するというより、 全体の水分と火入れのバランスで成立させる料理になる。 外側と中身を「分けて守る」のではなく、 火を通す過程で一つの状態にしていく。 そのため、 形が保たれていることよりも、 中と外の火入れの差が小さいことの方が意味を持つ。 日本的な詰め物料理が「崩れない構造」を重視するのに対し、 こちらは「崩れ方すら設計の一部」という感覚に近い。 見た目の安定よりも、 火が入った時の一体感が最終的な評価になる。 ズッキーニのファルシは、 詰め物料理というより、 火入れでまとめる料理だと思っている。ルセットは残るが、感覚は残らない
レシピは残るが、感覚は残らない 料理の本を読むのは好きだ。 昔の地方料理の本もよく読む。 材料も分量も書かれている。 作り方も書かれている。 でも、 読めば作れるかというと、 そういうものでもない。 どのくらい炒めるのか。 どのくらい水分を飛ばすのか。 どこで火を止めるのか。 本当に大事な部分ほど、 言葉では残っていないことが多い。 昔の家庭料理を見ていると特にそう思う。 計量もせず、 温度計も使わず、 当たり前のように作っている。 けれど、 その当たり前の感覚こそが、 一番伝わりにくい。 レシピは残せる。 ただ、 感覚は見るしかない。 だから地方料理を作る時は、 レシピを追いかけるより、 その料理がどんな状態を目指しているのかを考える。 何を足したかではなく、 どこで止めたのか。 そこに、その土地らしさが残っている気がしている。バスク郷土料理を終えて
今月でバスク地方料理が終わる。 毎月地方を変えているが、 終わるたびに思うのは、 料理そのものよりも、 その土地の考え方に触れていたのだということ。 バスクの料理は力強かった。 魚も肉も、 野菜も香辛料も、 それぞれがはっきりしている。 だからこそ、 足すことより、 揃えることの方が大事だった。 強いもの同士をぶつけるのではなく、 同じ方向を向かせる。 そんな感覚で料理を作っていた気がする。 地方料理をやっていると、 新しい技術を覚えるより、 昔から続いている理由を考える時間の方が長い。 なぜこの組み合わせなのか。 なぜこの火入れなのか。 なぜ今も残っているのか。 その答えを探しながら、 一か月が過ぎていく。 結局、 地方料理はレシピではなく、 積み重なった生活そのものなのかもしれない。 今月も多くの方に召し上がっていただいた。 ありがとうございました。 来月はまた別の地方へ。 料理は変わるが、 土地の空気を探すことだけは変わらない。プロヴァンス郷土料理
来月からのプロヴァンス料理について 来月から、 料理をプロヴァンス地方に変わります。 南仏の料理というと、 明るく軽い印象を持たれることが多い。 ただ、 実際に地方の料理を見ていると、 思っている以上に素朴で、 輪郭が強い。 野菜をたくさん使うが、 ただ軽いわけではない。 オリーブオイル、 にんにく、 アンチョビ、 ハーブ。 それぞれの主張がはっきりしていて、 少しでも扱いを間違えると、 すぐに全体が崩れる。 だから、 派手な料理というより、 どこで止めるかを見続ける料理に近い。 ラタトゥイユも、 単に野菜を煮れば成立するわけではない。 火を入れすぎれば、 全部同じ味になる。 逆に触りすぎると、 野菜が持っている輪郭が消える。 整えすぎない。 でも、 放置もしない。 その曖昧な境界の中で、 料理をまとめていく。 地方料理はどこもそうだが、 プロヴァンスも、 綺麗に作りすぎると別の料理になる気がしている。 少し粗さが残るくらい。 そのくらいで、 土地の空気が一番見える。 来月は、 南仏の強さを、 整えすぎずに出していきたいと思う。カイエ・ド・レ
牛乳のカイエについて 牛乳のカイエは、 地方に行くほど、 料理というより日常に近くなる。 特別な技術を見せるわけでもなく、 派手な材料が入るわけでもない。 温めた牛乳を固める。 本来は、 それだけのものだと思う。 だからこそ、 その土地の牛乳や、 作る人の感覚がそのまま出る。 固まり方も毎回少し違う。 均一でもないし、 形も揃っていない。 それでも、 ちゃんと成立している。 以前見たものも、 決して綺麗ではなかった。 少し崩れていて、 柔らかさにもばらつきがある。 でも、 牛乳の香りだけは驚くほど残っていた。 整えすぎていないからだと思う。 地方料理はよく、 素朴と言われる。 ただ、 実際は単純なのではなく、 余計なことをしていないだけなのかもしれない。 カイエも同じで、 技術で形を作るというより、 牛乳が一番自然にまとまる場所を探している感覚に近い。 固めすぎない。 揃えすぎない。 少し不均一なくらいで止める。 その曖昧さごと残っているのが、 地方の料理なのだと思う。不揃いの微塵切りや食材について
正確な5ミリ角の微塵切りはサイズが揃えてカットされた食材は美しい。 均一で、 火の入りも揃いやすい。 技術として見れば、 完成度は高いと思う。 ただ、 地方料理になると、 少し違う空気が出てくる。 郷土料理は、 均一さだけで成立しているわけではない。 大きいもの、 細かいもの、 少し崩れたもの。 その不揃いさの中で、 食感や火入れに差が生まれる。 結果として、 料理に奥行きが残る。 以前、 現地の家庭料理を見ていた時、 ママがまな板を使わず、 手の内だけで野菜を切っていた。 当然、 大きさは揃っていない。 それでも料理としては、 不思議なほど成立していた。 むしろ、 均一すぎないことで、 食感や火の入りに揺らぎが残り、 それが料理の空気になっていた。 もちろん、 雑に切るという意味ではない。 揃えすぎない、 という感覚に近い。 均一に整えることはできる。 ただ、 整えすぎると、 料理が持っている粗さや力強さまで消えてしまうことがある。 料理は綺麗にするほど洗練されるが、 少し崩れていることでしか残らないものもある。 地方料理は、 その境界を見続ける料理なのだと思う。「郷土料理は、その国の普通のごちそう
フランス郷土料理を作る理由は、ただ昔のレシピを再現したいからではありません。 それは、フランスの土地ごとに受け継がれてきた“お袋の味”や、家庭の記憶を、日本人にも伝えたいからです。 日本に昔から残る煮物や味噌汁のように、フランスにもその土地の気候や暮らしの中で生まれ、今まで残り続けてきた料理があります。 派手さではなく、長い時間の中で人に必要とされ続けた味。 そんな料理を、今の日本で丁寧に作り続けていきたいと思っています。観察の答え合わせ
料理をしていると、 技術より先に観察があると思うことが多い。 温度を上げた時、 脂がどう変わるのか。 塩をした後、 水分がどの速度で動くのか。 火を入れ続けた時、 どこで崩れ始めるのか。 本や理論にも意味はあるが、 最終的には、 自分の目で見たものに戻ってくる。 だから料理は、 知識を増やす作業というより、 観察の答え合わせに近い。 思っていた通りだった時もあれば、 まったく違った動きをする時もある。 むしろ、 そのズレの方が面白い。 地方料理をやっていると特に、 派手な技術より、 小さな変化を見る時間の方が長い。 温度、 水分、 時間。 その積み重ねでしか、 料理は変わらない。 結局、 料理は作っているというより、 状態を見続けているだけなのかもしれない。地方料理を変えない理由
地方料理をやっていると、 「現代風にしないのか」と聞かれることがある。 確かに、軽くしたり、 構成を変えたりすることはできる。 実際、その方がわかりやすくなる料理もあると思う。 ただ、自分はそこにあまり興味がない。 地方料理には、 その土地の気候や保存方法、 流通の事情まで含まれている。 つまり、 不便さも含めて成立している。 そこを整えすぎると、 別の料理になる。 もちろん、 何も変えないわけではない。 塩加減も火入れも、 今の食材や環境に合わせて調整はしている。 ただ、 料理の“重さ”までは変えたくない。 ノルマンディーなら、 脂やクリームの重さ。 バスクなら、 素材同士がぶつかる強さ。 その土地が持っている性格まで削ってしまうと、 地方料理をやる意味が薄くなる気がしている。 料理は整えるほど綺麗になるが、 削りすぎると、 その土地らしさまで消えてしまう。 だから、 変えるよりも、 どこで止めるかを考えている。 結局、 地方料理は技術だけではなく、 「何を残すか」の料理なのだと思う。バスク地方の郷土料理を仕込んで感じた事
バスク地方の料理は、贅沢ではなく“生き抜くための味”だ。ノルマンディー料理を提供し終えて感じた事
ノルマンディーの素朴な一皿は、豊かさではなく“限られた中で生きる知恵”から生まれた。 それは時に人を追い詰め、時に人を救う――レ・ミゼラブルが描いた世界と同じように。来月からのバスク地方料理について
フランスの中でも、バスクの料理は少し異質だと思っている。 洗練されているわけでもなく、 軽いわけでもない。 むしろ、素材と火入れがそのまま前に出る。 誤魔化しが効かない料理が多い。 例えばピペラードやトゥーロ(Ttoro)のような料理は、 構成としては単純だが、 どこで止めるかを間違えるとすぐに崩れる。 火を入れすぎれば重くなり、 足りなければただの生に近くなる。 その中間を取る必要がある。 バスクの料理は、足し算ではなく強さの調整だと思っている。 唐辛子やトマト、魚や肉。 どれも主張があるが、 それぞれを立たせすぎるとまとまらない。 かといって抑えすぎると、 ただのぼやけた料理になる。 必要なのは、 全体として成立する強さで止めること。 地方料理はどこもそうだが、 バスクは特にその傾向が強い。 わかりやすくするために整えるのではなく、 そのまま成立させる。 結果として、 少し粗さが残るくらいでちょうどいい。 それがこの土地の料理だと思っている。 来月は、 余計なことをせずに、 この強さをどう扱うかに集中したい。地方料理を続ける理由
料理は進化するものだと言われることが多い。 確かにそれは間違いではないが、 すべてが進化の対象である必要はないとも思っている。 地方料理は、その土地の気候、保存方法、流通の制約の中で成立してきた。 つまり、すでに完成している。 そこに現代的な解釈を加えること自体は否定しないが、 それは別の料理になる。 自分がやりたいのは再構築ではなく、 「そのまま成立させること」。 不便さも含めて、その料理だと考えている。なぜ豚肉に塩して熟成させるか
当店では、豚肩ロースを仕入れてすぐには使いません。 軽く塩をして、数日間休ませてから料理に使います。 これは特別なことではなく、フランス料理ではごく基本的な考え方です。 肉は時間を置くことで水分が整い、味が落ち着き、より自然な旨味が引き出されます。 面白いのは、同じ豚肉でも日ごとに状態が変わることです。 仕込んで2〜3日目は、シンプルに焼くのが一番良い状態です。 表面は香ばしく、中はしっとりと仕上がります。 4日目あたりになると、肉質が締まり、味わいがよりはっきりしてきます。 このタイミングではローストなど、少し火入れを工夫した料理に向きます。 さらに時間が経ったものは、煮込みや のような料理に使います。 状態に合わせて調理法を変えることで、無理なく、美味しく使い切ることができます。 現在当店でご用意しているノルマンディー地方の料理も、こうした考え方の上に成り立っています。 バターやクリーム、シードルやリンゴを使うのは、単に伝統だからではありません。 その時々の肉の状態に寄り添い、より美味しく仕上げるための工夫です。 同じ食材でも、その日の状態によって最適な料理は変わります。 毎日同じようで、少しずつ違う一皿をお楽しみいただければ幸いです。古川亭が地方料理と古典にこだわる理輔
古川亭では、フランスの地方料理と古典を基準に料理を組み立てています。 新しい表現や見た目の華やかさではなく、なぜその料理がその形になっているのか。 その背景にある考え方を重視しています。 地方料理には、その土地の気候や食材、保存の技術がそのまま反映されています。 当店では、毎月扱う地域を変えながら、それぞれの土地に根付いた料理を組み立てています。 また、古典料理は長い時間をかけて整理されてきた「構造」です。 味の重ね方やソースの役割、火入れの考え方など、すべてに理由があります。 当店では、それらを単に再現するのではなく、判断基準として使っています。 どこを残し、どこを変えるか。その選択を明確にするために、古典を軸にしています。 結果として、派手さのある料理ではありませんが、食べ進める中で味の流れや構造が見えてくる料理になります。 流行に合わせて変えるのではなく、積み重ねとしての料理を続けていくこと。 それが古川亭の考え方です。 一皿ごとの背景も含めて、楽しんでいただければと思います4月提供のノルマンディー郷土料理
古川亭定番メニュー
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