将来店を持つなら本当に学ぶべきポイント
独立するなら、何を学ぶべきなのか 先日、うちの料理を気に入ってくれた若い料理人が、 「ここで働かせてもらえませんか」 と相談に来た。ありがたい話ではある。 ただ、話を聞くと、いずれは自分で店を持ってやっていきたいという。 それなら、うちで料理の作り方を覚えることが、本当にその人のためになるのだろうかと思った。 少し厳しいかもしれないが、自分はこう話した。 独立して店を経営していくつもりなら、料理の作り方や知識だけを学ぶのは違うと思う。 出来ることなら都会の繁盛している店へ行った方がいい。 そこで見るべきなのは、料理だけではない。 その店が何を大切にしているように見せているのか。 シェフがどんな考えで料理に取り組んでいる人として、お客さんから見られているのか。 その考えを料理、メニュー、店の雰囲気、言葉、発信まで含めて、どう一つのイメージにしているのか。 そこを見た方がいいと話した。 少し嫌な言い方をすれば、「どういう料理人であるか」だけではなく、「どういう料理人に見えるか」まで勉強した方がいい。 実際に店をやれば、料理が上手ければお客さんが来る、というほど簡単ではない。 むしろ料理を難しくし過ぎれば、仕込みに時間がかかり、原価も人件費もかかる。 料理人には面白くても、お客さんにはその違いが伝わらないことだってある。 商売として考えれば、毎日安定して提供できて、多くのお客さんが普通に「美味しい」と感じられる料理を作ることの方が大切になる場合もある。 極端に言えば、提供する料理そのものは「料理の上手な素人」でも理解できるくらいのところに置きながら、その店にしかない価値をどう作るか。 「このシェフだから食べてみたい」 「この店はこういう料理をする店だ」 そう思ってもらえるイメージをどう作るか。 そこまで含めて店を作らなければ、経営を安定させるのは難しいと思う。 料理人として腕を上げることと、店を経営して食べていくことは、似ているようで別の勉強なのだと思う。 自分は料理が好きだから、どうしても料理そのものを深く追いかけてしまう。 だからこそ若い人には、自分と同じことを覚えるだけでなく、自分が苦労してきた部分まで見てほしい。 料理を学ぶ店と、店を続ける方法を学ぶ店。 もし将来自分の店を持つことが目的なら、その違いを考えて修業先を選んだ方がいい。 そんな話をした。 少なくとも自分は、若い料理人に「料理さえ上手くなれば何とかなる」とは言えない。 店を持つというのは、料理を作ることとは別の仕事でもあるからだ。 「料理人と経営者とは絶対に両立できない」持論です終戦記念日
今日は、終戦の日。 あの大東亜戦争において、祖国のため、家族のため、そして故郷のために戦い、 尊い命を捧げられた方々に、心より感謝と敬意を表します。 私たちが今日、平和な日常を送り、食事をし、仕事をし、家族と過ごすことができるのも、 先人たちが生きた激動の時代の上にあるものだと思います。 戦争の是非や歴史については、さまざまな考え方があります。 だからこそ私は、今日という日に、まず一人の人間として、 遠い時代に生き、家族や故郷を残して戦地へ向かわなければならなかった方々の思いに心を寄せたいと思います。 亡くなられた英霊の方々に、感謝と敬意を。 それが、今を生きる私たちにできることなのではないでしょうか。 本日、8月15日。 戦争で亡くなられたすべての方々に、静かに哀悼の意を表します。先ずは楽しいか?で始めてます。
流行り廃りより、自分が楽しめるか 料理をやっていると、流行りというのは目に入ってくる。 今はこういう料理が流行っているとか、 こういう食材が人気だとか、盛り付けはこういうのがいいとか。 それはそれで、知っておいた方がいいと思う。 でも、自分は流行っているからという理由だけで料理をやるのは、どうも苦手だ。 やっぱり、自分がやっていて面白いかどうか。 そこが一番大事なんじゃないかと思う。 フランスの地方料理もそうだ。 今、地方料理が流行っているからやっているわけではない。 昔の料理を調べて、料理本を読んで、実際に作ってみる。 作ってみて、思っていたのと違うこともある。 うまくいかないこともある。 それでも、また調べて、また作る。 そういうことをやっているのが自分は面白い。 料理を始めて40年になる。 40年以上もやっていれば、もう分かっていることばかりだと思われるかもしれない。 でも、実際はまだ分からないことがたくさんある。 だから調べる。 知らなかったことが分かると、また面白くなる。 流行りものを追いかけることが悪いとは思わない。 それで自分が楽しめるなら、それも料理だと思う。 ただ、自分の場合は違う。 流行っているからではなく、 自分が面白いと思うからやる。 自分がやっていて楽しいから続ける。 たぶん、これからもそんな感じだと思う。 流行り廃りより、 自分がそれを楽しんでやれるかどうか。 自分にとっては、それが一番大事なのだと思う。「アレンジ」と「創作」は同じなのだろうか
料理を見ていると、単なるアレンジを「創作」と呼んでいるものが、あまりにも多いと感じることがある。 もちろん、料理を変えることが悪いわけではない。フランス料理そのものも、長い歴史の中で変化してきた。 古い料理がそのまま現在まで残っているものもあれば、時代や料理人によって形を変え、再解釈されてきた料理もある。 実際、フランス料理の歴史を見ても、料理を体系化し、整理し、後世に伝えるという作業が繰り返されてきた。エスコフィエの『Guide Culinaire』も、その大きな流れの中にある。 だから私は、料理のアレンジそのものを否定したいわけではない。問題は、どこまで変えたものを「創作」と呼ぶのかということだ。 材料を一つ変える。ソースを変える。付け合わせを変える。調理法を少し変える。盛り付けを変える。 それだけで「創作料理」と呼ばれているものを見ると、私は少し違和感を覚える。 それは料理人としての工夫であり、アレンジであることには違いない。 しかし、もともと存在する料理の一部分を変更しただけなら、まずはその料理をベースにした「アレンジ」と考える方が、私は正確だと思っている。 そして、地方料理ではさらに慎重でなければならない。 例えば、同じような料理名でも、地方が変われば、使う油脂、香辛料、調理法、ソース、付け合わせまで変わる。 にんにくを入れるか入れないか。バターを使うのか、オリーブオイルなのか。 チーズをどう料理に組み込むのか。野菜をどの状態まで火を入れるのか。 何を添えるのか。そうした細かな違いが積み重なって、その土地の料理になっている。 だから、地方料理の名前だけを残して、自分の好みで中身を大きく変えてしまうと、食べる側には「これがその地方の料理なのだ」という印象だけが残ってしまう。 そこに私は難しさを感じる。 料理人が自由に料理を作ることと、伝統料理を伝えることは、同じではない。 創作するのであれば、創作として名乗ればいい。 アレンジするのであれば、何を元にして、どこを変えたのかを明らかにすればいい。 その方が、元になった料理にも、その土地にも、誠実なのではないだろうか。 創作とは、単に何かを変えることではない。 何を受け継ぎ、何を捨て、何を新しく加えたのか。 そして、そこに料理人自身の考えがどれだけあるのか。 私はそこまで考えて初めて、「創作」という言葉を使いたい。 料理は自由だ。だからこそ、言葉まで自由にしてしまってはいけないと思う。 「アレンジ」と「創作」。 似ているようで、私はまったく同じものだとは思っていない。 40年フランス料理に携わってきても、料理について考えれば考えるほど、こうした当たり前に見えることの方が難しくなってくる。 それもまた、料理を続けていく面白さなのだと思う。フランス地方料理とじゃがいも
フランスの地方料理を学んでいると、じゃがいもの存在の大きさに改めて気付かされる。 日本では付け合わせという印象が強いかもしれない。 しかし地方料理では、じゃがいもは単なる付け合わせではない。 料理そのものを支える大切な食材だ。 オーヴェルニュではチーズと合わせられ、 サヴォワでは山の暮らしを支え、 アルザスでは肉料理と寄り添い、 各地方で、それぞれ違う役割を担っている。 面白いのは、どの地方でも同じ使い方をしているわけではないことだ。 薄く切る。潰す。焼く。煮る。揚げる。 同じじゃがいもでも、料理によって求められる役割はまったく違う。 だから地方料理では、品種や切り方、火入れまで意味を持つ。 じゃがいもは決して脇役ではない。 その土地の気候や暮らし、歴史の中で育まれ、地方料理の一部として受け継がれてきた主役の一つだ。 地方料理を学ぶようになってから、私はじゃがいもの見方が変わった。 ただ添えるだけではなく、なぜこの料理にはこの使い方なのかを考えるようになった。 フランス地方料理は、豪華な食材だけで成り立っているわけではない。 身近な食材を、何世代にもわたって工夫し、積み重ねてきた知恵の料理でもある。 そのことを教えてくれた食材の一つが、じゃがいもなのである。光景が違う
食べることは、人生を味わうこと。 長年フランス料理に携わってきて、いつも感じることがあります。 フランスでは、高級レストランでも地方の小さなビストロでも、家庭の食卓でも、人々は本当に幸せそうに食事を楽しみます。 それは決して豪華な料理だからではありません。 パンとチーズ、季節のスープ、一皿の煮込み料理。それだけでも笑顔があり、会話があり、「美味しいね」という時間があります。 フランスでは、食事は栄養を摂るためだけのものではありません。 家族や友人と語り合い、一日の出来事を分かち合い、その土地の文化や季節を味わう時間です。料理は、その時間を豊かにするための存在なのです。 一方、日本では忙しい毎日の中で、食事が「済ませるもの」になってしまう場面が少なくありません。 もちろん、日本にも素晴らしい食文化があります。しかし現代では、食べることの喜びよりも、時間や効率が優先されることが増えたように感じます。 私は、フランス料理とは技術だけでは成立しないと考えています。 その土地の歴史を知り、文化を知り、人々の暮らしを知る。そして、その料理がどのような場面で、 どのような思いとともに食べられてきたのかを理解して初めて、 本当の意味でフランス料理に近づけるのではないでしょうか。 地方料理を学ぶ魅力は、レシピを覚えることではありません。 その土地に暮らす人々が、どのように季節を迎え、家族と食卓を囲み、食べることを人生の喜びとしてきたのかを知ることです。 料理人として私が届けたいのは、一皿の料理だけではありません。 その料理が育まれた土地の文化や歴史、そして「食べることは幸せな時間である」というフランスの精神も、一緒にお伝えしていきたいと思っています。好きな言葉の一つ
「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」 昔から好きな言葉がある。 「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ。」 人は、話を聞いただけではわからない。 実際に付き合ってみて初めて、その人の考え方や人柄が見えてくる。 馬も同じ。 見た目だけでは良い馬かどうかはわからない。 実際に乗ってみて初めて、その癖や乗り心地がわかる。 つまり、物事は自分で経験しなければ、本当の姿は見えてこないという教えだ。 私はこの言葉を、料理にも重ねて考えることがある。 本を読んだだけでは、その地方の料理は理解できない。 レシピを見ただけでは、その料理の理由は見えてこない。 実際に作り、何度も試し、歴史を調べ、その土地の文化に触れて初めて、「なぜこの料理なのか」が少しずつ見えてくる。 今は情報があふれ、何でも知った気になれる時代だ。 しかし、本当に身につく知識は、経験を積み重ねた先にしかない。 だから私は、これからも自分の目で見て、自分の手で作り、自分で確かめることを大切にしたい。 「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ。」 昔の人の言葉は、時代が変わっても色あせない。 経験に勝る学びはないのだと思う。8月は上半期総集編
半年を振り返る一皿 8月は、今年上半期にご提供してきたフランス地方料理の中から、印象深い料理をいくつか選び、ご提供いたします。 毎月一つの地方をテーマに、その土地の歴史や風土を調べ、郷土料理を作り続けてきました。 同じフランスでも、使われる油脂、香辛料、野菜、チーズ、調理法は地方ごとに異なります。 その違いを知るたびに、フランス料理とは一つの料理ではなく、多くの土地の文化が集まってできていることを改めて感じます。 8月は、その歩みを振り返る一か月です。 単なる人気料理の再登場ではありません。 この半年間で出会った地方料理の中から、「もう一度味わっていただきたい」と思う料理を選びました。 一皿ごとに、その土地の風景や暮らし、そして受け継がれてきた文化があります。 半年間の旅を、もう一度お楽しみいただければ幸いです。フランス料理は技術や見た目の盛り付けではなく積み重ね
フランス料理は技術ではなく、積み重ねだと思う。 料理人になった頃は、フランス料理とは高度な技術の集まりだと思っていた。 ソースを作る技術。 火入れの技術。 包丁の技術。 確かに、それらは欠かせない。 しかし四十年料理を続け、地方料理を学ぶようになって、その考えは少し変わった。 フランス料理を形づくっているのは、技術だけではない。 何百年も受け継がれてきた積み重ねだ。 なぜこの地方ではオリーブオイルを使うのか。 なぜ別の地方ではバターなのか。 なぜこのソースなのか。 なぜこの付け合わせなのか。 なぜこの調理法なのか。 その一つひとつには、その土地で暮らしてきた人々の理由がある。 技術は身につければ誰でも使える。 しかし、その積み重ねを理解し、料理の中に残すことは簡単ではない。 だから私は、地方料理を作るときほど、自分の技術を見せようとは思わない。 料理人が前に出るのではなく、その土地が前に出る料理を作りたい。 フランス料理は、技巧を競う料理ではない。 その土地で何世代にもわたって積み重ねられてきた知恵や暮らしを、一皿の中に受け継ぐ料理なのだと思っている。 だから私は今日も、新しい技術だけではなく、昔の料理書を開き、その土地が積み重ねてきた理由を探している。大人になること?
夢と現実 子供の頃、周りの大人、テレビ、雑誌からよく言われた。 「将来に夢と希望を持ちなさい。」 未来を信じること。 まだ見ぬ世界を想像すること。 それが大切だと教えられた。 ところが大人になると、今度は違うことを言われる。 「大人なんだから現実を見なさい。」 「夢ばかり見ていてはいけない。」 「妄想では生きていけない。」 ふと考える。 あれほど夢を持てと言われて育ったのに、いつから夢を持つことが否定されるようになったのだろう。 もちろん、現実から目を背けることとは違う。 現実を知ることは大切だ。 けれど、現実だけを見ていたら、新しいものは何も生まれない。 料理も同じだと思う。 昔の料理を調べることも、地方料理を追いかけることも、「もっとその土地を知りたい」という想像から始まる。 まだ見たことのない景色を思い描くから、一歩踏み出せる。 夢だけでは料理は作れない。 現実だけでも料理は作れない。 その二つの間を行き来しながら、一皿は少しずつ形になっていく。 子供の頃に教えられた夢も、大人になって教えられた現実も、本当はどちらか一つを選ぶものではないのかもしれない。 夢を見るから前へ進める。 現実を見るから夢を形にできる。 私は今でも、その両方を大切にしながら料理を続けていきたいと思っている。 と、云った夢を昨晩観た。日本でフランス地方料理の提供
日本でフランスの地方料理を伝える難しさ フランスの地方料理を調べ、実際に作っていると、いつも感じることがある。 地方料理は、レシピだけでは語れない。 先月のメニューと今月のメニューを見比べると、「先月と同じような料理では?」と思われるものもあるかもしれない。 確かに、見た目や料理名はよく似ている。 しかし、地方が変われば料理も変わる。 例えば、にんにくを使うか使わないか。 バターなのか、オリーブオイルなのか。 ラードなのか、バターなのか。 チーズをどう使うのか。 じゃがいもを添えるのか、豆を添えるのか。 ソースは何を使うのか。 ローストなのか、ブレゼなのか。 野菜を煮崩すのか、それとも形を残すのか。 一つひとつは小さな違いに見える。 しかし、そのすべてが揃って初めて、その地方の郷土料理になる。 一つだけを変えても料理の印象は変わる。 いくつも変えてしまえば、それはもう別の料理と言ってもいい。 料理名だけを残し、中身を自分の好みで変えてしまえば、お客様はそれを本来の郷土料理だと思ってしまう。 それが積み重なると、その土地の食文化そのものが少しずつ違う形で伝わってしまう。 だから私は、地方料理を作るときほど、自分の好みを前に出さないようにしている。 美味しいから変えるのではなく、その土地ではなぜその食材を使い、なぜその調理法で、なぜそのソースや付け合わせなのかを考える。 地方料理とは、レシピの集合ではない。 その土地の風土や歴史、暮らしの中で生まれ、受け継がれてきた文化そのものだと思っている。 だから私は、一皿の料理だけではなく、その土地の考え方まで伝えられる料理人でありたい。オーヴェルニュとブルボネ地方の仕込みを終えて
来月のオーヴェルニュ地方とブルボネ地方の料理に向けて、少しずつ仕込みを進めている。 前回は、この地方の食文化や特徴について書いた。 今回は、実際に料理を作りながら改めて感じたことを書いてみたい。 オーヴェルニュやブルボネの料理には、じゃがいもとチーズが数多く登場する。 今回のメニューでも三種類のじゃがいもを使い、それぞれの特徴を生かしながら料理を組み立てている。 同じじゃがいもでも、煮崩れしやすいもの、形を保つもの、なめらかな口当たりになるものでは役割がまったく違う。 それを一皿の中でどう生かすかを考える時間は、とても面白い。 チーズも同じだった。 「たくさん使う」のではなく、「どこで風味を止めるか」が難しい。 一歩間違えるとチーズだけが前に出てしまい、その土地らしい素朴な料理ではなくなってしまう。 仕込みをしていて感じたのは、この地方の料理は豪快に見えて、とても繊細だということだった。 食材は力強い。 けれど、それぞれが主張しすぎると料理としてまとまらない。 だから最後は、どの食材も少しずつ譲り合って一つの味になる。 地方料理を作るたびに思う。 古典的なレシピは残っていても、その土地の空気までは書かれていない。 だから実際に作り、味を見て、また作る。 その繰り返しの中でしか見えてこないものがある。 今回も、料理を再現するというより、この土地の考え方に少しでも近づけるように、最後まで調整を続けたいと思っている。来月の地方料理はオーヴェルニュとブルボネ地方(仮)
七月は、フランス中部の古き良き田園地帯「ブルボネ地方」の料理をご紹介いたします。 今回の主役は、今まさに旬を迎える三種類のじゃがいも。 フランス料理というと華やかな宮廷料理や洗練された都市の料理を思い浮かべる方も多いかもしれません。 しかし、私が四十年以上向き合ってきたフランス料理の魅力は、むしろ地方の家庭や農村に息づく素朴な料理の中にあります。 ブルボネ地方は、肥沃な大地と豊かな牧畜文化に支えられた土地です。そこで育まれた料理は決して派手ではありませんが、 素材の力を最大限に引き出す知恵に満ちています。特にじゃがいもは、この地方の食卓を支えてきた大切な存在です。 今月は、それぞれ個性の異なる三種類のじゃがいもを使い分けながら、ブルボネ地方の郷土料理をご用意いたします。 長い年月をかけて受け継がれてきた地方料理には、その土地の風土や人々の暮らしが刻まれています。一皿の料理を通して、 フランスの田舎町を旅するような気分を味わっていただければ幸いです。 華やかさではなく、滋味深さを。 ブルボネの大地が育んだ素朴で力強い味わいを、ぜひお楽しみください。フランス料理
料理人になって43年になる。 それでも、 「フランス料理とは何か」と聞かれると、 今でもはっきり答えることができない。 バターを使えばフランス料理なのか。 ソースがあればフランス料理なのか。 コースで出せばフランス料理なのか。 どれも違う気がする。 例えば、 俵形に握った酢飯の上に魚を乗せたとしても、 それだけで寿司になるわけではない。 形だけ真似ても、 そこに流れている考え方までは写らない。 フランス料理も同じだと思う。 赤ワインを使う。 フォンドヴォーを使う。 見た目を整える。 そんな要素だけを集めても、 それだけでフランス料理になるわけではない。 地方料理を追いかけるようになって、 ますますそう思うようになった。 同じ国の料理なのに、 土地が変わると考え方が変わる。 ソースの考え方も違う。 火入れの考え方も違う。 何を大切にしているかも違う。 それなのに、 どれも確かにフランス料理だ。 43年やっても、 答えは見つからない。 むしろ、 分からないことが増えている気さえする。 ただ一つ言えるのは、 フランス料理とは技術の名前ではなく、 積み重なった文化や考え方の総称なのかもしれないということだ。 だから私は今でも、 フランス料理を勉強しているというより、 フランスという国が積み重ねてきた「なぜ」を追いかけている。 答えはまだ分からない。 おそらく、 これからも分からないままだと思う。 けれど、 その答えのない問いがあるから、 今でも料理が面白いのかもしれない。娘に手を引かれ、広報さんに背中を支えられ
おかげ横丁へ 先日、おかげ横丁へ行ってきた。 目的は観光というより、 少し娘からの早い父の日の時間だった。 いつも店のことを気にかけ、 発信を手伝ってくれる広報さん。 そして、 日々支えてくれている娘。 その二人への感謝を込めて、 一緒におかげ横丁を歩いた。 てこね寿司を食べ、 伊勢うどんを食べる。 どちらも決して華やかな料理ではない。 けれど、 その土地で長く食べられてきた理由がある。 地方料理を見ていると、 つい技術や歴史を考えてしまう。 でも本来の料理は、 誰かと食べる時間のためにあるものなのかもしれない。 この日は、 料理を勉強するためでもなく、 新しい発見を探すためでもなく、 ただ一緒に食べて歩くための時間だった。 普段はフランスの地方料理ばかり追いかけているが、 地元の食文化に触れる時間もまた大切だと感じた。 てこね寿司も伊勢うどんも、 豪華さではなく、 その土地の日常が見える料理だった。 そして何より、 こうして店を続けられているのは、 一人の力ではないということを改めて感じた一日だった。ドン・キホーテを読んで
若い頃に読んだ時は、 ドン・キホーテは少し滑稽な人物に見えた。 風車を巨人と思い込み、 周囲から理解されず、 何度も失敗を繰り返す。 なぜそんな話が長く読み継がれているのか、 当時はよく分からなかった。 けれど年齢を重ねると、 少し見え方が変わってくる。 世の中には、 効率だけでは説明できないことがある。 もっと簡単な方法があるのに、 あえて遠回りをする人がいる。 誰も気にしないような地方料理を調べたり、 昔の本を探したり、 現地で見た作り方を再現しようとしたり。 考えてみれば、 ずいぶん非効率なことをしている。 今なら、 もっと分かりやすい料理も作れるし、 もっと受け入れられやすい方法もあると思う。 それでも、 なぜかそちらへは向かわない。 正しいからではなく、 単純に興味があるからだ。 ドン・キホーテは最後まで、 自分が見ている世界を信じていた。 それが正しかったかどうかは別として、 少なくとも人に合わせて生きた人物ではなかった。 地方料理を追いかけていると、 時々そんなことを思う。 大きな流れから見れば、 ずいぶん小さなことをしている。 それでも、 まだ見てみたい景色がある。 だから今日も、 同じような本を開き、 同じような仕込みをしている。ズッキーニのファルシィ
ズッキーニのファルシは、 日本の肉詰めピーマンのように「中身を詰めて形を保つ料理」とは少し発想が違う。 肉が剥がれないことや、 中身が外に出ないこと自体は主目的ではない。 むしろ、 火入れの結果として自然に一体になっているかどうかが重要になる。 ズッキーニは水分が多く、 火が入りやすい野菜であるため、 単純に詰め物を固定するというより、 全体の水分と火入れのバランスで成立させる料理になる。 外側と中身を「分けて守る」のではなく、 火を通す過程で一つの状態にしていく。 そのため、 形が保たれていることよりも、 中と外の火入れの差が小さいことの方が意味を持つ。 日本的な詰め物料理が「崩れない構造」を重視するのに対し、 こちらは「崩れ方すら設計の一部」という感覚に近い。 見た目の安定よりも、 火が入った時の一体感が最終的な評価になる。 ズッキーニのファルシは、 詰め物料理というより、 火入れでまとめる料理だと思っている。ルセットは残るが、感覚は残らない
レシピは残るが、感覚は残らない 料理の本を読むのは好きだ。 昔の地方料理の本もよく読む。 材料も分量も書かれている。 作り方も書かれている。 でも、 読めば作れるかというと、 そういうものでもない。 どのくらい炒めるのか。 どのくらい水分を飛ばすのか。 どこで火を止めるのか。 本当に大事な部分ほど、 言葉では残っていないことが多い。 昔の家庭料理を見ていると特にそう思う。 計量もせず、 温度計も使わず、 当たり前のように作っている。 けれど、 その当たり前の感覚こそが、 一番伝わりにくい。 レシピは残せる。 ただ、 感覚は見るしかない。 だから地方料理を作る時は、 レシピを追いかけるより、 その料理がどんな状態を目指しているのかを考える。 何を足したかではなく、 どこで止めたのか。 そこに、その土地らしさが残っている気がしている。バスク郷土料理を終えて
今月でバスク地方料理が終わる。 毎月地方を変えているが、 終わるたびに思うのは、 料理そのものよりも、 その土地の考え方に触れていたのだということ。 バスクの料理は力強かった。 魚も肉も、 野菜も香辛料も、 それぞれがはっきりしている。 だからこそ、 足すことより、 揃えることの方が大事だった。 強いもの同士をぶつけるのではなく、 同じ方向を向かせる。 そんな感覚で料理を作っていた気がする。 地方料理をやっていると、 新しい技術を覚えるより、 昔から続いている理由を考える時間の方が長い。 なぜこの組み合わせなのか。 なぜこの火入れなのか。 なぜ今も残っているのか。 その答えを探しながら、 一か月が過ぎていく。 結局、 地方料理はレシピではなく、 積み重なった生活そのものなのかもしれない。 今月も多くの方に召し上がっていただいた。 ありがとうございました。 来月はまた別の地方へ。 料理は変わるが、 土地の空気を探すことだけは変わらない。プロヴァンス郷土料理
来月からのプロヴァンス料理について 来月から、 料理をプロヴァンス地方に変わります。 南仏の料理というと、 明るく軽い印象を持たれることが多い。 ただ、 実際に地方の料理を見ていると、 思っている以上に素朴で、 輪郭が強い。 野菜をたくさん使うが、 ただ軽いわけではない。 オリーブオイル、 にんにく、 アンチョビ、 ハーブ。 それぞれの主張がはっきりしていて、 少しでも扱いを間違えると、 すぐに全体が崩れる。 だから、 派手な料理というより、 どこで止めるかを見続ける料理に近い。 ラタトゥイユも、 単に野菜を煮れば成立するわけではない。 火を入れすぎれば、 全部同じ味になる。 逆に触りすぎると、 野菜が持っている輪郭が消える。 整えすぎない。 でも、 放置もしない。 その曖昧な境界の中で、 料理をまとめていく。 地方料理はどこもそうだが、 プロヴァンスも、 綺麗に作りすぎると別の料理になる気がしている。 少し粗さが残るくらい。 そのくらいで、 土地の空気が一番見える。 来月は、 南仏の強さを、 整えすぎずに出していきたいと思う。カイエ・ド・レ
牛乳のカイエについて 牛乳のカイエは、 地方に行くほど、 料理というより日常に近くなる。 特別な技術を見せるわけでもなく、 派手な材料が入るわけでもない。 温めた牛乳を固める。 本来は、 それだけのものだと思う。 だからこそ、 その土地の牛乳や、 作る人の感覚がそのまま出る。 固まり方も毎回少し違う。 均一でもないし、 形も揃っていない。 それでも、 ちゃんと成立している。 以前見たものも、 決して綺麗ではなかった。 少し崩れていて、 柔らかさにもばらつきがある。 でも、 牛乳の香りだけは驚くほど残っていた。 整えすぎていないからだと思う。 地方料理はよく、 素朴と言われる。 ただ、 実際は単純なのではなく、 余計なことをしていないだけなのかもしれない。 カイエも同じで、 技術で形を作るというより、 牛乳が一番自然にまとまる場所を探している感覚に近い。 固めすぎない。 揃えすぎない。 少し不均一なくらいで止める。 その曖昧さごと残っているのが、 地方の料理なのだと思う。不揃いの微塵切りや食材について
正確な5ミリ角の微塵切りはサイズが揃えてカットされた食材は美しい。 均一で、 火の入りも揃いやすい。 技術として見れば、 完成度は高いと思う。 ただ、 地方料理になると、 少し違う空気が出てくる。 郷土料理は、 均一さだけで成立しているわけではない。 大きいもの、 細かいもの、 少し崩れたもの。 その不揃いさの中で、 食感や火入れに差が生まれる。 結果として、 料理に奥行きが残る。 以前、 現地の家庭料理を見ていた時、 ママがまな板を使わず、 手の内だけで野菜を切っていた。 当然、 大きさは揃っていない。 それでも料理としては、 不思議なほど成立していた。 むしろ、 均一すぎないことで、 食感や火の入りに揺らぎが残り、 それが料理の空気になっていた。 もちろん、 雑に切るという意味ではない。 揃えすぎない、 という感覚に近い。 均一に整えることはできる。 ただ、 整えすぎると、 料理が持っている粗さや力強さまで消えてしまうことがある。 料理は綺麗にするほど洗練されるが、 少し崩れていることでしか残らないものもある。 地方料理は、 その境界を見続ける料理なのだと思う。「郷土料理は、その国の普通のごちそう
フランス郷土料理を作る理由は、ただ昔のレシピを再現したいからではありません。 それは、フランスの土地ごとに受け継がれてきた“お袋の味”や、家庭の記憶を、日本人にも伝えたいからです。 日本に昔から残る煮物や味噌汁のように、フランスにもその土地の気候や暮らしの中で生まれ、今まで残り続けてきた料理があります。 派手さではなく、長い時間の中で人に必要とされ続けた味。 そんな料理を、今の日本で丁寧に作り続けていきたいと思っています。観察の答え合わせ
料理をしていると、 技術より先に観察があると思うことが多い。 温度を上げた時、 脂がどう変わるのか。 塩をした後、 水分がどの速度で動くのか。 火を入れ続けた時、 どこで崩れ始めるのか。 本や理論にも意味はあるが、 最終的には、 自分の目で見たものに戻ってくる。 だから料理は、 知識を増やす作業というより、 観察の答え合わせに近い。 思っていた通りだった時もあれば、 まったく違った動きをする時もある。 むしろ、 そのズレの方が面白い。 地方料理をやっていると特に、 派手な技術より、 小さな変化を見る時間の方が長い。 温度、 水分、 時間。 その積み重ねでしか、 料理は変わらない。 結局、 料理は作っているというより、 状態を見続けているだけなのかもしれない。地方料理を変えない理由
地方料理をやっていると、 「現代風にしないのか」と聞かれることがある。 確かに、軽くしたり、 構成を変えたりすることはできる。 実際、その方がわかりやすくなる料理もあると思う。 ただ、自分はそこにあまり興味がない。 地方料理には、 その土地の気候や保存方法、 流通の事情まで含まれている。 つまり、 不便さも含めて成立している。 そこを整えすぎると、 別の料理になる。 もちろん、 何も変えないわけではない。 塩加減も火入れも、 今の食材や環境に合わせて調整はしている。 ただ、 料理の“重さ”までは変えたくない。 ノルマンディーなら、 脂やクリームの重さ。 バスクなら、 素材同士がぶつかる強さ。 その土地が持っている性格まで削ってしまうと、 地方料理をやる意味が薄くなる気がしている。 料理は整えるほど綺麗になるが、 削りすぎると、 その土地らしさまで消えてしまう。 だから、 変えるよりも、 どこで止めるかを考えている。 結局、 地方料理は技術だけではなく、 「何を残すか」の料理なのだと思う。バスク地方の郷土料理を仕込んで感じた事
バスク地方の料理は、贅沢ではなく“生き抜くための味”だ。ノルマンディー料理を提供し終えて感じた事
ノルマンディーの素朴な一皿は、豊かさではなく“限られた中で生きる知恵”から生まれた。 それは時に人を追い詰め、時に人を救う――レ・ミゼラブルが描いた世界と同じように。来月からのバスク地方料理について
フランスの中でも、バスクの料理は少し異質だと思っている。 洗練されているわけでもなく、 軽いわけでもない。 むしろ、素材と火入れがそのまま前に出る。 誤魔化しが効かない料理が多い。 例えばピペラードやトゥーロ(Ttoro)のような料理は、 構成としては単純だが、 どこで止めるかを間違えるとすぐに崩れる。 火を入れすぎれば重くなり、 足りなければただの生に近くなる。 その中間を取る必要がある。 バスクの料理は、足し算ではなく強さの調整だと思っている。 唐辛子やトマト、魚や肉。 どれも主張があるが、 それぞれを立たせすぎるとまとまらない。 かといって抑えすぎると、 ただのぼやけた料理になる。 必要なのは、 全体として成立する強さで止めること。 地方料理はどこもそうだが、 バスクは特にその傾向が強い。 わかりやすくするために整えるのではなく、 そのまま成立させる。 結果として、 少し粗さが残るくらいでちょうどいい。 それがこの土地の料理だと思っている。 来月は、 余計なことをせずに、 この強さをどう扱うかに集中したい。地方料理を続ける理由
料理は進化するものだと言われることが多い。 確かにそれは間違いではないが、 すべてが進化の対象である必要はないとも思っている。 地方料理は、その土地の気候、保存方法、流通の制約の中で成立してきた。 つまり、すでに完成している。 そこに現代的な解釈を加えること自体は否定しないが、 それは別の料理になる。 自分がやりたいのは再構築ではなく、 「そのまま成立させること」。 不便さも含めて、その料理だと考えている。なぜ豚肉に塩して熟成させるか
当店では、豚肩ロースを仕入れてすぐには使いません。 軽く塩をして、数日間休ませてから料理に使います。 これは特別なことではなく、フランス料理ではごく基本的な考え方です。 肉は時間を置くことで水分が整い、味が落ち着き、より自然な旨味が引き出されます。 面白いのは、同じ豚肉でも日ごとに状態が変わることです。 仕込んで2〜3日目は、シンプルに焼くのが一番良い状態です。 表面は香ばしく、中はしっとりと仕上がります。 4日目あたりになると、肉質が締まり、味わいがよりはっきりしてきます。 このタイミングではローストなど、少し火入れを工夫した料理に向きます。 さらに時間が経ったものは、煮込みや のような料理に使います。 状態に合わせて調理法を変えることで、無理なく、美味しく使い切ることができます。 現在当店でご用意しているノルマンディー地方の料理も、こうした考え方の上に成り立っています。 バターやクリーム、シードルやリンゴを使うのは、単に伝統だからではありません。 その時々の肉の状態に寄り添い、より美味しく仕上げるための工夫です。 同じ食材でも、その日の状態によって最適な料理は変わります。 毎日同じようで、少しずつ違う一皿をお楽しみいただければ幸いです。古川亭が地方料理と古典にこだわる理輔
古川亭では、フランスの地方料理と古典を基準に料理を組み立てています。 新しい表現や見た目の華やかさではなく、なぜその料理がその形になっているのか。 その背景にある考え方を重視しています。 地方料理には、その土地の気候や食材、保存の技術がそのまま反映されています。 当店では、毎月扱う地域を変えながら、それぞれの土地に根付いた料理を組み立てています。 また、古典料理は長い時間をかけて整理されてきた「構造」です。 味の重ね方やソースの役割、火入れの考え方など、すべてに理由があります。 当店では、それらを単に再現するのではなく、判断基準として使っています。 どこを残し、どこを変えるか。その選択を明確にするために、古典を軸にしています。 結果として、派手さのある料理ではありませんが、食べ進める中で味の流れや構造が見えてくる料理になります。 流行に合わせて変えるのではなく、積み重ねとしての料理を続けていくこと。 それが古川亭の考え方です。 一皿ごとの背景も含めて、楽しんでいただければと思います4月提供のノルマンディー郷土料理
la prochaine fois