毎度ですが。この文章に資料的価値はございませんので、そのあたりをよくよくお含み置きの上お読みください。
 
 さて今年は世界大会です。長丁場です。宿代も馬鹿になりません。それでも貯金通帳の大きくならない数字を無視してうきうき参加ですよこの馬鹿は。
 
 大会以外での来訪を含めるならもう三、四回目の横浜桜木町駅。だいたい道のりも覚えているので迷わずさっさと会場に急ぐ。
 横浜パシフィコは埋め立て地に出来たものだそうだ。周囲にまったく生活感がないのも道理。この乾いた感覚が、非日常な各種催し物にはちょうどいいのかもしれない。なにはともあれ、登録受け付けをすまさなければならないので、受付に行った。
 平日なので、日本人は少ないだろうと思っていたが結構な列になっていた。自主的に「ここが列の終わり」札ができあがるのがまあSF大会らしいというか。
オリジナルのバッグに入った配布物は、ゲストオブオナー紹介や各種規定などが掲載された冊子(表紙が天野嘉孝氏とマイケル・ウィラン氏)に、企画の時間表や会場内の地図が載った持ち歩き用ハンドブック、シール交換企画用冊子など。長丁場には持ち歩き用ハンドブックが嬉しい。
 
 オープニング・セレモニーの前にも企画があるので覗いてみる。英語企画は不安があるが、まあどんなことを話しているかぐらいはわかるだろうと気楽に構える。
 最初は「ワールドコンの歩き方」実行委員長氏による案内企画に行く。ヒューゴー賞やWSFSの説明など、ビギナー向け用語説明が主な内容。知らなくてもそれなりに楽しめるけれども、知っているといろいろ便利という内容だった。参加していると、同時に大会期間中WSFSの会員になるんですねー。
 
 さて次はかなり不安がありましたが、英語企画で「異なる家族構造」。まあどうにか「こういうことを話している」レベルでついていけた。
 多分話題になるだろうな、と思っていたのがハインラインのクラン・マリエイジ。中学生の時に読んでわけわからなくて、年食ってから再読してのけぞったアレ。日本文化圏でなくても、異様にうつるものなのか。現実のものについては西洋についての言及が多かった。あちらからみたら、ユダヤ・アーミッシュ・中国・日本の家族の有り様はかなり異様らしい。どれのどのあたりが異様なのかまでは聞き取れなかった。中国と日本は、まあきっぱり違う文化圏だからわかるけれども、ユダヤ、ましてアーミッシュまで「違う」と思うものなのだろうか。私はどちらについても無知に近いのでわからないが。「社会が続く限り家族は続く」という(らしい)言葉で締めてらした。そうかねえ。進みようによっては崩壊すると思うけど。と英語で議論できたら楽しいのに。ねえ。
 
 個人的な興味もあって、次は通訳付き外国人向け企画「How to 着付け」。これは通訳あり企画だったが、和装用語にたいそう苦労していらっしゃった。まあ仕方ない。着付け教室から講師の肩をお招きしてあった。最初は単衣に袷、浴衣など着物や帯の種類の説明から始まって、実際の着付け方へとうつっていった。さすが講師の方はてきぱききっちりと着せて行かれる。そのあとは希望者を募っての着付け。これは、外国の方にはあまりない機会だろう。浴衣レベルならばともかく、振り袖・留め袖、帯結びまでとなると難しい。着付けてもらっていた皆さんもやはりうれしそうだった。企画を見に来ていた日本人参加者のなかには着物を着ていらした方もいた。うち、男性の方で角帯を蝶々結びにしていたかたが問答無用で直され、そのあと講師の方が結び目を叩いて「粋」とおっしゃたのがたいそう受けていた。最後には和服を着ている人(含む海外参加者)で記念撮影。SFとはあまり関係ないが、のんびりと、気負うことなく楽しめた。
 
とくに興味のある企画もなかったので、オープニングが始まる前にホテルのチェックインを済ませて荷物を部屋に入れ、パシフィコ周囲を散策。観覧車やショッピングが楽しめる場所など、しゃれてはいるが、つくづく生活感のない場所だ。僅かにある薄汚れ加減の倉庫が浮いていた。
 
 正式な開会であるオープニングの時間になったので、いそいそとホールに向かう。けっこうな収容力があるだろうホールが埋まりつつあった。初日は日本人少ないだろうに。時間が遅かったので、東京圏の人がお勤め帰りによるというのもあったのかもしれない。
 最終的には立ち見の人もでる盛況ぶりだった。司会はプロの声優さんで、スクリーンに画像が出ないなどのトラブルをうまくフォローしていらっしゃった。
 以前行ったグラスゴーでも同様だったが、地元の横浜市長の挨拶があった。世界規模の催事という観点で見れば当然なのかもしれないが、人力車に乗っての登場はなかろうに。その後、「これを公用車にする」とかおっさっていたが。どうでもよろしいが、この方某野郎落としゲームのイベントにも祝辞だしてたとかだしてなかったとか。
 オープニングアニメは、会場(?)への異星人の来襲に立ち向かう女の子という内容だった。ネット上で公開されているものをこれからごらんの方もいらっしゃるだろうので、オチについては触れないでおく。会場での受けは結構よかった。
 ここからは「式典」の色合いが濃くなっていった。前回のアナハイム大会から今回の実行委員長へのおみやげ(?)の帽子の受け渡しや、ゲストオブオナーの紹介・スピーチなど。小松左京氏(今変換が一発だった)は通訳さんの入る隙なく、デビッド・ブリン氏は「変なガイジン」との自己紹介のあと日本語で、天野嘉孝氏はSFマガジン掲載の思い出、マイケル・ウィラン氏は天野氏との関連についてとそれぞれに特色あるスピーチだった。紋付きの羽織袴での柴野拓美氏を、起立・拍手で参加者が迎えていたのが印象的だった。柴野氏のスピーチでは、ロスのファンへの感謝が述べられ、これもまたお人柄が忍ばれた。
その後は麻生元外相の祝電などが続いた。
 ワールドコンの「正式な」開会には、ずっと使い続けられているハンマーの打ち鳴らしが使われる。こーん、と乾いた音がマイクを通して響いて、正式に開会です。
 この日の企画はオープニングで終了のため、散策の時に目星をつけておいたコンビニで夕食を仕入れて宿に帰る。自分の面倒だけをみていればいいというのが既に非日常。
 
 二日目、ホテルプランは朝食込みのものではなかったので、道筋の店でサンドイッチを食べる。店内にはどうやらご同輩らしい方々がいらっしゃった。ちょっと嬉しくなる。
 
 さて二日目、アメリカファンタジーの現状についての「異世界ファンタジーと大長編世界」。物語の組み立て方などが聞ければ、と思って足を向けた。
 物語が長編化するのは、作者側としては細かく作れば作るほど書き込みたくなり、出版社の側からすれば、長編やシリーズ物の方がよく売れるという理由らしい。作者側の理由も出版社側の理由も理解できた。加えて日本の場合、テレビ化の際に最低でも十三話分は必要という事情もあるそうだ。
 日米の詳しい事情についてみていくと、日本の場合人気の出たキャラクターについて書き込むなどのスピン・オフが出版社から要請され、「結果的に」長編となるらしい。逆に人気がないと無理矢理に中断の場合もある。海外は最初から長編として書くのか、との問いにロビン・ホブ氏がそうだと答えておられた。まあ、名前は挙げないが出版社からの要請で長編にしている作家の方もいらっしゃらないわけではない、とか。
 短編に関しては、アメリカは雑誌が多いので新人に有利だとか。またテーマ別アンソロジーも多く、かつてあったシェアードワールドものは衰退気味だそうだ。そういえば「ワイルドカード」はどうなっているのでしょう東京創○社様。
 日本はビジュアルに重点が置かれ、その傾向はバブル時代末期に始まるらしい。代表が「ロードス島戦記」と「フォーチュンクエスト」。このあたりから小説を他のメディア化することがはじまったそうだ。私どっちも読んでないわ。いっそ胸張り。現在では最初から多数のメディア展開の中のひとつとして小説が位置づけられているらしい。ただしその複数メディア化はあまり実現しない、そうだ。あたれば大きいらしいが。また、現在はSFやオンラインゲームに比重が移っているらしい。
 ファンタジイのだいたいの流れについて。
 日本では、第一世代が海外ファンタジイを読み、第二世代が第一世代のものを読んできたそうだ。初期日本人女性作家は「妖女サイベルの呼び声」をお手本としていたらしい。
余談だが、私は岡野玲子氏と言えば「陰陽師」でなく「コーリング」か「ファンシイ・ダンス」。閑話休題。
 ちょうどこの時期がコミックの最盛期にあたり、男性はゲームへとなびいて行き、イラスト重視の方針になった、また、キャラクター重視とも重なったことで、世界観や物語は二の次とされるようになった。さらに女性向けとしてボーイズラブの要素が重要視され、「異世界」を描くファンタジイには逆風となった。ボーイズラブ重視の風潮はアメリカでも同様で、ロビン・ホブ氏のもとにも、読者からそういう場面を要求するメール等が届いているらしい。
 だが、映画「ロードオブザリング」の成功の影響もあり、逆に世界観重視へとシフトの動きもあるらしい。また、商業としての問題だけでなく、キャラクター性と物語との対立は作家にとってはジレンマであるそうだ。
 発行のペースは、日本が年に二冊以上であるのにたいして、アメリカは年に一冊。ロビン・ホブ氏が「何それ」というようなコメントをしてらした。それに対する日本側のコメントが、「ワーカホリックだし」だったような気がする。
 ロビン・ホブ氏に、何故男性名なのかという話題が振られていた。「ロビン」という名前は男性と女性双方に使う名前で、そうしておけば男性主人公の物語の作者としても無理がない、という理由らしい。そこから少しジェンダー系に話題が動いた。
 アメリカではファンタジイは人物重視で女性向け、SFは世界観重視で男性向け、という見方がされているらしい。これはいささかステロタイプな区分ではないのかという意見が出て、日本での例に入る。読者別にぱっきりとレーベルが分かれており、(例:ガガガとルルル。このネーミング、だあれも反対さんせんだんか)主にそれはイラストレーターの都合によるものらしい。少女漫画と少年漫画が分かれているあたりからことは始まっているようだ。また、いわゆるエピックファンタジイは少女向け、戦記物は少年向けととらえられているらしい。しかしエピック系も読者(?ここはメモと記憶があやふやです。すみません)の半分は男性であるらしい。アメリカでも、ファンタジイが女性向け、SFは男性向けというジェンダーは壊れつつあるという意見がロビン・ホブ氏から出ていた。
 小説技法上での質問として、異世界での用語、たとえば日の単位としてweekを使うことに抵抗はないのか、との質問がロビン・ホブ氏にされていた。日本人作家はこだわるが。ホブ氏の返答は、なじみのある言葉を使う方が読者が入り込みやすいから、現実社会での言葉を使う、というものだった。個人的見解として、表意文字を使う日本語と、表音文字の英語との差もあるのではないだろうか。
 出版の経済的な事情から小説技法まで、いろいろ楽しめた。
 
 SF大会だねえと思いながら軽くお昼を済ませて、ホール展示に行った。ちょうどマイケル・ウィラン氏や天野嘉孝氏などのイラストレーターの方々による共同企画が行われていたのでかいま見る。絵は全くの門外漢だが、即興でもためらわずに書いていかれるなあ、と思った。
 展示ホールではそのほかにもイラストのオークションを兼ねた展示や企業ブースなどがあり、参加登録をしていない人でも無料で入れるようになっていた。いきおい有名どころが多くなる。天野嘉孝氏の作品展示即売、円谷プロの資料展示、一人乗り飛行機械(素直に「ナウシカ」のメーヴェと言いなさい)、コミックマーケット関連などだ。のんびりと気楽に見て回るもよし、じっくり見るもよし。個人的に気に入ったのが、小さな(30センチぐらいか)二足自立ロボットのラジオ体操。ちゃんとジャンプもしていたし、上体そらしなどもしてなおかつバランスを保っていた。売価は30万ほど。その値段で、ラジオ体操するロボットが作れるようになったんだなあと感慨しきり。
 
 二時からは、「やおいパネルディスカッション〜やおいVSスラッシュ・フィクション」を見に行く。ジョージ・タケイ氏の企画にもひかれるものはあったが、それほどのトレッカーというわけでもないのでこちらに。真剣に研究していらっしゃる方には申し訳ないけれども、自分とはあんまり関係のないジャンルだけに、肩の力を抜いて気楽に聞いていられる。男色が普通に行われている社会の話書いたら関わりもできるんだろうか・・・。いやそれだと、いわゆる「やおい」とは別物になりそうな気が・・・。閑話休題。
 小谷真理氏の導入で始まる。1989年、シアトルでエイミー・トムソン氏に”What is special culture in Japan?”と聞かれて”That’s Yaoi.”と答えたとか。また、既にジョアンナ・ロス氏がスラッシュ関係の論文を書いていらっしゃると知って”We are not alone.”と思った(言った?)とか。最初からかっとばしてらっしゃる。
 パネリストの皆さんがやおい、もしくはスラッシュ・フィクションにどういう経緯で興味を持つようになったかが語られた。海外の方々はやはりスタートレックを二人ともあげておられた。日本の方々は、「風と木の詩」や某サッカー漫画、二次創作同人誌など。年代によって多小差はあったけれどもだいたい、ああなるほどね、と思うものだった。ただ、野阿梓氏が「小説としての完成度にひかれた」と言っておられたのには、やはり感覚が違うのか、と思った。
 やおいが好きである、とのカミングアウトはなかなかしづらいらしい。メモが不確かで海外での話か日本での話か定かではないが、プロの作家も「書きたいから書く」でなく、「構成上で」との姿勢をとるらしい。だがしかしウェブのおかげで変化しつつあるそうだ。アメリカではYAOI−CONなるものも開かれるらしい。それと、ゲイが受け入れられてきたことも大きいようだ。ただし、「文学」でなくハーレクインのように「ジャンル」としての受け入れられ方らしいが。出版予定もあるようだ。
 アメリカでのスラッシュは、著作権上の問題もあるらしい。法的に認められておらず、(日本も、まあ、それなりにあれのような気はするが)YAOI−CONも「るろうに剣心」や「ワンピース」等アニメベースらしい。
 何故やおいやスラッシュかという問題について、男性の立場から野阿氏が「官能小説として、攻受関係はない」というような発言をしていらした。
 アメリカの事情について少し。日本のやおい作品によくあるらしい、「根っからのホモセクシャルでなくお前だから」というのは(この文章、サーバの規定に触れないかどうか今更不安になってきた)アメリカではあるか、また男性読者はいるのかという話題が上がった。後者の問いにたいしては、「ゲイに対する恐怖感がある。読んでいるかもしれないけれどわからない」という答えだった。
 ブラッドリーが書いていないか、という問いには、肯定的な返事で、ブラッドリーの性癖についても少し触れられていた。大姐・・・。
 TVドラマは、そういうニーズに従ってかかれているのか、という問いには「おそらく」だがある、70年代から80年代はない、らしい。
 日本の場合の何故やおいかという問いには、男女の間では難しい対等性、自分の身体について語らずにすむことが上げられていた。アメリカでも、男女の力関係のなさ、男性の感情的なふるまい、自分(女性)が犠牲にならずにすむ、などが上げられていた。こうしてみると似通っているような気がする。あと共通事項として、いわゆる「ベタ」な展開が笑いの対象になっており、それは成熟を意味するのではということがあった。なおこの時、その「ベタ」なシーンの典型例が上げられていたが、通訳さんがその訳をすっとばしておられたことをとくに付記いたします。困るよねえ訳しろと言われても。また、エイミー・トムスン氏のお嬢さん(?)が来日された折、宝塚を見てたいそう気に入り、次にいつ日本にとしきりにいっておられるという話が出、女性の女性に対して行うパフォーマンスは何故こうも力強いのかと疑問が出ていた。
 ゲイの人達からスラッシュにたいしての抗議はあるのか、という問いには、コミュニティの一部として容認されており、どのようなものか教えてくるという返答がなされていた。
 あと質疑応答では、「吟遊詩人トーマス」「剣の輪舞」のエレン・カシュナー氏が聴衆の中から自作のペーパーバックを振り回しながら、「日本では一次創作が商業出版ででているのか」と尋ねる一幕もあった。 全体的に、くつろいだ雰囲気で和やかに進んだ企画だったと思う。
 
「日本刀をつくる」をのぞきにいったが、混雑に負けて途中退場した。おもしろそうではあったが。
 
 ぽっかりと時間が空いたので、ファンジンアレイを見て回る。毎回おなじみのところもあれば、初めてのところもある。今回のワールドコンに併せて、英語版を作ってらっしゃるところもあった。他の、オールジャンル即売会にはないゆったりとした空気が好きだ。
 
 この日は大会はこれで終了。近くの輸入食料を扱っているところに行って、夕食と軽いスナック、酒を買う。その場所で、朝食はパンと飲み物でも買ってホテルの冷蔵庫に入れておけばいいと気づき、ロールパンとジュースもついでに買う。見て回っている間に、宴会の準備に来ているらしい大会参加者の方と出くわした。お疲れ様です。
 
 翌九月一日の朝は、せっかくなのでゲストオブオナー企画「ベンフォード氏と語る」。1950年に、父親がマッカーサーの部下であったので日本にいらしたそうだ。まだ東京大空襲の痕跡が残っていた頃らしい。そのとき、日本の小学校で「宇宙船ガリレオ号」を読んだのが初めてのハインラインだったとか。その二十年後、ハインラインから小説について手紙をもらったそうだ。なんかいい話ですな。
 科学とSFの関連性について。SFを科学なしで書くことは、テニスをネットなしでやるようなもの、という比喩を使っていらした。ことにハードSFは、韻律の厳しい16行詩を書くようなものらしい。その例えでいくと、ハードSFは文章のテクニック優先ということになりませんか。いえ別にいいのですが。
 ベンフォード氏は科学者でもあるが、研究とSFの間の影響については、科学を知っているとSFが書きやすく、SFを知っていると科学がわかりやすい、と思っていらっしゃるそうだ。しかし大切なのはイマジネーション、らしい。よかった。(何が)日本でも科学者がSFを書くようになるのは世代の問題だろう、とみておられるようだ。また、SFから科学への道に入るのは、日本だけでなくアメリカでもあるらしい。
 先述のように、非常に若い頃異文化に触れておられるが、それの影響はという質問があった。明確にあるそうで、最初の作品はアジアベース文化だそうだ。ベンフォード氏から見ると、日本がロボットに対して恐怖感をもたないのは神道からきているように見える、らしい。また、機械の知性の条件としては、「ボトムアップであってトップダウンでないこと」だそうだ。ただしすでに始まっているらしいが。しかし機械の知性は人間のものとは別種で、その差異は感情と知性だそうだ。しかしいつかは機械も同じく持つであろう、ということだった。機械の知性といえば、ロボット工学三原則は避けて通れない話題だろう。いつかは三原則を持たねばならない、そうだ。まあそうだろう。あと、戦争に使わないためには女性の工学者が必要、らしいが。そう・・・かなあ・・・。
 今の仕事としては、リインカーネーションをあつかったもので、アインシュタインやハインラインが出てくるらしい。楽しみにしてまーす。
 
 11時からは「文学とコスプレカルチャーの間」。日本でのコスプレ起源さぐりから話は始まった。1978年のアシノコンが最初と言われているが、77年のコミケで記録があるそうだ。また、3〜4回目のコミケで、ガッチャマンの商用のものを借りたものがあって、その後ヤマトからガンダムへと移行し、その後のアニメブームからRPG、ビジュアルバンドなどへとジャンルは移行していったようだ。
 現在のコミケでのコスプレ人口は一日8000人で、うち外国人は800人だそうだ。最も多いのがアジア、次いでアメリカ、ヨーロッパ。アジアは地理的な要因も大きいのだろう。日本にいらして楽しむだけでなく、70年代には既にアメリカのコンベンションで日本のロボットアニメのコスプレがあったとか。
 最近はの親の世代がコスプレに抵抗がないらしい。都市部の、さらに限られた人達だと思いますけどね。
 全体的に楽しいおしゃべりの企画でした。
 
 さてわかるかどうか疑問だが、英語企画「本が私の家を飲み込んだ」に行った。
 案の定途中でリタイアしたが。14(40?)M×3Mの本棚作ったけど9年後には足りなくなったとかもうドアも本棚にしてしまえと言われているとかスライド式の本棚ほしいとか親が死んで部屋が空いたけど本も相続したから結果としてかわらなかったとか。ははは一緒や一緒や。
 
 「日本におけるトールキンの翻訳について」。日本語企画のはずがバイリンガル企画になっていて、主催の方が自分で同じ内容をくりかえしていらした。だが途中で、「日本語わかりますよ」海外参加者の方がおっしゃったので日本語企画に切り替わる。
 トールキン作品のうち、最初に翻訳されたのは岩波の「ホビットの冒険」だそうだ。これは複数の出版社から出ているらしく、初めて見る版もあった。コレクターズアイテムらしい。そして1972年、「指輪物語」と続く。後に出された文庫版は、ハードカバー版をそのまま縮小したものだったらしい。どおりで読みにくいと思ったよ。短編集の「農夫ジャイルズ」や「星をのんだかじや」は様々な版があった。
 映画の影響で翻訳が活気づいたのはいいが、反対に悪影響もあった、ということで。
 「指輪物語」にトールキン本人が認めたイラストがついたのは日本版が最初、だそうだ。以前どこかで、「指輪物語」に限らず、日本のカバー絵などは評判がいいと聞いたことがある。
 
 企画が終わってからちょっと出口で参加者のかたにご挨拶して、ヒューゴー賞授賞式に向かった。ホール入り口あたりにいると、候補らしい方々がフォーマルな服装で通っていかれるのが見える。和服をきていらっしゃる方もいて楽しい。
 ヒューゴーのトロフィーは、台座は毎年各実行委員会がデザインするらしいが、今年は海洋堂制作のウルトラマンだった。まあ。開始時にウルトラマンと各種怪獣の戦闘もあった。初めて見たわウルトラマンショー。
 司会は大森望氏とジョージ・タケイ氏。こちらもフォーマルウェアだった。お二人のかけあいも、それだけでもゆかいだった。途中で日本語・英語を逆転して話していらしたのはわざとでしょうか。通訳の方が少し困ったようでしたが。
 日本の星雲賞とちがうのは、今回のみの演出かもしれないが(グラスゴーの時のが記憶にない)、舞台上のスクリーンに候補作の情報が出ていたことだ。候補になるのが何年ぶり、ノミネートされている誰と誰が夫婦である、などジョーク混じりで楽しかった。受賞結果については、すでにあちらこちらで発表されているので割愛。
 
 大きな企画が終わって一息ついたところで、英語企画「ファンタジーと宗教」。あまり聞き取れなかったうえに、話題がくるくる変わってついて行けなかったので、内容があやふやですが。
プラチェット「ディスクワールド」では違う宗教が出てくるが、つくるのはとても難しいそうだ。うんそうだね。
 当然のように出てくるのがトールキン。彼は古英語の研究者であり、故に北欧神話にその半創造世界は影響されている。ただし、エルフはキリスト教の影響を受けており、美しいが魂はないということになっていた、という発言があった。それにたいして、現代に残っている、古代〜中世北欧における信仰の重要資料となっているものの作者であるスノッリは一応キリスト教徒であり、オーディンをヤハヴェと関連づけているという指摘もあった。
 ファンタジイは何故中世を舞台に選ぶのか、また何故ただ一人の神なのかという問題や、宗教と神話の間のことから、ファンタジーにおける信仰は、実際の、たとえばギリシャ神話の神々と比べてコントロールされている、などと様々な話題があった。ギリシャ神話も、北欧と同じく、今残っているものはかなり書き留めた人間の、意図的なものが含まれていると思うけどね。と英語で言えたらねえ・・・。
 あと「孫悟空はトリックスター」とはなんぞや。
 
 この日はこれで企画は終了だが、ルームパーティーの日なので、軽食をお腹に入れてから行ってみる。和服を持ってきてはいたが、諸事情により着られなかったのが残念だ。
 会場横のホテルでのパーティー会場にうきうきと行ってみたわけだが。すみません混雑に耐えられませんでした。もともとああいう交流型の催しは苦手なうえに人混み・・・。二つか三つの部屋ちょこっと覗いてみて引き上げた。酒が入ったらちっとは口も軽くなるがそれはそれで問題が発生しそうなので却下。
 
 翌日は「ゲストオブオナー デイヴィッド・ブリン」から。日本びいきで有名な方ですね。
 まず、SFとは世界を語るものであり、ことに可能性の宇宙だという話から。日本のSFはビジュアル面がとても優れており、それは平安時代の絵巻物から宮崎アニメまで続いているとか。自信の作品の日本からの影響としては小林一茶や源氏物語、その他から受けているそうだ。
 SFとは変化について考える文学の一派である、とか。人間の間違いというのは、人類が永遠に万物の霊長であると思いこみ、愚かな振る舞いをすることだそうだ。このあたり少しA.C.クラークを連想した。文化面でいうならば、英語以外語学を勉強しない、というようなこと。理解できる言語が少ないのはよくなく、中心にいると他の人達が自分の言語を学んでくれてしまうのが問題ということだった。ただし、それは他者に対して不寛容だというのではないらしい。例として、カリフォルニアの人間は異文化にたいして寛容で、SFやファンタジイの作者が多い、ということをあげていらした。そういえば学生時代、ドイツ人の先生が「アメリカ人は定冠詞を全部dieですませようとしやがる」とおっさっていたような気が(注:ドイツ語では名詞が三種類にわけられて、その種類によってつけられる定冠詞が異なり、それぞれ文の中で果たす役割によってさらにそれら定冠詞が語尾変化します。ついでに言うと、名詞の種類の分け方に規則性はありません。ドイツ語を母語とする人でも子供は時々間違えるらしいです)。
 SF以外の文学は未来を見ず、人間の限界から出ようとせずに変化がなく、遺産によって生きている、と言ってらした。ただしSFがいい未来ばかりでなく、悪い未来も見ているとも。
 SFはまた思考実験でもあり、「何故これではいけないか」という思考は古い考えからは生まれない、という解釈もあった。つまり総じて、それは青春期のものであり、SFとは青春文化である、との考え方をお持ちのようだった。
 中国のSFコンベンションにも出席されたそうだ。中国のコンベンションでは政府の監視が強いらしい。地方ではSFを理解せず、年では他のことで手一杯、大学では児童文学としてのみ扱われているが、それは中国に限らず、世界中でのことらしい。文学者がそれまでの文学を壊されるのをおそれている、ということらしい。
 中国の作者は、中国の文化に基づかないと礎がなくなると考えているが、それは過去に跪くことであり、ひいては進化しようとしていた過去への侮辱である。次代に繋げて進化させることこそが過去への感謝だ、という意見は、まあ、アメリカ人らしいなと。
 そのアメリカ人は、視点の異なるアジアの勃興をおそれているそうだ。だが、多様性はすなわち可能性につながるという話だった。
 全体的にポジティブで前向きな、いわゆるアメリカ人らしい方だなあと思った。
 
 ゆっくりお昼にした後はディーラーズルームやファンジンアレイをまわってお買い物。ついでに来年の日本大会の登録もすませておいた。買わずにちょっと後悔しているのがウィランの「白い竜」のプリントアウト版ポスター。ううう。
 
 おなじみ星雲賞授賞式。今年の副賞は、富士山をあしらった置き時計でした。同時にゲストオブオナーへのプレゼント贈呈も行われていました。
 受賞結果については、既にあちこちで発表されていますので割愛。
 毎年スタッフの方々の扮装が楽しみなセンスオブジェンダー賞。今年はレスキュー隊の扮装でした。特別賞が「か弱く優しいヒーローを描いた」映画版「日本沈没」だったせいであると思われます。「日本以外全部沈没」どこかで見られないかなあ。
 
 マスカレードはちょいと遠慮して、「日欧翻訳事情」。パネリストにイタリアの方がいらした。珍しい。
 イタリアの「アリア」という幻想文学アンソロジー。イタリア編や日本編があって、日本編がいちばん売れているそうだ。
 篠田真由美氏がおっしゃるには、ダ・ヴィンチや、キリスト教徒の血を吸う吸血鬼ものはイタリア人には思いつかないらしい。読んだらどう思うのだろう。
 外国ものの出版に大切なものは翻訳の質で、質がよくないと続かないそうだ。うんそうでしょうね。同じシリーズを違う人が翻訳するとまるで違うように思えるというのを私も経験している。
 翻訳を出すきっかけとしては、翻訳者が自分で、か友達を通じて、が多いそうだ。どの世界でも人脈とプレゼン能力ですか。マイナー言語からマイナー言語への翻訳は難しく、作家としての能力も要求される、らしい。
 出版社側の戦略としては、サンプル版をつくってブックフェアに出すことだそうだ。イタリアではTVCMとか、タレントにわざとらしく「これ好きなんですよ」と言わせるとかないのだろうか。
 最近のヒット作としては、水中考古学者が書いた、エクスカリバーを最後のローマ皇帝が探しに行く、というものがあるらしい。何それ。と思ったが、イタリアで200万部売れたそうだ。
 最近は日本ではネットからデビューや携帯小説というものがあるが、ヨーロッパではウェブと紙媒体の間に絶対的な階級差があるらしい。小説だけでなく論文でも、ウェブで発表されたものはまず相手にされないそうだ。また、イタリアでは作家デビューにもコネが必須で、「まあ何にしてもコネがなければ始まらない」との発言には、欧州だなあ、と思った。
 フランスでのSF雑誌についても発言があって、発行部数が100部から300部だそうだ。・・・ドコノコミケサークルノウリアゲデスカ。そういえばSFマガジンとミステリマガジンってSFマガジンの方が(強制終了)
 
 この日のみたい企画も終わったので、さてもう一度ファンジンアレイでもひやかしてくるかと降りていくと、なにやら大声で言いながら配っておられる。一枚もらった。
 大会中に倒れて救急車で運ばれた外国参加者の方がいらして、入院しなくてはいけないのだけれども、費用は現金払いのみ受け付ける。カード不可。旅行保険入っていない。カンパお願いします。
 ・・・うわあ大変だ。募金場所に行くと列が出来ていて、受付の人が「もっと大きな箱ないの」と叫んでらした。ちょっといい話。
 
 翌日は、いくつか企画はあるが、私にとってはクロージングセレモニーの日だ。だが少し早めに行ってシール交換をしてみたり、ホール前のスペースで千羽鶴企画に協力してみたりとゆったり過ごした。
 
 クロージングで印象的だったのは、暗黒星雲賞・星雲賞を両方もらったブリン氏のコメント。「星雲賞の記念品と近くにおいておくと対消滅でたいへんなことになるので、家の端と端においておく」そうだ。らしいコメントだった。
 医療班も紹介され、入院費用カンパの参加者のこともとりあえずは落ち着いた、とのことだった。ホール前で行われていた折り鶴も、千羽を超えたので、次回開催のデンバーへのおみやげと、倒れた方に渡されることになったそうだ。
 そして来年の日本大会の案内(大阪弁だったので通訳の方が困っておられた)と、来年の世界大会デンバーの紹介。ハインラインがGhost of Honorとして招待されていた。ははは。
 最後は、オープニングセレモニーでも使われていたハンマーで机を、こん、と叩いて終わり。あっけないのではないか、というような終わり方もまたよし。
 
 出口でまたシール交換をし、ディーラーズルームに注文しておいたTシャツを取りに行って、そのまま駅に直行。終わったんだなあと思ったのは、家に帰って家事を片付けてからだった。
 
 日本で世界大会が行われない限り、もう行くことはないと思うが、「電車で行けるワールドコン」、私なりに楽しませていただきました。スタッフの皆様、誘致活動からの長丁場、お疲れ様でした。
 
SFコンベンションその他外出記へ