真盛上人の一生のあらまし

年号 西暦                   事           項
嘉吉3 1443 伊勢国一志郡小倭荘大仰(三重県一志郡一志町大仰)に、伊勢の国司、北畠氏所属の有力地侍の子として誕生。母が地蔵菩薩の宝珠をおしいただいて呑む夢を見て授かったことから、宝珠丸と名づけられた。
宝徳元 1449 同国川口、光明寺盛源権律師の坊に入室。
康正2 1456 同寺にて出家。
長禄2 1458 尾州篠木、密蔵院留学。
寛正元 1460 伊勢神宮に参篭して比叡山登山を祈る。
寛正2 1461 比叡山、南上坊慶秀法印の室に入る。
文明14 1482 母の死に会い、生死の問題をいかに解決するか熟考し、僧としてのありようを深く内省される。
文明15 1483 比叡山での栄達の道を捨て、黒谷青竜寺に隠遁。一切経を閲読。善導大師の「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥時節の久近を問わず、念々捨てざれば、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」の文に行き当たり、念仏門に入り、毎日6万遍の念仏を自らに課された。
文明17 1485 伝教大師廟浄土院に参篭して、夢に伝教大師が「往生要集」を依り所として衆生済度に出るよう勧められる。
文明18 1486 西教寺入寺。粗末な黒衣を身に付け、一般衆生から宮中、将軍にいたるまでを広く教化済度された。
延徳2 1490 安濃津西来寺(現在津市 別格中本山)草創。
延徳3 1491 伊勢の地を教化。この頃西方寺は真盛上人に帰依。
明応2 1493 叡山衆徒が西教寺に乱入。手白の猿が身代わりとなって鉦を打ったため、難を逃れた上人は越前に赴き、その地の衆生を化導。以後手白の猿が西教寺、天台真盛宗の守護神とされる。
明応4 1495 2月30日 伊賀の国(三重県上野市)西蓮寺にて遷化。 御歳53歳。「無欲清浄 専勤念仏」を遺誡とされた。