イチャルパ 先祖を供養するために食べ物を供える
 2003年11月13・14日、安政五年(1858年)に松浦武四郎が訪れたクスリ湖畔に住むアイヌの友人たちが行ったイチャルパ(先祖供養祭)に参加させていただいた。友人たちの文化を守り続ける姿を息をつめて見続け、深い感動と素晴らしい思い出をいただき、ただただ感謝のひとことだった。
 

イチャルパ
 先祖を供養するために食べ物を供える
 2003年7月観光客で多忙の頃、友人が「夏は忙しくてゆっくり話ができないから11月のイチャルパに来ないか。そのときゆっくり話をしよう」との嬉しいお誘いをいただいた。冬のアイヌ文化伝承学習会に何度も参加させていただき、その都度お世話になっている方々にも会いたいし、またいつもお世話になる方が湖畔に建てられた松浦武四郎の歌碑も見たいと11月初旬から一ヶ月間クスリ湖畔に滞在した。
 
 

 「イチャルパ(先祖供養祭)に参加させていただいてもいいのだろうか」と何度も躊躇するものが胸をよぎった。友人たちに「参加せていただいてもいいのだろうか」と問い返したこともあった。単純に「これは好機だ!」と飛びつくには厚かまし過ぎる。「コタンの人たちに迎えていただくことができるのだろうか」がもっとも心配だった。妻もこの点を心配して友人に電話をした。「コタンの人をたくさん知っているじゃないの。みんな喜ぶと思うよ。衣装も用意しておくから準備の手伝いにも来て欲しい」と心温まる話に意を決して出かけた。

伊勢・松阪からクスリ湖へ
 福井県敦賀から苫小牧まではフェリーを使った。運の悪いことに低気圧の前線に遭遇して船が揺れて酔い19時間苦しみに苦しみを重ね、「もう北海道へなんぞ絶対来るものか」と思った。しかし、車に積み込んだ布団の中へ一晩寝て走り始めたら現金なもので「やっぱり北海道はいい」としみじみ感じた。三ヶ月ぶりに、1858年に松浦武四郎が和人ではじめて訪れ、「風景言ん方なし」とその美しさを絶賛したたクスリ湖畔に立った。白鳥が遊び、八重九郎エカシが山田秀三氏に「もっとも尊い聖なる山です」と語ったトエトクシベ(湖の・奥・にいる・者)が輝いていた。湖畔には松浦武四郎がイソリツカラに案内してもらって湖上を遊んだ際に詠んだ「汐ならぬ久寿里の湖に舟うけて身も若かえるここちこそすれ」の素晴らしい歌碑が磯里明・多恵ご夫妻のご尽力によって建てられ、その前で白鳥が遊んでいた。いよいよイチャルパが行われるクスリ湖畔へ着いた。
 
準備
 すべては祈りから始まった
 11月8日 ヌササン(祭壇)に飾るためのイナウ(木幣)を作るためにスス(柳)を伐りにいった。いつものようにまずカムイノミから始まった。イクパスイで酒を酌みススに掛けながら大地の神に伐らせていただくことを願った。はじめてススを伐りに連れてもらったのは2000年の冬だった。そのときに磯里博己さんから「大地の恵みをいただくときはカムイノミをする」と教えてもらった。1999年の秋、友人たちにキノコを採りに連れてもらった際に友人が「いただきます」と言われたことを聞いていたこともあり、大地の恵みに感謝することが生活のなかに息づいている姿に感動した。イチャルパに必要と思われるだけの量を大地からいただいて帰り、木皮を剥いで5日後のイナウ(木幣)作りに備えた。
 
 タクサを作る
 笹、トドマツ、柳を使ってタクサが4本作られた。タクサについては「アイヌ民族写真・絵画集成 祭礼 神々との交流」に「悪霊払いと清めのタクサ」「タクサで周りを清め、村の広場を練り歩く男性たち」とある。祭りの当日2本はヌササンに、2本はエペレセッ(熊の檻)に立てられるのだ。タクサを手に持ちながらイチャルパの祭司であるエカシにいろいろ教えていただき、「イチャルパを行うのに中心となる人はそのコタンの人ではなく隣接するコタンのエカシが務める」ことを知った。
 
 イナウケ イナウを削る
 みんなでよいイナウになるように、オンカミ(掌を合わせて2・3回横に擦り、両手の掌を上に2・3回上下する)をしてイナウケに取りかかった。左手で木を押さえ、右手に持った刃物で薄く削りながら自分の左手親指の下まで引いてくる。松浦武四郎が「蝦夷漫画」に記録されたイナウケの絵の刃物の運び方が逆で間違っているらしい。日常生活の中で自分の方へ刃を向けて引くことはまずないから注意を怠ると左手の親指を切ってしまう。今回のイチャルパの実行委員長で「ぜひ来いよ」と勧めてくれた八重さんはこともなく削り、その横で知り合ったときはまだ紅顔であった美少年が若者となって準備に勤しむ。 
準備が整う
 男の人たちがイナウを作った。イクパスイ(棒酒箸)もトゥキ(酒杯)等儀式に使う用具も準備した。一週間前に女の人たちが仕込んだ酒ができた。イチャルパのための数々の料理もカムイから授かった魚のなかで一番尊い鮭も果物も整った。それらがすべてチセッの中へ運び込まれてチタラベ(花ゴザ)の上に並べられた。この準備が仕上がるまでにさまざまなことを教えていただいた。過去数度冬季に開かれるアイヌ文化伝承学習会に参加させてもらって種々教えてもらってきたがそれらは断片的なものであった。しかし、今回は実際の行事にむけての準備過程を歩ませてもらった結果教えてもらってきたことの繋がりと奥ゆきが少しはできたかなと感じた。
 
大切なのは形より心
 準備が整った。妻の友人が準備してくださった民族衣装を身につけた。数時間後の前夜祭を前にして、5年前柳を伐りに連れてもらった際にはじめてオンカミを教えてくれた友人の磯里博己さんが僕と妻に作法の復習をしてくれたがぎこちない動作を気遣って言ってくれた「大切なことは形より心だ」とのことばにゆとりと落ち着きを感じて気が休まった。
 
前夜祭が始まった。
 これまで幾夜も語り合った友人たちの民族衣装の美しさ晴れやかさに目を見張った。同じような衣装を着た僕と妻に「よく似合うじゃないか」と声が飛び、仲間に入れてもらった嬉しさに鳥肌の立つ思いがした。
 囲炉裏の四隅にイナウが立てられて伝統の儀式が始まった。エカシの指示で儀式に使うトノト(神酒)を味見をするシントコサンケ(利き酒)は今回の滞在中にも友人も交えて4人で夕方から5時間も話し合った磯里博己さん。真剣に時間をかけて丁寧に厳かに吟味する彼の美しい姿を凝視しているうちにえも言われぬ感動が込上げてきた。吟味役の「ピリカトノト」(よい酒ができた)の報告に基づいて前に置かれたトゥキに酒が注がれ、エカシにより厳かなカムイノミが行われた。そして女性によって先祖に食べていただくための食べ物が囲炉裏端に供えられた。ここで「イチャルパ」とは「先祖を供養するために食べ物を供える」ことで男性の役目はイチャルパのための場面設定、準備役のようにも思えた。その後みんなで手作りの料理を頂いた。
 この夜は宿舎が未定であった某新聞社の記者が僕たちが借りているコテージへ泊まることになり、八重さんも交えて深夜まで話し込んだ。
イチャルパ 祭りの当日
 チセッの中
 いよいよ当日になった。準備の段階からこの日までに八重清敏さん、磯里博己さんとも夜遅くまで話をした。みんなに教えてもらいながら準備を手伝ってきた。妻も女の人たちにこれまでに教えてもらってきた料理作り、新しく酒作りを教えてもらいながら手伝ってきた。そして、とうとう祭りの当日になった。チセッ(家)の中で客人も交えてエカシのカムイノミによって始まった。男たちの中に加わってチセッの中の宝物や要所要所をシメシイナウで飾り祈りを込めてイクパスイで酒を注ぎ、日常のチセッが神聖な別世界に変化したように思えた。
 
 ヌササン(祭壇)
 文・更科源蔵、写真・掛川源一郎の「アイヌの神話」に取り上げられているハルニレの木が立っている湖畔のヌササン。松浦武四郎が「湖水に家居し風景言ん方なし」とその美しさを絶賛したコタンのヌササンがタクサで清められ新しいイナウとチタラベで整えられて供物が準備された。儀式が始まるまで僕はエカシから話を聞いた。
 
 イチャルパ
 11月の中旬にしては暖かいこの日、長く培われたアイヌ民族のイチャルパが始まった。先祖の人に十分食べ楽しんでていただくために女性は料理を作り、また喜んでいただくために酒、たばこ、お菓子、果物を用意し、火鉢に火を起こした。そしてエカシによってカムイノミが行われ、10人の女性がイナウを捧げてイチャルパを行い、また楽しんでいただくために歌や踊りも行った。
 イチャルパを終えてから「私たちもこんなに楽しく生活していますからご安心ください」との意味を込めて、みんなでチセッでイチャルパのために作った料理を頂いた。
片付け
 男たちがイナウを作るために削った木皮や古いイナウ、タクサを湖畔で燃やした。雪が積もり湖が凍結した季節に何度かイナウを燃やしたことがあるがそのときも男たちだけで燃やした。イナウに関する仕事はすべて男の役目である。これは性による仕事の分担が厳格に決められているためである。儀式に使うイクパスイ(棒酒箸)、トゥキ(酒杯)の片付けもまた男性の役目であった。
 
祭りの後で
静かになったヌササンの近く
 イチャルパが終わった翌日、ヌササンの近くに立つ松浦武四郎の歌碑の近くでいつものように白鳥が遊んでいた。これからますます寒くなり巨大なカルデラ湖が凍結し御神渡りが走る。歌碑の周りで遊ぶ白鳥は四月下旬まで湖に流れ込む温泉によって凍らないところで過ごす。
 
オ・サッ・ぺ 川尻・乾く・者(川)を遡る
 妻と長靴を履いて湖岸を散歩した。晩秋はホッチャレらしい大きな魚がたくさん死んでいる。和琴の近くでは温かい湯が流れ込んでいる。尾札部川が湖に入る口の巾は狭い。砂利底で伏流水となっている。常々、上流では水量がどれほどあるのだろうかと思っていた。その尾札部川を遡って瀧へ行こうか、と磯里博己さんが誘ってくれた。僕は満面に笑みである。峰の続きを、山菜を、木を、動物を説明してもらった。山ぶどう採り、尾札部川探訪へと連れてもらった博己さんの「次に来たときはコタン山へ登ろう」のことばに伊勢松阪へ帰る日が迫ったことを感じた。
 
ピリカノ・オカイヤン 無事で・おられますように
 終生忘れえぬ思い出をいただいたコタンの人たちに感謝を込めて、松浦武四郎が「東部久須利誌 上」に「クツチヤルシベ」と記録された山に登った。この山について山田秀三著「北海道の地名」には「湖口のすぐ南側に丸山(226メートル)という美しい小独立丘がある。アイヌ時代はクッチャルシペ(kutchar-ush-pe クッチャロに・いる・者)と呼ばれた。八重翁は、クッチャロを預かっている神様で、通る時はイナウ(木幣)を上げたものだと話された」とある。コタンを見下ろす丸山に登りタクサを作って立てお世話になった方々のご健康を祈願した。僕たち夫婦をあたたかく迎えてくださったコタンの方々への感謝の涙が頬を伝わった。
 
I will cherish my visit here in memory ,
                as long as I live .
 
  わたしがここを訪れたことを思い出として大切にするでしょう。 わたしが生きている限り
 
 2004年4月、弟子屈町へ行くたびになにかとお世話になる、元弟子屈町農業協同組合組合長理事の福田 博さんから弟子屈町発行の「風・人・大地」が送れられてきた。その中に僕のイチャルパでの写真が載っていた。この本は僕の宝、いつまでも大切にしたいと思っている。
 

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