1973年、75年ぶりに屈斜路湖畔の人々の努力でシマフクロウのイヨマンテが再現され貴重な記録が残された。昭和5年(1930年)にこの地で小学校の教師をしていた更科源蔵は著書に「近年のアイヌの祭りというと熊送りが最大の祭事のように思われているが、山猟をする人達にはシマフクロウのほうが数倍偉い神である」とある。更科源蔵はこの地の六人の長老の協力を得て地図にも記載されていない小川までも調べたり、神話・伝説・伝承の聞き取りをした。六人の長老の名前は弟子屈町史に記載されている。

友人たちの神話
伝説
屈斜路湖
 
 「学ぶ心あれば師必ず現れる」
 司馬遼太郎は「オホーツク街道」に「山河への畏敬だけが人類があすへ生きのびるための唯一の思想であるとおもえる」と書いている。この地の親しき師・友人からで教えていただいたことを忘れない。

1999年5月から一年間、妻と北海道で長期滞在をして松浦武四郎の記録を読みながら各所を訪ね、安政五年に松浦武四郎を案内した子孫の方々とその友人に出会った。そして終生忘れえぬ思い出をいただき、その後、何度もこの地を訪れ計六ヶ月間もこの地で過ごした。

屈斜路湖畔の夜
 厳冬期の夜半、借りていた別荘の回りはなぜか青白く輝いていた。この別荘で松浦武四郎ゆかりの人達やその友人と夜遅くまで語り合った。この人達は僕にとって最良の師であったし、妻にとって尊敬と信頼・親しみを込めて話のできる友人となった。筆舌に尽くせない程お世話になりたくさんのことを教えていただいたこの人達と出会ったことは北海道での長期滞在の宝となった。
 妻は冬の間、この地の人たちに教えていただいてアイヌ文様を刺繍した着物を作った。
 アイヌ文様刺繍について「ふるさとの伝説 T 北海道 大地の祈り」(更科源蔵著)に「オキクルミが年老いた大神に姫神との結婚を申し込んだ。それを聞いた大神はオキクルミに『もし姫神を妻にしたいというのなら、その前に、この天上に伝わるユーカラの物語とともに臼、杵、櫛、衣類、刺しゅうなどのいっさいを下界に広めてくるのだ』と語った。それは口で言うほど簡単なことではなかった。しかし、オキクルミは言われたことを一つ一つやりとげ、めでたく姫神と結婚した。アイヌたちもそれを喜び、オキクルミの名はアイヌコタンにいやが上にも高まった。かくして、アイヌ文様刺しゅうは伝わった」とある。このことを思い、妻は毎晩ひと針ずつ刺しゅうを続けた。
 
 悲恋の美幌峠
 昔、メマンベツとビホロのコタンが争い、ビホロの勇敢な青年が深い傷を負い峠を越えてクッシャロコタンに逃れた。青年は娘の手厚い看護をうけ治癒しビホロへ帰ったが湖を見下ろす山の上で逢瀬を楽しんだ。しかしそれもかなわなくなり娘は湖へ身を投げた。悲しんだ青年も自ら命を絶った。二人が通った峠の道は季節になれば花が咲き乱れる。(弟子屈町史から要約)
屈斜路湖を守る丸山
 屈斜路湖から流れ出る釧路川のすぐ南に丸山という高さ226メートルの小さい美しい小山がある。松浦武四郎は「クッチャルシベ」と記録しているが土地の人はかってこの山にアイヌ時代にチャシ(要塞)があったので「丸山チャシ」と呼んでいる。この山は屈斜路を守る神で通るときはイナウ(木幣)を捧げたと伝えられている。
 
 神聖な山 藻琴山
 白鳥が遊ぶ屈斜路湖の北奥に聳える1000メートルの山。この山を釧路側の人は(屈斜路の人も)トエトクシペ(湖のおくにあるもの)と呼んだ。北海道の地名研究家の山田秀三は八重九郎というエカシから「この山は周囲の山々の中でもっとも尊い山とされている」と聞いている。
 山田秀三著「アイヌ語地名の研究4」には「八重久郎翁は阿寒の山々を指して、そのアイヌ時代の名と伝説を語られた。特に印象的だったのはトイ(エ)トクシペ(湖の先端にいる者、藻琴山)である。この辺りで祭りをする時に名を称えて献酒する山々を並べていわれ、だが、『一番先に名を言うのはいつもトイトクシペなのですよ』と繰り返された。重い神であることを教えられたのだ。山々は神でたくさんの伝承が語られて行く。八重さんと一緒だと、地名は息づいて生きているようである」とある。
 
 
 村を守る コタン山
 土地の人が「コタン山」(高さ504メートル)と呼ぶ丸い山はかってマクアンヌプリ(村のうしろにある山)と言われていた。神話ではオプタテシケ(槍がそれたもの)。この山はオホーツク海からの大津波で周囲の山々が沈んでも波をかぶらず村の人を助けると言い伝えられている。
 摩周岳 山々の争い
 藻琴山がマクアンヌプリにめがけて投げた槍がそれて摩周岳(カムイヌプリ)に刺さった。怒った摩周岳は抜け出して国後島でチャチャヌプリとなった。藻琴山のしたことに腹を立てたマクアンヌプリは槍を藻琴山に投げ返した。その槍は藻琴山をまっ二つにした。その事件以後、マクアンヌプリをオプタテシケ(槍はそれた山)と呼び、摩周岳をオメウケヌプリ(抜けた山)とも呼ぶようになった。摩周岳の岩は飛び散った血で赤く染まっている。
 
 「ふるさとの伝承の旅 T
   北海道 大地の祈り」(更科源蔵)から
     山と山の争い
 屈斜路湖の南岸に、わずか五百四メートルのマクアンヌプリ(村の背後にある山)という、おとなしい女山(マチネヌプリ)がある。その対岸にはトーエクトウシベ(湖の奥にあるもの)という、わがままな男山(ピンネヌプリ)の藻琴山があって、日ごろから対岸の小しゃくな女山(マチネヌプリ)が目ざわりなので、いつか痛い目にあわせてやろうと機会をねらっていた。そして、ある夜、マクアンヌプリがぐっすり眠っているところに、いきなり藻琴山が槍を投げつけたが、槍は女山(マチネヌプリ)の肩をかすめてうしろに飛び、何も知らずに眠っていた摩周岳(カムイヌプリ)に刺さって大怪我を負わせてしまった。思いがけないできごとに、すっかり腹をたてた摩周岳(カムイヌプリ)はそこを抜け出して厚岸の琵琶瀬というところまで行ってうしろを振り返ってみると、まだ乱暴者の藻琴山が見えていたので、さらに北東の海を飛び越えて、千島の国後島に行き、チャチャヌプリ(老人のような山)になってしまった。そのため、もし釧路の者が国後島へ行くとチャチャヌプリは遠い故郷でのむかしのことを思い出して悔し涙を流すので天候がくずれてにわか雨が降り海が荒れる。そこで、かならず酒やタバコを供えるのだという。藻琴山の乱暴に腹を立てたマクアンヌプリは藻琴山の投げた槍を拾い取ると、それを藻琴山を目がけて投げ返した。それが藻琴山を真っ二つに割ってしまったので、いつまでもそこから赤い血がほとばしり流れて湖畔の岩を真っ赤に染めている。傷つけられて怒り千島に飛び去った摩周岳(カムイヌプリ)のふもとの岩も、そのときに飛び散った血で赤く染まり、湖岸のほうぼうに見られる白い岩はそのときに摩周岳(カムイヌプリ)が流した悔し涙の跡であるといわれている。この騒ぎがあってから屈斜路湖畔のマクアンヌプリをオプタテシケ(槍が肩をそれたもの)と呼び、摩周岳(カムイヌプリ)をオメウケヌプリ(抜けた山)とかイケシュヌプリ(腹を立てた山)と呼ぶようになった。屈斜路湖畔のオプタテシケはむかしオホーツク海から大津波が押し寄せ、付近の山々がみな波にさらわれたときも、この山頂だけが波をかぶらず、ここに避難した村人だけが助かったとして祭事のときにはかならず酒と木幣(イナウ)とを捧げるのを常としている。オプタテシケは槍がかすってそれたという山の肩あたりはいかにも凶器によって傷つけられた跡のような痛々しい岩が露出している。
 神話の木 春楡
 湖畔の祭壇に大きな春楡の木がある。この木は文 更級源蔵、写真 掛川源一郎の「アイヌの神話」に取り上げられた木で夕陽に映える湖水を背景にシルエットで浮かぶ美しさは幻想的な感じがする。神話のアイヌラックルの母は春楡。村で一番大切な木。写真は詩人に写してもらった大切な思い出の記録。
 友人の彫刻家、磯里博己氏作「エカシ」。
 北海道で長期滞在するたびにピエロの作品で新境地を開いた彫刻家の磯里博己さんにお世話になる。厳冬期の夜間、「おおい!起きてるか」と声をかけてもらって話し込みいろいろのことをたくさん教えていただいたしイナウの作り方も教えていただいた。安政五年(1858年)、松浦武四郎は和人ではじめて屈斜路湖畔へ来た。そしてアイヌの人たちが住むコタンを「湖水に家居し、風景言ん方なし」(久摺日誌)とその美しさを絶賛した。そして舟で屈斜路湖を回ったがそのときに水先を勤めたのが磯里博己さんの祖先の人だったことが松浦武四郎の自伝や案内人名簿から分かる。
 汐ならぬ久寿里の湖に舟うけて
    身も若がえるここちこそすれ 松浦武四郎
 長く苦労の多い旅にあって、松浦武四郎の屈斜路湖畔(久寿里湖)でのひとときの安らぎが感じられる。
 マイナス20°を越える身も縮まる寒い夜、タバコを買いに出てひょっこり出会って大笑いしたこともあった。いつもお世話になる僕たちにとってかけがいのない人だ。

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