松浦武四郎研究会
 松浦武四郎翁記念碑等の特集について
 
北海道の名付け親・松浦武四郎を讃えた碑が北海道にたくさんあることを紹介したのは、1991年9月25日に発行された「松浦武四郎研究会会誌 第12号 特集号 松浦武四郎翁記念碑等の特集」である。そこで、この特集の文言を大切にしてタイトルを「松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる」とした。
 
 この特集「松浦武四郎翁記念碑等の特集に当って」の号頭文で会長の秋葉實氏は「本号は、道内に所在する松浦武四郎翁記念碑等の特集を試みたが、短日月における数少ない会員各位の調査であり、遺漏の感は免れない。而して既存碑のうち、北村赤川の碑文は石狩岳登山とうたっているが石狩日誌の凡例では『サンケソマナイに至りて帰り』その奥は聞き取りによって『其源を探』ったが『文の疎漏あらん事敢て蔑視なし給ふ事なかれ』と断っている。また砂川市の碑文は『和人の足跡の最初』としているが、文化4年10月に近藤重蔵が足跡を印し、当時すでに忠別川口に番屋があった。しかし建碑の時点では『丁巳日誌』や『戊午日誌』、『近藤重蔵史料』等は未刊であったから、揚げ足をとるよりも、先駆けて建碑された人々の業績に敬意を表したい。
 このほか吉田武三著には恩根内に『幕史松浦判官宿営之地』木碑、本会会員射水辰三氏は『士別市上士別の道道385号旧道でも木碑を見た』と述べており、洞爺村の道道233号旧道には『武四郎坂』がある。北海道神宮内には大正7年創祀された開拓神社には、37柱の祭神の中に『松浦弘』が祀られていることも忘れてはならないであろう。
 本号を足がかりとして、「向後『○○で記念碑を見た』『有るという話を聞いた』という方は、ぜひ事務局へご連絡をいただき、逐次追補して参る所存ですので、ご協力をお願いいたします。」と書かれている。
 
 そして、号末には、松浦武四郎研究会事務局・編集担当の野澤さんが「短期間での依頼にもかかわらずご協力をいただきました会員の方々にお礼申し上げます」と記されている。
 
 この号に記載された松浦武四郎翁記念碑等は17基であった。

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 1
 北海道各地のほとんどの市町村には郷土資料館などがありますがその多くに松浦武四郎がその地で記録した内容を知らせる展示物があります。ですからまず郷土資料館や開拓記念館などその土地の歴史をうかがうことのできる施設へ行かれることをお勧めしますがもっとも大切なことは土地の人から松浦武四郎のことを聞き、その人たちから碑を教えていただくことです。
 松浦武四郎が記録した事実の現場に立つことは記録の出発点に立つことです。
 碑などが立っているところを訪ねるとなお一層武四郎の真骨頂を感じることができます。
 

 松浦武四郎が歩かれ調査・記録された地方を知っておき、その地の人と話をするのは楽しいものです。

武四郎坂駐車公園
 洞爺村 国道230号線から洞爺村へ下る途中
 GPS参考値 北緯42度39分34秒
          東経140度49分55秒 
武四郎坂について戊午東西蝦夷山川地理取調日誌に「・・・五六丁過ぎて坂[武四郎坂]に懸かる。上ること凡七八曲にして上え上りつめしに、此処よりシリベツ岳よりコンボノボリの下まで、凡十里に二十里平一面真白にしてまばゆく見え、いかんとも致し難し」とあり、丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌には「此処両方薄原にして、湖中を一望して其景色筆紙つくし難し。また弐丁も上りて坂[これが武四郎坂]の上え行て、後方羊蹄山を戊に望む」とある。武四郎坂を登るとそこからは後方羊蹄山まで一面の原であった。
 武四郎坂は「此の湖水は何故ならん氷張る事無・・・湖氷る時は人も凍死し、魚鳥も凍餓」と記録した洞爺湖の北側から国道230号へ上る坂道である。
 春の洞爺湖畔は西蝦夷日誌四篇の「ヲシヨロ領」にある「見渡せばすみれたんほほ蓮華くさ枕に結ぶひまとてもなし」のような状態になる。
 とにかく美しいのひと言に尽きる。武四郎駐車公園をくだった洞爺湖北岸の春は敷き詰めたようにタンポポが咲く。夏は緑一面でキャンプには最適の地である。
 洞爺湖を車で一周するのは楽しい。
 
松浦武四郎歌碑 
 京極温泉前
 GPS参考値 北緯42度51分34秒
         東経140度52分25秒
 郷土資料館というより「名水ふきだし公園」の近くの京極温泉の前と言ったほうが分りやすい。
 歌は「天津風胡砂吹き払えしりべしの千代降る雪に照る日影見む」。
 「しりべし」とは博識のコトンランが松浦武四郎に「濁れる物の始は今の後方羊蹄の岳なり」と語ったアイヌ民族の聖なる山。独立山の素晴らしく美しい山であるが強風の吹く日が多い。山頂付近へ他所からコマクサを移植した人がいたが植生を荒らすと環境庁が取り除いた。後方羊蹄山麓で四ヶ月間長期滞在をした。「後方羊蹄山の見えるところで一生住みたい」「後方羊蹄山の見える、ここへ引っ越してきた」という人の多いのに驚いたが妻が知り合った人の後方羊蹄山への思いの強さは人一倍だった。京極町と言えば後方羊蹄山が幾多の年月の末噴出す人口八万人を養える名水の地である。京極の地名は開拓功労者京極高徳の名から来ている。松浦武四郎は丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌の第二十巻報志利辺津日誌下に「ワツカサタ」と記録している。「ワツカ」は水のことらしいから地名が「京極」ではなく名水の地にふさわしい「ワツカサタ」であれば愉快だ。
松浦武四郎歌詠みの地 松浦武四郎像と松浦武四郎歌碑
 小平町道の駅「おびら鰊番屋」の前のトワイライトアーチの脚下
 GPS参考値 北緯44度8分11秒
          東経141度39分16秒
 武四郎を敬愛する者にとってこれほど驚く記念碑はない。
 日本海に向かってトアイライトアーチが立ちその脚下に松浦武四郎が立っていた。そして 「松浦武四郎歌詠みの地」とあった。
 歌は「名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里」(西蝦夷日誌)。
 松浦武四郎が北方記録の先達であったことを物語る像と歌碑である。
 冬はこの地を車で通ったら像に囲いがしてあった。あまりの寒さで車外へも出ずに眺めた。
 焼尻島、利尻島を見ながら走るオロロンラインの単純さの中にある豪華・絢爛にして優雅・華麗さには脱帽であった。
  丁巳日記には「此間通りしときとは大に異りて、皆追々畑作をば励みける様に成りぬる・・」とある。
 
稚咲内止宿所跡 松浦武四郎休息地
 GPS参考値 北緯45度5分14秒
          東経141度37分49秒 
 天塩川口から海岸沿いオロロンラインを20キロほど北上した地にあるドライブイン「砂丘のえき」に立ち寄った。ふと見たら店の駐車場の横に「松浦武四郎もこの地で休息した」と説明看板が立てられているのを見て驚いた。稚咲内は「水のない沢」。松浦武四郎は再航蝦夷日誌に「水なき故皆入用の水はテシホより馬にて運用し・・・」と記録している。
 冬に「利尻島を見ることができたら」と気嵐の中真っ直ぐなオロロンラインを走ったら説明板は日本海からの雪の中に埋まっていたし、こんなところで車がエンストしたら死につながると感じた。
 天塩町から利尻島を見ながらノシャップ岬まで走る道道106号線ほど強烈な印象を受けた道路はない。 「松浦武四郎 碑など 四」をご覧ください。
 
松浦武四郎翁顕彰碑
 北村役場横
 GPS参考値 北緯43度15分45秒
          東経141度41分47秒
 石狩平野の真ん中の北村に石狩川が流れている。その石狩川の流域面積はどれくらいあるのだろうか。北海道の中心部を走ると「ええ?この川も石狩川?」と驚く。松浦武四郎も踏査されるのに非常な苦労があったのだろう。
 北村に顕彰碑がある。碑の裏面に石狩日誌の「柳を切り、是を曲げて一枚のふきを被せて篷にかへ、櫂に附帆となし」の絵が彫られている。役場の横にあるため見つけやすい。
 おばあさんから北村についていろいろ聞いた。松浦武四郎が描いた絵を彫った碑を見たのはここだけ。ぜひ一見したい碑だ。
 
松浦武四郎歌碑
 新十津川町開拓記念館前
 GPS参考値 北緯43度32分48秒
          東経141度53分1秒
 川村たかし原作の児童文学、「新十津川物語」の地にある開拓記念館は煉瓦造りで重厚な感じがする建物である。碑は徳富川河口に泊まった際の歌「日数経て突区の里に来て見ればここもかはらぬ蘆ぶきの里」(石狩日誌)。町名は明治22年に奈良県十津川村から600戸が移住したことによるがかってこの地は「トックプト」と呼ばれていた。
 妻はここの開拓記念館から「新十津川物語 全十巻」を取り寄せて読んでから屈斜路湖畔に住んでみえる方から「父親は奈良県十津川村出身」と聞いて驚きまた喜んだ。
 この碑は偶然見つけた碑であった。
松浦武四郎顕彰之碑
 上富良野町深山峠
 GPS参考値 北緯43度31分5秒
          東経142度26分55秒
 安政五年幕府の命を受け和人ではじめて上富良野を越えて十勝に向かった。現在この地は観光のメインロードだが松浦武四郎の碑は人知れずの感じ。
 道路を測量していた二人の若者に所在を聞いたら首をかしげ「そんなのあったかなあ」と。やがて「そう言えばトイレの横にあるのとちがうやろか?」と話してくれたので行ったらそこにあった。
 この地からは「此処よりチクベツ岳ビエベツ岳等よく見え硫黄の燃る煙実に目ざましく天にさし上げたり」である。顕彰之碑の横に立つと十勝連山がよく見えた。若者は松浦武四郎については知っていなかったのである。松浦武四郎の業績を少し話しておいたから今度は注意して碑を見るだろうと思って離れた。
 
松浦武四郎歌碑 
 厚真町富里
 GPS参考値 北緯42度45分30秒
          東経141度55分35秒
 厚真に着いたのは夕暮れで日曜日だった。
車のガソリンも乏しくスタンドは閉まっていた。困っていたら近所の人が給油していただけるように頼んでくださった。おお助かり。その上スタンドの人が碑のある場所を知ってみえた。
 歌は「えみしらもしらぬ深山にわけいればふみまようべき道だにもなし」(東蝦夷日誌)。この碑については吉田武三の「定本 松浦武四郎 上」に「現在の富里に武四郎を顕彰する碑が建てられ、その前の頗美宇川に架かっている橋が松浦橋と命名されている。「昭和三十二年に、武四郎来村百年目の記念事業として、厚真村郷土研究会の発起によるものである」とあり、さらに「顕彰のことば」は「・・・本村えは、安政五年六月二十一日から同二十三日まで二泊三日で踏査された、東蝦夷日誌は貴重な文献であるが、その第三編中に当時の状況を詳述している」とある。
 松浦武四郎は厚真で吠えると鹿が逃げるので吠えずに主人に知らせに来る犬を「実に能く仕馴たる者也」と感心している。厚真町の町獣は北海道犬。後日郷里三重県にも北海道犬が飼われていることを知り、その中の一頭を大洞山中腹で見た。舌に紫色の紋のある縄文犬の特徴を備えた素晴らしい北海道犬であった。
 
松浦武四郎十勝日誌の表紙の菓子箱
  帯広市六花亭
 松浦武四郎ゆかりの道東の友人へのお土産を帯広へ探しに行った。菓子店、六花亭に松浦武四郎の「十勝日誌」の表紙を箱にしたお菓子があった。願ってもないお土産であった。まだ他に松浦武四郎の日誌を箱にしたお菓子があるらしいが残念ながらそれを知らない。
 
松浦武四郎歌 音更町開町記念碑
 音更町鈴蘭公園
 GPS参考値 北緯42度56分36秒
          東経143度12分4秒   
 千歳空港発着が中止となった猛烈な吹雪がおさまった翌日、車で札幌から恐怖の日勝峠を越えて道東へ移動する途中に訪れた。
 雪が眩い公園の中にあった。
 歌は「此のあたり馬の車のみ津きもの御蔵建ててつまま欲しけれ」。
 松浦武四郎は富良野から十勝へ抜けて調査したことがある。十勝平野の野の果てに東ヌプカウシヌプリ(山)がる。僕の登山歴はここで終えようと残してある。
 十勝日誌に「三月朔日和暖雪大融す。上川村々の人家を廻る。所々にてルイベと云て、鮭の生を雪に漬置して切てルサに盛りマキリと柳の枝一本に塩を一撮添て出す」とある。弟子屈でルイベとは「融けるもの」という意味と聞いたときは驚いた。僕は「凍ったもの」と思っていたのだ。まったく逆だった。そう言えば、アイヌの人たちは「水の本当の姿は氷と考える」と聞いたことがある。
 
松浦武四郎歌碑
 仁木町稲穂トンネル入口右側
 GPS参考値 北緯43度3分39秒
          東経140度41分9秒
 「岩を切 木を伐 草を刈そけて みちひらけし 山のとかけも」(西蝦夷日誌三篇)
 安政四年に余市から岩内へつくられたこの道は峠で天候が変わることが多い。アイヌの人たちはイナウ(木幣)を捧げて無事を祈ったので「稲穂峠」と呼ばれるようになった。トンネル近くに歌碑があり横に島義勇の碑もある。
 この道は古くはアイヌの人たちが岩内から余市への道として使っていたが和人は舟で積丹半島を回っていたとのこと。遠くて厳しい航路であったのでこの地に道路が作られた。峠について松浦武四郎は「ヨイチ、岩内の境目なり。此度改て標柱を立るなり。其眺望寅卯辰を一目に見て、風景いわん方なし。ヲシヨロ岳ヲタルナイ岳もよく見え、其間は一円の平山也。扨此処より下り坂に懸るに、ヨイチの方は岩内分より道も大によろし」と記録している。
 
松浦武四郎一行絵
 岩内町郷土資料館
 画像は観覧券から。
 GPS参考値 北緯42度58分46秒
          東経140度29分58秒
 冬の寒い日に岩内へ行って郷土資料館に入った。この資料館の「山岸正巳画伯作 安政四年四月二十七日 松浦武四郎、アイヌの人たち スイカ、スケノカロ、和人 常吉、松前富次郎を伴い、磯谷から雷電難所を越えて岩内に立つ」絵の大きさにはビックリして驚嘆の声をあげた。
 とにかく寒い日だった。
 ストーブへあたらせていただきながら館長さんからいろいろとお話を聞いた。
 松浦武四郎はソーツケ(現 倶知安町)へ入るのに難渋し、三度目の挑戦でやっと成功。その様子は「丁巳 曾宇津計日誌」を読むと愉快である。調査の出発地は岩内であった。ここからいわゆるサーモンロードを辿ったのである。
 

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