松浦武四郎の碑など 10

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 10
 
  「灯台もと暗しじゃないのか・・・
 2013年、東京の静嘉堂文庫美術館で「幕末の北方探検家松浦武四郎」展が開催された。この美術館に残された松浦武四郎関係のものを見るためと自伝等に記録された翁の生活を知るために、北海道の松浦武四郎研究会の方々と一緒に3日間行動を共にさせていただいた。何度か一緒に旅をさせていただいた方ばかりだから気さくに話をしての研修だったが実によく知って見えたのには全く驚いて「なんでこんなに知っているのだ!」と叫んだら「ここは本州だろう。君の領域だぜ!。灯台もと暗しじゃないのか」と。
 「足跡を地図にすれば日本地図が作れる」と言われる松浦武四郎だからついつい九州、四国、東北、北海道に目を奪われて「灯台もと暗し」の部分がある。これを反省して、ここでは草津温泉と誕生地近くを中心に紹介することにした。
 
 

平成26年は松浦武四郎記念館開館20周年記念です。
 松浦武四郎生誕地の松阪市の隣りの伊勢市は「蝦夷島奇観」などのすぐれた記録を残した村上島之丞の出身地であるが地元では知られていない。その一つの理由は地元での業績がないことである。さらに加えれば地元に島之丞の業績を語る資料がないことである。
 松平定信に取り上げられ、「蝦夷島奇観」などの記録を残し間宮林蔵を育てた村上島之丞について伊勢市駅前で「村上島之丞って知っていますか」と突撃インタビューをしたら一体何%の人が「知っている」と言われるだろうか。
 幸い、松浦武四郎は生家のお兄さんに自分が成し遂げた業績を送り知らせ、それを生家で保存されていたことが記念館誕生の基となったが「館がある」だけでは松浦武四郎の素晴らしい生き様を生きる鏡として学ぶ場とはならない。
 今までの松浦武四郎記念館館員、「松浦武四郎を読む会」「松浦武四郎記念館友の会」「松浦武四郎記念事業実行委員会」の活動があってこその松浦武四郎記念館であり、「松浦武四郎記念館20周年記念」を迎えることができるのだと思う。
 平成26年は松浦武四郎記念館開館20周年記念
 さらに飛躍のための千載一遇のチャンスがやってきた。

松浦武四郎湯あみの地
   (草津温泉に歩みし百人)
 友人から「草津温泉湯畑の石柵に松浦武四郎の名が刻まれているぜ」と電話がきた。晩年、松浦武四郎が草津方面へ旅をしたことは記録を読んでいたがその地に名が刻まれていることは知らなかった。
 レンゲツツジとコバイケイソウの美しさを見るついでに草津温泉に出かけた。「草津町町制施行100周年記念事業」として作られた石柵の「草津に歩みし百人」の中にあった。
 明治19年、松浦武四郎は「何方も年ある秋と聞しより心うれしく旅出をぞする」と願って上州へ旅に出た。その旅日記「丙戌後記」によると、10月9日「湯あみ人歸り來る見ゆ草津には白根おろしの寒く來らん」「下りて草津温泉場 人家三百餘。一井氏に宿。湯壺二十餘。頗る繁華の地。當地は元正天皇の御宇行基菩薩登山して發檢(見)すと。後に頼朝公建久四年入浴し玉ひ、また近衛龍山公も御入浴有て薬師十二~の和歌を残し、外に寄湯祝と云る御題にて「結ぶてふ此谷影のいで湯こそ むべも老せぬ薬なりけれ」の懷紙を薬師寺に納め置れ、豐大(太)閤も爰に御入浴の御催有し由にて、其御先觸と云物湯本平内所持されしを見たるが、筆意御手書の様思ハる。文禄四年何月日の下に朱印一つを捺す。聊か怪むべき物ならず。また丹羽長秀も入浴されしと。平内は當所の旧家なれども廢業して風月を楽ミ居られたり。土地頗る風烈しく夜寒し。主人巨爐をして呉られたり。」とある。この旅日記に松浦武四郎が「高野長英先生説 この川水のむべからず」の碑を再建したとあるが今も存在するのだろうか。
  因みに、百人の第1番は日本武尊、松浦武四郎は32番、100番は渥美 清。
大台ケ原 松浦武四郎が晩年愛した山
 松浦武四郎、大台ケ原研究の第一人者は佐藤貞夫氏である。氏は松浦武四郎著松浦孫太解読の「乙酉紀行」「丙戌前記」「丁亥前記」を編集して「松浦武四郎大台紀行集」としてまとめられ、それが松浦武四郎記念館から発行されている。また氏は特に、明治期の松浦武四郎原著を解読され、その成果をその都度、松浦武四郎記念館から発行され、それによって後年の松浦武四郎の姿が明らかにされてきている。
 佐藤氏は豊かな登山経験を生かし実際に幾度も大台ケ原を歩かれている。その佐藤氏に四度大台ケ原へ同行させていただいて驚いた。
 一般的に、「大台ケ原へ松浦武四郎の足跡を訪ねる」となれば名古屋谷のすぐ上にある分骨碑を見て「これでよし!」である。がしかし・・・・。氏に連れていただいて、松浦武四郎を語る史跡の多さを知った。画像は、今、自由に入ることができる日出ケ岳から牛石ケ原へかけての「松浦武四郎石柱」である。西大台地区には一般的に分骨碑が知られている。さらに人が入らない苔むした深山に松浦武四郎関係の石標がいくつもあるのを調べられたがその地域は現在入山禁止である。
 
松浦武四郎生誕地で仲間と顕彰活動
伊勢本街道 奈良県宇陀市上田口
 松浦武四郎宿泊地
 左は「2008(平成20)年、松浦武四郎最終蝦夷地探査から150年、生誕190年記念事業」をし、今、「2018(平成30)年松浦武四郎生誕200年への会」(会長 三好 孝氏)を組織して翁の顕彰活動をしている仲間である。この人たちと一緒に発見した嘉永6年松浦武四郎宿泊地での集合写真。
 この会で計画し、平成20年に35人で北海道東部へ旅をし、松浦武四郎を案内した人の子孫の方々と一緒に歌い踊って交流。平成24年は39人で札幌、帯広、上富良野へ旅をして白樺の林でアイヌの人たちと踊り、また松浦武四郎を敬愛する人たちと交流。平成25年は28人で北海道北部と天塩川流域へ旅をして中川町、音威子府村、美深町で大歓迎を受け、終生忘れ得ぬ思い出をいただき大感激。
 「平生為幽興 今惜馬蹄遙」(平生 幽興の為には 未だ馬蹄の遙かなるを惜しまず 杜甫)
 
 平成30年は松浦武四郎生誕200年。
 この年に松阪と北海道各地で盛大に「松浦武四郎生誕200年」の行事が行われるのが楽しみだ。
  そして、平成31年は北海道命名150年。
 
松浦武四郎生誕地を歩いてください。
 
 「北海道の名付け親・松浦武四郎」の誕生地・小野江宿場は庶民の道、伊勢神宮への参宮街道にある。60年に1度の「おかげ参り」の年には日本の人口の1/6〜1/10が通ったという記録があり、そんな人たちを「もてなす」ことは伊勢人の心意気であった。松浦武四郎13歳のときは「おかげ参り」の年であった。老若男女、さまざまな人たちが行き交う姿を見て、松浦武四郎は17歳のときに伊勢を出た。故あって心に棘の刺さった青雲の志であった。そして10年故郷に帰らず全国を放浪して、遂に目的を持って蝦夷地へ出かけ、「北海道の名付け親」と称賛される偉大な人物となった。彼にとって故郷は「日数過て袖のやつれも世の為と知りて時雨の故里のいほ」であった。
 今、この生家へ、特に北海道の方が訪ねてこられる。旭川からリヤカーを引っぱって、自転車で、全国を歩いての旅の途中に、オートバイでと人さまざまな旅のスタイルで。松浦武四郎は歩くことで人生・人格を磨いた人である。この松浦武四郎に相応しい旅人を見ると思わずことばをかけてしまう。あるとき、外国の青年がしげしげと見つめていたので「Do you from ?」と問いかけたら北海道でALTをしているカナダの人であった。日本でカナダにもっとも似ているのは北海道。その北海道の名付け親に関心があると語った。
 
 松浦武四郎生誕地整備
 誕生地を平成30年松浦武四郎生誕200年を目途に1億2千万円をかけて修復することになった。締め切ってある生家が、公開されていない生家が公開され、「従五位」と刻まれた石灯を見ながら北海道の人と地域の方々が松浦武四郎を語り合って・・・楽しみ、期待が溢れる。
 
 誕生地には松浦武四郎が幼いころに学んだ真覚寺、松浦武四郎記念館、江戸時代の情緒を残す常夜燈、道標等がある。これらを周る武四郎道を歩いて楽しんでいただきたいものだ。
 

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