松浦武四郎の記念碑など 9

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 9
もっとも古い碑は大正8(1919)年に立てられた音更町鈴蘭公園のもの
もっとも新しい石碑は平成24(2012)年5月12日に立てられた新ひだか町のもの
 
 北海道にたくさんの松浦武四郎の碑があることが知られるようになったのは、1991年9月25日発行の「松浦武四郎研究会会誌第12号 松浦武四郎翁記念碑等の特集」が出てからである。その特集によれば最も早く立てられた碑は大正8(1919)年の音更町鈴蘭公園のもの。そして石碑で最も新しいのは平成24(2012)年、新ひだか町真歌の丘に立てられた松浦武四郎碑。この間は実に93年である。
 
平成30年は松浦武四郎生誕200年
平成31年は北海道命名150年記念
松浦武四郎翁の記念碑等はこれからも立てられるであろう。
 

このページの碑等について
 2012年、松浦武四郎の九州遊覧見聞「西海雑志」を始め「四国遍歴道中雑誌」「東奥沿海日誌」「奥州旅行記」「鹿角日誌」「北海道関係記録」などを車に積み込んで九州最南端の佐田岬から北海道最北端の宗谷岬までの旅をした。旅の途中には「松浦武四郎が記録した地を上げるのに枚挙に暇がない」であった。これは後日に残し、今回は記録を読み「松浦武四郎を語るに必要欠くべからざる史跡」と「考える地」「関係のある人」「松浦武四郎」の名を記してあるところをあげることにした。
 
九州の松浦武四郎
「松浦武四郎は九州でどんなところへ行っているのかなあ?」と思われる方はぜび20才の記録「西海雑志」を読まれることをお勧めします。
 「九州之内薩摩領の外は、深山幽谷道ある処は探り入り、海浜孤島も船通う処は到らざるなければ、況や神社仏閣詣拝せざるはなし」と歩いた松浦武四郎。この松浦武四郎も薩摩の入国日数制限には勝てなかった。しかし、最南端の佐田岬には行った。彼の真骨頂である。
 九州で20人の人に「幕末に九州を歩き、平戸で僧侶となり、やがて蝦夷地を詳しく探査し北海道の名付け親となった人のことを聞かれたことがありますか」と突撃インタビューをしたら19人の方は「聞いたことがない。知らない」と。でもお一人が「松浦武四郎でしょう」と言われたのに驚き、「どうしてご存知なのですか」と問うたら「北海道の旭岳でパークレンジャーをしていました」と言われ納得。
 
中国、北陸の松浦武四郎
 道の駅「萩往還」に・・・。
 松浦武四郎は明治になってからも関東以西を中心に旅を重ね記録も残している。滋賀県の近江八幡などは記録を見ながら旅をすると実に楽しい。各地の天満宮に鏡を奉納し、そこに「聖跡二十五拝 第○○番 ○○天満宮」と石標を立てているのを見ることができるが、残念ながら「ここへ松浦武四郎が・・・」「ここで松浦武四郎が・・・」等を印したものを見たことがない。道の駅「萩往還」の吉田松陰記念館内の略歴に「吉田松陰、松浦武四郎に会う」とあったのには驚喜した。佐渡島へ渡れば松浦武四郎を知っている人はおられるだろう。
 
東北の松浦武四郎
 国指定重要文化財・遮光器土偶の地「亀ケ岡遺跡公園」で・・・
 松浦武四郎の東北に関する記録は多い。だから東北を一周しようと思ったら松浦武四郎の記録は旅の友に最高だ!
 かって深浦町千畳敷海岸の説明看板に松浦武四郎の「東奥沿海日誌」の文を取り上げてあったがその説明看板が新しくなり松浦武四郎の名は消えてしまった。十和田市には二箇所松浦武四郎の記録をもとにした案内があり、松浦武四郎が歩いた十和田湖への古道を紹介した本も出版されている。
 「東奥沿海日誌 南」に「亀ケ岡村」「どうぎ村」の記録があるがその地の重要文化財土偶発掘地の説明に松浦武四郎があったのには仰天した。実に嬉しかった。
 

九州、中国、東北の松浦武四郎
 
★ 松浦武四郎が住職をしていた
   平戸市 千光寺(千光禅寺)
 
 松浦武四郎自伝によると、「25歳 天保13年 粉引村千光寺といへるに移転す。此寺は祖師千光国師帰朝の節に船上りし給ひし処とて山中に持来の茶園多く、生月、小鹿島少々北に向ひて壱岐、対馬を見て頗る風景なり。朝夕島々を見るにつけ、二島に渡り見まほしと思ひて薄香浦に鯨船の有を頼置しかば、幸ひ此度田助なる高橋や幸治郎といへるもの又田口の市郎兵衛等云もの謀りて烏賊釣船の対馬に渡るを頼みて便りし呉たり。折ふし9月下旬出船して壱岐国西目(13里)と云に着し、是より日和立をして対馬府中なる菊水軒と云に着し、城下より五六里斗の処見物して、朝鮮国の山々を夕日の時に審にながめて、是非之にも渡らまほしく思ひけれども其国禁の厳なれば行こともなり難く空しく半月斗を過けるが、折ふし其年は烏賊一向につかざれば田助人等も帰るにつき又便して帰島す。今年は平戸田助にて新年を迎ふ。」とある。
 
わびぬればうき事かわす友もなし
 山辺の庵の春の明暮 (千光寺で 松浦武四郎)
 
 松浦武四郎にとって、この寺が刺激豊かであったら蝦夷地探査はなく「北海道の名付け親」と称賛されることもなく、また伊勢国松阪の偉人と呼ばれることもなく諸国を放浪した一介の庶民として生涯を終えたであろう。
 
 日本の三大霊場の一つ
   英彦山宿坊 福寿坊(福寿院)跡
 
 松浦武四郎、天保8年20歳。自伝に「7月晦日の不知火を見て又筑前に帰る。是より香春を越て彦山に上る」とあり、「[西海雑志」の「彦山」には「並木を過れバ坊舎二百ばかり左右に連れり。是は當山の修験者にてのこらず妻帯なり。坊中福寿院の聞亮といへるハ四国経歴のをりから、一面の交りあれバ尋ね行き一宿し、明日朝共に登山せんとて打連て立出・・・いざとて両人身を起し銘々鎖に取すがりて、いささか窪める岩穴に足の爪先踏みかけ、手操鎖を力草とし心中の神仏を祈念なしツツ辛うじて昇り果たる嬉しさ、惣身の冷汗は肌着を浸したり」とある。
 19歳のときに四国で知り合った福寿院の聞亮という人の宿坊に泊まり翌日一緒に登ったのである。
 3年程前この英彦山に登ったことがある。宿坊跡が並ぶもみじに包まれた参道のその見事さに胸打たれビデオで撮影しながら2時間歩き、後日、それを調べたら松浦武四郎宿泊の福寿院跡を見つけて「仕舞った!もっと記録を見て歩けばよかった!」と悔やみ、今回も訪れて福寿院の後ろに別荘を持っておられる方に英彦山と宿坊そして修験者のことを説明していただいた。福寿坊跡の説明板に「中世末の祭祀記録にある古い坊です。英彦山で坊といえば、山伏の家またはその家に住む山伏のことを指します。この坊は江戸時代初期までは天台宗系の山伏でしたが、それ以後は幕末まで神道系の山伏となり、神幸祭や御田祭などを司祭しました。山伏たちが帰依した修験道は神仏習合の宗教でしたから、神道系山伏、仏教系山伏のどちらにも転向が可能でした。」とあった。英彦山、大峯山、羽黒山は三大霊場であるがこの英彦山の宿坊跡の素晴らしさは追従を許さないと思う。
 
★ 道の駅萩往還、吉田松陰記念館
   吉田松陰、松浦武四郎に会う
 
 今回の旅の途中、鹿児島市で3時間1万円の観光タクシーに乗った。観光タクシーは運転手さんが土地をよく知っておられる人だったら、金額以上の楽しさに浸れる。「旅の目的は?」と聞かれて「鹿児島の偉人を学びに来ました」と伝えた。鹿児島の偉人を顕彰することの大なることを知って実に驚いた。
 幕末から明治にかけて活躍した人の多い萩でもやはり同じであった。山口から萩への萩往還を辿って「道の駅萩往還」に着いた。そこには、吉田松陰、高杉晋作、日下玄瑞など10人のブロンズ像が立ち並び、「吉田松陰記念館」があった。館内の年表に「嘉永6(1853)年・・・桂小五郎・白井小助などの長州藩士および松浦武四郎・北山安世とも交流する。」とあった。松浦武四郎より10歳若い吉田松陰は国防問題に詳しいことに敬意を払い、ペリー来航の嘉永6年には行動を共にすることが多かった。松浦武四郎の自伝の「嘉永6年7月 此頃日々長州中村百合之助、赤松孫太郎、吉田寅次郎・・・等国事を談じ、また南部なる那加某も来る」とあり、浪合日記にも「吉田寅次郎も我上方に上らんと申たりしかば二三葉のものを書て送られけり」と「急務策一則」を託されている。さらに、松陰から「大坂に下らば坂本氏を訪らひ来たれ」と一封書を渡された。この書は結局、鼎斎坂本先生が不在であったために松浦武四郎の手もとに残った。この書に「松浦武四郎と申一奇人、上国罷登候間、此人海防向の事に付心掛有之ものにて・・・」とある。
「吉田松陰、松浦武四郎に会う」の一行の背景にあるものを館内説明の人と話し合った。
 
★ 青森県つがる市亀ケ岡遺跡公園
  
 重要文化財 「遮光器土偶」の地について「亀ケ岡村 恐らくハ瓶ケ岡成べし。此辺古き陶器出るなり。並て どうぎ村 陶器坂なるべし。亀ケ岡とうき坂の間の坂より、冬よりイ(凍)テ解の後に種々の瓶出る也。皆白焼手造りに匕目有。上方にて行基焼ともいふべきものなり。土質不宜といへ珍敷もの有。余も三ツ程得て一ツハ仙府の一止へ送り、一ツは松前の鴎洲子に送り、今一ツ貯なり」と嘉永3(1850)年に記録している。資料館で、「この地の出土品は江戸時代にはすでに有名で国外にもたくさん輸出され、乱掘された」ことを知った。この地の説明版には「亀ケ岡遺跡は、その出土品のすばらしさが江戸時代より国内外に知られていました。出島を通じて遠くヨーロッパまで運ばれたものもあります。また、1796(寛政8)年の菅江真澄以後、明治にかけ、松浦武四郎や蓑虫山人など、出土品に魅了された著名な好事家・知識人たちが遺跡を訪れたほか、「南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴らも、江戸市中で亀ケ岡遺跡出土品などの品評会を催したという記録が残っています。」とあった。国指定重要文化財の遮光器土偶は松浦武四郎没の2年前に発見され、現在国立博物館蔵であるから、松浦武四郎がこの土偶を見たかどうかは知らない。因みに、日本で一番古い土偶は、平成8年に松浦武四郎の生家からわずか33キロの地点の松阪市粥見井尻遺跡から発掘されたものである。
 
 
 
★ 稚内市声問(三) 松浦武四郎宿営の地
       北緯  45°24′16.5″
       東経 141°45′10.3″
  
 2012年7月、松浦武四郎が20歳のときに立った九州最南端の佐田岬から出発した縦断旅行は10月3日松浦武四郎が弘化3年29歳のときと安政3年38歳のときにカラフトへ渡海する前に訪れた稚内、安政5年にも訪れている稚内へ着いた。僕と妻もこの地を何度も訪れている。夜、JR日本最南端駅「西大山駅」からは3095km.離れた稚内駅と防波堤ドーム周辺を散歩した。稚内駅周辺は大きく変貌した。厳冬期に宿泊した駅の横の宿屋も今はない。稚内をふるさととされる北海道大学アイヌ・先住民センタ−の教授は稚内公園の上から「僕はここがふるさとだが稚内は変わった」としみじみ言われた。
  稚内駅から宗谷岬への8.5kmの地点の右側に「松浦武四郎宿営の地」の立派な標識がある。数年前、この標識に「宗谷サロベツ松浦武四郎の会」とあるのを見た妻は「この会のお一人は、松浦武四郎研究会で一緒にカラフトのシュクンコタンの松浦武四郎の碑を見に行った人かも」と呟いた。この地の松浦武四郎の姿は「再航蝦夷日誌」「廻浦日誌」「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」「西蝦夷日誌」を読めば分る。この地から17km先の宗谷公園へも寄って北の本物の歴史を感じた。
 
★ 中川町安川三自然公園
    松浦武四郎宿営場所説明看板
 
 松浦武四郎の宿泊場所説明看板が立てられている所が正確な地であるとは限らないことは想像に難くない。名寄市にある説明看板には「推定地」とある。尤もなことだ。
 10年以上前に「中川町の安川三自然公園下に松浦武四郎宿泊地看板がある」と聞いたことがるので探し続けた。中川町の親しいNPOの方々にも聞いたが「そんなものあるか?」と。今あるものならいざ知らず、現在ないものを載せたってしかたがない。丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌によると「六月九日 ヲタシウシ 此処に上り止宿す」とある。そして十日にはホロヒリブト歌内に泊。十一日はツウヨイ泊であるから、この宿泊地看板は信じ難い。がしかし、天塩日誌によると「アベシナイ川へ来て泊まった」とあるから、かっては宿泊を示すものがあったのだろう。丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌が出版禁止となり長く松浦武四郎のご子孫の家で「門外不出他見無用」と保存されてきたから天塩日誌を中心にして「宿泊地」と紹介されてもしかたがない。むしろ敬意を払いたい。「残された場所はここしかない」と安川三自然公園に登ったら、あるではないか。「やった!見つけた!」。町長とNPOの方々とのキャンプ場での送別会で「発見!」を知らせた。
 松阪市長を案内して参加したダウン・ザ・テシオーペツ・カヌー第20回記念大会でゴールの佐久橋手前で沈没したことは一生忘れない。
 この地の町長さん、NPOの方々には終生忘れ得ぬ厚情をいただき、平成25年秋には松浦武四郎誕生地から25名で伺いしポンピラ・ホテルで深夜まで楽しく交流したことは決して忘れないだろう。
 I will cherish my visit NAKAGAWA in memory ,
    as long as I live 。
★ オホーツク海岸 猿払
     松浦武四郎宿営の地
      北緯  45°19′49.4″
      東経 142°10′39.8″ 
 
 2012年10月、天塩川紅葉カヌーツーリング大会に参加する2日前、映画「人間の条件」の撮影地の猿払の道の駅に寄った。「チエトマイから6里17丁」(西蝦夷日誌巻之七)のこの地で貴重な「松浦武四郎宿営の地」を見せていただいた。斜里町ウトロ以北で、例えば北見神威岬公園のように、その地の説明文中に松浦武四郎の名を記したものはある。しかし、ウトロから340km北のこの地で松浦武四郎の顕彰碑等が設置され、宗谷までのオホーツク海側の空間が埋まった。貴重な「宿営の地」標である。説明によるとたくさんの人の力の結集であることが分かるがここへ碑を立てようと考え、人々の協力をまとめられ、実現された方のご努力に敬意を表しつつ去った。猿払に宿泊したのは、幕府の役人になってからは、安政3年8月20日と安政5年6月1日、2日の2度である。安政5年の記録(西蝦夷日誌 巻之七)には「川有船渡し。通行屋1棟 (川巾)30間余 板蔵茅蔵3棟、夷人3軒、近年まで6軒 名義蘆荻原の川口也。地形寅丑向。西ノツ、東南ショナイ岬を見る。沼の奥にリイシリ岳を見、眺望いわんかたなし。惣て砂地にして、山は椴計、後ろは沼なり。土産鱒・桃花魚・チライ・アメノウオ・小海老。沼内蚌・蜆・沙魚も有。海には帆立貝・ホッキ・東海夫人・比目魚多し。又夏より秋に到りて蚊虻昼夜のわかちなく、宿に着しよるも蚊遣りを拵て休ふなり。」とある。
 
★ 新ひだか町真歌の丘
         松浦武四郎碑
     北緯  42°19′50″
     東経 142°22′35.1″
 
 2012年5月12日、真歌の丘のアイヌ民族の英雄・シャクシャインの記念館前に、北海道アイヌ協会新ひだか支部長・大川勝氏によって「松浦武四郎記念碑」が立てられた。
 
 碑文
     新ひだか町と松浦武四郎
 松浦武四郎は今の三重県松阪市に生まれ、幕末にアイヌ民族と深い交わりを保ちながら六度にわたって蝦夷地を踏査した。
 武四郎は、この静内地方には三度訪れて詳細な記録を残した。弘化2年(1845)には海岸沿いに歩き、地形、産物、歴史を記録。安政3年(1856)には新ひだか町の各地の特色に目を向け、安政5年(1858)の調査ではシベチャリ川、捫別川、三石川、鳧舞川を遡ってすべてのコタンを訪れ、その地に住むアイヌ民族の名を後世に伝えるとともに「心情の率直で淳朴なことはたとえようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたい」と絶賛した。
 アイヌ民族に導かれて蝦夷地内陸部深くまで踏査した松浦武四郎の150冊を超える調査記録には、随所にアイヌ民族が大地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には9800ものアイヌ語地名が収められている。
 明治2年(1869)、蝦夷地を改称するにあたり、松浦武四郎はその名を「北加伊道」と撰定した。これは「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めたものである。
 北海道の名付け親・松浦武四郎が新ひだか町を訪れてから150年以上が経過したが、我々の祖先と松浦武四郎の絆は今なお燦然と輝いている。
 我々は、新ひだか町のアイヌ民族と松浦武四郎の民族を越えた交流と共になしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖なる地・真歌の丘に記念碑を建立する。
 2012年5月12日
 北海道アイヌ協会 新ひだか支部長 大川 勝
                      同会員一同
 
とあった。アイヌ民族と松浦武四郎が限りない愛情で結ばれて何を成し遂げたかが高らかに詠い上げられていた。
 碑を見てから記念館のご夫妻に「再会を」と尋ねたがご不在であった。やむなく名刺を入れておいて去った。程なく携帯へ電話をいただき再会。松浦武四郎を案内したハルアンカ婆のご子孫も呼んでいただいてあり、楽しいひと時をいただいて真歌の丘を離れた。
★ 松浦武四郎を世に知らしめた
    偉大な天塩川
「松浦武四郎 北海道命名之地」標柱
日本最大長級カヌー大会に参加
平成24年度納会紅葉カヌー大会にも
 
 安政4(1857)年に松浦武四郎が遡った天塩川は全長256キロ。北海道第2、日本第4番目の大河である。この川は後年、松浦武四郎が蝦夷地の道名を「北加伊道(北海道)」と撰定する出来事のあった地であり、現代は151キロ国内最長のカヌー大会が開催される地としてカヌーイストのメッカの川である。
 松浦武四郎の「天塩日誌」の「凡例」に
「一 テシホは西部從箱館28里、沿海14里17丁に在て夷地第2の大川。其源ハ石狩、上川、ユウベツ、ショコツ、モンベツ領也に境し150里を通ず。・・・ 一 本名テシウシなるを何時よりかテシホと詰る也。テシは梁の事、ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に號しと。・・舟を浮べ流に逆りて其筋盡く目標を記し、地圖并に見込書併ニ天塩誌五巻を編て函館府に納む」とある。
 安政3年、松浦武四郎は天塩川の河口で「天塩川の上流には素晴らしいものがあるらしいから遡ってみたいものだ」と言い残してカラフトへ向った。
 現代も「天塩川に行ってみたいものだ」と思う人たちがいる。
 それは、「松浦武四郎 北海道命名之地へ行ってみたい」と思う人と毎年天塩川で行われる日本最長距離を下るカヌー大会「ダウン・ザ・テッシ・カヌー大会に参加したい!」と思い続けている人たちである。
 
 管理者は松浦武四郎を敬愛すること人後に落ちないし、下手糞であるがカナディアン・カヌーを愛する一人である。よって天塩川は単なる北海道を楽しむだけの場ではなく時空を超えた世界である。
 松浦武四郎は舟で天塩川を遡り下った。
 2012(平成24)年、九州最南端の佐多岬から松浦武四郎を探しながら宗谷岬までの旅の前に、カヌーでいつもお世話になっているダウン・ザ・テッシ・カヌー大会事務局の草野孝治さんと電話会談をしていたら「10月6日に天塩川紅葉カヌー25キロツァー大会があるから、これに参加してゴールにしないか」と勧められた。そこで2011年・昨年「沈」をして救助していただいた紅葉大会長の吉川一茶さんに電話して参加させていただいた。
 今回も松浦武四郎が遡り下った、その同じ目線で天塩川を楽しむ素晴らしさを痛感した。
 画像、一番下は「松浦武四郎 北海道命名之地」標柱を立てられ、また立て替えられた音威子府村佐近勝村長さんと。
 
 
 

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