北海道の名付け親 松浦武四郎 九州の旅 2

北海道の名付け親 松浦武四郎が
遍歴した九州を旅する 2
松浦武四郎は、21歳天保9(1838)年から27歳弘化元(1844)年の間、九州にとどまっていた。そこから大陸へ渡る機会を待っていた。が時代は松浦武四郎の夢を閉ざした。しかし、外国の情報がいち早く伝わる九州で過ごしたことが彼に大きな影響を与えた。
 九州にいるときに貴重な記録を残したが、その一つが
    「西海雑志上]、[西海雑志中]、[西海雑志下]である。
 その記録を携えて旅をした後編です。
 


★ 長崎
 
 松浦武四郎は
「旅行手記」に「長崎湊 町數七十五餘町。二萬餘軒。異國ノ湊ナルベシ。寺數五十斗ニシテ町ノ鎭守諏方明~ナリ。唐寺四ケ寺。崇n宦B興n宦BもZ寺。聖n宦B皆禪宗に而本尊釋迦如來ナリ。其餘の大地(寺)、本通寺、法花(華)宗也。大コ寺。大音寺。法臺寺、皆御朱印地なり。」
と書いている。
 「長崎湊=異國ノ湊ナルベシ」だったのである。松浦武四郎が長崎とその周辺をたくさん記録している。
その中の一部から
・ 阿蘭陀館 出島
 今も昔も、長崎と言えば「唯一世界に向って開けられていた窓」が評価ではないだろうか。その具体的な窓口は「出島」
 松浦武四郎の「阿蘭陀館」の記録の中に
 「阿蘭陀館は、土俗出島屋舗と稱して、江戸町の西別に扇子の地紙の形に築出して、南北百二三十間、東西六十間斗。東の方に石橋を渡し通用門あり。番所いと嚴蜜にして譯官、役人の外は猥りに門内の出入をゆるさず。門に入て左の方に東面の書院あり。・・・書院の次に外科、筆者の部屋あり。奥にカビタン部屋あり。・・・紅毛人上官、カビタン、外科、筆者抔は、平日町方へ出る事稀なり。只九月節句諏訪の禮祭を見物に出る事あり。・・・」 「・・・年々來舶はあれどもカピタン、外科、筆者の三人者、五年目交代にして五ケ年の間日本に滯留いたす也」とある。この出島の男性と日本の女性について言及している。そして、松浦武四郎は珍しく、驚くことに、「・・・古町に住するお飛さといへる女ハ、余もわけて入魂にて折々遊びに行・・・」と書いている。松浦武四郎は波乱万丈の人生を送り、大河ドラマの素材に相応しい人物と表現をする人もいる。しかし、松浦武四郎のように女性が加わらない人物はドラマなりえないと言われてきた。
 ちなみに阿蘭陀長官カピタンは就任したら長崎街道を通って江戸へ挨拶に向ったらしい。長崎はヨーロッパ文明吸収の窓口だったから街道は人だけでなく、驚くようなものが流通し、象も江戸へ歩いたと読んだことがある。 
 
・唐人の寺 
 松浦武四郎の[西海雑志下]に「唐人寺といふは長崎内に四ケ寺ありて、寺町の興n宦A元籠町崇n宦A筑後町のもZ寺、上筑後町の聖n專凾ネり。いづれも已前は唐僧住職なりしが、當時は皆々日本僧にて看主と稱する也。」とある。
 「国宝」とか「重文」という言葉で表現しなくても一目で「これは素晴らしい」と感じる貴重な文化財が長崎にはあり、そこで、たくさんの小・中・高校生が見学をしている。崇福禅寺を参詣した際に、見学に来ていた小学校の5・6人のグループの子どもたちに「三重県から来たのだけど、このお寺のこと教えて」と声をかけたら、子ども達は必死になって教えてくれた。「教育とは本物を見せることである」と言った教育学者があるがその前提は、大切なことは学ぼうとする心を育てることであろう。担任の先生が僕たち夫婦に「子ども達に質問していただきありがとうございます」と礼を述べられ、「学ぶ心あれば師必ず現れるです。僕たちの今日の先生は子どもたちでした」と応えた。
 
・ 諏訪祭礼 蛇踊り
 「蛇踊りといふハ、わけて名高き練物なり。眞先にハ唐裝束着たる者兩人、籠にて組たる大なる提灯に天后の二字をかきたるを左右に持ゆく。次に異樣の唐衣裳にて長四尺許の黒塗りの棒の先に、三尺ばかりの赤き裁つけたるをさも悠々と振廻す。其所作いとをかし。是を菩薩遣ひといふ。・・・長き三丈餘に大さ一抱半もあらんと覺敷、絹にて造りたる蛇を大勢にて遣ふなり。・・・蛇は常に玉を呑んと欲する勢にて逶逶蜿蜿として進ミ、玉を持ものハ故意に賣弄して目前に有て振動すに、玉は(指)股の中にて自ら躍り廻りて、金光燦々とあたりに輝く。」
 修学旅行の子どもたちの蛇踊りに感動
 2010年5月28日、長崎駅前を散策していたら、なんと東京の修学旅行の子ども達38人が「蛇踊り」を披露していた。びっくり仰天であった。「蛇踊り体験学習をして、その発表」とのこと。
 見物客が周りを取り囲み、大きな拍手の連続。
 坂本龍馬道を歩いてきたという若い女性の人たちが「坂本龍馬なんて大河ドラマが終わったら忘れるよね。だけど蛇踊りは長崎の人が長い間伝えてきたんでしょう。ここで蛇踊りを見ることができてよかった!」と語っていたのが印象的であったし、蛇踊りを披露した子ども達は素晴らしい体験をしたのではないかと感じた。
 
★ 温泉嶽 雲仙
 実によく山に登った松浦武四郎。山へ登ることは信仰と修行であったころに登山を楽しむ人は少なかったに違いない。
 「温泉嶽は嶌中に聳へ麓より頂上迄六里。四面より登る道あれども余ハ千々輪の方より登るに、谷間の細道を行事壹里斗。夫より屏風を建たる如く峻嶮を九折して登る事一里。人家十餘軒斗茅屋を連ねたり。村端に細き流れあり。是を加持川といふ。是近邊已前の坊舎ありしよし。半道あまり行て温泉池あり。是を新地獄といふ。土地の人池の傍に小屋をかけて明礬を取。又七八丁行て温泉山一乘院あり。」
 「麓より頂上迄六里」を歩いて登る根性。生涯旅を続けることの凄さにはまったく敬服。ちなみに松浦武四郎の最後の登山は71歳のとき。山は富士山であった。
 
★ 大宰府鷽替祭
 「大宰府天滿宮は管公御廟にして、靈驗いちじるしく世人あまねくしる所なり。社地の經營善美を盡セり。年中數度の祭禮その式いと嚴重の事どもなり。余は年の始鷽替祭に詣たり。それは正月六日の夕方より門前に、土にて作り尾と足は竹をさし鷽の姿斗を作りたるをひさぐを、參詣の諸人各々買求め、夕暮れ方より宮中ニ而鷽替鷽替と呼て袖の裏にて取かへ取かへ、夜しばし更るまで幾度となく替事なり。其參詣の人は博多iェ近邊の在町の者、我おとらじと參詣して鷽を替て帰るなり。土地の人の申けるは、今宵は管公も自ら群集に交りて替たまふよしにて、稀ニは黄金の鷽に替當る者ありと。博多の町には所々黄金の鷽を得たる家有り。世々繁昌するよし。又iェの町にも有と云り。余が友人國分寺之琢心法印その鷽を祕蔵セしを親しく見たりと語られたり。」
 大宰府天満宮の紹介によると、1月7日に「鷽替神事」が行われるらしい。「鷽」(うそ)が「嘘」(うそ)に通じることから昨年に起こった「悪い事」=「嘘」として、これを「吉事」に替えることを願っての行事で天満宮にだけ行われる行事らしい。
 現代の「大宰府」と言えば「天満宮」。しかし、史跡としての「大宰府政庁」跡がもっと注目されてしかるべきだと思うのです。大宰府政庁跡を見れば、大宰府が日本の歴史の中で果たした役割に驚くに違いない。
 
★ 千光寺
   松浦武四郎、蝦夷地へ向う
 松浦武四郎25歳天保13年、自伝に「粉引村千光寺といへるに移転す。此寺は祖師千光国師帰朝の節に船上りし給ひし処とて山中に持来の茶園多く、生月、小鹿島少々北に向ひて壱岐、対馬を見て頗る風景なり。」とある。
 松浦武四郎は「蘭種異草」に記録している「長崎酒屋町に住む津川氏、通称文作、蝶園と号する人と知り合いになり、「常に行通ひて心易かり」であった。
 松浦武四郎紀行集(吉田武三編)によると、この津川文作は「乙名。松浦武四郎の蝦夷地探検の動機は、この人物よりの示唆によると伝える」とある。
 松浦武四郎は津川文作から「海外列強が蝦夷地を狙っている」と聞き、この千光禅寺で蝦夷探索を決心した。ここからまず生家の伊勢へ旅立ち、そして蝦夷へと向った。
 この千光禅寺を訪れた。そして、松浦武四郎のことを尋ねたがまったく伝わっていなかった。ここでの松浦武四郎の業績はなく一介の僧侶にすぎなかった。
 偉人を育てるのは歴史と土地、風土なのだろう。
 松浦武四郎のことを何も聞くことができなかったが、ここを訪れただけで幸せを感じた。 
 
★ 晩年の松浦武四郎と九州
 
(1) 明治15年 65歳 九州へ旅をし、大宰府天満宮へ大神鏡奉納。
 
(2) 古材、板ぎれを送ってもらい
           一畳敷草庵をつくる。
 その記録は「木片勧進」
 松浦武四郎は晩年、全国の友人、知人から古材、板ぎれなどを送ってもらい、それでたった一畳の草庵を作って楽しんだ。
  その壁書に「我若きより一ツの行李を肩にし、六十餘州蝦夷樺太まで踏偏し、後當地に來住する事殆ど四十年、終にこの~田五軒町を一區の死陀林として住めり。今度こゝに一間を建添へ、纔に疊一枚を敷く。・・・今度この古材、板きれ等、諸國の友より贈り呉られしを以て補理たり。是また其友を朝夕に是は誰より、かれは誰よりと其人々を思ひ出る種にして、其友の厚き志を忘れず、其人々の言行ひの目出度ことを人々にも語らまほしき心はかりにて、・・・」とある。
 
 では九州から誰に何を送ってもらって、それをどこに使ったかを書いてみよう。
 
・ 第十 薩州 江夏干城
   大隅國桑原郡大河平竹 圍一尺八寸
  南廂屋根瓦にかへ用ゆ。
 
・ 第十一 筑州 三笠郡(太)宰府 吉繼拜山
  肥前國松浦郡名古屋古城跡廣澤寺中利休竹
 
・ 第十二 肥後國熊本城瓦釘。
      加藤肥州係建築物也。
  利休竹ハ火吹竹 瓦釘は火箸に用ゆ 
  
・ 第十六 筑前 iェ       三好嵩
  筑州三笠郡水城堀出古材 杉。日本紀天智天皇三年筑紫ニおゐて大塘を築き貯水、名付て水城と云。是宰府要害の爲に築しなるべし。萬葉。
  ますらをとおもへる我や水くきの
   水城のうへに涙のこさぬ(のごはむ) 大伴卿
 
・ 第六十 日向 宮崎郡宮崎  大島正武
           江平町    大和田傳造
  同。南那加郡宮浦鵜殿~社寶殿古扉板塗金。但文祿三年伊東義祐係造營宮司保證書添物也。~殿正面羽目板に用ゆ。
    日向人心してけり動きなき
        鵜殿の窟の宮の古木は
 
・ 第六十四 筑前 iェ      江藤正澄
  同。宗像郡大島中津宮祭~田心姫命。~殿文(永)禄九丙寅年大宮司氏貞建築。脇障子頭造り。氏貞在世の時此島に居城せし跡有。また氏貞の詠とて夫木集に、「さりともと身のうき事は大島の、~の心を頼ばかりぞ。」此氏貞亡ぶる迄七十九世。年數六百七十三年也と。
    筑紫の海沖の宮ゐの古木をも
          おくるは人の情なりけり
 
・ 第六十八 筑前 太宰府~社 西高辻宮司
  天滿宮の~庫に納め有し古材 楠。凡五百年の物と。何□の用材なりしやはしれざれども、其鉋目にて其年數しらる。
  床脇地袋の妻板ぬ目。
 
 「壁書 死せば毀ちて此材にて亡骸を燒き、其遺骨は大臺山に遣り呉やうと、・・・
 世の中につり合ぬ身ぞやすからん
       暮行年のいとなミもなく
               草の舎のあるじ弘」 
 
結局、[木片勧進]によると一畳敷の草庵を作るために九十一片を集めたが、そのうちの七片は九州から送ってもらっていることがわかる。
 
(3) 松浦武四郎没
 71歳明治21年2月4日友人宅で倒れ、全国の友人から贈られた材で立てた一畳敷の草庵に運ばれて、静かに息を引き取った。その壁には「死せば毀ちて此材にて亡骸を焼き、其遺骨は大台山に遣り呉やうと・・・」 とある。
 今、松浦武四郎の分骨碑が大台ケ原の名古屋谷にあり、一畳敷草庵はICU国際基督教大学の構内に保存されている。
 
僕たちも
 九州の山々に登った!
 
韓国岳(1700m)
 霧島連峰の最高峰で展望が素晴らしく、霧島の山々を見下ろしていた。
 麓の秋のすすきのえびの高原が美しく、夜間の鹿の鳴き声も忘れられない。また春のミヤマキリシマも見事で見応えがあった。入浴をさせてもらった「からくに荘」は2010年にはなくなっていたのが残念であった。
 
高千穂峰(1574m)
 突き出た山姿。「伊勢の者であれば天孫降臨のこの山に登らなければならない」と挑戦。代表的な神話の山であるだけにいろんな土地からの登山者がいたが「伊勢から来た」と話すやたちまち話題の中心的な存在になった。「うう〜ん、伊勢の国の生まれでよかった」と感じた。
 
霧島中岳(1345m)
 2010年の九州の旅の目的の一つはミヤマキリシマが咲く山へ登ることだった。明日からまた雨の情報に、少々条件が悪いが登ろうと小雨の中のつつじコースを登った。高千穂河原ビジターセンターの人が言っていたようにミヤマキリシマは満開。雨天で登山者は少なく、花を見る条件としては満点。頂上はまた蕾であった。
 
開聞岳(922m)
 最南端の秀麗な山容の薩摩富士。見事な円錐形の火山。JRの最南端の駅西大山駅は開聞岳によって色づけされている。開聞岳を見たら「この山へは登らなくちゃ」と思う人は多いだろう。快晴の日に開聞岳をご神体とする枚聞神社にお参りして挑戦。922メートルの高さはまさに登山口からの実測に近い。螺旋状の登山路を楽しみながら登った開聞岳を忘れない。
 
久住山(1787m)
 2004年11月16日 早朝牧の戸峠から登山開始。星生山への分岐路あたりから樹氷で覆われていた。さすが九州の名山、深田久弥はこの山を絶賛している。硫黄山からは噴煙が流れていた。登山口と山上付近は急坂であったが中腹はなだらかで気持ちよく快適な登山。九州の人々に愛されている山であることを理解できた。アメリカとイギリスの二人連れの青年と話をして別れを惜しんだ。下山して、日帰り入浴のために九重観光ホテルへ入ったらフロントの壁に有名な登山家 槇有恒の「山小屋 牧ノ戸 昭和三十五年五月」の書が掛けてあった。このホテルは以前「山小屋 牧ノ戸」を経営していたと知った。
 
星生山(1774m)
 2010年6月3日に登った。山開きは6月6日。だからミヤマキリシマには少し早そうだ。1週間も待てば開花が始まる。しかし、間もなく帰らなければならない。せめて快晴の日の噴煙に包まれた山を見たいと長者原で待って日を選んで登った甲斐があった。
 
阿蘇中岳(1506m)
 2004年の秋にこの山へ挑戦。砂千里が原を気持ちよく歩いていたら天気が急変。「山頂まであと200メートル」の標識で引き返えした。そこで、2010年春には北側の仙酔峡から登った。ミヤマキリシマを見る人でごった返している仙酔峡に比べると山は本当に静かであった。
 
妙見岳(1333m)
普賢岳(1359m)
 2004年仁田峠からロープウェイを使ってまず妙見岳へ。そこからずいぶん下り、登り返して普賢岳へ。大災害をもたらした平成新山と溶岩流が流れた地を眺めた。過去に何度も災害を引き起こした雲仙の山々の凄さを垣間見たような気になった。
 2010年春の仁田峠は強烈なミヤマキリシマに包まれ、溶岩流が流れた地には雲仙岳災害記念館ができていた。
 
英彦山(1200m)
 修験道の山、英彦山。九州の霊山。装飾語にはこと欠かない。この山のことはあまり関心がなかった。ただ「松浦武四郎が記録しているから行ってみよう」ぐらいであった。山に登るのにももっとも安易な中岳コースを取った。しかし、英彦山神社から銅鳥居までの参道を下って、宿坊跡、雪舟庭園、宝篋印塔、石畳などに圧倒された。2010年春、九州旅行のハイライトであった。英彦山は修験の歴史があるからこその山であると強く感じた。
 
鶴見岳(1357m)
 フェリーまでの時間がある。そこでロープウェイを使って登ったから「登山」とは言えない。1357メートルの高みへ上っただけである。が、三重県からであれば強いて「登山をとは思えない山」であると考えていた。しかし、歩いて登ってこられた人を見て、「やはり歩いて登るべき山だ」と感じた。
 由布岳が目の前に美しく見えていた。「あの山に登りたい」と思ったがまだ目的を達していない。
 
九州の旅 Best 9
 
 九州を秋と春の2度、計48日間にわたって旅をし、たくさんの思い出をもらった。
 そこで、お勧めしたいコースを。
 
・ 英彦山の銅鳥居から神社への参道
(日本三大修験山の英彦山は、最盛期には3800の宿坊があり、大名に匹敵する力があった。幕末にはおよそ200戸、明治29年には126戸が残っていたらしい。今、その石畳の参道はかっての面影を残して人々を迎えてくれている。驚きの参道です。)
 
・ 宇佐神社と国東半島の石仏の寺々
(宇佐神宮→熊野磨崖仏の胎蔵寺→真木大堂→国宝の富貴寺大堂→両子寺→岩戸寺→文殊仙寺→国宝臼杵磨崖仏を訪れてみると国東半島の信仰の様子を知ることができます。) 
 
・ ミヤマキリシマに彩られた久住の山々
(長者原に夕日が落ちると噴煙が昇る硫黄山が赤く輝く。その奥に星生山、久住山がある。牧ノ戸峠から登った。いい山でした。九州の山へ登るのなら、まず久住山からです。)
 
・ 重要伝統的建造物保存地域
 (九州の入口には情緒あふれる「門司港レトロ地区」があり、マップを片手に散策をすると楽しいですが、他にも国が選定した重要伝統的建造物保存地域が各所にあります。この重伝建は「一見の価値あり」だと思います。住民が暮らしながら保存するが基本ですから、土地の人に話を聞きながらの散策には最適で心に残る旅ができると思います)。
 
・ 高千穂神楽、清和文楽などの伝統芸能と各地の祭り
(旅に出るときに、なんとか伝統的な郷土芸能を観ることを心がけています。しかし、それがなかなか・・・。
 でも九州では高千穂神社で毎夜観光客のために神楽が舞われます。また道の駅清和文楽邑では「清和文楽人形芝居」が第2・4日曜日午後1時半から演じられています。これなどは貴重な公演です。いいですよ。
 
・ ソテツ、ガジュマル、アコウなどの植生と砂嘴を歩いて渡る知林が島
(都井岬は蘇鉄自生地北限で野生馬の地、本土最南端の佐多岬への入口駐車場の左にはガジュマルの巨樹があった。見たことのない木アコウを見て驚き、「九州の木は違うなあ」と感嘆。大潮の干潮の時間に現れる砂嘴を歩いて、指宿から知林ガ島へと渡った。離島へ歩いて渡る体験ははじめてであったし、岩場にあった海草・貝殻、島の樹木に首を傾げてばかりいました。)
 
・ 特色ある温泉と郷土料理
(九州には温泉がいっぱい。旅館の大きな温泉もいいが、楽しく特色ある温泉のほうが思い出になります。桜島の混浴露天風呂龍神温泉、別府の明礬温泉、小浜温泉海上露天風呂波の湯、雲仙湯の里共同浴場などはいいんじゃない。
 郷土料理は長崎の卓袱料理、枕崎のかつおびんた(頭)料理がよかった〜です。)
 
 
・ 霧島の山々
 (鹿児島の民謡に「花は霧島 煙草は国分 燃えてあがるは オハラハー 桜島」とあります。この霧島とはミヤマキリシマのことで「花はミヤマキリシマがいい」という意味だろうか。それとも・・・。 
 ミヤマキリシマが虫の食害で悲惨なときがあるらしい。韓国岳への登山路で自然保護員の方に聞いたら「いや、葉が食べられるのです」と。「ええ?葉を食べられるのですか。えびの高原には鹿が爆発的に増えているそうですが、鹿はミヤマキリシマを食べないのですか?」「鹿は食べないですね」。
 もし、鹿がミヤマキリシマを好んで食べるのなら? 
 えびの高原固有種で天然記念物のノカイドウは鹿の害を防ぐために金網で囲ってあった。韓国岳、高千穂峰に登りながらいろんなことを考えました。
 九州の高原は想像以上の素晴らしさに満ちています。
 
・ 異国文化を吸収した地
(平戸、長崎、天草はこの地でしか語れない歴史がありました。文字を読んで知っただけで、情景としての実感はなく、それだけに希薄でうすっぺらな理解にしかなっていなかった自分を恥じました。本物を見ることの大切さを実感するために異国の文化を吸収し消化した地へ行きたいものです。)

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