北海道の名付け親 松浦武四郎 九州の旅 1

北海道の名付け親 松浦武四郎が
遍歴した九州を旅する 1 
 「唐、天竺へも渡りたい」と壮大な夢を描いていた松浦武四郎は若い頃にその機会を窺って九州を旅し、住み、そこから大陸へ渡ることを計画したが鎖国で夢叶わなかった。
 今回、松浦武四郎の九州での記録「西海雑志」を携えて、九州へ足跡を訪ねた。
 「西海雑志」(上、中、下)の凡例に「九州之内薩摩領の外は、深山幽谷道ある処は探り入り、海浜孤島も船通ふ処は到らざるなければ、況や神社仏閣詣拝せざるはなし。・・・名所、奇事とても西遊記(橘南渓著)、筑紫紀行(吉田重房著)、長崎見聞録(廣川解著)、其外諸書に出たるは除てしるさぬもの多く、彼に疎なるは此書に満に記す。」とある。しかし、「西海雑志」(中)の「月地梅」では薩摩については「国法厳密にして、余此辺へ立ち入る事を許さず・・・国中に入て珍事旧跡数多聞及べども最初契約の処よりハ一切見物を許さぬゆへ、尋ね行事かなわず甚残念の至りなり」と書いている。 「国禁厳にして数日の滞留相叶わず、わずか三日にして出立す」(自伝)、結局、薩摩への入国を許されたのは3日間であった。
 したがって、松浦武四郎は「西海雑志」に歩き通した場所のすべてを記録しているのではない。また、入ることができなかった地もあり、九州全土を記録したものではないことを念頭に置いて、秋と春計48日間九州を楽しんだ。
     2004.10.27−11.18(27日間)
     2010.05.16−06.05(21日間)

松浦武四郎が歩いた九州の地
 では、松浦武四郎は九州のどこを歩いたのであろうか。それを「自伝」によって辿ってみよう。
★ 20歳天保8(1837)年
 正月 室津に到りて赤間ケ関(山口県下関市)に出 → 豊前大里(北九州市門司区大里)に渡り小倉より芦屋、筑前宗像、香椎、箱崎、博多、大宰府、室満産八幡、雷山、桜井大神宮、芦屋、大戸等其古跡残る処なく、肥前なる玉島川を過て浜崎鏡神社、唐津、呼子、名古屋、上部島を廻り、今利に出、早岐を過、其木に出て大村に3月2日夜泊る → 長崎に到る → 阿場、茂木、御崎、樺島、野茂、高島、香焼、鬼会島を一見し → 島原に到る。温泉岳に上り妙見、普賢の両岳を見て帰り諫早に出 → 佐賀に到る。 → 久留米より高麗山、禅導寺、千栗八幡、人形原、柳河、三池、肥後に入、熊本より阿蘇山に上り、宮路、坊中、菊地辺の古跡を探り → 宇土島に到り、大矢、野島、談合島を見て帰り → 7月晦日の不知火を見て又筑前に帰る。 → 彦山に上る。耶馬溪を過五百羅漢を拝して中に到り宇佐八幡に到る。 → 別府浜脇に到る → 鶴崎、佐賀の関を見学して臼杵なる多福寺に春沢和尚にまみゆ。 →  宇知山の観音過て、其より城下に到る → 肥後国なる都留町に到る。途中三人の賊に逢ふて酒手をねだらる。纔たくはふる処の一朱銀二つ遣したり。賊決て賊にあらず実に凶作故なるべし。・・・時に九月下旬なり。 → 日向なる高千穂に到りて宇波多気の岳に上 → 延岡に到る。 → 細島港、高鍋を過て佐土原、飯肥に入りて鵜殿、桜井福島に到りて → 薩州領の志布子湊より松山に到る。 → 都城、高城、高原を過ぎて東霧島 → 西霧島 → 登岳す → 鹿児島に到る・・・わずか三日にして出立 → 西方、阿久根、出水を過て、肥後の水股に到り、・・・田奈久に至る。 → 船して再大矢野上り立村に渡海して上土岐、下土岐を過て → 牛深 → 薩の長島に渡り、獅子島などを巡り → 牛深 → 福連木より富岡、志貴村に到り歳を迎ふ。
★ 21歳天保9(1838)年  
 又本土に到り亀の川村鍛冶屋に到る。七草を過して御領を過ぎ本土浦に至る。→長崎に至る。此春余疫を病む。近江の僧弁流よく我をいたわり呉、次に藤崎惣左衛門と云ものまた能く我をいたはる。其時禅林寺なる謙堂和尚といへる有(臨済宗)是のすゝめに依て三百里外如此大疫を煩ひ無事に快気したるを報恩の為にと云はるゝに依て入道し、名を文桂と改め→入道して春徳寺の鉄翁(大徳寺派)又拙巌(一向宗)黄泉(徳台寺)、蝶園(津川氏)と往来し其年を過し、暮に至りて島原なる龍燈を見んとて出かけ山田村にて宿しける。
★ 22歳天保10(1839)年
 正月三日長崎に帰る。→五島小鹿に渡らんと欲すれども、旅人厳敷して渡り難く、心なく針尾島に到りて(平戸領)早岐に渡り、是より合の浦より海岸九十九島等を見物して平戸島に渡り→大島度島小鹿七島を見て五島に到る。→田助浦なる宝曲寺といへるに住職し、天桂寺と云の世話を命ぜらる。
★ 23歳天保11(1840)年
 ・・・此辺りにて送る。
★ 24歳天保12(1841)年
 同じく宝曲寺に居たり
★ 25歳天保13(1842)年
 粉引村千光寺といへるに移転す。・・・朝夕島々(壱岐 対馬)を見るにつけ、二島に渡り見まほしと思ひて・・・折ふし九月下旬出船して壱岐国西目(十三里)と云に着し、→対馬府中なる菊水軒と云に着し、・・・朝鮮国の山々を夕日の時に審にながめて、是非之にも渡らまほしく思ひけれども其国禁の厳なれば行こともなり難く空しく半月斗を過ける。→今年は平戸田助にて新年を迎ふ。
★ 26歳天保14(1843)年
 ・・・去年二月十二日母の身まかりしことたよりありしかば是よりして帰省のこと思ひ立て、・・・十月上旬上坂し京に到りてまたしばし休らひて伊勢の国に帰りける。
★ 27歳弘化元(1844)年
 二月十二日は母の三年忌なりける故、父の七年忌も共に行はるゝよし、其こと済けるや否、予は直に十五日両宮へ参り再び家出せんと先外宮に参りける。
 是より蝦夷が島の隅々まで探り何の日か国の為たらんことをとまた氏神貴船大明神の社に詣で、二月二十五日に旅装して京都さして上り、・・・(蝦夷へ向う。) 
 
 

 
★松浦武四郎 彦山(英彦山)に登る
 松浦武四郎の九州の記録「西海雑志上」 を持って、日本三大修験山の英彦山を訪れた。
 
 松浦武四郎は20歳の時に英彦山へ登っている。その記録の[西海雑志上]の「彦山」には「豊前の国一の宮香春明神に参詣し、・・・並木を過れバ坊舎二百ばかり左右に建連れり。是は当山の修験者にてのこらず妻帯なり。坊中福寿院の聞亮といへるハ四国経歴のをりから、一面の交りあれバ尋ね行て一宿し、明日朝諸共に登山せんとて打連れて立出、三町ばかりのぼりて大講堂あり。・・・ 此辺より山上すべて三抱、四抱の杉、檜、其余の老樹蓊鬱と茂り、…高さ五丈許の大岩壁の如くなる鉄鎖二條を上より垂たり。・・・いざとて両人身を起し銘々鎖に取すがりて、いささか窪める岩穴に足の爪先踏かけ、手繰鉄鎖を力草とし心中に神仏を祈念なしつつ辛うじて昇り果たる嬉しさ、惣身の冷汗は肌着を浸したり。・・・又四五町も登れバ二の鎖に至るに、・・・わななく足を蹈損ぜじと心をせめて登り・・・頂上の宮建なり。」とある。
 そして、下山は「・・・木の根にすがり、有か無かの細道を、下るにあらず、すべり落る事三十町ばかりにして豊前坊にたどり着たり。」と記録している。
 
 記録を持って訪れたのだから、本当はこの記録に残された登山道=南岳ルートをたどって英彦山神社上宮へ登り、北岳ルートを豊前坊へと下ってみたかった。しかし、老夫婦にして体力欠落。利用者がもっとも多く、安全な中岳ルートを使って上宮まで登り参った。
 
「福寿坊」は「福寿院」だろうか。
 かって英彦山は山伏の修験道場として栄え、最盛期には大名に匹敵するほどの兵力を保持し、800の宿坊があったらしい。
 松浦武四郎は1837年にこの地を訪れ、「並木を過ぎれバ宿坊二百ばかり左右に建連れり」と記録している。その紅葉に包まれた並木を散策していたら「福寿坊跡」があった。「もしかしたら、これが松浦武四郎が宿泊を記録した福寿院の跡かもしれない。いやきっとそうに違いない!ここは武四郎翁が四国で知り合った聞亮という人の家で、再会した2人は夜遅くまで語り合ったに違いない!」と強い願望からくる期待を持って眺めた宿坊跡群の素晴らしさには仰天した。参道の大きな宝篋印塔の下で話を聞かせていただいた物静かな方が印象的であった。
 なんども西海雑志を読んだ。「200もの宿坊が立ち並ぶ」は文字面だけで情景として描くことができなかった。が今回、実際に英彦山を訪れ、その素晴らしさに胸打たれ、急遽その夜は、ひこさんホテル和に泊まり、再度早朝に散歩した。 
 およそ50日間かけての九州の旅での最高の驚きは英彦山であった。しかし。銅鳥居からの参道を歩かなかったら、その印象はかすかなものであったに違いない。
 
★松浦武四郎、青の洞門から蓍闍窟山 (羅漢寺)へ
松浦武四郎が[西海雑志上]に記録した「蓍闍窟山」に行くことにした。
 「蓍闍窟山」をどう読むのか分らない。松浦武四郎紀行集には「キシュクセン」と読み仮名がふってある。インターネットで調べたら「ギシャクツセン」。とにかく読めたものじゃない。ここは簡単に云えば大分県中津市にある羅漢寺のことである。
 
青の洞門
 松浦武四郎は羅漢寺へ行くために、菊池寛の小説「恩讐の彼方」の素材となった青の洞門を通っている。
 記録には「山の麓を切祓て街道を通ずる處あり。高さは二丈ばかりに横は牛馬の行違ひに障なき程なり。三四十歩毎に窓孔を穿ち日光を引て洞中の明るをなす。・・・餘國に覺へぬ切通シにて多くの人工を費せし事と思われたり。」とある。
 「この洞門は江戸時代から通行料を取っていたらしい」と土地の人に聞いたが残念なことに松浦武四郎の記録にはそれがない。
 
蓍闍窟山 羅漢寺
 青の洞門から、「一里あまり谷川の岸を過て蓍闍窟山の麓に到る。・・・嶮岨岩坂を八町登れば二王門あり。石階五百段ばかり登れバ大なる岩洞あり。・・・左の方百歩ばかりに石門あり。・・・門に入て岩洞有。・・・數百年の古物なれバ少々の毀損はありながら、雨霜に晒されざるによつて眉目いとあざやかに、生動の勢ひ有て精工妙造なかなか凡作とハ思ハれず。・・・再び本の石門を出て右の方へ行事百五十歩ばかりにして又石門あり。・・・門を過れバ本堂あり。・・・禪宗の靈場なり。山中總て奇石怪岩多く眞に黄倪の畫たる山水の如く、奇觀紙筆の及ぶ處にあらず。」
 そうだ!羅漢寺ような寺が他国にあるだろうか。全国を歩いた松浦武四郎は筆舌では表現できないと語っている。
 
 九州の石仏文化には恐れ入った。石に切り刻んででも後世に、歴史に残すという九州人の頑固さ。これはいったいどこから来ているのだろうか。この姿を国東半島でもたくさん見ることになった。
 
★松浦武四郎、国東半島へ
 大分県立歴史博物館を起点にして宇佐神宮に行って泊まり、翌日国東半島の寺々の石仏を見て回った。そして、国東市で土地の方の思わぬ親切をいただいて郷土料理を食べ、道の駅で泊まった。結局、国東半島周辺を2泊3日をかけてまわったがそれだけの価値はあった。しかし、松浦武四郎は詳細には記録を残していない。これは凡例にあるように他の記録がたくさんあるからだろう。
 
大分県立歴史博物館で
 「所詮、文化が違う」を実感
 歴史博物館へ行く途中「なんでこんな場所に博物館が?」が呆れた。しかし、入館して「なるほど」と感じた。ここに九州有数の大規模の古墳群があったとのことである。
 博物館で、「国東の仏教文化」と「宇佐八幡信仰」を学んだことで旅が豊かになった。
松浦武四郎の記録[旅行手記]から
・ 宇佐八幡
 「日本第一八幡宮に出り。町家五百餘。坊中百餘軒。勤經中□□不出せり。下馬札。下乘石有。樓門。橋。并に~子や。上ノ宮。下ノ宮。社内廣し。是より豐后國へ一り斗也。橋津と云町有。是の東の川也。川より豐後高田町へ一り。」
・ 岩屋山天然寺
 「天台宗。高田町より三り。川上なり。長岩屋村と云ニ有。以前は坊中十二坊なりしが今は本坊斗なり。・・・是より二子山三り。文珠(殊)へ三り。文珠(殊)へ行は是より赤根かつら原にて村有。道甚わろし。當山鎭守六所ごんげん。十餘丈の窟面ニ社を立たり。」
・ 峩媚山文殊僊寺
  「天台宗。是も以前は寺坊十二ケ寺也共今は在家となれり。本堂より文珠(殊)堂。石壇一丁斗上る也。岩の面ニ堂お(を)立たり。」
・ 足曳山両子寺
 「天台宗也。是より木付(杵築)城下へ六り。安岐之湊へ三り半ナり。本尊千手かんおん。鎭守金比羅大ごんげん。本坊より八丁上ニ堂有。坊中廿六坊。今は六坊也。廿坊は在家となれり。」
 
 ほかにも熊野磨崖仏、臼杵石仏など数々の石造物を見て、驚き九州の歴史を肌で感じた。
 
 国東半島の寺院をゆとりを持って旅されることをお勧めします。
★ 松浦武四郎 高千穂を微細に記す
 
 松浦武四郎は西海雑志の凡例に「癖(僻)遠之地日向の高千穂、肥後の那須、米良等は蕪雜を嫌わず微細にしるし置ものは、諸國の人々容易に尋ね入ものなければ其地の大概をしらせんが爲也。」と書いている。諸国の人々が容易には入らない高千穂。「だからこそ、記録を残す」と松浦武四郎は高千穂については詳細に書いている。九州の方々はこの松浦武四郎が残した九州の記録[西海雑志]を読まれたであろうか。
 
高千穂庄
 松浦武四郎は[西海雑志上]の「高千穂」のまずはじめに 「日向國高千穂の庄は、西の方肥后の町に隣り、南は那須山に續き、北の方は竹田の山中に接ス。庄内十八里四方にして村邑僅に十七ケ村、山の谷間或は半腹に一二軒づゝ住居をなし、隣家といへども三四町を隔て、向ひといへども谷川をへだて、實に僻地といふともまた外にたぐひ多からぬ邊土なり。」と記録している。
 
松浦武四郎の祖母嶽山登山
 全国の山々を登り、北方新書から「江戸明治の百名山を行く 登山の先駆者 松浦武四郎」が出版されているほどの登山家だった松浦武四郎はこの地で祖母嶽山に登らんと神主を尋ねた。神主は「驚たる面色にて、祖母嶽山は是より頂上迄百五十丁町ありて、掌を立たる如く道甚險く、・・・春秋の祭日の外は絶て登山いたす者なし。・・・」と登山を引き止めるが松浦武四郎は「山上へ登らずむなしくやみなんは何分にも残念の事なり。」と。そこで神主は一人で登山させては危険と松浦武四郎を案内して登った。
 彼は、一人ででも登りたいと思ったこの登山について「かゝる魔所へ人の諌めを用ひずおして登山したりしは、皆々若氣のあやまり・・・」と後悔している。その夜、神主宅に泊めてもらって、「圍爐裡の側に家内連座して、さまざま物語・・・」と記録している。
 
★十社明神 高千穂神社
 「十社明~の石の華表あり。十抱に過たる杉の群立たる中を二町ばかり行に再び白木の鳥居あり。夫より兩側に石燈籠十四五基立并び、萱葺の籠り殿、檜皮葺の拜殿などいづれも大きなり。本社は東向に瑞籬の中に十社并び建たり。白木作りにて普請も新らしくいと奇麗なり。」
 高千穂神社で夜神楽を見た。観光夜神楽であったが旅先でのそれは心に響き、生涯忘れえぬ思い出となった。
 
 
★天磐戸神社 天の浮橋
「村を離れて二町ばかりの程櫻を多く植ならべ、道の傍に二間に三間の遙拜所あり。百餘間谷川を隔て向ふの岸は數十丈の岩壁屏風を建たる如く聳ち、其岩の面に天の盤戸と名付る洞穴あるを此方の岸より遙拜するなり。密樹葉をかさねて少しの透間もなきゆへ、洞口はさだかに見定めがたし。また拜殿の中より斜に河下の方を見おろせバ、水面をはなれて一筋の虹の如く石とも木ともわからねども橋の如くなるものあり。里人是を號けて天の浮橋と稱す。」
川向こうにあるという天磐戸、ううん・・時間がなくてパス。今は後悔している。
 
★高千穂の庄は
 高千穂を去るにあたり、松浦武四郎は「高千穂の庄内は誠に無下の邊鄙なれども、~代の古跡など行先々にありて、地人~明を尊ぶ事餘國よりはすぐれて厚く、夫ゆへ庄内の~社いづれも大社にして普請等も誠に手を盡くし、其結構なる事都方にも劣らぬ事なり。・・・」と記している。
「山の懐が深い」を実感。神話があり、祈りがあり、かっての日本人の心はこうであったのではなかろうかと思った。
 
★ 青木原 鵜戸山仁王護国寺
 「日向國小肥の領内は國法嚴重にして、領界に番所を建往來の切手を改め猥りに旅人を許さず。此關所より二里を過て宮の浦といふ湊あり。夫より南一里にして鵜戸山仁王護國寺といへる眞言宗の寺あり。地領五百二十石にて日向第一の靈場なり。・・・山の下り口に石の華表あり。百餘級の石階をくだれバ坊舎軒をならべ、二王門を入て石橋あり。・・・二百歩隔て高三丈ばかりに横五六丈の岩の洞あり。其中に~殿あり。鵜萱葺不合尊を祭り、・・・いづれも壯麗目を驚せり。前にハ碧海漫々として波浪岸を洗ひ、さまざまの恠岩水中より顯れ風景畫とも及びがたし。岸の上にハ數株の老松汐風にもまれて、枝葉恰も撓たる如く奇觀愛すべく仙境に遊ぶが如く、逍遙の間覺へず襟胸を清ふす。此處の古名を青木が原と唱へ~代の奮跡なるよし申傅へり。」
 九州には真言宗のお寺が多いように感じてならなかった。その真言宗は明治の廃仏棄釈で大きな影響を受けた。真言宗に属した寺が神社に改められたりした。武四郎が記録した時代には、鵜戸山仁王護国であったが今は「鵜戸神宮」。「へ?本殿へは行くのに下るのか」と驚いた。
 
★ 霧島山
 松浦武四郎は
 「霧島山は日向大隅の兩國に跨、中峯峻秡(抜)にして雲間に聳天の逆鉾を留め、東嶽、西嶽ノ二峯は勢ひを争て秀たり。麓を巡れば三十六里、山谷常に硫黄燃て其烟り晝夜絶間なく一日程をへだてゝ見へたり。余は日向の國諸縣郡高原より佐野村の上なる錫杖院へ參詣し、秡川といふに至るに是より馬の背越を登れば絶頂の御鉾迄百五十丁なり。・・・麓を廻り大隅の方より登らんと一里ばかり行バ~コ院といふあり。~武天皇の誕生の古跡にて赤の瑞籬美麗の宮建あり。土俗此處を下霧島と稱す。・・・いぶせき道を宰領の者にたすけられ二里ばかり過れバ、道の上に大なる石の鳥居あり。高さ三丈あまり、柱の廻り兩人にて抱くに尚あまれり。此處霧島山の東面なり。・・・坂を登り折生田村に至り村長の宅に至り一宿を頼めバ、やがて農家に案内していと叮嚀にもてなしたり。翼(翌)日は霧島登山なれバ村内にてもすぐれて勇猛屈竟の郷士を撰ミ、宰領に付られたり。」
 2004年11月 霧島のえびの高原から韓国岳、高千穂峰などへ登らんとて霧島神社に参拝した。
 
★大隅一の宮
  「大隅一の宮」って、どこの神社のことだろうか
 松浦武四郎は「[西海雑志中]の「霧島山」 の項の中に 「・・・霧島山南面にいたる。此處に大隅の國一の宮あり。表の鳥居を入て石壇の下に石燈籠數基あり。朱の大華表を過れバ左右に廻廊、籠り殿、~楽所、拜殿いと美麗に、本社は朱塗檜皮葺、彫物の龍虎花鳥ハ丹青を以て彩色し壯觀いふばかりなり。左の脇には秡殿、御供處、其外末社數多し。右の脇には護摩堂、鐘樓、多寶塔あり。石壇を下りて本地堂。十一面觀音を安置せり。其側に龜石。鎭守の宮。杉林の中に一ツの風光あり。」と記録しているが、
 この「大隅国一の宮」とは果たして、どこの神社なのか」 分らない。
 高千穂峰へ登るために、「佐野村錫杖院」→「祓川」→「下霧島」→「霧島山東面」→「廻り2里ばかりの池」→「折生田村」→「周囲1里の池」→「大隅の曽於郡」→「霧島山南面・・・ここに大隅国一の宮」→「高千穂峰」へと向うが、この「一の宮」とは、どこの神社なのだっろう。分らない。どなたか、ここはどこなのか教えていただきたい。火山の爆発でどこかへ移ったのだろうか。
 
★ 天の逆鉾
 「天の御鉾は其長さ七八尺ばかり。大(太)さは一尺五六寸廻りにして全躰銅の如くなれども眞性は分りがたし。石をとりて打叩くに鏘々と音せり。いかにも數千年の古色ありて~代の物と見えたり。・・・扨此邊より四方を眺望するに西北にハ薩摩、肥後、豐後の諸山波濤の如く連り一望の中にあり。東南にハ蒼海渺茫として其果をしらず。」
 伊勢の人間としての僕は天孫降臨高千穂に登らざるを得ない。いやはやたくさんの九州人と話をした。
 
★ 大浪池
 松浦武四郎は高千穂峰登山後、大浪池へと下っている。
 「降りには石に乘ゆへ暫時の間に煙の中をも行ぬけて樹木の邊迄下り着バ、漸く心も安墸して暫く木かげに憩ひて、細道三十町ばかりくだれバ大波の池といふあり。雜木篠竹茂りたる中に水色青く見えたり。」
この大浪池でゆったり時間を取って、県職員の自然保護員の人に素晴らしい話を聞いた。
★ 佐多の御崎
 九州の最南端の佐多岬へ行った。
 北緯31度。
 松浦武四郎の誕生地の三重県とは植生がまったく違う。驚きである。
 猿がたくさんいた。
 ウグイスの鳴き方が違っていた。
 松浦武四郎の記録には 「大隅の國佐田の御崎ハ、九州南の果なれバわけて暖氣ゆへ冬中も綿衣を着る人すくなし。此濱三里の間蘇鐵のミにて餘の木いさゝかもなし。里人は漁を業として田地なきゆへ、薩摩より入船の米を買取日用にするなり。又ハ蘇鐡の實を取て粉團(團子)となし食するに至る。腹中の保になる由なり。又領主へも御取納めありて饑饉軍用の手當になる也。邊國は土地廣きゆへに田地等もひらけざる處ありて、如斯の餘有(裕)の地面あるなり。國内の富饒なるハ是にて思ひやられたり。」とある。
 最南地の大泊郵便局でもらった薩摩藩の記録には、蘇鉄は琉球から持ってきて御崎神社に植えた。そして、他へ移植することが禁じられていたとあった。
 
★ 那須 五ケ村
 [西海雑志中]に「熊本より東南拾六七里に五ケ村といふ有。四方山峻くして立入がたき處也。古へ平家の落人此村に住して今に其子孫連綿たり。人家山に添谷に臨ミ、こゝかしこに散落して凡五百軒もあるべし。田畑到て少なければ農業のミにてハ世を渡りがたきゆへ、山中に入て岩茸、椎茸などを取、或は麻をうへて苧をとり、また熊取を渡世にするものもあり、當時ハ肥後の支配を受、領主より塩、米を被下、村中より熊の皮を上納する也。平家の子孫なれバ古代の甲冑、太刀抔を所持いたす家もあるよし也。」
 2004年は九州に大きな台風が上陸した。もう影響はないだろうと五箇谷へと入って行ったら、各地で道路が分断されていた。宿を予約してあり、無理をして回り道を走って、車をガリガリと傷つけてしまった。
 
★ 阿蘇山
阿蘇神社
 2004年秋、阿蘇神社に参拝してから阿蘇山へ向かった。
 松浦武四郎の記録によると、かっての阿蘇神社は
 「熊本より東十三りに宮路といへる町あり。此處阿蘇の本宮にして當國一の宮なり。・・・石橋を渡れバ再び朱の華表あり。赤瑞籬を廻らして拜殿、舞臺、御供殿、左右に廻廊數間あり。本社ハ東向に十二社建并び、丹青にて彩色し甚壯麗なり。境内廣く末社小祠數しれず。古木の杉、檜森々といと~寂たる宮中なり。後の方に大宮司の宅あり。世々~孫にて往古ハ三十六萬石を領しけるに、・・・其外社家廿一軒あり。いづれも由緒有ル系統なり。・・・北の宮・・・二十町に下の宮・・・是より西の方一里に坊中といふ處あり。町家百餘軒。寺院三十六坊。・・・」であった。
 
阿蘇山
  「山の窪より硫黄の燃る處あり。K煙盤廻上り數千の水車を廻すが如き音あり。是を中の地獄といふ。近邊ハ硫黄息(臭)氣鼻を通し中々足を留めがたし」。これは記録の一部分。松浦武四郎は、眺望甚だよく、しばらく山々と海上を眺め、日の傾きに驚いていそいで山を下っている。諸国を遊歴した松浦武四郎もこれだけの火口を見たのははじめてであっただろう。
 2004年秋、妻と二人でロープウェイに乗って火口へ登った。そして砂千里ケ浜を楽しみながら中岳へ登り始めた。ところが天候が急変。雨風強く、火山性ガスも流れ出し、「頂上へ200メートル」の標識で引き返した。すでにロープウェイは運休となり、スピーカーで登山者に下山を促す車が走っていた。
 
ミヤマキリシマの仙酔峡から
               阿蘇中岳へ
 6年後の春、ミヤマキリシマに包まれた仙酔峡へ行った。たくさんの人がミヤマキリシマの木の間を歩いていた。喧騒を避けて、東火口展望台へ登った。ここから見る火口の岸壁は実に迫力があった。金属性の口琴を鳴らしながら、見とれているうちに妻は中岳を往復した。
 

戻る