松浦武四郎 宿泊 旅籠跡発見
松浦武四郎と伊勢本街道
 

伊勢本街道で
松浦武四郎宿泊旅籠跡を発見
 松浦武四郎記念館を退職して「名誉館長」となった。無職遊民で時間的なゆとりが生じたので、松浦武四郎が嘉永6年に宿泊した旅籠探しの総決算をした。そして、8年ほど通い続け、その地の人たちとも懇意になり、やっと宿泊した旅籠を3軒見つけたがすでに旅籠跡になっていた。
 
 

 北海道には松浦武四郎の足跡を語る碑等がたくさんあり、さすが「北海道の名付け親」と思わせる。東北地方にも松浦武四郎の足跡を語るものがある。
 しかし、残念なことに生誕地の三重県の近隣地では旧三雲町が大台ケ原に立てた分骨碑だけである。
 そこで、「松浦武四郎の故郷近くで松浦武四郎を語れるものを」と考え、記録を読み続け、記録から足跡を示す素材を探してきた。
 生誕地三重県近くが記録されているのは「定本 松浦武四郎 下 吉田武三」(三一書房1973年)の中の「自筆松浦武四郎自伝」と「松浦武四郎研究会編 校注簡約松浦武四郎自伝」(北海道出版企画センター1988年)、「発丑浪合日記」である。これを読み、神の啓示とインシュピレーションを感じ、嘉永6年に注目した。
そして、嘉永6年に歩いた伊勢本街道こそ彼の生涯にとってもっとも達成感、充実感に溢れ意気揚々と歩いた道ではなかろうかとの結論に達し、記録の中に書かれた旅籠を探すことにした。
 

北海道で
 僕にとって意義深い松浦武四郎顕彰碑
 
 北海道の数ある松浦武四郎を顕彰するものの中で、もっとも心を寄せているものは、屈斜路湖畔にある松浦武四郎の歌碑と音威子府村筬島の天塩川河川にある「北海道命名之地」標である。
 
松浦武四郎案内人子孫が立てた
            もっとも意義ある歌碑
 1999年5月、僕は松浦武四郎の膨大な記録を車に積み込んで、北海道で1年間予定の長期滞在を計画して出かけた。妻と二人「いざ露と寝ん草枕」(北海道余市にて 幸田露伴)と旅を続けるなかでのこと。晩春、アイヌの人たちが住んでおられるコタンで知り合って、不慣れな北海道生活を助けていただいていた方が「私の祖先は松浦武四郎が久摺日誌に記録した○○○という人だよ」と名前を教えていただいた。その名を聞いたとたん、「ええ?なんか聞いたことのある名だな。記憶にあるなあ」と感じた。「記憶にあるということは自分が持っている松浦武四郎が蝦夷地踏査の記録の中にある名前に違いない」と感じつつ、次の予定地へと向った。
松浦武四郎はその湖畔に安政5年に行っている。そこで、松浦武四郎自伝、戊午東西蝦夷山川地理取調日誌、東西蝦夷山川地理取調図の案内人名簿、久摺日誌等々を調べまくった。
そして、とうとう、その方の祖先の人が安政5年4月10日松浦武四郎を案内していることを突き止めた。
 初秋に再び湖畔を訪れて、その人に「あなたの祖先の方は松浦武四郎を案内されていますよ。その事実を示す記録はここにあります」とお知らせした。「ええ!本当!」と驚かれた、その姿を僕は終生忘れない。その事実はすぐさま親戚一同、そしてコタンに知れ渡り、三重県から来た変な白髪の初老の僕の評価が高まり、以後、コタンの仲間として加えていただくことになった。
 僕は「松浦武四郎が筆舌では表現できないほど美しいと記録した、この湖畔に松浦武四郎の碑がないのは残念です。誰か立てていただけませんか」と訴えた。その結果、松浦武四郎を案内した子孫の方が「私が夫とともに立てるがどのような文にすればいいの?」とのことで「汐ならぬ久寿里の湖に舟うけて身も若がえる心地こそすれ」をお勧めした。その結果、立てられたのが湖畔の美しい芝生にある歌碑。
 この碑は、唯一、松浦武四郎を案内した人の子孫が立てた道内でもっとも大切な碑であり、僕がその碑が立つことになった動機となったことを常に自慢している。
 
いつ、だれが、なぜ・・・
天塩川岸にある「北海道命名之地」標
北海道で長期滞在をしているときに知り合った方に見せていただいたビデオに仲間とともに天塩川岸に「北海道命名之地」木標を立てている情景があった。その中のお一人が天塩中川町の方と分かり、手紙を差し上げておいた。
 そして、2002年の6月にお伺いした。ご家族みんなで心温まる歓迎を受け、以来、北海道へ行くたびになにかとお世話になり続けている。
 行く度ごとに「北海道命名之地碑」のことを聞く。北海道でたくさんの歌碑、宿泊地碑、顕彰碑を見てきたが、それらを立てた方のお話を直接聞く機会に恵まれてこなかった。だから、家族ぐるみで親しくさせていただいている方が仲間と立てた木標には特別な親しみがある。
 妻と二人で、この碑を起点に中川町までの25キロをカナディアン・カヌーで豪快に下ることは最高の喜びである。松浦武四郎記念館を退職した2009年の春はこの地のNPOの方々との話し合いの場を作っていただき、中川町での知り合いがますます多くなった。
伊勢本街道で松浦武四郎が宿泊した旅籠を探す
1 動機
 北海道に松浦武四郎を語るものがたくさんあり、そのほとんどを訪れた。そして、その場で松浦武四郎が残した記録を読んだ。碑それぞれに、松浦武四郎への思いを感じ、胸を打たれた。
 
 東北にも松浦武四郎を語るものがある。
 松浦武四郎の記録を携えて東北地方を旅した。青森県深浦町千畳式海岸には「松浦武四郎はこの風景を実に目覚ましと絶賛している」と説明があった。
 松浦武四郎に十和田湖への記録がある。これを読むと「五戸川」とあるのがどうも合点がいかなかったので、いつも心がけているように現場へ行った。そして、「やっぱり変だ!」と感じ、郷土史研究会会長を訪ねたところ、疑問は氷解。松浦武四郎の記録をもとにしての地域説明板が作られ、その中に「松浦武四郎の記録の五戸川は奥入瀬川のことである」とあった。まもなく会長から、松浦武四郎の記録に基づいて十和田湖へ歩かれた方の記録が送られてきた。
 北海道や東北で松浦武四郎を語ることができる碑や説明板があるが松浦武四郎の誕生地三重県近隣のどこに語れるものがあるか。
 晩年、松浦武四郎は心魅かれた大台ケ原に旧三雲町(現 松阪市)が立てた分骨碑だけである。
 なんともなんともさびしい限りである。
 そこで、伊勢本街道に重点を置いて、「ここで松浦武四郎は・・・」「松浦武四郎はこの伊勢本街道を・・・」と語れるようにすることにした。
 
2 松浦武四郎自伝の中の伊勢本街道
「校注簡約松浦武四郎自伝」(松浦武四郎研究会編)、「浪合日記」から
 
 嘉永6年は開国史上もっとも重要な年の一つ。我国に隣国アメリカとロシアが軍艦4隻を差し向けて開国を迫ってきた。
・ 6月3日 アメリカのペリー提督が軍艦4隻を従えて浦賀に来る。攘夷運動が激しくなる。
・ 6月22日徳川家慶将軍死去
・ 8月10 ロシアのプチャーチン提督が軍艦4隻を従えて長崎に来る。
・ 新しい将軍が即位することになった。
・ 8月晦日 松浦武四郎は重大な仕事を頼まれた。
  「8月晦日朝 鷲津氏よりいそがしく呼に来りしかば承諾す。・・・此事は今度将軍宣下に付、其下行の時に国体をはづかしめざる様に御沙汰有りたしとの内願せよとの事にて、藤田東湖、藤森大雅より頼まれしかば其周旋の上りぬ。」(校注簡約松浦武四郎自伝 松浦武四郎研究会編)
・ 10月2日 松浦武四郎は、新しい将軍へ朝廷から「攘夷」の宣下がなされるようにするために、江戸を出て、伊勢山田の足代権太夫宅に着く。そして。三條家ほか上方5,6軒への添書を得る。
・ 10月12日から京都で同志とともに日夜奔走
・ 10月25日 任務の成功を告げられる。「10月25日 池内大学の報により、いよいよ御沙汰あるべき由を確かめ、急ぎ28日京都出立」
★★★ 伊勢本街道を伊勢へ向う ★★★
・ 「10月29日 桜井、長谷、榛原、赤根、石割峠越田口 布袋屋 に泊る。今日大雨なり。」 この田口とは宇陀市室生区田口元上田口のことである。
・ 「10月30日 ・・・かゐ坂、多気、槇坂峠此処茶屋有、坂18丁を下りて上仁柿○○屋に泊る。」
・ 「霜月朔日 下仁柿、大石、つる、相可、いけへ、・・・宮川越足代権太夫家に着し、直に両宮参り・・・」 足代権太夫に無事役目を終えたことを報告したのであろう。
・ 「11月8日 出立致し須川村(現松阪市小野江)中村清七方に泊る
   日数過て袖のやつれも世の為と
        知りて時雨の故里のいほ
・ 「11月1日 風有出立す。桑名にて泊る。」
★★★ 松浦武四郎と伊勢本街道 ★★★
アメリカ、ロシア両国が日本へ軍艦を送って開国を迫った嘉永6年、松浦武四郎は新しく即位する将軍へ、朝廷から「攘夷」の宣下がなされるように働きかけることを頼まれ、京都で仲間とともに奔走し重大な任務を果たした。その喜びと充実感を感じながら伊勢本街道を歩いた。
松浦武四郎の宿泊旅籠「布袋屋」を探す
 旅籠は「布袋屋」。この旅籠に、松浦武四郎は嘉永6年10月29日に宿泊。場所は、奈良県宇陀市田口元上田口である。
 「この旅籠がどこにあったのか」を探して歩いた。
 一番楽な方法は、旧室生村の村史や街道調査書を見ることである。しかし、これでは「歩いて探す」が信条の僕たち夫婦の沽券に関わる。
 この地は、2001年に東大寺横の安政5年の道標から伊勢本街道を通って伊勢まで歩いた際に通った。また2002年に、国学者本居宣長の「菅笠日記」をできるだけ江戸時代の道を辿って全行程を歩いた際にも通った。その後も素晴らしさに驚嘆し、なんども通っている。
 
★★ 上田口のこと ★★
・ 「めんめん坂に立ち並んだ旅籠」
    いやそうではなく
       「旅籠の前を通るめんめん坂」
 2001年、松浦武四郎をより深く知るために北海道へ1年間滞在して帰った翌年、奈良から伊勢へ歩いた。その時に、この上田口で一人のお年寄りから「ここは伊勢本街道が通り、伊勢と室生寺の追分にあるためにかってたくさんの旅籠があった。この上田口の旅籠は山の斜面に立てられていたので、街道は各旅籠の前を通っていた。言わば、一つひとつの旅籠の前、めいめいの旅籠の前を通っていたので、この坂を『めんめん坂』と言った」と教えていただいた。地域に入って聞き取りをしてこそ知り得る話であり、伝承の見事さと聞き取りの大切さが身に沁みたのである。
 
★★ 旅籠探しは聞き取りで
松浦武四郎宿泊旅籠跡発見 ★★
 
 上田口で聞き取りを始めましたがなにせ156年前のこと。何人もの方に聞き取りを重ねても糸口が得られなかった。
 かって、この地を歩いた際に出会った、安政5年の棟札のある家のお祖母さんを探したが、残念なことにすでにお亡くなりになっていた。
 そこで、「めんめん坂」のことを教えていただいた方を探した。なんと幸運なことに、その84歳の方は40年前に92歳のお年寄りから聞かれた旅籠を図面に落としてみえた。
とうとう「布袋屋」発見!
 案内していただいた、その地は空き地であった。「布袋屋」は跡になっていた。
これが嚆矢となって「そうそう、布袋屋って聞いたことがあるなあ」と言われる方に何人も出会い、聞き取りの中から地域の歴史の重み、厚さを感じ取ることができた。
 地域の方は「布袋屋」を「ほてや」と呼ばれ、その場所は専明寺の墓地の下、「東経136°30′09″ 北緯34°02′53″」だった。
 自分の足で「松浦武四郎が宿泊した旅籠跡を発見」の喜びを噛み締めた。
 旅籠跡発見に導いていただいた84歳のお年より、安政5年の棟札のある家のご主人、元庄屋の方、そして聞き取りをさせていただいた86歳のお婆さんをはじめたくさんの方々に感謝であった。
 さらに、この地に「北海道の名付け親 松浦武四郎 嘉永6年10月29日 宿泊布袋屋跡」の看板を立てる許可をいただきました地主に心からの感謝でいっぱいだった。
 
諸木野弥三郎と松浦武四郎
 ともに伊勢の国司北畠氏に関係が
 榛原から伊勢への山越えの伊勢本街道を嘉永6年に北海道の名付け親松浦武四郎が歩いている。
 その伊勢本街道の最初の峠石割峠の手前に諸木野という里がある。鬱蒼と繁る杉林の中にある「諸木野関所跡」を過ぎると忽然と諸木野の里が現れる。さくらの頃の美しさは筆舌では語れない。2010年の3月は寒く「さえわたる月に起出て眺れば花吹まぜて淡雪ぞふる」の状態であった。
 この地の諸木野弥三郎は伊勢の国司北畠の家臣で、松浦武四郎の生誕地松坂の大河内城に立て籠もって、織田軍と戦った弓の名手である。この諸木野弥三郎の居城があったのが諸木野の里で諸木野弥三郎の墓地がある。
 松浦武四郎も祖先は伊勢の国司北畠の家臣であった。諸木野弥三郎は松浦武四郎誕生の松坂で名を知られるようになった武将。松浦武四郎と同じ北畠家を仰ぐ家柄。
 この松浦武四郎と諸木野弥三郎が結ばれる不思議な縁の里「諸木野」へ通いはじめて懇意にしていただくようになったご夫妻を四季訪れ、「諸木野では旅籠を『馬宿』と呼ぶ」ことを。また地域のどの家が「馬宿」であったかを、周辺の地理・歴史を教えていただいてきた。
 松浦武四郎記念館長を辞した2010年の正月はこの家でいただいた猪の肉を使ってステーキを焼き食した。
 この方のご好意で敷地内に「北海道の名付け親 松浦武四郎 嘉永6年ここを通る」の看板を立てさせていただいた。
鈴鹿峠下「たまや」を探す
嘉永6年、松浦武四郎は重大の使命を帯びて京都へ向う際に鈴鹿峠下の宿場坂ノ下の「たまや」に宿泊している。
 この東海道を桑名の渡しから四日市の追分、鈴鹿峠まで歩いたことがある。この「たまや」を調べていたら、嘉永3年の記録をもとにした宿場の旅籠のあった場所の図で「たまや」を見つけた。
関の宿場には有名な「玉屋」があるが「坂ノ下」の「たまや」とはまったく別の旅籠である。かっての坂ノ下の宿場は国道拡大工事、火災等から昔の面影が少なくなっている。
 
★★ 武四郎ウォーク ★★
 松浦武四郎生誕190年、第6回最終蝦夷地探査から150年、没後120年の記念事業を終えて、松浦武四郎記念館を退職した。
 生誕200年までは8年。これへ引継ぐために、「2018年松浦武四郎生誕200年への会」を立ち上げ、自分が発見した旅籠跡を素材にして、2010年4月19日に宇陀市榛原区高井から松浦武四郎宿泊旅籠「布袋屋」跡がある室生区上田口までの「武四郎ウォーク」を実施した。
 参加者は「2018年松浦武四郎生誕200年への会」から8名、松浦武四郎記念館から3名。市民27人。計38人。
 幸い、好天に恵まれ、過去に何度も何度も歩いて懇意にしていただくようになった古民家や旅籠の方へ事前にお願いして、家の中を見せていただくなどした。
 また諸木野では「松浦武四郎ここを通る」の看板をたてさせていただくなど格別懇意にしてもらっているご夫妻が葛湯を準備して待っていただいていて、全員大感激。
 石割峠を越えた上田口では、蔵に松浦武四郎が最終蝦夷地探査を行った{安政5年}の棟札のある家のご主人にお世話になった。
 各集落でたくさんの方にほんとうに温かいおもてなしをいただき、松浦武四郎も、伊勢参りの旅人もまた同じ思いをしたのであろうと思った。
そして、
松浦武四郎が宿泊した地に「北海道の名付け親 松浦武四郎 嘉永6年10月29日 宿泊布袋屋跡」の看板を立てた。
 長い間探した旅籠跡へ38人で訪れることができた幸せを心から噛み締めた。
 

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