松浦武四郎の記念碑など 7

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 7
 
安政5(1858)年、松浦武四郎は乙名クウチンコロほか11名の力を借りて旭川から美瑛川筋を上り峠を越えて空知川筋に入り、さらに十勝川河口へ抜ける、戊午東西蝦夷山川地理取調日誌と十勝日誌に記録された最長踏査を行った。この道筋の顕彰碑等を訪ねるのなら、まず旭川のアイヌ文化の森へ行って、武四郎が成果を生み出す原動力となった偉大なアイヌ民族の指導者クウチンコロの顕彰碑を見るべきであろう。そこには「松浦武四郎の偉業はクウチンコロの存在なくしては語れない」等の文が記されている。次は深山峠の碑、さらに富良野市原始が原の「松浦武四郎通過之地」標を訪ねてから、十勝内陸部入りの最初の宿泊地、新得町の「松浦武四郎野宿之地」標を目指すべきであろう。


「松浦武四郎通過之地」標
場所 富良野市原始ガ原 標高1040メートル
北緯 43度21分55秒
東経142度37分06秒
  安政5(1858)年、松浦武四郎は旭川から美瑛川筋を上り、上富良野→空知川水源を越え、十勝へと抜ける壮大な踏査を行った。
  「東西蝦夷山川地理取調日誌第五巻東部登加智留宇知之誌巻之三」に「三月九日 昨日定め候拾弐人を召連行んとするにタカラコレ、エナヲエサン、エナヲアニ、レクンタク、クーランケ等、糧米の処は渡しに不相成とも宜敷、是よりトカチ越の処是非一度見度候由、共を願出たりけるが、余りに大勢なりしかば此方にても強て断・・・」と出発。案内の12人とは、東西蝦夷山川地理取調図巻首の案内人名簿にあるチクベツの酋長クーチンコロ、小使シリコツ子、小使イソテク、チクベルブトのイワンパカル、ウエンベツのアイコヤン、タヨトイ、アサガラのニホウンテ、サタクロ、ヲチンカバのアイランケ、チカプニのサケコヤンケ、ヤーラクル、トックの酋長セツカウシと屈強な人たちであった。
  武四郎に糧米などはいらないからぜひ十勝への案内人に加えてくれと申し出るアイヌの人。この「なんとか仲間に加えてもらいたい」との願いを自分も原始ガ原行きで経験をした。
  「松浦武四郎通過之地」標行きは、上富良野フットパス愛好会の佐川泰正さんが中心となって松浦武四郎踏査150年記念事業として春まだ雪堅き頃に上富良野の足跡を辿られたことを知り、「松浦武四郎通過之地標へ行かれることがあったらぜひ参加させてください」とお願いをしておいた。
  その甲斐あって、「2008.9.8に計画をしているから出てこないか」と誘っていただいたので喜色満面で参加。
  上富良野の方々と、150年前に松浦武四郎が石狩詰下役 飯田豊之助を従え、12人のアイヌの人の案内でヲツチシバンザイウシベとヲツチシベンザイウシベ(上富良野岳)の間のルウチシを越えた地にある原始が原の松浦武四郎通過之地標に着いた。
  その地でアイヌの人が通った道にお詳しい山谷圭司さんに武四郎が通ったであろう道筋を説明していただいた。松浦武四郎記念館の展示室の壁面には武四郎が見た富良野のあたりの山容が描かれている。それを毎日のように見ている自分がこの地へ来て、武四郎が探査し、見、そして十勝へ越えた道筋を確かめた感動は I will cherish my visit here in memory ,as long as I live. であった。
 「ルウチシ と云たり。ルウチシは路をこゆると云儀なり。此峠にしてしばし休らひ、木幣を切て先天地の神霊を祭る」(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌巻之五 東部登加智留宇知之誌 参) のルウチシが左上に見えていた。僕は「イナウを作ってオンカミを」と思ったが、151年前に松浦武四郎がカラフトで聞き記録した金属製の口琴カニムックリを鳴らし、武四郎の足跡の地へ導いてくださった佐川泰正さん、山谷圭司さん、山岳会の高木兵五郎さんに感謝を捧げた。
  帰路、僕は転落。坂道で1回転。15歳3ヵ月で北アルプスへ登り始めてから55年。松浦武四郎が富士山登山を成し遂げたと同年代に達した。こんな年齢になっての登山への意欲を失わなかった松浦武四郎翁に敬服。
  花咲てまた立出ん旅ごころ七十八十身は老るとも 松浦武四郎
 
 
「松浦武四郎野宿之地」標
場所 新得町サホロ湖北 新得町北新内
 標高350メートル 
北緯 43度11分58秒
東経142度48分55秒
   「三月十三日 月影の落入る哉皆起立て飯を炊き、出立の用意して、又帰り此処にて泊りの食糧を残さし・・・」十勝へ向かった武四郎一同はサヲロルベシベを越える。「此処平地にして有けるが、雪は氷り堅くして鏡の上を行が如し。」とサヲロを目指す。ところがクーチンコロとイソテクが「是はサヲロにてなかるべし。凡ソラチなるべし」と見抜き、「先元の処へ戻るべし」とサヲロルベシベへ返し、無事シノマイサヲロ、シンノシケクシサヲロ、バナクシサヲロへと抜け、「本川端へ出り。川幅七八間、平磐一枚岩。急流にして両岸の平より雑木並椴等生茂りぬ。・・・大笹原の中をわけ行こと三四丁にて、椴の木多きまま、此中に入りて止宿す。」であった。
  十勝へ入っての第1泊地がこの「松浦武四郎野宿之地」標のある新得町北新内であることが分る。この碑を建てられた新得町に方々に敬意を表しながらも、松浦武四郎が「東部登加智留宇知之誌 参」に記した「此中に入りて止宿す」の「止宿」を採り入れて「松浦武四郎止宿之地」とされたほうがよかったのではと思ったり・・・。
  それにしても「道を取違えてソラチえ下りし時、『是はサヲロにあらざる由』申せしが『其者何故に未だ一度も来らざる処の事を能く覚え居る哉』申に、川の底の様子が違ふと申たり。然る時は甚我も怪しみ居たるが、此処え来り其川底の平磐なるを見て驚嘆致したり。其川底気附て見たれば大に異なり居たり」と記録してあるのを読むとアイヌの人たちの力量に深く感動している松浦武四郎の姿を見てとることができる。
  探険のプロである松浦武四郎であるからこそアイヌの人たちの力量を見抜けたのである。両者は互いに深山幽谷の世界でも行動できる力のあることを認め合っていたに違いない。
室蘭地名発祥の地説明板
場所 室蘭市崎守町338
 崎守地域振興センター前
 北緯 42度22分26秒
 東経140度55分26秒
 この「室蘭地名発祥の地」説明板に、「室蘭」地名が松浦武四郎と大きく関わりのあることが記されている。
 松浦武四郎阿部弘の「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」によると、道名を「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6通りを提唱している。この「北加伊道」(夷人自呼其国加伊。加伊蓋其地名。・・・)をもとに明治2年8月15日(陽暦9月27日)蝦夷地は「北海道」と名付けられた。そして、松浦武四郎の選定によって11の国名、86の郡名も決められた。
 松浦武四郎の郡名之儀ニ付奉申上候條の胆振州室蘭郡によると「室蘭 モロランは小路ナル義ニテ、モロは小路也。ランは下ルニシテ、会所元ヘ何レヨリ行ニモ、チイサキ坂ヲ下ル故ニ此ノ名有にテ御座候」とあり、
この「室蘭地名発祥の坂道の登り口」が画像の説明板の近く
  北緯 42度22分29秒
  東経140度55分29秒
にある。
 
松浦武四郎宿営地跡
 場所 新十津川町中央町71−7
  金滴酒造横
  北緯 43度33分33秒
  東経141度52分51秒
 石碑の側面に「安政4年」とあり、この年、松浦武四郎がこの地に宿泊したことが分る。安政4年といえば、松浦武四郎の第5回目の蝦夷地探査でその記録は「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」。自らを「無可有之臣」(無きかこれ有るべきやの臣)として記した「凡例」の中に「第四巻たるや 是、再竿(再びさおさす)石狩日誌の巻の二に当る。」とあり、この碑がある新十津川(松浦武四郎記録 トツク)の記録がここにある。この丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 第四巻再竿石狩日誌 巻の二」に「五月廿二日 トツク ・・・先我が召連し乙名セツカウシ家え着し泊る」とあり、また、「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 第九巻 再竿石狩日誌 巻の七」にもトツクでの宿泊の記録がある。この秋葉實先生解読の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」とそこに組み入れてある小林和夫氏の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌足跡図」を見るとトツクには閏5月15日、閏5月19日、5月22日に宿泊していることが分る。この地で一体何が起こっていたか。この丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌の再竿石狩日誌」は松浦武四郎の涙の記録であり、万人が読むべき記録である。松浦武四郎は、この丁巳日誌の終わりに「この書を手にして、熟読せざるは、その人必ず国家経世の志にあらず、・・・志士にあらず、・・・壮士にあらず、・・・烈士にあらず。我按ずるに・・・」等々書いている。幕末の蝦夷地の必読の書である。 
 
日本最北の山越内関所跡
八雲町山越  JR山越駅前
 この地は最北端の関所があった地。
 北緯42度13分50秒
 東経140度19分44秒
 松浦武四郎は弘化2(1845)年の第1回目の探査、記録は「蝦夷日誌 一編(初航蝦夷日誌)」、でこの地「日本経緯度実測 極高42度14分」と記録している。実に正確なのに驚かされる。この地の八雲町教育委員会の説明には「山越内関所は、享和元(1801)年に亀田(函館市)にあった関門がこの地に移転されて設置された日本最北の関所でした。山越はむかし山越内と言われ蝦夷地でしたが、寛政11(1799)年に東蝦夷地が幕府の直轄地となった頃には、多くの人々がこの地に住むようになり、警備の上でも重要な地となりました。このため箱館6箇場所(小安、井戸、尻岸内、尾札部、茅部、野田追)は享和元(1801)年に村並となり、熊石から亀田までの和人住居地と蝦夷地の境が、野田追と遊楽部場所の境にあらためられましたので、山越内に関所が設置されたのです。・・・」とある。ここから蝦夷地のこの関所は「蝦夷地出入のものの切手を改る也。又此処にて裏書を出ス。此判無者は会所ニテ止宿を不免」。この山越内関所は最北の重要な関所であったから、関係機関には膨大な古文書が残されているに違いないが松浦武四郎の「蝦夷日誌一編 巻の六」も読むことをお勧め。思わぬ発見あり。
 
蝦夷地・和人地の境跡
 八雲町山越
 北緯 42度13分36秒
 東経140度20分21秒
函館から噴火湾沿に国道5号線を北上。森町を過ぎ八雲町の落部、野田追を越えて山越に入ると小さな境川がありその境橋のたもとに「蝦夷地・和人地の境跡」の標柱が立っている。ここが松浦武四郎の「初航蝦夷日誌巻の四」にある「ホロモイ 是を和人地の終とする也、しばし行て 山越内に到る」、「渡島日誌巻の四」の記録地であり、「東蝦夷日誌 初編」には「標柱(従箱館18里14丁)是を内地蝦夷地の境とし、文化此迄夷家有しが今は他へ移たり。」と記述されている地であろう。安政6年に松浦武四郎が制作した「東西蝦夷山川地理取調図4」の「ヤムクシナイ」の下を見るとそこに「境柱」とある。橋桁に立てられた標柱に「野田追場所と遊楽部場所の境であったこの所は享和元(1801)年に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇場所が村並となったのに伴って定められた、江戸時代の蝦夷地と和人地の境です。」とある。松浦武四郎の「近世蝦夷人物誌」の中には山越内場所のフコンペに住むクメロク、山越内長万部に住むフツモン、山越内のトンクルについて描いている。
 
八雲町由追地区 稲荷神社
 八雲町山越
 北緯 42度13分29秒
 東経140度20分45秒
 この神社に「稲荷神社と松浦武四郎」の説明がされている。
 松浦武四郎は「東蝦夷日誌初編 山越内領」に「頗る繁昌の地となり、實に昌平の御代の賢さぞ仰がれける。「市中となりし昔しの一里塚 其角」の句等思ひ出られける。ここに境の稲荷(小社)と云有。余はいつも棒物をなし、道中の安を祈りて入けるに、或時此一首をぞ書付たりける。
 天地の 神も知りませ 国の為 千島の奥に 思ひ入る身を」とある。これが、画像の赤い鳥居の稲荷神社である。12月にこの稲荷神社を参拝させていただき、名刺を挟ませていただいた。季節が進み、稲荷神社には寒風が吹き、挟んだ名刺はいつしか雪の中に埋もれてしまった。そして、春が来た。代々稲荷神社を管理されている方が名刺を見つけてくださり、丁重なお手紙をいただき感激。松浦武四郎は蝦夷奥地への旅の無事を願って稲荷神社を参拝してから、そのお宅で一時の休息を得て、出発したことが伝えられているとのこと。ぜひ、お目にかかってお話を伺うことを楽しみにしている。
「松浦武四郎止宿の場
 上カバトと下カバトの境」説明板
 浦臼町晩成内
 北緯 43度27分27秒
 東経141度51分33秒
松浦武四郎の記録に基づく史跡紹介はたくさんされているが、これもそのうちの一つ。人知れずひっそりと立つこの説明板を見ていたら土地の所有者の方が出てこられ、かっての石狩川の様子を聞かせていただいた。この地は説明板に「上カバトと下カバトの境 松浦武四郎 (安政4年5月21日 陽暦1857年6月12日)止宿の場」とある。松浦武四郎の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌再こう(再び竿をさす)石狩日誌巻の二」に石狩川探査の5月21・22・23日の部分が記述されている。ここにも、絶大な信頼を寄せるアイヌの人たちの苦しみに満ちた生活を記録し、倭人の理不尽にして非道な搾取を厳しく告発している。この止宿した日の記録には「昔しは此カバトには土人(江戸時代はその地に住む人を土人と記録した)小屋多く有し由也。此処より下をツイシカリまでを下カバトと云、文化七年改の時は百弐人人別も有し由なるが、今は三拾一人、軒別十軒とすれど、・・・今は一軒も無、有丈け浜え下げ有。上カバトと、是よりウリウフトまでを云が、是も文化度三百七十弐人有し由なるが・・・今は・・・トツクに三軒、ヲシラルカに一軒有計のこと也」とある。悲しみの歴史を語られず、ただ「この地のカバト川が上カバトと下カバトの境」「松浦武四郎が止宿した」とだけあるのを見て、足を重くして去った。
 
「松浦武四郎
  当地方 初踏査の利用河川」説明板
 北見市中の島公園
 北緯 43度47分28秒
 東経143度54分06秒
1999年6月の早朝、妻は北見市東陵運動公園の豪華なアカシアの花に打たれて「これがアカシアの雨なの?真っ白で、あんなに高いところからたくさん降り注ぐアカシアの花の雨は女の人の美しさを表現するにぴったり」と感激し、行く度に中の島公園キャンプ場でP泊をして北見を散策する。
看板には「当地が歴史上の記録に初めて登場する事となったのは松浦武四郎によってです。安政四年九月(一八五七年)武四郎は幕府により東蝦夷地(東北海道)の調査を命じられ、山川地理取調方に就きました。北見地方探査の記録は「登古呂誌」に詳述されております。武四郎が第六回目の最後の蝦夷地踏査に出発したのは安政五年旧一月で三・四月には帯広・釧路・阿寒・津別・美幌と経由し、斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入り、旧五月十三日常呂に到着しました。北見への行程は旧五月十四日(現六月二十四日)常呂を出発。常呂川を遡上してクトイチャンナイ(現常呂町福山附近)、ムイコツネ (北見市東八号線附近)に各一泊、さらに五月十六日ヘテウコヒ(同中の島・北光附近)を経てクッタルシベ(訓子府町日の出附近)が最上流域の到達点となりました。帰路は十七・十八日の二日で川下りをしたので往復四泊五日で内陸地北見までやってきたことになります」とある。かって北見市→大空町→網走市→斜里町→小清水町までおよそ100キロを歩いたことがある。足の裏にできた豆をカッターで切り裂いてテーピングをした思い出は、蝦夷地をおよそ2万キロ歩いた松浦武四郎の頑強な体力、不屈の精神を思い知らされた。
 
松浦武四郎(再航蝦夷日誌)の
 イザリブト番屋の図を使っての
   「イサリブト番屋と船着場」説明板
 恵庭神社遥拝所跡
 恵庭市林田
 北緯 42度57分04秒 
 東経141度37分42秒
 松浦武四郎が行った第2回目蝦夷地踏査の際の記録の「再航蝦夷日誌巻之二」に「イサリブト 従ツイシカリ十一里。此処漠々たる広野にして此々沼有。又枝川も網を曳けり。沼は左右に有て到而湿深きところ也。此処に到り四面とも山と云は少しも見ることなし。蔵の屋根え登らばシコツ山見ゆる也。番屋は大きく建たり。弁天社、蔵々有。チトセ支配所也。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人熊、鷲を多く飼えり。また鶴多きよし。・・・此処より、公料のせつはチトセ迄陸道有し由なれども、今は其道絶たり。実ニおしきものぞと思ふなり」とある。また「夕張日誌」には「河流ますます屈曲す。右の方イサリブト川巾卅余間・・・」と記録されている。説明板にかっての屈曲した千歳川と漁川との関係が図にしてあり、武四郎の記録に「納得」の感。「明治期から昭和初期頃まで、川を利用した船による往来が盛んでした。・・(この地が)・・50年以上にわたり恵庭の玄関口として重要な役割を果たしてきました」とあり、この河川の便利さが千歳までの陸路を絶えさせたのであろうと考えた。
今後も北海道の各地で史跡を説明するために松浦武四郎の記録が活用されるであろう。
 

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