松浦武四郎の記念碑など 8

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 8
念願かなって無職遊民となった。早速、在職中になにかと励ましていただいた方々、助けていただいた方々、お世話になった方々へのお礼も兼ねて北海道を回り、また新たな出会いを得て、松浦武四郎の足跡を訪ねる再出発となった。
 


★ 江差から太田山観音霊場へと辿る
太田神社の松浦武四郎歌碑と太田山観音霊場
 場所 せたな町太田
 太田神社 松浦武四郎歌碑
 北緯  42度16分03秒
 東経 139度46分51秒
 太田山観音霊場
 北緯  42度16分16秒
 東経 139度47分07秒
江戸時代に、円空、菅江真澄、松浦武四郎などたくさんの文人墨客が訪れた江差(エサは昆布、ウシは多しの儀 渡島日誌巻之参)から、せたなの太田山観音霊場へと辿った。江差には松浦武四郎と頼三樹三郎の「百印百詩の碑」があることが知られている。この碑は篆刻を渡世の口糧としていた武四郎の姿をを示すものであり、彼の一面を語る素晴らしい碑だと思っている。この碑を起点にして、次は姥神神社(是は往古此処のものに鯡の取様を教え玉ひし神なりと 渡島日誌巻之参)へ。そこの天神社に松浦武四郎の父が師と仰いだ本居宣長が祀られているのを発見。祀られたのは慶応三年。松浦武四郎が最終蝦夷地探査をしてから11年目。当時、江戸に住んでいた松浦武四郎はこのことを知らなかったであろう。太田山観音霊場への道筋には菅江真澄の歌碑がいたるころに立てられていて、かれの「えぞのてぶり」などを持ってこなかったことを後悔。
 太田神社に着いた。
 ここに松浦武四郎が太田山観音霊場へ参詣した際の歌が記されていた。
松浦武四郎は「太田 地名何の転ぜしや 是を古老に審に知るものなし」。太田山の神は「笛・太鼓・三味線等を好み玉ふ由にて、ここを通る如鳴物を持行ば、必ず風変りて此所に吹附ると。其時は其鳴物を宝前に納め。順風を乞ふに霊験著しきと。又奥地へ持行んと欲せば、二品を持来りて、一つをここに納め、一つを持行に、必ず海上にて過有事なしと。依て宝前に種々の鳴物を積上たり」と記録しているが、今は宝前に鳴物はなかった。しかし、土地の人に武四郎の記録をもとに質問をしたところ、「この太田神社は6月27・28日に例祭があり、そのときは非常に賑やかだ」とのこと。この記録を今に留めると思われる太田神社の例祭を見たいものだと思いつつ、観音霊場へ登るために
 太田山観音霊場 ヲンカミ岳(上り口)へ 「華表を立・・・是より猿攀蟹歩凡三百余間・・・辛うじて岩壁の下に到に、一條の鉄鎖懸る。攀る事十余尋、洞口に到る。大さ丈余、深さ知らず。・・・半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖、目眩須臾も留り難く、仰げば晴天に梯する心地し、偏に登仙の思をなす。・・・
 「太田山 太きくさりの ひとすぢに
      頼まざらめや 君の恵みを」(西蝦夷日誌 初編 太田領)
 いやはや、「すごい」のひと言の霊場で、道路パトロールの方が「登ったら、絶対忘れられない思い出となりますよ」との言葉通り、また松浦武四郎の記録のように「猿攀蟹歩」であった。ちなみに、登られる前に、松浦武四郎の弘化三年の蝦夷日誌二編 巻之四には「太田山 大なる岩窟に横木を渡し、是を祠殿の形ちとなして本社とす。本尊不動尊を祭る。・・何にせよ山険にして山霊有そうに覚へける。・・・」等々の記述がある。ぜひ、読まれてから登られることをお勧めします。
★ 松浦武四郎の記録をもとにした
    天塩川歴史紀行
      「松浦武四郎と天塩川」説明板
  北緯 44度53分10秒
  東経141度44分29秒
 天塩川河口近くの厳島神社に行った。これは請負人が豊漁を願って建てた神社である。従って、「説明板はこの近くに違いない」と近くの天塩川岸を歩いた。夕陽が映え、利尻島が黒く存在感を示し、数知れぬ渡り鳥が飛んできた。しかし、説明板は分らなかった。堤防を散歩してみえる方に聞いた。堤防近くに何があった等は詳しく教えてくださったが「説明板は知らない」と。その日は鏡沼海浜公園キャンプ場泊。早朝にまた天塩川筋を歩いた。利尻が素晴らしい。「筆舌に尽くし難し」である。妻とのんびり散策して見つけた。「う〜んいい看板だ」と感心。作者は知人の札幌の某会社のデザイン室長の女性。
 「テシホベツ 運上屋元にては凡三百五六十間。また五百間位の処も有。緩流にして一つの沼の如し。蝦夷地三大川の第二等也」(松浦武四郎 弘化三年蝦夷日誌二編 巻之九)「テシホ運上屋 通行屋、板蔵三、茅蔵四、馬屋、備米蔵、勤番所、弁天社」(西蝦夷日誌 巻之七) 
 天塩川歴史紀行説明板はカラフルで人目を引きやすく、説明内容は「天塩日誌」からのものであった。松浦武四郎の丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌によると、安政4(1857)年に流域を知り尽くしたアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内でこの天塩川を踏査し、北海道の名付け親となる貴重な体験をした。天塩日誌には、「天塩川河口に帰ってきたら、アイヌの人たちがカムイノミをしていた。この日は1年間の前半の無事を神に感謝する6月30日月祓いの日であった。そこで、松浦武四郎は 蝦夷人のみそぎなしける天塩川今宵ぞ夏のとまりをば知る、と詠った」とある。このことが説明板にもある。しかし、丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌によると天塩川河口へ帰ってきたのは6月28日。天之穂日誌より天塩日誌を読んだ人のほうが多いから河口へ帰ってきたのは6月30日でいいか。この日のほうが物語り性も豊かだ。
★ 松浦武四郎 天塩川踏査宿泊地
 天塩中川町に音威子府の仲間たちと一緒に「北海道命名之地」標を建てられた方がおられる。天塩川筋を訪れるとしばしばお世話になる。今回の松浦武四郎記念館を退職しての無職遊民の50日間北海道の旅でも「松浦武四郎の足跡等を訪ねるために詳しい人に頼んであげよう」と手配をしていただいた。案内していただいたのは宿泊地サコカイシと宿泊地ヲタシウシ。「感動と言うよりただ驚き」であった。
 天塩川流域踏査の際の宿泊地ついて、幕府に提出した丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌天之穂日誌五巻とそれをまとめて1冊とした天塩日誌から調べたい。
 丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌天之穂日誌によると宿泊地は6月8日テシオ、6月9日ヲタシウシ、6月10日ホロヒリブト、6月11日ツウヨイ、6月12日トンベツホ・・・帰路・・・6月25日トンベツホ、6月26日ホロヒリブト、6月27日サコカイシ、6月28日テシホと記録されている。即ち、丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌第十三巻天之穂日誌巻之四では、サコカイシでの宿泊は6月27日となっている。
 しかし、天塩日誌では6月6日テシホ、6月7日サコカイシ、6月8日ヲンカンランマとなっている。宿泊の日時、場所に食い違いが起こっている。
 即ち、サコカイシを例に取ると、丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌天之穂日誌では復路の6月27日であり、天塩日誌では往路の6月7日となっている。
★ 天塩川踏査宿泊地サコカイシ
  場所 天塩町作返 作返川河口付近
  北緯 44度59分26秒
  東経141度50分18秒
 丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌天之穂日誌では、松浦武四郎は天塩川踏査で上流へ遡った第1日目に「サコカイシ 右の方小川有。其上に沼有るよし・・・今日は風有るが故に昼食を此処にて喰す」と記録、ヲタシウシまで遡った。帰りは、遡った際に宿泊したヲタシウシまで下ってきたがまだ日が高く、「八ッ半(午後3時)過に越来りしまま、今少し」とサコカイシまで下って宿泊とあり、「サコカイシといへる川口まで下り、草の中にて火を焚、船にて中流に浮び寝たりけり」であった。ピパを平喰に当て、鱒・桃花魚等を処々にて捕、・・・草叢の中虻多く苦しめられながらの踏査の宿泊の最終地は「船にて中流に浮びて寝た」の状態。天塩日誌では「オコツナイ(右川)、ヘニツエイ(平地)、この辺から流れがだんだん屈曲してくる。ホロヌップ(岬)、キウシナイ(右川)を過ぎてサマカイシ(小川の上の沼)で野宿する}(天塩日誌 丸山道子訳)とある、「この地はどんなところか」興味と期待を持って、案内していただいた。正直「仰天」であった。川には土盛りした土手があるのが通常の感覚。しかし、そんな人工的なものはまるでなく殺風景な場所でただの緑一面。あまりにも平面的は場所だったので、工事中で少し地盛りをしてある場所に登ったら、そこからわずかに水面が見えた。「あれが天塩川ですか」「そうです。あれが天塩川です。曲がりくねった部分を直線化してありますが、川の様子は松浦武四郎が訪れた時代とあまり変わっていないと思います」。いろいろ質問を重ねた。さすが河川を管理する専門家。的確な回答に武四郎の旅の困難さをしみじみと感じた。「アイヌの人がおられたからこそ、天塩川を調査できたのだと思います」との説明に心底納得。そして「ここには誰も来ません。ここへ松浦武四郎が天塩川を調べた内容の看板を立てても見る人がいませんから説明板は別の所に立てました。そこへ案内します」と。
いつ宿泊したかが問題ではなくどこを宿泊地としたかを問うべきだと感じ、説明板を設置した地に連れていただいた。
★ 天塩川踏査宿泊地
   サコカイシを紹介する説明看板
  幌延町 総合スポーツ公園
  北緯 45度00分28秒
  東経141度51分06秒
 説明板は、かって天塩川が彎曲し、今は埋められて公園となっている場所に立てられていた。「ここならたくさんの人に見ていただけますから」と。お年寄りの方々がパークゴルフに興じておられ、この場所に建てられた意味を実感したのです。
★ 天塩川踏査宿泊地
 (天塩日誌ではヲンカンランマ、天之穂日誌巻之二ではヲタシウシと思われる地?)
  場所 幌延町安牛
  北緯 44度56分49秒
  東経141度53秒20秒
 安牛駅の近く。小川があり、橋が架かっていた。何もなかったが正面の利尻山が白く輝いていたのが印象的だった。ここは説明板の設置はこれからと聞いた。
 
野付半島
 トドワラ入口の「野付半島」碑の下部の説明
 場所 別海町野付 ネイチャーセンター横
 北緯 43度35分25秒
 東経145度20分07秒
 野付半島は四季それぞれに散策し、通行屋跡まで入ったこともある。砂嘴の最先端へも歩いたことがある。だから別海町長上村貞氏書の「野付半島」石柱を何度も見ているが、この下部に「松浦武四郎の知床日誌によれば・・・」と書いてあるのをはじめて知った。北海道のいたるところに「松浦武四郎・・・」の記述があるが「これは知らなかった」と日頃の我の注意力のなさを嘆いた。ここに「松浦武四郎の『知床日誌』によれば、藤野喜兵衛の漁場支配人加賀屋伝蔵が安政5年(1858年)には、すでのこの半島のヲンネニクル(現オンニクル)に雑穀、野菜等27品を埴種、本町『農業発祥の地』でもある」とある。野付半島の農業については、松浦武四郎の「知床日誌」と「近世蝦夷人物誌」に記述されているが「近世蝦夷人物誌」によると、この地にいたラチヤシタエキ(茶右衛門と改名)というアイヌの人が加賀屋伝蔵に「此番屋元へ畑を造り、何卒雑穀、野菜等を作りなば如何ぞ」と勧めた。「伝蔵も元来秋田産の者にて頗る質直の男なるが故、此一言に服して左候はば今より取り懸らんと、直に種々の種物を取寄せ・・・いとも能熟り初年よりして若干を得、又は大根、鶉豆・・・十分に出来・・」であった。松浦武四郎はラチヤシタエキを賞賛して「近世蝦夷人物誌」に「農夫 茶右衛門」として、後世に伝えた。野付半島での最初の農業はこのように始まった。その場所はオンニクル。しかし、残念なことに、それがどこであったかは確定できないらしい。3ヶ月前の冬3月にもこのオンニクルに入って、伝蔵と茶右衛門を偲んだ。
 
安政四年の「ヌプシャ越え」を辿る
 松浦武四郎、安政三年五月七日 石狩運上屋出発。 五月十二日ウリウ川筋オモシロナイ泊。 五月十三日ウリウ川口出発。五月十六日苫前運上屋着 ヌプシャ越え
 ヌプシャ越え(雨竜町から恵岱別川筋をたどって峠に上り、信砂川上流に出て海岸を下った)の記録は、「西蝦夷日誌六編増毛」「廻浦日記(按西扈従)巻の十、巻の十一」に残されている記録を読まれることをお勧めする。
西蝦夷日誌六編には「於石狩元小屋支配人を呼、従当所川筋ウリウなるヲシラルカを上り、山越にして西地マシケ領ヌプシャ越の事を問ふに、左様の事一切不存申よしにて取合不申、いかんとも致し難き故に、先年写し置し先私領の時引渡し書とヲムシャの申渡しを示し、如此書物も有て見れば、其道当時は絶たり共、是を知るアイヌ人有べしと談ずるに、夜壱人の者(シノロ乙名エンリシウ)を召連来る。ここを読んだだけでも松浦武四郎の探査の困難さの一端を知ることができる。
 
「史跡松浦武四郎宿泊之地」碑
 場所 雨竜町字面白内97番地13
      面白内神社横
 北緯 43度41分18秒
 東経 141度53分33秒
 ここに「松浦武四郎宿泊之地」石碑があり、「江戸幕府末期より 明治初期にかけて当時蝦夷と呼ばれた本道の開拓に大きく貢献し 又数多くの著書を残した開拓判官松浦武四郎の名は北海道の名付親として道民には忘れられない人であり 本町にも縁りの人でもある 西蝦夷日記によると安政三年(一八五六年)三月本道西海岸一帯の踏査を命ぜられ函館を出発して五月八日には石狩運上屋より丸木船二艘に総勢十二名が分乗して遡り九日美唄(ビバイ) 十日浦臼内(ウムシナイ) 十一日新十津川(トック)橋本を経て十二日雨竜面白内(ウリウフトオモシロナイ)のこの地に泊り楡の皮でわらじ(シトケリ) 荷物を運ぶもの(シケニ)を作り酒を飲んで寝むと記されてある 翌十三日恵岱別(イタイベツ)に沿って留萌(ルルモッペ)に向う途中ヌブシャ岳を眺めて一首吟じた
 のぼり来て雪の峰近く成りぬらん
    ひたすらに肌寒くなりけり
本町開拓前の貴重な史跡として この碑を建てる。」と説明があった。
 
五月十三日ウリウ川口出発。五月十六日苫前運上屋着 ヌプシャ越え
 「松浦武四郎信砂越えの地」標
 場所 増毛町彦部 彦部橋たもと
 北緯 43度52分30秒
 東経141度35分05秒
西蝦夷日誌に「3月15日 同じく此方彼方と川の両岸を下る。追々川深く成、石滑かにして危し。凡四つ半頃に右之方赤崩平有處に出る。丸小屋の跡一處を見たり。是輕物所の止宿所也と。九つ過薪取の小屋跡を見、是にて一同安心を致しぬ。從是一里計下りて、西の方より大川一筋来りて落合、水勢至て危にして中々越難き故、山に上り樹に上り見れば、濱邊に早5,6丁のよし。爰にて一同大に悦び、其笹原に火を附しや、折節濱風にて吹まき、黒烟天を暗んず計、其勢に一箇の鐡圍をも踏破る心地にして、秦[榛]荊を事ともせず、數日の疲労をも忘れ、いさみ勤みて濱に出たる。・・・扨此山ウリウプト(雨龍川口)より此處迄3日に越せしが、是を開く時は1日半に近かるべしと思はる。・・・」と文化年間以来絶えてきた道を越えたのである。木標は生い茂ったイタドリの中に立っていたので、よく見えるように草を倒した。
 
 松浦武四郎の「西蝦夷日誌六編」から「信砂越え」の姿と成果、そして車で道筋を辿る
 浦臼町郷土資料館の壁
 場所 浦臼町字浦臼183−21
浦臼町の郷土資料館の壁に松浦武四郎の「西蝦夷日誌」原著の中に描かれた「ヌプシャ越え」の絵を拡大し掲示してある。絵は当代随一の画家河鍋暁斎が描いたもの。その中の10人の姿について日誌には「余と立石は鍋一枚づゝを背負、8人の者は石狩の山蝦夷なれば、其背高く髭髯掩胸て、弓箭を杖とし、昨夜得たる1頭の熊を荷はせ、各々狐・獺・兎を肩にし出しは、驚かぬ者ぞなかりける。」とある。勇躍壮途の姿が大成功を示し、松浦武四郎は「若他日蝦夷開拓の事有て、石狩山中に手を入んと欲するの士あらば、此處を第一に切開きて糧道とし、又峠より右に下り、樺戸の方え道を切、津石狩(對雁)・サツポロ(札幌)に路を取らば、其益また少なからず。」とこの道の益大なることを訴えている。
 妹背牛町から道道94号線を信砂岳を左に見ながら増毛町信砂へと車で辿った。御料峠近くになって信砂岳には6月24日というのに残雪があった。「早其時一人の者峯にかけ上り、いよいよ峠なる由にて、此處に不違とて呼ばりけるに、一同力を得て笹または紫蒲葡づるに取つき上りける(是迄凡百丁計)。ルウチシ(從是マシケ(増毛)領になる也)、從是戌亥を望むに、ヌプシヤ岳銀碗を臥せし如く見ゆれば、
 のぼり来て 雪の峯近く 成ぬらん
    ひたすらに肌 寒くなりけり
であった。」分水嶺は低く、山野を歩いたアイヌの人たちの地形を見分ける力に感銘しながら快適なドライブをし、次回は秋に越えたいと思った。
 
★ 「阿寒湖畔の松浦武四郎」
 場所 北海道庁旧本庁
   (赤れんが庁舎 国指定重要文化財)
  札幌市中央区北3条西6丁目
 松浦武四郎が亡くなった明治21(1818)年に建てられた北海道庁旧本庁内部に、北海道出身、文化勲章受章者の岩橋英遠画伯が描いた「阿寒湖畔の松浦武四郎」がある。松浦武四郎が阿寒地方を踏査したのは、松浦武四郎蝦夷地最終第6回目の安政5(1858)年であった。この年、松浦武四郎は死をも厭わぬ決心で正月22日(陽暦3月7日)箱館を出発。調査はまさに「東西蝦夷山川地理取調」であり、203日間の長きに及んだ。阿寒地方を探査するために釧路を出発したのは3月24日(陽暦5月7日)。その記録は「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」の「安加武留宇智之誌 壱・弐・参」に収められている。この「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」は出版禁止となったために、人々にこの地方の素晴らしさを伝えるため「久摺日誌」を世に出した。この絵の下に「安政4年」と説明があったがこれは明らかに「安政5年」の間違い。ずいぶん前のことだからもう訂正してあるだろう。
なお、岩橋英遠画伯はほかにも松浦武四郎を描いたものに「憂北の人」(181×379cm 屏風4曲1隻 北海道立近代美術館蔵)がある。
 
★ 松浦武四郎制作
   「東西蝦夷山川地理取調図」
    (松浦図)
 場所 北海道庁旧本庁
 札幌市中央区北3条西6丁目
 「近世蝦夷地地図作成上の一大傑作」と賞賛されている松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」が掲げられている。この地図こそ松浦武四郎がアイヌ民族から絶大な信頼を寄せられていたことを示すものであり、松浦武四郎がこの地図を作らなかったら、蝦夷地内陸部の詳細が判明するのは何十年遅れたかわからない。ベンジャミン・スミス・ライマンも松浦武四郎のこの地図を使って北海道内陸部を調査したらしい。
 北海道の外周詳細は伊能忠敬とその弟子間宮林蔵が作られた「伊能図」によって明らかにされ、内陸部が空白であった「伊能図」を松浦武四郎はアイヌの人たちの助けで埋め尽くした。アイヌ民族の元国会議員、故萱野茂氏は「アイヌ民族は松浦武四郎にならどんな小さな川、山、岬をも教えた」と語ってみえたがこの地図の中に9800ものアイヌ語地名が入っていることを思えば萱野茂氏が語ってみえたことは真実である。萱野茂氏は自分が住んでおられた地域のアイヌ語地名をこの「東西蝦夷山川地理取調図」で調べたら15箇所であった。しかし、地域に残っているアイヌ語地名はその5倍の75箇所であった。そこから推測して、萱野氏は「松浦武四郎が東西蝦夷山川地理取調図に記したアイヌ語地名は9000。その5倍の45000のアイヌ語地名があったのではないか」と語っておられた。この地図は経度緯度1度ずつに区切って26枚で作成してある。緯度1度の長さはおよそ110キロ。この地図の1枚の縦を測って、その数値で110キロを割るとおよそ20万。したがって、この地図はおよそ20万分の一。
 この地図を見て、あなたは何を感じられるでしょうか。
  北海道各地に松浦図の一部分を取り出して地域の説明をしている博物館・資料館は多い。それらの中には松浦図を掲げてある「えりも郷土資料館」、松浦図をもとにして作った地図が掲示してある「羅臼ルサフィルドハウス」などさまざまである。
屈斜路湖畔のアイヌ民俗資料館には26枚を合わせた「東西蝦夷山川地理取調図」がある。一度ご覧になることをお勧めします。
「北海道命名之地」
  音威子府村 佐近勝村長
            木碑 再建
  場所 音威子府村字物満内
  1995年、天塩川流域の人々の絆を強め、結束して地域の発展を願う人々(現音威子府 佐近勝村長、現中川町 川口精雄町長たち)が天塩川ルネッサンスを組織した。その天塩川ルネッサンスの人々は流域を結ぶシンボルとして松浦武四郎を取り上げて地域の一体化と活性化を目指し、「松浦武四郎 北海道命名之地」木碑を立てられた。町村の枠を越えて集まった40歳前後の人々が立てたこの標柱は「我らの地こそ北海道命名之地」と誇らしげで、松浦武四郎を愛する人々の聖地になってきた。そして、風雪に耐えて16年、標柱の下部は細り、木碑を叩いて「頑張れよ!」と言いたくなる状態になってきた。
 2010年7月、「第19回 ダウン・ザ・テッシ カヌー大会」に参加するために音威子府を訪れた際に、大会地元実行委員長で村会議員を務めておられた佐近氏から「来年の20回大会に合わせて木碑を再建したいと思っている」と聞かせていただいた。
 そして、2011年4月 佐近勝氏は村長に就任され、木標再建に取りかかられた。
標柱とする木は北海道大学演習林から寄贈された樹齢150年ほどのトドマツ。揮毫は高橋はるみ北海道知事。見事な木碑である。
★ 再建 除幕式
 2011年7月17日
 天塩川岸の美しい緑を背景にして紅白の幕が張られ、晴れやかに除幕式が行われた。嬉しいことに除幕の一員に加えていただく栄光に浴し、生涯忘れ得ぬ思い出をいただいた。
 除幕式の参列者は音威子府村関係の佐近村長、元村長、副村長、教育長、議長、副議長、議員、筬島地区代表、音威子府村中学校生徒会代表、常盤天塩川建設代表取締役、ECOおといねっぷ代表、美深町長、中川町長、北海道上川総合振興局長、旭川開発建設部名寄河川事務所長・士別道路事務所長、 松浦武四郎記念館名誉館長であった。
 除幕式は、修祓式、12人による除幕、佐近村長挨拶、来賓祝辞、メッセージと続いた。
 佐近勝音威子府村長は碑を立てた頃を偲びながらその経過を話され、新しい碑に寄せる期待を語られて、参列者の胸を打った。音威子府中学校生徒会代表の「北海道命名之地を示す、この碑を語り継ぎ、地域に心を寄せる人になりたい」とのメッセージに感動した。
★ 7月18日
 新しい「北海道命名之地」木碑再建地に集うカヌイスト150名
 この日は、「第20回 ダウン・ザ・テッシ 100マイル 記念大会」の第3日目。音威子府中の島カヌーポート → 「北海道命名之地」 → 中川カヌーポートまでの35キロを下る日。94艇150人のカヌイストが途中の「北海道命名之地」に上陸。佐近勝村長を中心にして、みんなで木碑再建を祝福。このようすは新聞等で広く報道された。
 
「松浦判官宿泊聴佛法僧之地」碑
音威子府村筬島
 北緯 44度44分28秒
 東経 142度11分27秒
「天塩日誌」によると松浦武四郎はここで宿泊し佛法僧鳥の鳴き声を聞いた」とあり、木碑が立てられている。この地に松浦武四郎の碑が立ったのは古いらしい。
 
@最初の碑は昭和13年
 音威子府村史の文を要約すると「昭和10年、NHKラジオが仏法僧の鳴き声を放送して大きな話題となり、『天塩日誌』とあいまって、国鉄『筬島駅』は仏法僧の鳴く駅として宣伝された。昭和13年、当時の田中駅長が満州鉄道へ赴任するにあたり、田中の筆になる「松浦判官宿泊聴佛法僧之地」の記念標柱が立てられた。今日、松浦武四郎関係碑などが各地に立てられているが、筬島の記念標柱はそれらの中で最も古いものの一つである」。白黒の画像はその際のもの。
 
A1999年に見た「松浦武四郎の碑など 5」の標柱は何代目のものだったのだろうか。
 
B 2011年7月現在は何代目だろうか。
 筬島にある砂澤ビッキ記念館長さんに山へ連れていただいて、新しい「松浦判官宿泊聴佛法僧之地」を見た。標柱は新しくなっても「松浦判官宿泊聴佛法僧之地」の言葉は変わっていないのがいい。
 
★ 「天塩川歴史紀行」をたどってみよう。
音威子府村筬島のエコ・ミュージアム砂澤ビッキ記念館駐車場前に「天塩川歴史紀行」の説明標がある。これは、旭川開発建設局河川事業所、留萌開発建設部幌延河川事業所が立てているものの一つで天塩川流域にたくさんある。いづれも松浦武四郎の天塩日誌を中心にしたものである。これを辿るのも楽しい。

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