天塩川流域で碑を訪ねる旅を終えることにした。しかし、ここまで積み重ねた旅だから完結まで続けることにして、「松浦武四郎の記念碑などを訪ねる 6」を。

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 6
 
 
武四郎の碑を訪ねる旅も天塩川流域で終わろうと思っていた。しかし、友人たちが「あの地にもある」「たしか、川筋に」とかの情報や、自分も「あそこを通った際に見たなあ」とかの思い起こしから、「こうなればできるだけ記録しておこう」としぶとく周ることにした。
 碑を探し、単に見るだけでなく、その地で武四郎の記録を読み、先人の努力を偲ぶことにした。
 


▲ 松浦武四郎探険記念碑
         芦別市野花南町
   北緯 43度28分13秒
   東経142度16分17秒
 1999年にこの野花南にある標柱を見たことがある。それは芦別から富良野に向って走っている途中のことである。野花南大橋を越えたところに「左 美瑛」の標識があったので入ったところ、すぐ左に立っていた。あいにくカメラのフイルムが切れていたので写すことができなかった。
 この標柱を見ようと今回は富良野から芦別に向った。野花南と一口にいってもその広いこと。国道38号を芦別方面に進み、空知川の野花南大橋手前を右に入る芦別美瑛線という道路を探した。がない。変だ! 行きつ戻りつして探すのだがどうしても見つからない。この道はかつて美瑛に抜けるときに通った道だから・・・・。橋の手前で車から降りて見回す。ふと傍らの土手を上がってみると、なんとその向こうに道路があった。国道38号から入れないように盛り土土手で遮られいた。もう使われなくなっていたのだ。土手を登って、かっての道路を少し歩いた雑木と熊笹の中にひっそりと立っていた。
 碑には「松浦武四郎探険来宿百二十年を記念して」と書かれていた。昭和52年10月に芦別市が立てたものである。
 松浦武四郎は安政4(1857)年に空知川を調査し、「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 第九巻 再?石狩日誌 巻の七」と「石狩日誌」に記録を残した。
 この記録を見ると空知はかって石炭産業で栄えた地域にふさわしく、「石炭の破れ多く流れ来る」「其山根石炭多し」「石炭は崩れて一面黒く成りたり」など石炭についての記述がある。
 ではいったい「空知」とはどこからきた名前だろうか。山田秀三著「北海道の地名」によると、「この川の中流に現称空知大滝があり、何条にも分かれて落ちこんでいるので、この川を soーrapchiーpet(滝が・ごちゃごちゃ落ちている・川)と呼ばれ、和人がそれをソラチと呼び空知を当て字したのである。」とある。武四郎はこの滝を「石狩日誌」の中へ絵図として入れ、文章では「此上十弐條斗併びし瀑布の何れも高二丈三丈、幅は二尺三車尺よろ一丈余まで有を見たり。」と記述している。
 この標柱のある場所は空知川とオチヌンベ川で囲まれたところの南東部。ここが「来宿」地らしいが「丁巳」では地名がよくわからない。石狩日誌を見たら「ビラウトル、ナヱ七ッ過チヘアケと云に到て宿す。」とあった。これでこの地名がチヘアケと知った。
 妻に「武四郎の記録によるとこの辺りには獺がいたらしい」と言うや、彼女が「嘘!」と叫んで大笑いをした。
▲ 松浦武四郎歌碑
  サツナイウンクルの祖の像
     中札内村西札内防災ダム桜公園
   北緯 42度38分30秒
   東経143度04分15秒
 
 「あなたが我々を先住民族であることを認めないなら、あなたは我々を理解できないだろう」
 西札内まで来たもののそこは広い牧草地が広がるところ、防災ダムなどどこにあるのだろう。探しあぐねて点在する牧場の一戸で尋ねた。制服とネームプレートからたぶんJA中札内の職員の方ではないかと思われる若い高橋さんという方が「僕もそんなことには興味があるほうだが、このあたりに松浦武四郎の歌碑があることは知らない。防災ダムなら、ここからかなりあるがあちらの方向だ」といって道を指差し教えてくださった。その方向にどんどん行くと大きな案内板が目についた。そこには「先住民族の祖の像 松浦武四郎の歌碑」と書かれていた。それは防災ダムの見える休憩所のある桜公園の中にあった。見つけた嬉しさに、是非高橋さんにも教えてあげなければと帰りに寄ってみたがもう帰られた後であった。興味を持つ方との出会い、不思議な縁である。
 歌碑・像ともに 平成九年八月九日 国際先住民の日に 西札内地区先住民族を語る百人委員会の方が建てられたものである。
 歌碑の説明板には
「幕末の探検家 松浦武四郎 一八五八年旧暦七月十二日 タイキより現西札内 札内川左岸のサツナイコタンの乙名マウカアイノの家に一泊し 鹿肉の馳走を受けたときに詠める歌なり。
 此のあたり 一夜かりても 鹿の音を
    今宵は近く 聞かましものを
        伊勢   松浦竹四郎
  碑文は本人の残した日記より」
と記されており、和歌とともに鹿の絵が彫られていた。
 また像については
一五〇〇年ころ イシカリ ペペツ(美瑛川辺別)の人 モザルックがサツナイに住いし サツナイ族の祖となれり という。
 先住民族アイヌの人々が和人の侵入で受けた苦難の歴史を偲び ここに その像を建立し遺徳を讃える。」と記されている。
 松浦武四郎の「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」の「第四十七巻 東部辺留府祢誌」には「マウカアイノ子供一人を召連、陣羽織を着て、今朝イサケサンが、我が来ることをしらせしによって出迎に出り・・・家には黄蘖の皮を多く敷つめ、いかにもうつくしく暮しぬ」とあり、「四十八巻 報十勝誌 巻之壱」に「サツナイ 余止宿せる乙名マウカアイノ家は、・・」とある。この巻には「トカチ」の名義が数例記され、また「我が酸辛と地の広大をしり玉へかし」とある。それにしても松浦武四郎はすごい人である。彼はなぜこの中札内村まで踏査したのか、なにが彼をそうさせたのか。まったく理解に苦しむ。
 すっくと立つ像とそれを建てた人々の想いが心にしみじみと沁み込む美しい公園で、いつか、この歌碑と像をアイヌ民族の友人と一緒に見たいと思った。
▲ 松浦武四郎 レリーフ 三枚
          千歳市・サーモン橋
   北緯 42度50分10秒
   東経141度39分33秒
 千歳の橋に驚かされることがある。橋と平行している水道管の上をキタキツネが三匹歩いていたので「ギョ!」としたら、それは作ったものだった。そんな中で注目したい橋は「サーモン橋」だ。欄干の三ヵ所に松浦武四郎関係の銅版が入れてある。
 千歳会所図
 松浦武四郎の「夕張日誌」には「安政4年シコツ川すぢ千歳会所の後へ新道見立の為其境域を実検し・・」とある。安政4年とは1857年。武四郎蝦夷地探査第5回目である。その際の「夕張日誌」の中の「千歳川番屋の図」が欄干にある。これは武四郎画で、「ここの名を改られし事とも思出て あしたつの 跡ととめたる ちとせ川 ちとせの後も かくてすむらむ」とあるは石場高門文。「ここの名を改られし」とは「夕張日誌」には「シコツと云しを其呼声不宜とて文化二丑年鎮将羽太君此地に鶴多きをもて千歳川と改めらる」(休明光記)とあり、千歳会所については「此所文化度迄は纔の漁場なりしが、山田屋某ユウブツへ新道を造り、爰の荷物は牛馬にてヒホユカリ(陸路二り)迄運び、其より船にて濱に下る様にし、また石狩へも樋平越新道開け、東西の新道出来、漁時には頗る繁華の地となりし也。」 の説明がある。銅版の図はその雰囲気をよく表している。
 欄干の銅版のひとつは歌である。「夕張日誌」の「此辺の魚は平日人を知らざる故人音すれば却て岸に寄り来れり
 里遠き しこつの湖に 筏より 棹さしゆけば 魚のより来る」である。
 賑やかな会所の近くは「平日人を知らざる故」とはいかない。丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌の「志古津日誌」で調べると、この歌の場所は、恵庭岳西から支笏湖へ流れ込む「ヲコタヌンベツ(此川湖中の一大河也、エニワの西に当る也)」でこの川は現在でも「平日人を知らざる」である。 
 もう一つの銅版は松浦武四郎研究に心を注がれた丸山道子さんの文である。
 近くの小学校の子ども達は、先生にこの橋へ連れてきていただいて、松浦武四郎を学ぶのだろうと想像して、橋を後にした。
 
 
 
 
▲ 松浦武四郎宿泊之地碑
     清水町字人舞・岸田政弘氏宅裏
     北緯 43度03分31秒
     東経142度55分00秒
 
 この碑のことを教えていただいたのは札幌の某デザイン会社勤務の若い女性であった。その人から「私が生まれた清水町にも碑がありますよ」と聞いていた。
 濃霧に覆われた狩勝峠を越え新得町に入ると激しい雨。佐幌ダム上流の松浦武四郎野宿之地を見に行きたかったのだが、この雨では山へ分け入るのは無理と諦めた。
 清水町人舞に入る。岸田農場と判っているのだから、ここは郵便局で尋ねるに限ると、人舞郵便局に。距離はかなりあったがすぐ見つかった。入口に、「松浦武四郎宿泊の地」の案内板と案内標柱が立っていた。
 ちょうど外におられたご主人にお願いすると、快く「ときどき訪ねてみえる人があるのですよ。雨で足元が悪いけど、どうぞ」と150m先の広い農場の隅を指差して教えてくださった。
 「松浦武四郎宿泊之地」碑の裏には
「安政五年(一八五八年)蝦夷地山川地理取調の命をうけた松浦武四郎が飯田豊之助をともない石狩国から山越えして十勝川筋に沿いこの地に着いた ニトマツプの初代酋長アラユクは同族あげてこれを迎え一夜の旅情を慰めもてなしたことが紀行文「十勝日誌」に記されている」と刻まれている。
 また説明板には
「安政五年(一八五八年)徳川幕府函館県産、蝦夷地山川調査係松浦武四郎が命により、飯田豊之助を同行し、狩勝峠を越え十勝川に沿って字人舞基線十三号(当時はニトマフ)にたどりつき、和人住居前の先住民族として清水町に居住していた酋長アラユクが礼を厚うして一夜の旅情をなぐさめた場所といわれている。 アラユクの嫡孫サンクルの証言と松浦武四郎の紀行文「十勝日誌」の対照により、史実として確証を得、昭和十二年六月三十日「史跡標」を建設、以後昭和二十七年再建し、昭和四十九年碑文を加え建立した。」と書かれている。
 小雨が降っていたが、碑の前でザックから「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」を出して「第六巻 東部登加智留宇知誌 肆」を読んだ。そこには「ニトマフ 小川有 此処をこへて少しの原の高き処有り。其後ろは一面の原目も及ばざる計の処なり。我等が来りしを見てアラユク乙名、倅シヨマ、次男シルンケアイノ出迎たり。然るに此三番目に座せしシルンケアイノ我を見て、ニシパ様御久敷御座りますと、和語もて云しかば、不思議に思ひ後ろを顧しかば、一昨年ヲホツナイよりホロイヅミまで召連れしもの也しかば、我も安じ飯田も大に悦び、アユラク乙名の家に入る。」とあった。そこで、「アラユクとはどんな人物なのだろうか」と「十勝日誌」を開けたら、そこには「アラユク乙名(七十四才)大形の萌黄純子の廣袖に山靼錦の陣羽織を着し、二人の童子に太刀煙草入を持たせ白髪肩を掩ひ膝を隠す斗の紅髭を撫て枝杖を突て我を迎ふ。其容貌蕩々とし如何にも一封内の酋長と見えたり。」と記述されていた。威風堂々としたアユラクの姿に松浦武四郎は胸を打たれたのだろう。
 帰りにお茶でもと誘ってくださったのだが雨で身は濡れ、足元は泥だらけであったし、先を急ぐこともあって失礼させていただいた。松浦武四郎を案内した人の子孫を友人とする僕はアラユクの子孫の方をご存知なら教えていただくのだったとかえすがえすも残念に思った。

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