2004.4.29−2004.5.30 カナダのキャンモアでの記録
 カナディアン・ロッキー 思い出は自然から、感激は出会った人々からもらった。

カナディアン・ロッキー
思い出は自然から
感激は出会った人から
「おお、グレート・スピリットよ わたしはこの風のなかで口琴を鳴らします。
どうかわたしのことばを聴いてください。」
 
 故あって「鎖国」を宣言していたが妻と娘に説得されてカナダで一ヶ月間、自炊をしながら滞在し、レンターカーでバンフ、ジャスパー、ヨーホー、クートネイ国立公園等に入り、散策し、いろいろ考えさせられた。
 持っていったものは口琴(サハ民族の人たちの鉄製口琴ホムス、アイヌの友人からもらったムックリ)とカナダ首相賞受賞のカナダ現代史の本二冊。
 日本人はカナダの美しさに魅了され、たくさんの人々が訪れるがカナダの歴史等についての知識はそれほど多くはないように思う。残念ながらぼくも同列で「素晴らしい自然に満ちている」という以外、多くを知らない。が「世界の先住民族の国際10年」の初年にテレビで放映された「こころの大地 カナダ・インディアンの少女 アメリアの物語」は脳裏に強烈にこびりついている。
 だから、感じたことの内容は薄いかもしれないが、自炊しながらの一ヶ月間の滞在だから、ツアー客とは一味違うのではないだろうかと考え、カナディアン・ロッキーで感じたことを正直に記録することにした。
 
 「おお、グレート・スピリットよ わたしのことばを聴いてください」
 
 

 学生時代の友人が「同じところに30日間もよくいたな。」と言う。一箇所に留まる旅を繰り返すと、足早の旅は疲れるし印象も思い出も薄くなる。
 「リゾート」の語源はフランス語にあり、足繁げく通うとかしばしば訪れるという意味らしい。単に訪れるだけでなく、その地の自然に、文化・歴史に、人に十分触れて、そこから学ぶことが大切だと考える僕たちの旅は滞在型と言えるかもしれない。
 これは30日間のカナダでの印象の記録です。
 
 

ことばの壁が低くなると感動や感激が訪れる
 はじめての海外の旅。それも自炊で一ヶ月間。諸事わからないことばかり。その上、ことばが通じない。「なんとかなるだろう」の考えは甘く、困惑の連続であった。とにかくことばの壁が高い。事態の打開は、とにかく話をする以外に方策はなかった。散策路で出会うカナダの人たちはかならず「ハロー」と声をかけてくる。細い山道ならなおさらである。「これはなんとかしなければ」と勇気を発揮して、知っている単語を並べて身振り手振りで「なんとかわかってもらおう」と必死に努力を重ねた。するとなんとことばの壁が少しずつ低くなってきた。妻は「互いにわかってもらいたい、わかりたいという気持ちがあれば少しは通じるのでは」と語り生活を広め、たくさんの人と話をした。その結果、予想外の感動、感激を得ることができた。
 
“Hello”のありがたさ
 「Hello」ほどありがたいことばはない。日本なら、朝は「おはよう」、昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」、電話は「もしもし」である。これがみんな「ハロー」ですむありがたさ。この簡単なことばが「会話の入口」と思って、人に会ったら「Hello」と。事件はこのことばから起こる。
 
Spirit
ヨーロッパには、ヘルマン・ヘッセの「わが心の故郷アルプス南麓の村」のように山々、湖と山麓の村を描いた作品があるが、残念ながらカナダにそのような文学作品があるかどうか知らない。またロッキーを描いた絵画も知らない。だから、ロッキーでは、すくなくとも僕には「自然が文学を模倣することはない」。
 ときは春の五月。山々はまだ雪を被り、山麓の夜間十時の薄暮のなかで神々しく輝く様は華麗、壮大、華麗、。バンフ国立公園の象徴、バーミリオン峠から見るキャッスル・マウンテンの峰の屏風のような連なりは豪華に尽き、アイス・フィールド・パークウェイの氷河を身を纏った山々は人間の直接的な悪行では破壊できそうにもない頑強さでつっ立っていた。
 カナダに来る前に「PAROLES INDIENNES」の中の中沢新一訳の数編をノートにメモしてきた。そこに「私たちはほとんどすべてのものの中に、つまりは太陽や月や樹々や風や山々の中に、グレート・スピリットの手の働きを見てきたのです」とある。先住民族のインディアンの人たちが感じた「グレート・スピリット」の手の働きを認めないわけにはいかない荘厳さがロッキーにはあった。
 「 Spirit 」(霊)について言えば、ミネワンカ湖へ行った際にこんな説明を見た。
「The Stoney people called it “Minn-waki”or“Lake of the Spirits”. Early Europeans called it Devil's Lake. 」
 ミネワンカ湖を「Lake of the Spirits 」と感じたストーニィ・インディアンの人たちと「Devil's Lake 」と呼んだカナダへ入ってきて間もないヨーロッパ人の違いをどう考えたらいいのだろうかと考えさせられた。
 
Lake
 僕は湖が大好きで、特に北海道の湖をたくさん見ている。だから、ロッキーの湖には殊の外興味と関心を持って接した。五月の湖は高所ではまだ凍結していて、その全貌を見ることができないのがたくさんあったし、湖面は鏡に変化していなくて山々を重ねて写していないものもあった。観光客の美しさへの感嘆のことばもすくなかった。湖は、その静かさの中に最高の美しさを見ることができると言うがカナディアン・ロッキーへ来る人々の湖への期待は、湖水の青さ、静かな湖面に映る山々の姿である。五月初旬にたくさんの湖を回った。がしかし、ほとんどが解氷していなかった。だから、雪原の趣きを呈していた。しかし、月末には氷も解け始め、割れ始めて湖面を見せるところが多くなった。ロッキーの湖はその成立上、よく似た性質を持ち、一様にあくまでも青く、いや群青かなあ、まさに Lime stoneの雪の横すじのしま模様の山塊とあくまでも天上を目指して伸びる大森林の緑とに調和して美しかった。たくさんのLake、Pond を見たが強烈な印象を受けたのはエメラルド・レイクでもレイク・ルイーズでもなかった。カナナスキスにある小さな Wedge Pond であった。バンフの自然史博物館へ行った際に「カナナスキスはかってインディアンの人たちの大切な狩場であった」と説明がしてあった。また、なにかで「カナナスキスには熊が多い」と読んだ。カナナスキスへ三度行き、三度とも Wedge Pond でグリズリーベアーを見た。北海道のアイヌの人たちは熊を「カムイ(神)」と呼ぶ。彼もインディアンの人たちが感じるSpirit の一部なのだろう。エメラルド・レイクではカナディアン・カヌーを2時間借りて、北海道の天塩川で鍛えた腕で湖尻まで入った。カヌーが大好きな妻は「忘れ得ぬ思い出になるに違いない」と大喜びであった。一ヶ月間のロッキー山麓滞在の最後は Trans-Canada Highway と Ice-Field Parkway を通ってジャスパーまでの湖をすべて見る旅であった。いずれも神秘的で不思議さに満ちて素晴らしかったが、海跡湖、火山湖などといろいろな湖と多様な生物に満ちた北海道の湖のよさをあらためて発見した。Jasper Park Lodge へ泊まった。日本人を見なかった。レストランで聞いた「ダニー・ボーイ」は生涯忘れまいと思った。
神々しい山々の麓で見た悲しい歴史
ーー強制収容所ーー
 
 2004.5.8
  神々しいキャッスル・マウンテンの下の Bow Valley Parkway を走っている際に 道路の脇に銅像と碑が建っており、リースが飾られているのを妻が見つけた。「寄っていこうよ」の声に広く設けられた路肩へ車をつけた。像に「Why ? Ukrainian internee at Cathle Mountain」とあった。碑を読んだ。タイトルは「CASTLE MOUNTAIN INTERNMENT CAMP」であった。「ええ? これは強制収容所跡だ」と気がついて読み進めた。「During Canada's first nationals in World War One, thousands of immigrants from the Austro-Hungarian Empire, the majority of Ukrainian origin, some citizen of Canada, we imprisoned as “enemy aliens”. Internment of operations lasted from 1914 to 1920. This plaque is in memory oh those held at the Cathle Mountain camp from 14 July 1915 to 15 July 1917 」とあった。美しい、このキャッスル・マウンテンの麓にカナダの悲しい歴史の断面がある驚き、「北緯51度のこんな山間地の寒さが厳しい収容所の生活は・・・?」と思いを馳せたが、ここに碑が建てられているのは二度と過ちを繰り返さないと誓う、カナダの良心とも感じられた。その夜、カナダ首相出版賞受賞「カナダ 20世紀の歩み」(吉田建正著、採流社)の「第二次世界大戦」の項を読んだ。そこには「西部カナダでウクライナ系のカナダ市民およそ200人を裁判なしで逮捕・監禁し・・・」とあった。翌日、部屋を借りている家の主婦、ジョスリンさんにこのことを話したら、たいへん悲しい顔をされたのに慌てて、僕は日本が外国にたいしてさらに忌まわしい傷跡を残したことを伝えた。
 
 2004.5.17 
 「カナダ 20世紀の歩み」の中に「彼ら(42人の日本人)は翌年二月、「捕虜」として、すでに600人のドイツ系捕虜が収容されていたアルバータ州カナナスキスの、三重の鉄条網をめぐらせ、昼夜機関銃が監視する抑留所に監禁された。」とある。キャッスル・マウンテン強制収容所跡を見てから、この記述が気になってしかたがなかった。Kananaskis Provincial Park の谷間はかってインディアンの人たちの大切な狩場であったことをバンフの博物館で知った。この地へ行くと道路に「You Are in Bear Country」 の標識があり、正にこの通り、三度もグリズリーベアーを見たが強制収容所跡の碑らしいものは見なかった。しかし、この日、ここで退役軍人碑を見つけて読んだら、収容所跡がここにあったらしかった。碑の一部にこのような文があった。
 VETERANNS GUARD OF SANADA
・・・・・One of their more importannt roles was guarding prisoners of war..・・・・・・
 ここには日本人の記録はなかったものの650名のドイツ人捕虜とカナダの良心的反戦主義者が収容されていたことが載っていた。
 
 2004.5.20
 Emerald Lake エメラルド・レイク入口の Natural Bridge ナチュラル・ブリッジで、名所の説明を読んでいたら、一緒に「Canada's First National Internment Operations 1914−1920」の説明があった。ここにもウクライナの人たちの記述があった。
 30日間のアルバータ州滞在で三箇所の世界大戦の忌まわしい跡を見た。その中の一つはどうも日本と直接の関係があるらしい。今、カナダと日本の75の市町村が姉妹都市として提携している。特にアルバータ州は北海道と姉妹州道の関係にある。しかし、日本人にとってカナダはともすれば、端的に言えば「観光国」「リゾートとしての国」との意識が強く、一方カナダの人にとってみればアメリカとイギリスを重視せざるを得ない状態の中で日本はまだ心理的にも距離的にも遠い。両国が文化的に経済的により密接な関係に成長できたら、このような悲劇は二度と起こらないのではと思った。
 
山火事
 想像を絶する山火事の多さと広さ。これほどたまげたものはない。いたる所に広大な山火事の傷跡が残っていた。カナダの美しき山河の光景は映像で見飽きるほどである。だから、悪いことに風光明媚な地へ行ってもさほど驚かない。広大な山火事を、その跡を見たことがない僕は見渡す限りの山火事跡の現場を見て、その現場に踏み込んで、「これが山火事か!すげえ!」と叫ばざるを得なかった。特にVermillion Valley に広がる山火事の後の広さ、凄さにはただ驚きであった。登山口で青年に聞いたら、「三ヶ月間燃え続けた跡だ」と語った。事の大小を問わなかったら、山火事の跡はどこででも見ることができる。おおざっぱにいえばこんな状態で、バンフの Whyte Museum of Canadian Rockies ホワイト博物館の特別展示のテーマーは山火事であった。
 
樹木
 ただただ天に向って伸びている樹木を見ると開拓入植者がまずログハウスを作ったのが頷ける。スケッチして名を入れたいがわからない。そこでジョンストン・キャニオンの駐車場で三人の若者に絵を見せて聞いた。若者たちは絵ではなく直接木に触って名をノートに書いてくれた。それによって「Lodgepole Pine 」「White Spruce」という木を知った。「Lodgepole Pine」はアルバータ州の州木であることも教えてくれた。ロッジポール・パインやスプルースの大森林は自然発生の山火事によって世代交代を繰返し、それによって動植物が守られていることをバンフのホワイト博物館で知った。カナディアン・ロッキーの針葉樹の大森林は国立公園内にあるためか伐採されずにあるが、太平洋側の温帯雨林の大森林は巨大なダグラスファー(ベイマツ)をも含めてたくさん伐られ、その多くを輸入しているのが日本である。残念ながらその現場を見ていないが、僕も他国の森林の破壊に手を汚している一人であることは確実だ。せめて、再生紙を使うぐらいの心がけ、過剰な包装を求めない配慮が必要なのだろう。
 
 ええ? また熊を見たの?
 30日間にグリズリー・ベアーを3度、ブラック・ベアーを2度見た。その都度写真を撮った。妻が店で写真をプリントしてもらうたびに店員さんが「ウワー また見たの」と。毎朝英会話をしていただいていたジョスリンさんにも報告すると「旅行者のあなたがたがなぜ何度も見ることができるのだろうか」と驚き・・・僕たちは幸運であった。
道路は個性豊かであった
 
 カナダのレンターカー
 2004.3.24 使用開始、走行距離 2821キロのCHEVROLET IMPALA をすべての保険に入って一ヶ月間借りた。1日平均200キロを超えた場合はキロあたりの超過料金を支払う契約である。運転するにあたって細心の注意は、停車中のスクールバスの側方通過は禁止で前方でスクールバスが停車したら後方で停車して発進を待つことであった。日本で日常的に長さ五・二メートルの左ハンドルの車に乗っているから運転することにはさほど支障はなかったが信号のない交差点では先に停車した車から発進するなどの走行ルールには戸惑うことがあった。バンフ、ジャスパー国立公園を300キロ走ってもまだ国立公園内のカナダでは車がなくては移動が困難で、Alberta 州花は Wild Rose だが,「Carnation カーネイション」即ち「Car Nation」にしたほうがよいと言いたいほどだった。猛烈なモータリゼーションで交通事故も増え、熊が激減していると聞いた。人間が車に乗り、風のスピリッツを感じなくなるにつれて動物がその種の個体数を減らしてきているのはなんとも悲しい連鎖である。結局、30日間で4439キロ走り、費用は2275.54ドル(およそ19万円)であった。
 
道路は魅力に満ち個性的であった
 
@ Canmore キャンモア から Lake Louise レイク・ルイーズ までの部分の トランス・カナダ・ハイウェイ Trans-Canada Highway(#1)
 カスケード、ランドル、キャッスルと次々と現れる印象的な山、そしてボウ川。この道の素晴らしさは自分で車を運転して倍加する。コンクリートで固められた壁に囲まれた日本の高速道路と比較すると車道の幅も路肩も中央分離帯もなにもかもが広く、ゆったりと落ち着きがある。そしてルールが守られている。驚いたことにハイウェイを歩いている人がいる。サイクリングの人が、ジョギングの人がいる。ヒッチハイクの人がいる。アルバータ州の国立公園内でもっとも人気のあるバンフを走る部分だから車以外にもいろんな形でそれぞれの人が楽しんでいる。おおらかなものである。
 
A Lake Louise レイク・ルイーズ から Field  フィールド 近くまでの部分の トランス・カナダ・ハイウェイ Trans- Canada Highway (#1)
 トランス・カナダ・ハイウェイのレイク・ルイーズからキッキング・ホース峠州境を越えてヨーホ国立公園へ入りフィールドへの部分を走ると、この部分に道路と鉄道線路が平行し、まさに交通の要所、難所であることが分かる。カナディアン・パシフィック鉄道がキッキング峠を越えるためにつくられた8の字のスパイラル・トンネルSpiral Tunneisをそれはそれは長い汽車が通るのを見たがロッキー山塊の中腹にかくの如きトンネルを掘って汽車を通した人間の執念に感服するばかりで、一緒に見ていた観光客も拍手をしていた。このあたりの道路の勾配はきつかった。しかし、「難工事だったろうな」とは感じられなかったのはスパイラル・トンネルを見たあとだったからに違いない。Kicking Horse River 沿いの小さな町フィールドFieldはかってたいへん賑わっていたらしいが今は静かな佇まい。周辺は化石の産地らしい。ナチュラル・ブリッジ Natural Bridge へ寄った。そこで強制収容所の説明があったが誰も読んでいなかった。「所詮観光だけの人か」とがっかりであった。エメラルド・レイク Emerald Lake は日本人観光客がたくさんいた。妻と二人でカヌーを借りて湖尻まで入った。天塩川をよくカヌーで30キロほど下るが湖水は静かでゆったりとした二時間を過ごした。この地へ来るまでに分水嶺Great Divideを見たかったがまだ1A は閉鎖されていた。またタカカウ滝への道路も閉鎖されていたがロッキー山塊の交通の要所で一日を過ごして気分は爽快であった。
 
B アイスフィールド・パークウェイ Icefield Parkway  (93 North)
 ルイーズ・レイクからジャスパーへの233キロのこの道は氷河の道である。そして湖の道である。五月初旬のこの道は高所であるため、まだ湖は凍結していたし、氷河も雪をかぶりその姿は鮮明でなかったが下旬にはくっきりとその姿を見せ「氷河」という感じを見せつけた。この道の運転はいつも妻であった。この道はたしかに他の道とはひと味違う。Viewpoint をみんな停まって 2069メートルのボウ峠を、Saskatchewan River Crossinng を、2035メートルの Sunwapta 峠を越える。ジャスパーに近づくと妻は「北海道に似ているなあ」と呟く。ポプラがあたかも白樺でその様が似ているのだがダウンタウンに入るとやっぱりカナダだ。申し訳程度の駅舎が面白い。妻はこの道の233キロがもっとも魅力的だと語る。
 
C ボウ・バレー・パークウェイ Bow Valley Parkway(#1A)
 いつもいつもトランス・カナダ・ハイウェイでもなかろうと側道のボウ・バレー・パークウェイ Bow Valley Parkway を走っていろんな発見をし、またたくさんの動物にであった。キャッスル・マウンテンを仰ぎ見たし、カナダの悲しい歴史の一面を垣間見もした。そして、クマゲラにそっくりなキツツキを何羽も見て小躍りしたこともある。交通量も少なく道路に金網が張ってないからエルクを始め多種類の動物を見たし、山火事の跡を目の前にもした。ジョンストン・キャニオンも二度歩いてたくさんのカナディアンと話をした。思い出の多い道であった。
 
D 93 キャッスル・ジャンクションからラジウム・ホット・スプリングスへの道 Banff-Windermere Highway (Kootenay Parkway)
「もっとも愛した道は?」と問われたら躊躇なく、「バンフ国立公園からクートネイ国立公園 Kootenay National Park 内のラジウム・ホット・スプリングス Radium Hot Springsへと続くバーミリオン川 Vermilion River 沿いのクートネイ・パークウェイ」と応える。Castle Junction からクートネイに向うとまず 1640メートルのバーミリオン峠Vermilion Pass である。ここは太平洋と大西洋の分水嶺。これを見つけたときの嬉しさは忘れられない。できることなら、両洋に流れる小川に片足ずつを浸けて「同じ流れに二度足を浸けることはできない」と洒落たことを言ってみたいがそんなことはできない。この峠はアルバータ州とブリティシュ・コロンビア州との境でもある。太平洋に向って下っていくと間もなく山火事のあとが仰天するほど延々と続く。ただものでない繋がりである。世代更新のためにはなくてはならない山火事だそうだがこの広大な山火事を放置して見続けるにはよほどの勇気が必要ではないだろうかと思ったりする。道路の横をバーミリオン川が流れている。この川がまた実にいい。終着点としたラジウム・ホット・スプリングスは観光客よりもカナディアンの温泉地でレンタルの水着が少なかったことからも納得であった。帰りの道路の上にキャッスル・マウンテンを頂きながらの走りはブラック・ベアーにも出会い、最高で感激いっぱいであった。僕にとってこの道は生涯忘れられない道である。
 
E Canmore キャンモアから Spray Lakスプレイ・レイクを通って Kananaskis カナナスキスへの未舗装道路、Smith- Dorrien / Spray- Trail
 キャンモアからカナナスキスのキャニオンCanyonを直接結ぶ山間部に「なんでこんなに広いものを作ったのか」と驚くような未舗装の道路がある。これがSmith- Dorrien / Spray- Trail である。レンジャの詰所とMount Engadine Lodge があるばかりのこの道路は湿地も多く、暖かい季節には百花繚乱ではないだろうかと雪の中を何度も走った。大森林に囲まれた道路ではないから四季それぞれ趣きを異にするのだろう。秋に走ってみたい道であった。 
 
F kananaskis River カナナスキス川に沿って走る Highway 40 (Canyon から南は冬期閉鎖)
 「カナナスキス この地名どこかで聞いたことがあるなあ・・」と妙にひっかかった。が思い出せない。バンフの自然史博物館に「カナナスキスはかってインディアンの人たちの大切な狩場であった」と説明がしてあったがかすかに脳裏にひっかかっている「カナナスキス」の地名はそんなことではない。「熊が多い」というのはカナダへ来てから知ったことである。そしてようやく、カナナスキスは2002年6月26・27日にG8主要国首脳会議が開催された地であったことを思い出した。カナナスキス・サミットは2001年9月11日米同時多発テロ以来最初のサミットで厳重な警戒が必要とされた。カナナスキスはトランス・カナダ ハイウェイの Seebe から ハイウェイ40 に入る。そして カナナスキス川に沿って遡る。会場となった先をさらに奥へ進むと closed south of here in winter とあり、6月下旬まで道路は閉鎖されている。閉鎖されている手前からは 交通量がほんとうに少ない、ただただ広い未舗装の道がキャンモアへ通じている。カナナスキスはまったくのレジャーのための地で人家なく、自然の要塞の地で、サミットが開催されたのが頷けた。
思い出は自然から、感動と感激は出会った人々からもらった
 
「相手は人間だ。なんとかなるさ」と思って一ヶ月間のカナダの旅に出かけた。帰ってきたら友人が「相手も人間だからなんとかなったんだろう」と言った。ところがどっこい、そうはいかなかった。はじめての海外。しかも自炊。どっぷりカナダに浸かっての生活である。それだけに諸事不明なことが多く、困惑の連続であったが、それを吹き飛ばしてくれたのはカナダの限りなく美しい自然であった。例え苦労が重なっても自然が思い出をくれると思った。そして山や渓谷、湖の周辺を歩いたがその度に出会ったカナダの人から「Hello」と声を掛けられた。そして、やがてより生活を豊かに、そして楽しくするためにはことばの壁をなんとか低くすることが大切だと感じて、宿のジョスリンさんに月曜日から金曜日の朝8時30分から一時間の英会話レッスンを受けることにした。僕は大昔に覚えた英単語が少しずつ甦ってきた。妻は日常の買い物、行動に必要な表現を教えてもらった。たった三週間では会話が上手になるとは考えられないが、ジョスリンさんのレッスンで積極的に話しかける勇気をつけていただいたのが成功して、妻の意欲が一変し人との交わりを楽しみ持ち前の行動力を発揮して僕は引っ張り回されることになった。
 
鉄製口琴が人との出会いを演出してくれた
 野原で山で川原で等々、しばしば愛用の口琴を鳴らした。僕の少し大型の鉄製口琴ホムスがビュンー、ビュンーと低い音を立てるとすぐ何人かの人が不思議そうに眺め、“nice sound!”と声をかけてくれた。また、“Where do you from ?”と聞かれて話が弾むこともあった。口琴が人との出会いのキッカケを作ってくれることがあった。
 
 出会った人々
 
 フランス人夫妻
 バンフ近くの Bankhead にある廃墟となった鉱山跡で出会ったご夫妻にありったけの英語を使って質問をして説明をしてもらったらなんとフランス人で驚き、たまげた。パリから60キロ離れたところから来たとのこと。奥さんは日本へ行ったことがあることも知った。四人で大笑いしたが同じ日にご夫妻と三度も会って意気投合して Mr & Mrs Blum と別れを惜しんだ。
 
 オーストラリア人観光団
 この旅で活躍したのは僕が演奏する口琴であった。たくさんの人から「nice sound」と声をかけてもらった。が一番印象深いのはオーストラリアからの観光客だった。その一団は僕を取り囲んで演奏を聞いてくれて「旅の思い出になった」と語ってくれた。
 
 ドイツ人夫妻
 ジャスパーのウィスラーズ山の稜線からジャスパーに点在する湖を見ようと登っていったら、ドイツ人夫妻に話しかけられた。聞くと昨日、僕が鳴らしていた口琴を聞いて、不思議な楽器があるものだと驚き、声を掛けたと話してくれたのには感激して、二人でなんとか話をわかってもらおうと努力して話した。ご夫妻もまったく同じ気持ちのようでなんだかたくさん通じたような気がしてならなかった。別れは互いの国のことばで「さようなら」を教えあって、互いの国の「さようなら」のことばを言って、握手と抱き合って別れた。この人の握手の固さに感情がひしひしと伝わり、僕も固く固く握手をして思わず涙を流した。
 
 互いにわかりたい、わかってもらいたい、という気持ちがあればことばの壁が低くなることを感じさせてくれたのはカナダの人々であった。
 そして、カナダの人々の豊かなもてなしの心がロッキーの山々をより美しく見せた
 
@ 幼い子どもを連れたお父さん
 キャンモアのボウ川沿いの遊歩道を散歩していたら、太ももほどの木がなにかに齧られ今にも倒れそうになっていた。一瞬「ビーバーかな」と思ったが確かめなければと通りかかった幼い子どもを連れたお父さんに僕たちのわからないことを少ない語彙と手振り身振りで聞くとこの人はゆっくりと丁寧に説明してくださった。そのときはじめて互いに「わかりたい、わかってもらいたいという気持ちがあればことばの壁は少しは低くなるのでは」と実感し、この人に深く感謝した。
 
A 碑を探してくれたおじさん
 キャンモアは北海道の東川町と姉妹都市であり、その碑が川筋にあることを知っていたので探しに行った。なかなか見つからない。近くにおられたおじさんに尋ねたがこの人もわからないらしく、人に尋ねてくださった。そして、碑の場所まで案内してくださった。そして「日本人?」と。僕たちは「一週間前に日本から来た」と答え、「キャンモアは素晴らしい町だ」とことばを変えて言った。この人の親切と喜びが胸にしみこんだ。
 
B ジョンストン・キャニオンの三人の青年
 三人の若者に木の名前を教えてもらった。この三人は力を合わせていくつかの日本語を話してくれた。そして大切なことばは「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」と言ったのには驚いた。
 
C 白髪のお年寄り
 ペイト・レイクを見て雪の積もった道を下ってきた。そこへ白髪のお年寄りが家族とともに登ってこられたので、「あと五分です」と言った。するとお年寄りが「自分は80歳だ。もう登れない」と。そこで僕は自分の頭とお年寄りの頭を指差して「ともに白髪だ。行けますよ」と言った。その人は僕に
「何歳?」と聞く。僕が「65歳です」と言ったとたんにお年寄りは「私より15歳も若いではないか」と。その声の大きさもあってみんなで大笑い。カナダのお年寄りとこんな楽しい話ができるなんて思いも寄らなかった。 
 
D 展望台で出会ったご夫婦
 カナダの人に「写真を撮っていただけませんか」とお願いしたら、日本語で「よろしいよ」と返ってきた。「日本語が上手ですね」と言ったがそのことば以外はあまり知らないようだった。しかし、たったひと言でも日本語で返ってくると無償に嬉しくなって話がはずむ。つたない英語でもそれを聞いて喜んでくれる人が多いのではないかと教えられた人だった。
 
E 日本料理店で食事の青年
 キャンモアにある日本料理店「武蔵」で食事をしていたら四人の若者が入ってきた。あいにく店の人が奥に入っていたので、僕は手で示して、日本語で「どこでもいいから座ったら」と言った。一人の青年が「ありがとう」と日本語で言った。座席からいくつかの日本語が聞こえてきたので拍手をして「日本語が上手だ」と言ったら、またその青年が立って「ありがとう」と言った。僕は「I can't speak English」を連発する。すると、「問題ない、大丈夫」とか「うまいじゃないか」と返ってくると妙に安心したり喜んだりである。そのことばを母国語とする人に褒められるのは嬉しく勇気が湧く。
 
F 山で出会ったおばさん
 登山の途中、下山のおばさんに会った。「疲れました。あとどれぐらい時間がかかりますか」と聞いた。よほど変な英語だったのだろう。「Where do you from ?」と聞かれたので「日本から」と言ったら驚き、そして両手で僕と妻の手を握って心の底から「カナダの旅を楽しんで欲しい」と言われたのに感動して妻は「カナダの人は素晴らしいなあ。あんな人に会うと山がずっとよくなる」と言った。
 
G ガソリンスタンドのにいちゃん
 「regular full 」と注文したが発音不明で分からないらしい。車を降りて、レギュラーを指差して、手のひらへ「full 」と書いた。とたんに「ごめん、ごめん、分かった、わかった」と言った。彼の注油を見ていると端数単位にならないようにぴったりと入れることに誇りを持っているらしいことがありありと現れている。ピッタリと入れたので「Great !」と叫んだら、彼は大喜びであった。これではじめ「regular full」と言って通じなかったいやな思いが吹っ飛んだ。彼も旅の途中に出会った忘れ得ぬ人である。
 
H カメラ店の女性店員
 妻はデジカメを愛用している。140枚ほど入るメモリーがすぐいっぱいになってしまう。そこで妻はなんともかとも言いようのない英語?を使って写真店でCDとプリントをしてもらっていた。店へ行くたびに若い女性店員が写真を点検しながら妻に「これはグリズリー・ベアーではないか。あなたはラッキーだ」とか、「ブラック・ベアーの写真も撮ったのか」「この写真は素晴らしい」とかlucky , wonderful , nice を連発してくれる。妻はすっかり嬉しくなって、そして大胆になり英語まじりの日本語で話をして会話を成立させる。それを横で聞きながら僕は彼女に「熊も美しかったが、あなたはもっと美しい」と言った。すると彼女は大喜びで「Thank you」と。彼女は妻にとって動植物や山、湖など出会ったものの価値を高めてくれたよき人であった。
 
I 3000メートルを目指す青年
 キャンモアのレディ・マクドナルド山の登山口に「この山塊の上を早春と晩秋に数千羽のゴールデン・イーグルが渡っていく」と説明してあった。この山へ登ることにした。2300メートルのParaglider Laaunch に二人の青年がいた。カメラのシャッターを押してもらったついでに何をしているのかを聞いたら、驚いたことに「ボウ川から上昇気流が吹き上げてきたらパラシュートで3000メートルの高さまで昇るのだ」と言った。彼らは現代の Young Golden Eagle men であった。しばらく一緒に風を待ったが吹き上げてこなかった。下山の時間になった。僕たちは下から大声で「Good Luck」と叫んだ。彼らは「Thank You」と叫び返してきた。忘れられぬ青年であった。
 
感謝、感謝
  B&B Monarch Josclyne さん
 Bed & Breakfast Monarch に滞在させていただいて、主婦のJoscelyne さんにたいへんお世話になった。特に英会話のレッスンで、出会った人々に話しかける勇気を与えてくださったのが生活を切り開く原動力となった。妻は互いの主婦としての立場から思うことを必死に伝え、聞き、僕はカナダの人々の考え方や歴史までも尋ねた。朝一時間の学習をその日に生かすことを心がけて出かけ、翌日その成果を報告するのが日課だった。Cafe Books で見つけた、大人から子どもまで幸福とはなにかについて語れる本 The Giving Tree を購入してきて、二人の子どもさんに感想を聞いてもらったこともあった。諸事不安の中にありながら一ヶ月間を過ごすことができたのはジョスリンさんのお蔭であった。帰国してからはメールが飛び交い、妻とジョスリンさんは「2005年の秋に再会しよう」と約束が成立したらしい。そのときまでに二人はきっとダイエットの成果をあげているだろう。
 
ドリーム・キャッチャー
 たくさんの店でドリーム・キャッチャーを売っていた。はじめ、これがなになのかが分からなかった。説明を読んだら、こう書いてあった
 THE DREAM CATHER
All dreams are caught n the web. Bad dreams are caught and destroyed at the first light of dawn. Good dreams are released and find their way into the sleeping one.
先住民族のインディアンの人たちは、ドリーム・キャッチャーは悪い夢を捕まえて夜明けの光りで壊し、よい夢を通して人々の枕元へ送ると考えていた。ロマンチックで魅力的な話に心奪われた。カナダにいる間いい夢ばかり見た。きっと、自分の心の中のドリーム・キャッチャーのためらしい。
 
Bow River との別れ
 30日間過ごしたボー川の谷間とも別れるときが近くなるにつれて、少々感傷的になり、歌“Red River Valley”をよく歌った。
From this valley they say you are going
We will miss your bright eyes and sweet smill
For they say you are taking the sunsine
That has brightened our path for a while.
2
Come and sit by my site if you love me
Do not hasten to bid me adieu
But remember the Red River Valley
And the cowboy who loved so true
3
Won't you think of the valley you're leaving
Oh how lonely , how said it will be !
Oh think of the fond heart you're breaking
And the grief you are causing to me
4
As you go to your home by the ocean
May you never forget those sweet hours
That we spend in the Red River Valley
And the love we exchanged mid the flowers .
 
 
 

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