秋葉 實先生が翻訳された松浦武四郎、加賀家の記録を携えて四季それぞれに野付半島を探索した記録

松浦武四郎と加賀伝蔵が記録した
自然と歴史に満ちた
魅力いっぱいの野付半島を歩く
 北海道へ行くたびに標津と別海を訪れて野付半島周辺を何時間もかけて歩く。花々が咲き乱れる季節だけでなく晩秋も厳冬期も早春も歩く。長靴を履いてスノーシューをつけクロスカントリースキーに乗って等々季節に相応しい用具を身につけて海岸を氷上を花園を歩く。そのたびに野付の自然は荒々しくときには優しくその営みを見せてくれる。
 野付半島の自然は素晴らしいがまたこの地にあまり知られていないが古くからこの地に住んだ人々が遺産を残し我々にこの地に住んだ人々への想像を沸き立たせる。そして野付半島は国後島を目の前にして未だ帰らぬ北方領土問題を我々に突きつける。
 僕はここを松浦武四郎が残した記録と松浦武四郎との交友が深かったこの地の歴史の表現者、加賀伝蔵の記録を読みながら探訪する。

 野付を探索する人は別海町にある加賀家文書館へ行くことお勧めします。
 この文書館は、江戸時代末期、別海町が大きく根室場所と呼ばれていた頃、蝦夷地に夢を抱き、秋田県の八森町から代々にわたり根室場所請負人の用人として働いていた加賀家の人たちが残した文書が保管・研究・展示されている。中でも15歳で蝦夷地に渡り場所請負人の下で、数々の職を経て、その間アイヌの人たちと親しく交わってアイヌ語を習得し、アイヌのよき理解者で、松浦武四郎と親交の深かった加賀家三代目、伝蔵が記録した文書が多く、展示解説書には「伝蔵と松浦武四郎」の項が設けられ、館内には二人の交流を示すものが展示されている。野付の歴史を知り歩くための必見の資料館である。
 松浦武四郎と加賀伝蔵
 松浦武四郎の「知床日誌」に「支配人(伝蔵)に頼み、案内者弐人を増す」とあり、また同書に、「ヲンネニクル(ノツケ澗内) 此所伝蔵開墾の畑有、土地沙に貝殻接の所え外より土を持運び入、雑穀野菜類廿七品を植種したり。別ても麦小麦の熟し様風土の異ると思はれず、偏に同人の苦心に出る也。」と伝蔵の業績を賞賛している。「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌第十八巻東部志辺都誌」にも「海上凡三里にしてベツカイ番屋え着するに、ノツケ伝蔵なるものも昨日来り居る由にて出迎ふ。よつて休息」と記録がある。近世蝦夷人物誌にも登場している。
 加賀家文書館には、松浦武四郎から伝蔵への書簡や贈られた数多くの著作物が展示されている。

野付半島
野付
 北海道環境生活部の「アイヌ語地名リスト」で「野付」を見ると「カナ表記 ノッケウ ローマ字表記 notkew  アイヌ語の意味 下頤 解釈及び由来 昔、ここへ大きな鯨が流れ寄り、その下頤がこの埼となったため。 <ノッケウはノッ(not あご)と同じ意味に使う> {砂州の形状から名づけられたとも思われる} 出展 上原 <山田> 備考 地形から名づけられたと考える方が自然と思われる」とある。松浦武四郎の戊午東西蝦夷山川地理取調日誌に野付の近くで「海に鯨魚数十尾を見る」とあり僕もこの海峡で鯨の大きな群れを見たことがあるから「鯨流れ寄て、その頤此埼となす故字になすといふ」(上原熊次郎地名考)が楽しいが本当は「アイヌ語地名リスト」の「備考」が正しいらしい。知床日誌にも「ノツケ 此所一ッの岬にして腮(ノッキ あご)の出たる如きと云儀也」とある。 
 野付湾周辺地
 秋葉實氏訳「加賀家文書現代語訳版第二巻」の「嘉永七年閏七月、根室場所と箱館までの陸道と航路」の中に
 野付湾内の地名と距離数
  ヒラクシナイ(床丹)
  ラエトコタン、ラエトコタン川
  カモエハウシ、小川がある
  ユワイト、春別
  シユンベツ、春別川
 ここに川があって、その幅は九十メートル程で、深さは一メートル余りある。
  戸春別、戸春別川がある。
 床丹からおよそ三キロで、タカモ。
 ここは湾内で、沖の方の二百メートルのところに、アサリ島という磯島があって、周囲がおよそ百六十五メートル程ある。
  トヒカラ、飛雁川
 ここに川があって、その幅は十八メートル程で、深さは九十センチ程ある。
  トボロ、当幌川
 ここに川があって、その幅は五十五メートル程で、深さは九十センチ程ある。
  タカモからおよそ十五キロでチフル(茶志骨川)
  ここに川があって、川幅が二十二メートル程で、深さは九十センチ程ある。この川は野付湾内の付け根にあって川口から七百メートル程上るとコエトイ(東浜)の船着場に出る。この川と外海との間はほんの二百メートル程です。
  ホンノフシ(野付半島)
  チフカルウシ(野付半島)
  イトシノツ(野付半島・イチド岬)
  ホンニクル(野付半島)
  ヲン子ニクル(野付半島・オンニクル)
  シハシウス(野付半島)
 野付湾内のヒラクシナイ(床丹)から止宿所のある岬の入江口までぐるっと回ると、およそ三十四キロ余りある。床丹からは三十九キロ弱になる。」 とある。
 松浦武四郎「蝦夷日誌 一編 巻之拾」に「帰路コイトイより船に彼ノツケへ船を遣りて帰るをここに誌るすに コイトイを出航し、外海岸砂浜有るよしに而、夷人も甚此船路を恐るゝよし也。・・・」とある。野付半島の外洋は野付北浅瀬、野付浅瀬が多く航海の海路には適さなかったのだろう。
 歴史・遺跡にも魅力的は野付
 野付半島は自然だけでなく歴史的にも魅力ある地であることは2003年11月9日の北海道新聞の記事でもわかる。この記事は次のようである。『野付半島の遺跡を見学 ネイチャーガイド養成講座 野付半島の自然や歴史に親しむ『ネイチャーガイド養成講座』」のフィールド研修が八日、同半島で行われた。四回目となる今回は『野付半島の歴史・遺跡編』」。約1300年前に古代人が住んだ竪穴住居跡や江戸時代に今の根室市などから舟で国後島へ渡る際の中継地だった通行屋などを見て回った。釧路市から参加した人は、百以上の竪穴住居跡が集まるオンニクル遺跡を見学しながら『こんな場所にこれだけの規模の古代人の集落があったとは、興味深いですね』と話していた」。
冬に歩く
 冬の野付はだれもいない。
 冬の野付の砂嘴はサロマ湖の砂嘴の龍宮街道のように流氷が見えるわけではない。風蓮湖の砂嘴のように埋め尽くすほどのエゾシカが見えるわけでもない。
 強いて言えば「何もない」のである。
 風が信じられないほどの大きな音をたてて吹けば、遮るものはまったくなく、また遁れる場所もなく、強烈な寒さで身は凍えてしまう。
 一瞬にしてラルスウザーラに描かれた厳冬期の湖上にも劣らない情景が出現する。
 しかし、風もなく快晴の日の野付はすごく物凄く静かで美しく白銀の山々を背景にして白鳥が飛び、どこまでもどこまでも美しく透き通っている。
 こんな日に歩くスキー・クロスカントリースキーをはいてトドワラへ、一本松へ、荒浜岬遺跡からさらに岬へ向って歩くと、和人が来る前に自然の厳しさを克服して、この地で仲間と力と心を合わせて豊かに暮らしていた逞しいオホーツク人やアイヌの人たちの姿が浮かぶ。そして、「水の本来の姿は氷である」と語る人の気持ちがよくわかる。
 冬の野付湾内の渚を覆う雪はきめが細かくまるで家の壁のように平らで、他では感じられない雪質である。
 しかし、道東の冬は厳しい。文化4年(1807年)7月に北方警備のために津軽藩から斜里へ派遣された藩士100名ほどのうち無事越冬して帰郷できたのは17名だったとのこと。
 野付は冬がいちばんよい。
 でも危険と背中合わせでもあることを忘れてはならないと思う。
 「蝦夷日誌 一編 巻之拾」に「ノツケ止宿所 ・・・此うらの湖中ニ島嶼三ツ四ツ有。其風景、一日滞留し見物したるがおもしろきこと也。」とある。できるだけ湾内側を歩く・滑ると出入りの岸が美しい光景を提供してくれる。しかし、かって木立で覆われていたらしい面影は少ない。
 冬の野付から見る斜里岳は素晴らしいのひと言に尽きる。
原生花園を、波打ち際を、自然探索路を、砂嘴を歩く。
 野付の6,7,8,9月はエゾカンゾウ、アヤメ、センダイハギ、ハマナスなどが次々と咲き乱れる。
 根室半島、知床半島、国後島の間を流れる潮によって運ばれた砂礫が長年月に堆積されてつくられた28キロの長さにも及ぶ砂嘴半島の入口のコイトイから先端のノテットまで花で埋め尽くされる。
 そして6月中旬から7月には湾内に打瀬船が浮かぶ。
 国後島へ16キロしかない、浅瀬の多い外洋もこの季節は波が穏やかで波打ち際も楽しい。
 この季節、人々はトドワラを歩いているが僕と妻は長靴を履いて浜を、龍神埼灯台を中心とした野付半島原生花園を、さらに自然探索路を一本松へ、ノテット方向へ歩く。
 国後島を前にしたきめの細かい砂浜を歩くと「なんだこの大きなヒトデは」などと驚き、また意外なものを見つけることがある。7月のことだった。強烈な悪臭がする。「なんだろう」と探しながら歩いていたらなんとアザラシが死んでいた。同じ年の6月に小清水から網走まで35キロを歩いた際に網走市のポンモイにある「屯田兵上陸の地記念碑」の近くの石礫の海岸でもアザラシが死んでいるのを見た。道東ではアザラシの生息はあたりまえでそれを見て驚く僕はやはり南国の人間だと思い知らされた。
 外洋に沿って半島の先端方向へ入って行くと砂嘴はまさに砂の丘に変化していく。ここまで入って、関係者以外車両侵入禁止の道路を水産会社の作業場前を五つも過ぎてはるかに遠い駐車場へ帰る。そして駐車場を100メートルほど過ぎた左手小道から豪華絢爛な花々に包まれた自然探索路を一本松を目指して入る。
 快い疲れで夕刻、車に辿り着くと、いつも妻が「食事処白帆さんでシマエビ天丼を食べていこ」と言う。僕も大賛成をして別海町尾岱沼名物を口にする。
 別海産業祭りで知り合い、この地へ来るたびに寄らせていただく北山昭賀さんは「別海のサケは日本一うまい!」と言われるが確かに美味しい。松浦武四郎は廻浦日記の「巻の二十五」に「ヘツカエ ・・・此処御献上鮭切場・・・此川鮭の第一番なる処也・・・献上鮭は此処にて捕る也」と記録しているが北海シマエビも美味しい。妻はシマエビ天丼を楽しみにして僕の野付歩きに付いてくる。
 
叶うものなら船に乗って・・・
 この北海シマエビをとる打瀬船が浮かぶ野付湾内はかって交通の大切な航路であったことが松浦武四郎の「蝦夷日誌一編巻之拾」でも分かる。ここの「コイトイ」の説明に「外海岸砂浜有るよしに而 」アイヌの人たちも「甚此船路を恐るゝよし也」とあり、「レウンキ」にも「沖ニ洲有て船路甚以難所なりしとかや」とあり、外洋は野付北浅瀬や野付浅瀬のために航行が困難であったらしい。そのために根室や床丹方面から船で標津へ行くには湾内を通り、茶志骨川を遡って外洋にもっとも近いコイトイで船を降りて、船を引き上げで外洋へ出たらしいことが松浦武四郎の記録にもある。
 叶うことなら季節のよい頃、尾岱沼から船に乗って、加賀伝蔵が名を茶右衛門と改めたアイヌの人に勧められて畑として適当な地を調べ、オン子ニクルに開墾した畑地跡とその地に108個の竪穴住居跡があるオンニクル遺跡を見て茶志骨川をコイトイまで入ってみたいものだ。
 松浦武四郎は茶右衛門について「近世蝦夷人物誌」、「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」に記録している。
 
野付半島歴史探訪
 地名と歴史を調べながら歩くと楽しい。僕の場合、野付のこれらを調べるのには秋葉實氏が解読された松浦武四郎関係の本やこれまた秋葉實氏が解読された「加賀家文書現代語訳版」を用いる。
 野付の地について「蝦夷日誌一編巻之拾」に「コイトイ(外海岸砂浜有るよし)・・・凡三十余丁にして チフカルウシ・・・又壱里計にして東海岸に廻りてしばしにて イキタラウシ・・・同じく砂浜に添て行くこと一里計 レウンキ(是よりコイトイ迄二十丁計沖ニ洲有て船路甚以難所なりしとか)・・・又一里計行而 シシヤムシユフイ(此処烽火場有る也。是よりクナシリ泊り所に合図をとる也。是より同じく砂浜伝ひ也。是より海いよいよ静かにして波なし。海岸ニは椴松計陰森たり。又其森の内は皆湖水なり。)・・・凡壱里半も行て ノツケ止宿所」とある。そして「廻浦日誌 巻の二十五」に「ノツケ ・・・クナシリ(五里)え渡り場にして、風待する為に通行屋、板蔵、炊出し小屋、制札、弁天社を入湾様の処え建置、頗る風景宜敷、・・」とある。また番屋近くは椴松林で大坂の住之江の風景よりも美しく、湾内には小島があり見物するとおもしろいとある。
 「加賀家文書現代語訳版第二巻 喜多野様・井上様・竹内様 御取扱日記」の注に「ここの前浜の砂岬から沖の方まで3キロ余りの間に鰊漁場の家や蔵が建ち並び検番家から出張って漁業をしていた・・・」「通称ノテットから竜神埼の間にこれだけの漁業小屋や蔵が建ち並んでいたのである」として11の出張り漁小屋が記述されているし、加賀家文書館展示解説には、「荒浜岬遺跡 江戸時代末期は、岬の先端がノテット島まで続いていて、そこには漁番屋・蔵などが六十軒ほど建ち並んでいました。」とある。
 これらを読み、また北方警備のためにこの地に会津藩士が駐屯していたこと等を調べ、草が枯れた11月中旬にこの地を歩いた。
 この歴史探訪は困難を極めた。遺跡を案内する掲示はまったくなく、半島先端にはまったく人影なく、人に場所を聞く手立てが取れなかった。しかし、だからと言ってなんの成果も得ずに退却することはできない。地図とコンパスを持ち、事前に調べておいた内容をもとに歩いた。荒浜岬遺跡では残念なことに番屋跡が満潮で見えなかった。さらに先端へ進んだ。今は地盤沈下で島のようになったノテットまで続いていたこの海岸に「幕末には漁番屋、蔵などが60軒も建ち並んでいた」(加賀家文書館展示解説)もたくさんの漁番屋があったとはとても思えないほどである。この先、侵入禁止の看板が立っていた。「この先のも番屋がたくさんあったのだ」「このあたりにも椴松が茂っていたのだろうか」「この地を闊歩した人たちはどこへ行ったのだろうか」と考えた。龍神崎灯台駐車場からずいぶん歩いた。通行屋遺跡へ行きたい。しかし、「行けるだろうか」と心配になる。駐車場に向って引き返し、途中で左へ入って歩けばいいことは分かっているがここまでの遺跡がよくなかったせいか行く意欲が減退。
 
天の助け
 ぶらぶら歩いていたら四輪駆動の車とすれ違った。「この先は行き止まりだから絶対帰ってくるに違いない。乗せてもらおう」と思った。手を挙げた。車が止まった。僕は厚かましくも「乗せてください」と頼んだ。「どこまでですか」と聞かれたので「本当は通行屋遺跡へ行きたいのですが・・」と応えた。車は去って行った。妻は「ヒッチハイクをする年齢ではないわなあ」と笑う。車が少し先で止まった。なにか調べている様子だ。と思ったら車が引き返してきた。そして、「通行屋遺跡へ入る道の川の水が少ないから車が通れる。連れて行ってあげよう」と。僕たちは仰天。思い切って、ご好意に甘えて乗せていってもらった。その人は自然保護監視員の永野英俊さんであった。永野さんに通行屋遺跡を案内していただいた。会津藩士の墓石があった。幻の街、キラクの碑があった。国後島へ渡るための役所であった、なんども記録で読んだ通行屋の跡が目の前にあった。永野さんがみえなかったら、そして案内していただかなかったらこんな感激を味わうことはできなかったに違いない。通行屋遺跡でたっぷり時間を取って散策し歩いて駐車場へ帰ったら陽はもう西に傾き、風の寒さで身が震えた。念願の野付歩きは大きな成果を得て終わった。
 
秋葉 實先生
 それから一週間後、丸瀬布へ行って、いつも大変お世話になっている嶋田玲子さんに紹介していただいて尊敬する秋葉實先生をお会いした。そして、三時間もお話を聞くことができた。三ヶ月後、松浦武四郎生誕地の三雲町での武四郎祭りの講演に来られた秋葉先生と東京から来られた嶋田さんに家へ寄っていただいた。
 
 

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